ひょんなことから、ヒゲを生やすことになった。「なんで?」と聞かれると話が長くなってしまう上に、そこまでびっくりするほどの理由でもないので、「とにかくヒゲを生やすんだ!」ということで話を進めようと思うが、そもそも「ヒゲを生やす」こと自体、普段からヒゲをたくわえている人やファッション的に口元を楽しんでいる人からすれば「なんだ、ヒゲか」と大したニュースにもならないだろう。
しかし僕個人としては結構大きな変化だ。生まれてから今までヒゲを伸ばそうと思ったことはないし、もちろん生やしたいと思ったこともない。体質的にヒゲがあまり生えないということもあるが、なにより「自分にヒゲは似合わないだろう」と思っているからだ。そんな自分が40歳を目前にして、突然ヒゲを生やすことになったわけで、正直「ヒゲ生やし」をスタートした数日はかなり動揺していた。
朝起きるたびに無精ヒゲ感漂う自分の口元。いつもならとっくに長年使っている電動シェーバーで「ヴイイィィ……!」と綺麗さっぱりヒゲを剃ってしまうところだが、今回はそうはいかない。
「……気になる」
毎朝、ほんのちょこっと口元に生えた中途半端なヒゲを見ては、シェーバーに手が伸びそうになる自分。しかし「とにかくヒゲを生やすんだ!」という自分でもよくわからない事情のもと、僕は日々口元の変化にドギマギしながら過ごしていた。
そうして「ヒゲ生やし」をスタートさせてから1週間ほどが経ち、ようやく不精ヒゲ感にもなんとなく慣れてきた頃、次第に僕は
「どうせヒゲを生やすなら、どんなヒゲが理想的か」
ということを考えるようになった。夏目漱石的な文豪っぽいヒゲ、ダンディな俳優が生やしているような顎からモミアゲまで繋がったもっさりしたヒゲ、はたまたダリのような奇妙で個性的なヒゲから、仙人のように伸びに伸びたヒゲなど。どれが一番理想的なのか。僕は馬鹿馬鹿しいと思いつつもスマホのグーグルアプリで「ヒゲ」と、これ以上ないシンプルなワードで検索をかけ、自分のヒゲと一緒に「ハリウッド俳優のセクシーなヒゲ10選」などという、本当に参考にならないページを見ては物思いにふけっていた。そしてなんとなく
「まぁ、ジェイク・ギレンホールとかかな」
と、心底どうでもいい自分の好きなヒゲ俳優を選んでは時間を浪費し、毎日鏡の前でハリウッド俳優とは天と地ほどの差がある自分のしょぼいヒゲを見て、言葉にならないグレーな気持ちで朝を迎える。
それからさらに1〜2週間たった最近のこと。不精感があったヒゲもやや成長して一定の長さまでは生えてきたものの、ここにきて急にヒゲの伸びるスピードが遅くなった。というかほぼストップしてしまった。僕が
「……なぜだ! どうせ生やすならもっと伸びてよ! ジェイク・ギレンホールみたいになってよ!!」
と、洗面台の鏡を見ながらヒゲの成長を願っていると、隣で僕のヒゲライフを見ていた妻がボソリと
妻「ヒゲって人によって伸びる限界があるでしょ」と一言。
僕「……え! そうなの!!」
自分は愕然とした。ヒゲって伸び続けないのか……てっきり、髪の毛のようにほっとけばいくらでも伸びると思っていた。調べると個人差はあるものの、ヘアサイクルといって一定の期間を経過するとヒゲの成長はストップし、生え変わる仕組みのようだ。
「僕はジェイク・ギレンホールにはなれないのか……」
と、やや不精ヒゲから成長した程度のヒゲをサワサワと触りながらひとり仕事部屋に向かい、さらに物思いにふけった。
なんだかヒゲを生やし始めてから物思いにふける時間が増えた気がする。なんなんだこれは。
いずれにしても、おそらく人生で今回限りのヒゲライフ。なるべく前向きに楽しもうと思っている。そしてこんなしょぼい自分のヒゲでも、いつかさっぱりと剃る時がくるとしたら、その時、僕に一抹の寂しさはよぎるのだろうか……こんなヒゲでも別れ惜しむ感情が湧き出るのだろうか……と、そんなことを思いながら、また口元のヒゲを触っては窓の外を眺めてしまいそうだ。










