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新しい日の誕生

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2023.03.03

多景湯にて

豊田道倫

 ふっと、かすかな、でも確かな違和感を感じた。
 銭湯の脱衣場。湯に浸かり、サウナにも入り、出て来た時に。
 女がいる。
 脱衣場の端にはドライヤーがあり、そこで髪を乾かしている。
 小柄で金髪の、ひと。
 金髪の青年が隣の湯船に浸かっているのは視界に入っていたが、その時は特に気にはしていなかった。
 この銭湯は古い銭湯で、特に改装もしてないので、ひとによっては汚いと思うかもしれない。
 だから、いまどきの若者の客は少なく、古くからの馴染みの客か、刺青が入っていても大丈夫なので、その筋のひとか、ちょっとじめっとしたあやしそうなひとくらいしか来ない。
 露天風呂があり、銭湯にしては広くて風情もあるのだが、そこでいかがわしい行為が時々行われているという噂を聞いた。
 今では固く禁止されているが、一度露天風呂で老人二人が抱き合っているのを見たことがある。自分に気がついたら、さすがにさっと離れていたが、別に嫌な感じではなかった。老い先短いんだから、好きなこと存分にやりなよって気持ちになった。
 そんな銭湯なので、金髪の若者がいることが少し違和感はあるが、さっき肌で感じたのはたしかに女の感触だった。
 ここは男湯なので、当たり前だが女性は入れない。れっきとした男性器が付いているひとしかいないはずで、彼も生物学的には男性だが、いわゆるトランスジェンダーなのかもしれない。
 お洒落なセーターを着て、まだドライヤーで髪を乾かしている。その所作は普通ではあるが、そこはかとなく女の色香を感じる。
 彼の裸体をさっきは見なかった。
 急に、見たくなった。
 そして、出来たら抱きしめて、犯せたらと思った。
 自分はずっと、性的なことに興奮することはなかった。
 女と付き合っていたのは何年も前のことで、もう付き合うことなんてないだろうし、かと言って風俗店に行って金を出してまで女体に触れたいとも思わない。
 五十を過ぎて、そっち方面は自然に枯れていくのが普通で、そんなもんだろうと思っていた。しかし、彼を見た瞬間に、心と身体の何かの器官が急にうずいてたまらなくなった。自分にこんな欲望が残されていたのかと驚いた。
 彼が男なのか、女なのか、どうでもいい。
 いや、彼は女だ。
 どうしても近づきたくなった。
 ここの銭湯のドライヤーは二十円で三分間使用出来る。そろそろ三分は経つ頃だ。どうしよう、と思っていたら、ドライヤーの電源は切れた。
 あ、もう去っていくのかと思ったら、彼は財布から小銭を出して、また二十円を追加投入し、ドライヤーの音は再開した。
 彼の髪は短いが、確かに三分では完全には乾かせない。頭髪の殆どを失った自分はドライヤーなんて使わず、風呂から上がったらニット帽を被るだけだが。
 少しでも彼に近づきたいが、話しかけるなんてそんな大それたことは出来ない。ただ、自然にゆっくりと、足が彼の方へ向かってしまっていた。
 自分の熱っぽい視線を気づかれてしまったのか、彼がちらっとこっちを見た。
 女だ。
 完全に女の目をしている。
 男湯に女がいることで興奮しているわけではない。この女が、自分の眠っていた劣情をいたずらに激しく刺激していることを自覚した。
 彼への視線を外した。
 髪を乾かしている彼の後ろを通り過ぎ、その横にあるトイレへ入った。
 まえに入った時は臭気を感じて、それ以来使っていなかったが、今日は何も感じなかった。
 さっきズボンを履いたばかりだが、チャックをおろして、もう、膨張して張り裂けそうに硬くなっている陰茎を取り出して、たまらない気持ちで激しくしごいた。こんなことをするのも、実に久しぶりだった。
 彼の小さな顔を思い浮かべて、その小さな唇に生々しく舌をこじ入れて接吻しながら強く抱きしめ、正常位のまま足を絡ませ、犯している姿を想像した。
 あっという間に射精した。
 若い頃みたいに精液は飛ばず、しごいていた手にべたっとだらしなくこびり付いた。量は多かった。
 慌てて水を流し、指を丹念に拭き取るのに時間がかかった。最後はトイレットペーパーで拭いた。
 こんな場所で自慰をするなんてはじめてだが、ふと、刑務所の中では囚人たちはエロ本を持って「ちょっと抜いてきます」と言って、和式トイレの中でその行為をさっと済ませるというのを何かで読んだのを思い出した。
 不思議な爽快感があった。
 
 トイレを出ると、彼は黄色い毛糸の帽子を被って、黒いブランド物のリュックを背負って、出口に向かっていた。
 後を追う気分ではなかった。
 劣情はおさまっていた。
 また、いつか、ここで会うかもしれない。
 服を脱いで、もう一度湯に浸かった。
 自分も老いぼれていないなと、苦笑いしたくなった。
 まだまだ生きなければならないことに苦痛を感じていたが、少し気が楽になったようだ。
 最初に入った時より、湯はぬるく感じた。
 

豊田道倫

とよたみちのり

1970年生まれ。1995年にTIME BOMBからパラダイス・ガラージ名義でCDデビュー。以後、ソロ名義含めて多くのアルバムを発表。単行本は2冊発表。

詩集『ゴッサム・シティからの葉書』(25時)、発売中。

photo by 倉科直弘