最近、小学校1年生になった娘が書道教室に通い始めた。小学校からも近く、近所の住宅地にあるその書道教室は地元のおじさんが自宅で昔からやっている、いわゆる個人経営の教室だ。
同級生の友達が通っていることを知った娘が「私もやってみたい」と言い出したことをきっかけに書道教室に行くことになったわけだが、妻と一緒に簡単な体験講座を済ませた後、娘から「面白い」「続けたい」という声が出たので「いいぞいいぞ」と僕も妻も喜んで書道教室の入会を勧めた。
そして後日入会手続きを無事済ませ、翌週から教室に通うことになった娘。「保護者同伴でもいいらしいよ」と妻から話を聞いていたので、初回だけ娘の書道教室に僕が同伴することになった。
自宅から娘と10分ほど歩いて教室に到着し、ガラガラガラッと引き戸になっていた玄関扉を開けると
「はい~こんにちは~どうぞ~」と、メガネをかけた先生が奥の席から緩い声をかけてくれた。
教室のなかは10畳くらいの広さで、年季の入った畳と座布団、そして6つほど並んだ低めの長机に書道で使う筆や墨汁などが置かれていた。
奥に座る先生の机には山のように積み上がった半紙と書道道具、月謝の封筒や本、書類などが雑然と並んでいる。
「なんか懐かしいな~この感じ」と最近の綺麗なスクールには感じられない、ひとりの人間がただただ自宅で主催している生っぽい営みというか、生活感をその教室に感じて、自分が幼少期に通っていた習い事教室と同じ匂いのするその空間に、僕はしばらくぼーっと浸っていた。
そんな自分を横目に、淡々と荷物を置き準備を始める娘。「そうだ、今日は娘の同伴だった……いかんいかん」と、我にかえる自分。
その後、初回ということもあるので何をするべきか、指示を受けに奥にいる先生のもとへ娘と向かうと
「は~い、じゃあよろしくね、今日はね、まずはね、最初だからね。うん、そうだね、“たね”にしようかね」
と、先生はゆっくりとした口調で娘に語りかけ、半紙に “たね”というひらがな2文字を書いた。
今日はまず“たね”というひらがなを書くようだ。改めて目の前で大きなひらがなを見るとシンプルな文字の良さを感じる。
娘はというと先生の話を聞きながらも、どこか無反応で不思議な表情をしていた。
教室では僕ら以外にも既に何人かの小学生たちがひとりで書道をしており、それぞれが与えられた文字を書いて、できあがった子から先生に見せに行くというスタイルのようだ。
自分「“たね”だって! いい文字だね」
娘「……」
自分「さ、自分の席に戻って! やろうやろう」
娘「……」
なんだか書道教室に入ってから、娘の様子がおかしい。
いつもよりも表情が暗く、会話の反応もなんだか鈍いではないか。
「どうした? 先生から“たね”を書いてみてね、って言われたよ、ほら」
と長机の上にある筆や墨汁を手に取って渡してみる、が娘はますます不貞腐れたようでだんだんと見た目にわかるくらい不機嫌な表情になってきた。僕が教室を眺めながらしみじみしている間に何が起こったというのか。
「“たね”という文字が気に食わないの?」と聞くと首を横に振り、「じゃあ具合でも悪いの?」と聞くと、それも違うという。そうこうしている間に周りの子たちは次々と文字を書きあげて先生のところに持っていく。
「ほら! あなたも書いて、先生に見せにいかないと」
もうかれこれ10分くらい娘は座ったままで筆を取ろうとしなかった。
そうしてようやく文字を書きはじめたかと思うと、ものすごく嫌そうな顔で筆をもち、適当な書き方で“たね ”という文字を書いては、投げるように筆を置いた。
娘「これでいいんでしょ!」
と、娘の謎に不誠実な態度と雑に道具を扱った姿を見て、先ほどまで教室をしみじみ眺めていた僕の穏やかな心は吹き飛び、一変して業火のような怒りスイッチがオンになってしまう。
そして僕は周りに他の子供たちもいる手前、口調としてはギリギリ丁寧な言葉を扱いつつも、湧き上がる怒りとともに不機嫌な娘と一触即発のムードに。
僕「そんな態度で習字するならやめなさい(心の中→そんな適当に書くならやめちまえコノヤローー!!!)」
娘「やだ」
僕「じゃあ、ちゃんと文字書きなさい(心の中→さっさと真面目に書けコノヤローー!!!)」
娘「いやだ」
僕「あなたが習字やりたいって言ったんでしょ! いい加減にしなさい(心の中→さっさと丁寧に“たね”書けコノヤローー!!!)
娘「……ふん! やだ」
そこからはもう埒が明かず、お互いダンマリになってしまった。
娘もよほど何か気に食わないのか、適当に書いた“たね”を先生に見せようともしない。
結局その日は娘も終始ムスッとした顔で文字を数枚書いたものの、時間のほとんどを不貞腐れて過ごし終わってしまった。
先生はそんな娘にも優しく「次はじゃあまた別の文字を書こうね」と言って励まし、その後、僕にも今後の授業の流れや教材の説明をしてくれた。
最後に2人で先生にさよならを言い、帰宅した我々。
玄関を開けると、「どうだった?」と家で待っていた妻に早速聞かれたので、教室で起こったことを話しつつ「せっかく入会したばかりなのに、なぜ……どうして……」と2人で頭を悩ます。
そんな中、ふと妻が
「さてはひとりが良かったんじゃない?」
と言った。確かに教室で親同伴は僕と娘だけで、他の子達はひとりで書道をしていたのだ。
「……確かに」
いままで親同伴でイベントに参加したりすることを嫌がられたこともなかったので気にしていなかったが、小学生になったことで周りの子たちを意識するようになったのかもしれない。
確認のため、妻が娘に「次はひとりで行く?」と尋ねると「うん、ひとりで行く」と即答。やはり僕が同伴していることが他の友達もいる手前、嫌だったようだ。
「そうか、親がいるのが嫌だったか……確かにそうだわ、自分もそうだったわ……」
と初めてそこで、娘が不貞腐れていた原因が自分だったことに気づいたのだった。
そうして翌週からは娘ひとりで書道教室に行くことになり、2回目の教室から帰ってきた娘は初回とは打って変わって、楽しそうな表情を浮かべ大量にかいた文字を僕に見せてくれた。
その表情を見て、自分もうざいと思っていた親の立場にいつの間にか自分が立ってしまったな~とちょっと反省。
半紙には伸び伸びした文字で大きく“そば”と書かれていた。
やっぱり文字はいい。










