山奥の喫煙室
まるでペンギン村のような、のどかな風景の中をしばらくぶらぶら歩いて、仲間の誰かに聞いていた目印の自転車屋を見つけた。赤ん坊を抱えた店番の女が、「いらっしゃい!」 みたいな感じで声をかけてきて、レンタル自転車の客ではないと分かると建物の中に案内された。
奥の板の間には三角枕とマットレスのセットがいくつか置かれていて、東南アジアの安宿のロビーみたいな気安い雰囲気がある。先客が2名まったりしていた。壁際にはちゃぶ台の上に茶器が置かれている。無料サービスのお茶だ。ものすごく濃い淹れ方で渋い。窓の外には中庭の樹々。柔らかい光。鳥の声。梅に鶯か。……ちょっと違うか。
客がマットレスに半身で横たわると男の給仕が来て、喫煙の準備をする。喫煙パイプの胴部には細部にまで凝った龍の彫刻が施されている。象牙製のようだ。村の全般的な素朴さと比べると、これは飛び抜けて贅沢な物事という位置付けを表しているように感じる。パイプの先端部にはビリヤードの玉ぐらいの大きさの真鍮製の金色の球体が付いていて、その頂上に穴が開いている。
給仕は穴のすぐ横あたりに琥珀色のペーストを細長い金属のコテで盛り付ける。そしてそこにアルコールランプの炎を近づけていくと、熱せられたペーストはシューという音とともに白い煙を立て、それが球体の穴に吸い込まれていくのだ。
給仕はペーストが常に質の良い煙を出すように炎とコテで適宜調整し、吸いカスは焦げつく前にどんどん穴の中に落としていく。給仕は腕の良し悪しのある仕事のように思える。そしてペーストの品質もピンキリらしい。たしか当時この店は欧米で最も一般的なトラベルガイド本『ロンリープラネット』のエンタメ情報欄でも紹介されていた。優良店というわけだ。なお、穴に入った吸いカスは球体内の空間の底に落ちるので吸い口にまでダイレクトに上がってくることはないという合理的な仕組みになっている。
首筋に重さと暖かさがゆっくりと訪れる。視界にはうっすらと紫色のヴェールが降りてくる。上品な安心感そのもののような感覚に揺蕩う。
小さくスライスしたマンゴーを摘みながら、先客の初老男性が英語で話しかけてきた。バンコクのチャイナタウンで何かの会社をやっている人で、一週間の休みを取ってのんびりチルアウトしに来たのだという。毎年来ているらしい。最近のタイ政府は大人の男の嗜みにずいぶん無理解になったから、わざわざこんな深い山の中まで来なくてはならなくなったとも言っていた。一週間という滞在期間は、喫煙を止めても風邪をひいたような禁断症状が出ない程度にスマートに遊べる期間とのことだった。
「父も祖父も仕事の合間にそうやって遊んできた。華僑の知恵なんだよ。キミも一週間くらいまでにしておくと良いよ」
なんとなく、歌手のテレサ・テンがタイ北部の別荘で死因も公表されることなくひっそりと亡くなったという出来事を思い出した。
ルアンパバーン
今回およそ30年の時を隔ててラオスにやってきた。まずは北部の代表的な都市ルアンパバーンに入る。ベトナムのハノイから飛行機でたったの1時間半。やけにあっけない。
宿に着いたのは21時だった。とりあえず大通りに出て食べ物を探す。電飾看板の押し出しの強いツーリスト向けのレストランが多い。ヨーロッパ人の若いカップル客たちで賑わっている。半ズボンの男とワンピースの女という組み合わせで、普通の南国リゾート休暇といった感じ。突撃探検隊や沈没ヒッピーみたいな系統はいないようだ。
僕はいつも通り、地元民で繁盛している店を探す。一本脇の道に入ってしばらく歩くとそれっぽいのがあった。店先に炭火グリルが出ていて、何かの肉が旨そうな匂いの煙を上げている。
ローカルのオバさん4人組がビールで盛り上がっている。店の奥の冷蔵庫から地元のビールであるビアラオを自分で取って、グリル上の何かの肉を指差した。それは骨ごとぶつ切りになって出てきた。たぶんアヒルのスモークローストだ。旨い。甘辛いタレも良い。着いていきなり当たりを引けて嬉しい。
野菜炒めと餅米も頼んで本格的にガツガツ食い始める。蒸した餅米は、左手にガッとソフトボールぐらいの大きさの塊を持って、そこから右手で一口サイズの量をむしり取って掌中で小さな玉をコロコロ作る。その玉にオカズを寿司ネタのようにくっつけて口に放り込むのがラオスの流儀だ。
それにしても、まるで初めて来た街のようだ。既視感がカケラもない。まあ、それもそのはずか。当時のラオスは、外国人旅行者たちに対して1970年代から長きにわたった鎖国を解除した直後のアジアきっての秘境であり、翻って現在のルアンパバーンは旧市街がまるごと世界遺産に登録された一大観光地なのだから。建物の数が圧倒的に違う。

ともあれ、かつてバイクで周辺の山村を回るも英語がまったく一言も通じず、地図も読めず、紙にイラストを描いて意思の疎通を試みたがほぼどうにもならなかったという苦闘の記憶に塗れた地に僕は戻ってきたのだ。今度はGoogle翻訳とGoogleマップ、そしてAIという最新便利グッズを携えている。
さあ、明日からさっそく山に向かう手筈を整えるとしよう。
いや、山に向かうも何も、実際はすでに山のど真ん中にいる。ラオスは海岸やその周りに広がる広大な平地を持たない完全内陸山地国家なのだ。
トライバルタトゥーの部族を調べている途上で一冊の本に出会った。ジェームズ・C・スコット著『ゾミア—脱国家の世界史』だ。東南アジアの山岳地帯、つまりベトナムから北東インドまで、あるいはもう少し延長してネパール、チベット、ヒマラヤ、北パキスタン、アフガニスタンくらいまでをも含む広大な山々の塊の中に暮らす無数の少数民族たちの文化に関する論考だ。
これらの少数民族たちは歴史上の事実として、自らの意思で選択的に国家というシステムを避けて山に移り住んだソフィスティケートされたアナキストたちであり、平地文化から追い出された忌むべき無法者でも、あるいは入りたくても入るチャンスを得られない哀れで遅れた先住民でもない。
このエリアを勝手にいくつも分割して統治の正当性を主張するそれぞれの国家の側からの都合で描かれてきた従来の歴史観を覆す、まつろわぬ山岳民サイドからの文字には記されていない歴史と現実。ものすごく要約するとそういう話だ。
今まで、いろいろな方角から、そして幾度もこの巨大な山塊に足を踏み入れてきた。交通網のギリギリ端っこに掛かるか掛からないかというぐらいの、いわゆる僻地が多かった。そこに住む人々にはトライバルタトゥーが入っていた。もちろんそれを見ることは僕の旅の主要な楽しみだった。
街の大きな文化との接触により消えていく、トライバルタトゥーをはじめとする各地の少数民族固有の文化。それが道もロクに通っていないような僻地にはまだ残っている。その最後の瞬間にギリギリ立ち会えることは、マニアの僕にとっては他には替えがたい貴重な体験だ。が、実際問題として、平地なら一瞬でスムーズに移動して済ませることのできる用事のために、同じ距離を一日がかりでゼイゼイ言いながら泥のようにくたびれ果てて歩いていると、そもそもの疑問として、何故この人たちはわざわざこんな険しい山に住んでいるのだと感じることがままあったのも事実だ。そのことにいったいどんな利点があるのだろうか、と。
それがこの本を読んでスッキリした。僕らが今まで目を通していたのは平地国家側の歴史観であり、その物差しではどうしても山を理解することが難しかったのだ。そしてあらためて思い出したのだ。かつての僕がトライバルタトゥーよりも何よりも必死に探し求めていたものがそこにはあったのだと。だからこそ何度も何度も導かれ続けていたのだということを。そしてもう一度復習してみたくなった。とりあえずは、ゾミアと呼ばれているらしいこの巨大な山塊の、ど真ん中のラオス北部あたりがいいだろうか。そう思ったのだ。
情報の空白を歩く
事前にAIを使ってピックアップした情報を元に地域と民族名を絞り込み、ネットでコンタクトできる当該地域の旅行ガイドたちを当たってみた。ヒッピー時代はあり余る時間と反骨精神から全て自力でやっていたけれど、四十を超えたあたりでプロのガイドの便利さに気づいて、今ではかなり重宝している。が、今回成果はほとんどなかった。でもまあ、それはこちらとしては折り込み済みだ。
少数民族のトライバルタトゥーの習俗、それも世界的に知られているような大きな特徴を備えたものだけではなく、パッと見てもなかなか気づかないほどのささやかなモノにまで興味のある旅行者などはほとんどいない。彼らの商売的には、気に留める必要がない物事なのだ。
うちのお客さんにはいろいろな国の「橋」にものすごく興味があって調べている人がいる。僕はその人の旅がいかに手に汗握る冒険なのかを想像できるのだが、これなんかもやはり通常のガイドの知見の外側の物事だと思う。寺や滝とかを巡るバスツアーや、大自然を堪能するトレッキングツアーで儲けるのがツアー会社の主な仕事なのだから。
でも問題はない。僕は30年前に実際にタトゥーを施した人を何人も見ているのだ。あの頃に50〜60歳の人ならまだ生きている可能性がある。とりあえず歩いてルアンパバーンのガイドを直接、端からしらみつぶしに全て回っていく。見たことはあるが何十年も昔のことだというガイドが多い。ラオス政府は長きに渡ってタトゥーを禁止していて、彫師は摘発されると重い罰金を課せられるため、現在ではもうそれをやっている山の少数民族はいない、とも。これは日本で言えば明治期から第二次世界大戦終結までの沖縄のハジチや北海道のシヌイェを取り巻いた状況と重なる。
若いスタッフに尋ねても分からないときは年配のボスに聞いてもらう。6軒目でビンゴが出たが、いちおう全部合わせて13軒回って情報を集めた。そして結局、当たりは6軒目の店の、受け付けバイトスタッフが電話した外回り中のガイドだけだった。
「長いことやっていますが、こんなことを聞いてきた旅行者はあなたが初めてですよ。うちの通常のトレッキングコースではないですが、まだ何人かタトゥーが入っている人がいるはずのラオルー族の集落を知っています。ほかにも思い当たるカムー族の村が周辺にあるので同時に回ってみましょうか」
自信満々で来たけれど、実際のところはかなりの細道だったわけだ。
ゾミアの森
ルアンパバーンから車で1〜2時間ほど離れたポイントから山に入り、険しい斜面のジャングルをガイドとドイツ人の若者と3人で朝から夕方まで歩いた。身体の小さい山岳民がようやく1人通れるようなスペースの細道だ。
前回誰かが通ったあとから伸びた枝や蔓を山刀で刈り落としながら進む。道すがら採った野生のバナナを、猟師の野営の焚き火跡の周りに座って休憩しながら食べる。バナナの花も採ったが、これは後でスープにすることにした。
若いドイツ人は、当初1人でトレッキングを考えていたが料金面で割り高なので迷っていたところ、たまたま僕のプログラムのことを聞いて相乗りしてきた。ガイド料金を折半できるので僕としても大歓迎だ。彼は背が195センチ以上あるせいなのか下りが苦手で、何度もスリップして斜面を転げ落ちていた。肘や膝から出血している。そしてメタボの僕はとにかく登りが地獄で肺活量がまったく追いついてこない。まだ高地の酸素の薄さに慣れていないタイミングだからなおさらだ。黒色のTシャツが塩で真っ白になっている。2人とも初日からボロボロだ。これがあと2日繰り返されるのか。
最初の晩にお世話になったのはカムー族の村だった。蒸したサツマイモと揚げたキャッサバ、鶏肉とバナナの花のスープの晩ごはんが振舞われた。キャッサバのフライは大好物だ。バナナの花は少しの苦味とタケノコみたいな歯応えがある。
ラオスの山のある程度高い場所以上に暮らす少数民族の多くは、数軒からせいぜい十数軒ほどの小さなコミュニティ規模で、こうした焼畑による芋類栽培と、家畜の放牧、及び森での狩猟採集による、移動性を備えた自給自足生活をベースにしている。
政府は彼らに対して、道路の整備された山の低いあたりに定住して、段々畑を作って換金性の高い商品作物である餅米を栽培することをずっと勧めている。そうすれば医療や教育といった公共サービスにアクセスできるからだ。でも現実は、なかなかそうはいかない。
重税を払うための果てしない長時間労働と飢餓。そして支配者たちの領地争いのために無益に死ぬ兵役。そもそもそういうことがとことん嫌になって、国というものを信じず山に住んでいる経緯があるのだ。無戸籍の住所不定で、移動する焼畑で表から収穫量も分からない芋類を育てている分には徴兵も税金も関係ない。いったい医療や教育というものは、それを捨てるに値するものなのだろうか。少数民族はそうした選択肢を天秤にかけているという。
僕はずっぷりと平野部の中産階級国民育ちなので、無戸籍なんて言葉を聞いただけでもハラハラするし、またごくシンプルに教育を受ける権利は重要だと思っている。それさえあればどういう状況からでもなんとかなるのではないかと。でもまあ、よく考えたら、それは国家という枠組みの中で生きていく場合に限って有用なことを、あたかも普遍的価値のように学校で刷り込まれているだけなのかもしれない。それ以外の選択肢を想定もしていない考えなのかもしれない。

カムー族はゾミアの少数民族の中でもかなり初期に移り住んで来た人々で、4000年前まで遡るともいわれている。かつてラオスではさまざまな少数民族がタトゥーを入れていたが、それでもタトゥーといえばカムー族が代表格と相場が決まっていた。

僕がかつて見た多くの人も、おそらくカムー族の人々だった。タトゥーはただ美しいだけでなく、ナーガ(龍蛇)の祟りを避けることができる霊験があると言っていた。だからなるべく隙間なく彫るのだと。前腕から手の甲、膝下の脚などにびっちり高密度でタトゥーが入っているお婆さんたちをマーケットなどで普通に見かけたものだ。さまざまな少数民族の、特に女性たちが独自のファッションで存在を鮮やかに際立たせる中で、カムー族の女性の特徴は広い面積のタトゥーだったのだ。そういえばこの村に入って来たとき、オバさんたちが物珍しそうに僕を見て言った。
「あんた男なのにずいぶん髪が長いんだね!」
やはり顔のタトゥーぐらいは普通ということなのだろう。でも残念ながらこの村最後のタトゥーが入ったお婆さんは、コロナ禍でラオスが鎖国しているときに亡くなっていた。彼女は全身にタトゥーが入っていたという。亡くなった年齢を家族に聞くと、定かではないが90歳を越えていたことは間違いない、とかやけに曖昧な返事だった。

カムー族が中国のどの地方あたりまでルーツをたどれるのかはよく分かっていないらしいが、少なくとも4000年以上前の中国には大きな面積で身体を覆うトライバルタトゥーがあったことのひとつの傍証、という考え方もできる。









