独特の絵画性を宿すマヤ文字
パレンケはマヤ古典期の遺跡で有名だ。絵文字からマヤ文字までの変遷の様子を生で見たくて、古い黄色のボーチョ(フォルクスワーゲンのビートルの愛称)でサン・クリストバルから峠を越えて来た。運転免許証をそのへんの警察署で買った。大型トラックや重機も勧められたけれど今回はそっち系の就労目的ではないので、とりあえず普通車とバイクだけにした。実質的にメキシコではクルマは誰でも運転できるものなのだ。
危ないと言われたらまあ初めはその通りに違いないのだが、かと言って日本のように教習所に大金払わないと乗れないものなのかと言い返されたらそれもまた大げさだよなという気もする。馬やロバが庶民の生活の足として当たり前に存在していたことがあったか、なかったかで乗り物観がこんなに違うのか、何なのか。当然だが両国の運転免許制度に相互協定はない。
パレンケ遺跡の石造りの塔やピラミッドのクオリティーには圧倒される。これは石器時代の遺物というよりも、鉄の加工技術だけがないままに発展した農耕文明の強大な王国の巨大な神殿なのだ。やはりその彫刻群の、紋様のパターンを駆使して具象を形作る段階の雰囲気に古代中華の青銅器デザインとの親和性を強烈に感じる。
かつて、北極圏のアジア地域は鉄製品を交易で手に入れて重宝していたが、製鉄技術そのものまでを修得することはなかった。北海道のアイヌにしても刀は非常に重要なもので、柄や鞘には精一杯手の込んだ細工を自ら施していたのに、なぜか刀身自体を作る鍛冶仕事には手を出さなかった印象がある。どうしてそうだったのか推測すると、それらの地域の狩猟民にとっては、兵器や農具としての大量の鉄製品の需要まではなかったので、専従の鍛冶屋がコミュニティ内で成り立つほどのことにはならなかったからだと思う。とはいえ極北の民から中南米まではいくばくかの交易で少しずつの中継では結ばれていたはずだし、その流れの中で鉄製品のいくらかはマヤ帝国にまで到達していただろう。
はたして鉄の精錬技術を導入するための使者は、いつぐらいからユーラシア大陸に向けて送られていたのだろうか。その使者がもしスペイン人征服者より先に戻っていたとしたら……、とか塔のてっぺんに座ってジャングルを見渡しながら妄想してみる。賽の目はいつだってランダムだ。
メソアメリカ文明の絵文字やマヤ文字は今ではほぼ解読されている。偶然に見つかった、当時の一人のスペイン人宣教師が現地での布教活動のために記したメモが決定的な鍵になったということだ。エジプトのヒエログリフ解読のケースでの、あの有名なロゼッタストーンのような役割だ。
特定の事物を指す表義文字や、アルファベットのような表音文字も確定されたことで、例えば現代の他言語の文章をマヤ文字表記することなども可能になった。そういうわけで、チアパス州に集まった幾つものタトゥースタジオでは絵文字やマヤ文字のタトゥーを旅行者たちに彫ることが盛んに行われていた。
現代人が文字のタトゥーを入れる場合は自分の母語ではない文字を好む傾向が強い。欧米人は東洋の漢字を、東洋人は西洋のアルファベットを入れるとか、そういうことだ。それらは何が書いてあるかを自分の周りにストレートには分からなくさせるちょっとした秘密のレイヤーだったりもするわけだが、何よりもまず自分自身の瞬間の視覚にとってそれがほぼ意味性を感じさせない単なるデザインに見えるからなのだ。これが母語表記では脳にとっては一瞬たりともデザインにはならないから面白くないという感覚なのだ。そういった尺度では見慣れない文字ほど目的に適っていて、アラビア文字やデーヴァナーガリー文字などをタトゥーにする人が最近は増えているのだが、新大陸のすでに滅びた文字体系で、独特の絵としての面影をまだ強く残しているマヤ文字などはその極みといってもいいだろう。
でもトライバルタトゥーというものはだいたいにおいて文字普及率と反比例する傾向があるものなので、この地のかつてのそれが文字だったとは僕自身は考えてはいなかった。
世界的カリスマへ
遺跡の近くの宿場町にサンヤという女のタトゥーイストが住んでいた。セルビアの人だ。ということは前はユーゴスラビア人だったわけだ。僕はこの旧ユーゴスラビアの旅人たちにとても縁がある。まあ、言ってみれば腐れ縁の類いなのだが、いつも一緒につるんで小さな商売の計画を立てながら移動していた。1990年代に国がいくつものピースに分裂し続けた彼の地では、小さな民族主義同士のお寒い対立と紛争の日々から逃れて、いつ終わるとも知れない旅を続ける若者たちがけっこういた。帰る場所なんてない。だから転んでも絶対ただでは起きない。とにかくしぶといやつらだ。
まったくの独学で和の手彫り状竿使いによるハンドポークのタトゥーを開発し、「カルチャル・レスキュー(文化の救助活動)」と銘打って、古代遺跡の街でスタジオを開いていたサンヤがやろうとしているのは紋様のタトゥーだった。中南米の先住民たちの間で今も受け継がれる、服や生活雑貨を彩るさまざまな紋様群に、古代のタトゥーを探し求めていた。とてもいい見立てだと感じたので4頭の白い犬たちに守られたスタジオを訪ねて話しかけてみたのだが、なんというか凄い鼻息の荒さで取りつく島もないといった感じで、挙げ句の果てにはデザイン料金を打ち合わせ時に取るか取らないか、などというホントにどうでもいい話題で口論になってしまった。
ファッションモデルのような細身で高身長のドレッド女が上からメドゥーサの如くのしかかるように詰めてくる様子に、僕はあやうく身体が石化してしまうところだった。やっぱアクが強いんだよな、この人たち。
それから5年ほど経った頃だったか、ドイツの出版社の何十周年かのアニバーサリータトゥーコンベンションに招待されてフランクフルトに出向いたら、ホテルのロビーでサンヤとばったり再会した。
「おーいサンヤ! 犬たちは元気にやってるか?」
とかなんとか呼び止めたのだが、彼女はキョトンとしていた。僕のことを憶えてないらしかった。なんだか表情が以前よりだいぶ柔らかくなっている。あれからいろいろなメディアで紹介された彼女はオーガニックなハンドポークタトゥーのパイオニアとして世界的なカリスマ彫師となっていた。トライバル系ということならばメキシコのタトゥー業界を代表する存在と言っても過言ではない。彼女の存在に引っ張られるようにして優れたメキシコ人の女の彫師も増えてきた。シンプルで大きな構図を好む今のサンヤのデザインの方向性は僕ともかなり通じるものがあった。
「結局、オレとキミは自分自身が小さなことでこんがらがっているから、シンプルで大きなタトゥーを人生の願望として目指すんだよな」
2人で爆笑して、今度は仲良くなった。あの頃の彼女を取り巻く状況としては、スペイン語もままならない外国人の女がいきなり単身で乗り込んで来て、「先住民の文化を救う」なんてぶち上げていたものだから、マッチョ社会のメキシコタトゥー業界からは大顰蹙を買っていたらしい。まあ、分かる。サン・クリストバルに集まっている彫師たちにしたって皆んな学校の授業なんてマトモに受けてないような不良少年だったのだ。鈴蘭男子高校みたいなものに意識高めの外国人女子転校生が突然やってきて、「あんた達は遅れてる」なんて言い放ったも同然なのだ。そりゃ揉めるだろう。彼女は男たちからのプレッシャーと闘っていたわけなのだ。本人は善意で活動していたわけだが、ローカル彫師たちのアングルから見たら喧嘩上等ってやつだ。
当時、彼女のことを悪くいうメキシコのタトゥーイストを僕のまわりでも実際何人か知っていた。でも彼らが彫っているタトゥーはせいぜいマヤ文字や絵文字ぐらいのものだった。先住民の血統も、ちゃんとした技術もないという理由でサンヤを批判していた彼らは、しかしながらセンスや行動力というもっと重大な局面において決定的に劣っていたと言わざるをえない。
ダサい恨み言を吐いているヒマがあったら作品の力で真っ向勝負してみろ。僕はテキーラの力を借りて彼らに正直に檄を飛ばしていたものだったが、結局はサンヤの勝ちだったか。僕は今ではサンヤとはシスター、ブラザーと呼び合う仲だが、その点に関しては何かちょっと複雑な気分だ。
やっぱ強いんだよな、旧ユーゴスラビア勢は。ていうかグウタラなんだよな、僕のアミーゴたち。
時間のない国
ところで、メキシコでタトゥーを彫っていると、どうしようもなく直面せざるを得ない現実というものがある。
客が時間通りに来ないのだ。いや、5分、10分の話ではもちろんない。30分とか1時間とかの話ですらもない。そしてまたドタキャンということでもない。3〜6時間遅れとか、別の日にひょっこり現れるとかのレベルの話だ。別に話を盛っているわけではない。現地を知る人ならば常識の「メキシコあるある」なのだ。
まいったなぁ、とか言って初めは手持ち無沙汰になって天井を見ながら貧乏ゆすりとかしていたのだが、ほかのスタッフなんかは当たり前だが慣れたもので、客が来ないときは店の前の通りに椅子を出して道行く女の子たちに話しかけて遊んでいる。そのうち僕も同じように暇つぶしをするようになったら、ふわふわアフロヘアのコスタリカの女の子と仲良くなれた。凄い美人だ。だから、まぁいっか、という感じになった。きっと今日の客のバーガーキングも来る途中でキレイな女の子と出会って話が弾んでいるのだろう、と思うことにする。
時間にとてつもなくルーズであるということは、意識の中に時計のイメージが存在していないということなのかなと思う。時間軸が曖昧というか。因果律に疎いというか。極端に言えば、今、ここ、しかない世界観というか。
地球規模で俯瞰すると赤道に近づくにつれてそういう人々が増える印象がある。よく言われる説明として、冬の生活の厳しさに備えるために人は日付や時刻などの時間軸の感覚を発達させた、というのがある。だから北の人々は時間に敏感なのだ、と。
まあ、たしかにずっと夏が続くのだったらカレンダーも年号もさして意味はなさそうだし、そうした物差しがないから自分の年齢を数える習慣もないという人々は南国にはたくさんいるのだ。しかし、そういうほかの地域と比べてもメキシコの時間に関するルーズさには別格の感が漂う。彼らは深い森の小さな孤立集落の裸族ではなく現代都市社会に暮らしているわけだし、それにメキシコはそもそもそんなに赤道には近いわけでもないのだ。
過去から未来へと続く直線上の現在という一点を、期間や場所を限定して生きていると自覚する種類の人間からしてみれば、メキシコ人という者たちは、時空の存在しない超越的次元とこの世との狭間の領域「幽世(カクリヨ)」の住民にも見えるだろう。栄華を極めたマヤ文明の住民たちが忽然と姿を消したことを、超越的次元への集団ジャンプだったと設定した読み物がかつて世界的に大流行したりした下地には、こうした幽世の雰囲気を現代メキシコ人が色濃く漂わせていることがあるのだろう。
メキシコのギャング文化は有名だ。音楽、クルマ、グラフィティ、服などは今や世界規模で拡がりを見せているのは周知の通りだろう。顔面に不規則に散りばめる彼らのタトゥースタイルもよく見かけるようになってきた。が、それでも本質的に彼らが世界中に知られる最大の要因は何と言っても殺人だ。陵辱の限りを尽くした、質、量、ともに圧倒的な死体の山なのだ。抗争相手や何らかのトラブルがあったり無かったりする人体をズタボロにしてインスタレーションにする。日本や欧米など、一般的にこちら側の世界では、それは恐怖を煽り、人々をコントロールするための見せしめの行為と解釈されている。
北部のギャングが強い地域では警察署長が代々必ずギャングに殺されるのが恒例の街などがあり、新署長が就任してから何日目で殺されるのが賭けの対象にさえなっている。スリは人混みの中で前を行く人の頸椎を捻り折ってから財布を盗む。道端の死体は日本のように早々とブルーシートで覆われるようなこともない。そしてこうした殺人の9割以上はまともに捜査されることもないし、犯人が捕まることも有罪になることもほとんどない。ちゃんと仕事をしようとした捜査員は殺されるし、検事や裁判官や原告も同じように殺されるからだ。
豆やヒキガエルと一緒に彼らの地元であるメキシコシティの産業団地エリアに行ったことがあるが、その通りではいつもみんなで固まって走って移動した。普通に歩いていたら殺される。そのあたりの街では撃たれたり刺されたりすることに大した理由はいらないらしい。まるで戦場だった。
こうして見ると、たしかにそれらの殺人は見せしめ行為ではあるのだろうが、どうしてもただ単に邪魔だから片付けただけのような無表情な軽やかさも否めない。それに対する人々の反応も、恐怖でパニックを起こしたりはせず、ただただ諦めているだけなのだし。
死を祝う
メキシコの「死者の日」はアメリカのハロウィンの元ネタになったとも言われる同日程のお祭り行事だ。ハロウィンは、ジャック・オ・ランタン風オバケ&ゾンビの仮装から転じて東京では何でも仮装大会と化して普及しているが、死者の日の方は日本ではあまり知られていないだろう。
死者の日の主役はガイコツだ。これはコロンブス到来以前のメソアメリカ文明からずっと引き継がれている当地のガイコツ信仰がベースになっていて、祖先への愛や再生の象徴としてガイコツを煌びやかに飾って愛でる習慣なのだ。肉が腐ってウジが湧くようなアメリカのゾンビが死に対する拒絶反応の表れだとすると、オシャレに着飾って陽気なポーズをキメている、メキシコの白くてスベスベのガイコツは死への愛や受容だ。死を恐れることなく認識し、行動することが自由で楽しい人生の鍵であるという考えなのだ。




もともと人間には生しかなかった。あるときその生の一形態として死という現象が認識され、また生まれて来るまでのサイクルが、たとえばメビウス状の形で循環するようになったのだと僕は感じている。きっと時間や空間もかつては同じようなイメージだっただろう。「私」と「あなた」も、さらに人間とそれ以外もさして差はなかったはずだ。実際にそういう人々に会ってきた。
富の蓄積とともに所有の概念が発生し、それは時代のステージを追うごとに先鋭化し、人生は極めて限定的なものになっていった。メビウス状の生はいつの間にかその途中で巨大な壁で区切られていた。壁の向こう側はちらっと覗き見することすらも憚られるいかがわしいタブーの世界なのだ。死はもはや絶望的に遠い。そしてそのことによる現代人の不幸もまた計り知れないほど深くなっていることだろう。
ある段階でそのことに気づいたメキシコの人々は、放っておくとどんどん高くなっていく分断の壁を、意図的に切り崩し続けることを習慣とするようになったのだろう。

バーガーキングのタトゥーは何度かの長大な遅刻を繰り返しながらも、残り1セッションのところまでようやく漕ぎつけていた。メキシコ人離れした大きな腕のフルスリーブデザインだ。しかしあと残り1回になってからあれやこれやのキャンセル続きで、気がつけば時間切れとなり僕は日本に帰国した。
そのすぐ後、僕がまたメキシコに戻ったのは、メルカドのチチャロンが食いたかったこともあるが、ほとんどはこのバーガーキングのタトゥーを完成させるためだけの目的だったのだ。が、またもやあれやこれやの関係でセッションができず、ようやく再会できたのは帰国の前日だった。この一発で極めると意気込んでいて、いざ彫り始めたら、なんと1分も経たないうちにバーガーキングがギブアップした。
「今朝までトランスパーティーにいて、まだバキバキにぶっ飛んでる最中なんだ。この世の終わりみたいな痛さなんだ。許してくれチチャロン」
わざとだ。絶対わざとに違いない。僕はそう確信してサン・クリストバルを後にした。
サンヤは八王子の僕の家までゲストワークに来たりするほど交流がある。ラペのセレモニーをやったりと、ますますスピリチュアルの度合いを深めている。粉ワサビをスニフしたような衝撃に涙しているときにサンヤが言った。
「パレンケにあなたの大ファンがいるの。今度あたしのところに来てみない?」
それってバーガーキングだよね?
お断りします。









