2026年1月。束の間の正月休みも終わり、静かだった街の道路や電車のホームも、あっという間に車と人で溢れている。
僕もそんな周囲と同様に、年初めから慌ただしく生活をしているのだが、今年の正月にふと
「あ、今年で自分、40歳になるのか」
と、自分がもうすぐ30代を終えようとしていることに気づいた。「40歳……自分が……」と、40という数字がなんだかズシリと自分の肩にのしかかってくる。
40歳ともなると世間的には、それはもう完全なる「おじさん」としての扱いだろう。
もし雨の日に、傘を忘れてしまって仕方がなく雨宿りをしていたら、周囲からは“傘を忘れて雨宿りしてるお兄さん”ではなく“傘を忘れて雨宿りしているおじさん”として見られるわけで、どことなく“おじさんの雨宿り”の方が哀愁を帯びて周囲から見られるような気もする。
子連れの親子が道の前を歩いている時だって、もし子どもが手に持っていたぬいぐるみを落としてしまい、後ろにいた自分が咄嗟にそのぬいぐるみを拾い上げ「落としましたよ」と、声をかけた場合も
「ほら、お兄さんにお礼を言いなさい」ではなく、「ほら、おじさんにお礼言いなさい」となるんだろう。そして子どもも“お兄さんが拾ってくれたぬいぐるみ”よりも“おじさんが拾ってくれたぬいぐるみ”の方が、ちょっとだけ素早くぬいぐるみを奪い取り、手元に戻すのかもしれない。
おじさんとは一体なんなのだろうか。
思えば自分が想像していた40歳は今の自分よりも、もっと貫禄というか、さらに「おじさん感」があったような気がする。
商社マンだった自分の父が40歳だった時のことを思い返すと、まさしく「おじさん」としてのお手本のような姿だった。
平日は夜遅くにスーツ姿で帰宅し、疲れた様子で風呂に入り、ゆるゆるの寝巻きに着替えた後は、特に何か喋るわけでもなく、おもむろにテレビをつけてプロ野球を見ながら、
ひとり静かにビールを飲み、その後のそりと寝室に向かったかと思えば、いつの間にか寝ている。週末は会社の人とゴルフに行き、何もない休日は新聞を読んだり散歩をして、夜になると畳の部屋で寝転がってよく映画を見ていた。そして大体は映画の途中で寝ていた。
自分が思う「おじさん」感としては100点である。
むしろそんな父を見て「おじさん」というイメージを確定させたような気さえしてくる。
一方、今年40歳を迎える自分といえば、スーツは冠婚葬祭の時にしか着ないし、ビールも全く飲まない。
新聞のようなものも購読していないうえに、結構おしゃべりで、いつまで経ってもコーラとポテトチップスは美味しいままだ。貫禄のかけらも体から滲み出てこない。
ある意味、若いといえば若い気もするが、かといって“お兄さん”か、と聞かれると決してそうではないし、逆に世間一般のおじさん像に当てはまるかと聞かれれば、それも違う。
つまり僕は“お兄さん”にもなれず、“おじさん”にもなれない狭間の人間なのだ。それはもうただの“これから40歳を迎える、39歳の人”でしかない。
正月からそんなとりとめもないことを考えながら、静かな2026年の始まりを過ごしていた。そして色々考えた挙句、最終的には
「まあ、なるようになるわな」
と、ズズズと甘いおしるこを啜りながら、見えない未来について考えることをやめた。
何事も気にしすぎるのは良くない、というのは39年間で少し学んだ気がする。
ただ昨年の秋頃だったか、4歳の娘に「おんぶしてー」とせがまれ、しょうがないなと思いつつヨイショと背中に乗せた時、僕の背中に顔をうずめた娘が
「ん~、人生の匂いがするねぇ~」
と、言い放った時は、思わず膝から崩れそうになった。人生の匂いとは……。
できれば、いい人生の匂いを醸しながら40歳を迎えたい。










