文様奇譚

第11話 ラオス【後篇】

大島托

文字という呪力

翌日は山をひたすら上へと登り、モン族の土地に入っていった。道すがらマリファナの畑がところどころに見える。繊維を取るためと、食べるためだろう。東南アジアの山地では昔からマリファナをよく食べる。というか、牛肉と一緒に煮込むなどして、肉の脂肪分にマリファナの効きの成分であるTHCを溶かし込んで飲むのだ。これは時間差で胃腸を経由して全吸収されるので、すぐに効かないからといって早いペースでの飲み過ぎには注意だ。

人間の飲み残しのこれを飲んだ猫が、空を飛べると確信して建物の三階ベランダから飛び降りたのを目撃したことがある。そういえば30年前のヴァンヴィエンやルアンパバーンには「ハッピーピザ」という名物料理があったが、これもチーズの乳脂肪にマリファナのTHCを溶かし込んだものだった。

ちなみに、喫煙での摂取方法は東南アジアではベトナム戦争のときに米軍人が持ってきた比較的新しい文化だ。それが若者たちにクールな新しい娯楽と受け入れられて流行し、やがてそれを警戒した各国政府によりマリファナの摂取自体が包括的に禁止された。

それはともかく、登りが苦手な僕は脚が早々にバカになってしまって、最終的には杖として適当な木の枝を2本使って四足歩行になっていた。ホント空でも飛びたい気分だ。早くタケコプターとかを実用化してくれ。

「モン」にはMonとHmongと表記されるまったく別系統の民族がいて、こちらはHmongの方だ。彼らはもともと中国の揚子江あたりに住んでいたのが、大規模な戦乱と飢餓を嫌い、漢民族に押されるような形で18〜19世紀というごく近い時代にゾミアに入ってきた。

村人の説明だと、モン族はさらなる昔には現在のモンゴルあたりにいて、時代とともにどんどん南下してきた民族とのことだった。確かに村人の顔つきは北方アジア系のように見える。山の中でも高い位置に暮らし、文字、稲作、製鉄技術、階層社会構造を持たず、仏教、道教といった巨大宗教ではなく原始的なアニミズムを信仰する現在の彼らが、かつて――というか、わりと最近まで中華の真ん中あたりにいたという言い分は、平地の人々にとっては山猿が自らを権威づけるためのホラ話として物笑いの種にされがちだ。

ここでよく注意しなければならないのは、モン族はそれらをありがたく思っているのではなく、かつて持っていたそれらに価値を感じず捨て去ったという事実の方であり、その意味を認めてしまうことは平地の国家と国民にとっては、存在意義を根底から揺るがす絶対的なタブーだということだ。実は笑われているのは自分たちの方なのだ。

一度手にした文字を手放す。そんなことがあるわけない、と文字を習得した我々は無意識のうちに思っている。それこそが文字の呪力の強さなのだ。莫大な数の人々を束ねるために開発された文字という道具は、無数のアニミズムを吸収し、制覇してきた巨大な宗教とよく似た、エンターテイメントなのだ。子供の頃、魚釣りやゲームにかまけているとよく怒られたりしたものだが、どんなに長い時間本を読んでいても注意されたためしがないどころか、逆に褒められたりしていた。僕にとってはどちらも同じような遊びだったのだが、親たち大人にとって文字は聖なる信仰だったのだ。

しかし、ほんの数家族程度の集まりで孤立して暮らす山の生活には、実際のところ文字はいらないのだ。そして、文字を持たない人間の記憶力は、識字民でいえば小学校低学年の頃の、あの驚異的な水準をずっと維持するため、伝達事項やスケジュールの管理に困ることもない。これが正確な口承文学を何千年間も成立させうる能力だ。

彼らは他言語の耳からの習得も非常に速く、そうした環境に身を置くだけで自然といくつもの言語を完璧な発音で話すようになる。日本は識字率が非常に高いのでピンとこない人が多いだろう。ウソだと思うなら、たとえばバリ島に行ってクタの浜辺あたりの読み書きができない「ビーチボーイ」たちと話してみたらいい。

文字の習得というのは脳の中の物凄い容量を使うアプリのようなもので、新たに入れたがために使えなくなるほかのアプリは多い。だから文字を手放すことにはそれなりに得なことがあるのだ。

僕は、世界中のトライバルタトゥーが文字と出会い、まるでそこに吸い込まれるようにして消えていくのを何度も目撃してきた。文字というものは、まるで意識という不可視の実体の表面に刻み込まれるタトゥーのようだと感じることがある。それが施されると人間は現実の身体表面のタトゥーを一度失うのだ。

モン族はゾミアの数ある少数民族の中でもとりわけ平地の国家に対する反抗心が強い。大々的にオピウム生産に携わり、ベトナム戦争の際にはCIAに雇われてラオス国内を通るベトナム軍の補給路を攻撃した末にラオス軍の虐殺の対象となり、現在ではアメリカをはじめとする世界中に多くの人々が亡命しているという事態にまでなっている。ちなみに「Hmong」は彼らの言葉で「自由」を意味する。いわば自由族だ。彼らの社会には一夫多妻婚があり、また夫が亡くなると妻たちがまとめて亡き夫の兄弟と再婚することもあるらしい。

この村にトライバルタトゥーはなかったが、僕が彫師だと分かると何か彫ってくれという人々が群がってきた。彼らにはラオス政府のタトゥー禁止令はどうでもいいようだった。でも……こんなきっつい山の上までタトゥー道具一式持ってトレッキングなんてするわけねーだろ。途中、1キロに満たない小さなリュックですら捨ててしまおうかと思っていたのに。

平地へ降りたゾミア

最後の日はどんどん山を降りて行った。下り斜面を歩くのが下手な若者が、さらに傷だらけになってしまった。踏み石から滑って川にも落ちていた。身長がどうこうより、もしかすると彼の靴に根本的な問題があるのかもしれない。

やがて湖のほとりに出ると、例のラオルー族がいた。彼らは7〜12世紀にかけて、何波にも分かれてゾミアに入ってきた人々だ。やはりこれも中国における戦争と重税から逃れるためだった。が、前出の2つの民族が山に散らばる小さなコミュニティで自給自足の生活を志向し、国家的な仕組みと意図的に距離を取ったのに対し、ラオルー族は逃れた先の東南アジアでも山の麓の川沿いや平地で灌漑水稲農業をすることを好み、再び自分たちで国家を作る方向性を持っていた。

これは縄文時代に中国や朝鮮半島の争乱から逃れて日本にやって来て、西日本を中心に弥生時代を形作っていった集団の行動様式と似ているような気がする。そう考えると、その結果として列島のほかの地域――たとえば東日本などはゾミアにおける山岳少数民族のような状況になったのではないだろうか。

西日本で形成された稲作国家の苦役に耐えかね、そこから逃げ出した人々が当時の最新技術と脱国家的な考えを携えて、もともと暮らしていた縄文人に合流していったのがいわゆる蝦夷たちだったのかもしれない。実は朝廷や幕府はかなり後の時代まで蝦夷を攻略し切ることができなかった。それは蝦夷がただのウブな狩猟採集の先住民ではなかったことを示唆している。

敵に回った離反者が厄介なのはどんな組織にとってもいえることだ。そして彼らがおそらく意図的に文字を持たなかったため、彼ら自身の側から見た実態を詳細に知れる歴史的記述はない。が、彼らの社会や営みが存在していなかったという意味ではない。ゾミアの現実を見渡せばよく分かる。

事前に言われていた通り、ここにはタトゥーがあった。それも僕の予想を超えるような大きなタトゥーだ。腰上部から膝までびっしりと埋め尽くす半ズボン型の例のやつ。生で見るのは初めてだった。びっくりした。現代でリバイバルしたものは別として、これは白黒写真でしか見たことがなかったやつなのだ。

僕の個人的見解では、これはトライバルタトゥーと現代サクヤンの中間に位置するものだ。部位の取り方、デザインの構図、ディテール表現などの基本的な性質はトライバルタトゥーそのものである。同時に巨大な都市国家の宗教である仏教の香りをそこはかとなく全体に漂わせてもいるのだ。

これはおそらく、ラオルー族を含む広義のタイ語系の人々が中国にいた頃から持っていたか、あるいはこの地で先住のカムー族などに影響を受けて新たに作ったトライバルタトゥーのスタイルが、14世紀以降にインドからこの地に入ってきた上座部仏教と融合した姿なのだと思う。さまざまな地域バリエーションを持ちながら、この半ズボンスタイルのフュージョンタトゥーは20世紀まで続いていたのだ。ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジア、ベトナム。その広がりは東南アジア全域の、上座部仏教の文化圏とほぼ重なるように見える。

なお、サモアのトライバルタトゥーである「ペア」や、ニュージーランドのマオリの「プホロ」など、半ズボンスタイルのトライバルタトゥーは南太平洋各地でも確認されている。そうした事例も踏まえると、僕としてはやはりタイ語系の人々は少なくとも紀元前からこのスタイルのトライバルタトゥーを持っていたのだろうと感じる。

半ズボンタトゥーを纏ったラオルー族の男性は75歳だと言った。まだ若々しい。そしてやはり仏教徒だった。タトゥーはとても鮮やかだ。半ば紋様化された抽象的な馬のデザインがブロック状に積み重なり、びっしりと太腿を覆い尽くしている。活力の象徴としての馬という。パワーアップの御守りだ。

図1 ラオルー族の半ズボンタトゥー(2024年に著者が後年再訪した際に撮影)
図 2 ラオルー族の内腿部(2024年に著者が後年再訪した際に撮影)
図 3 ラオルー族の膝周辺(2024年に著者が後年再訪した際に撮影)
図 4 ラオルー族の背中(2024年に著者が後年再訪した際に撮影)

経年劣化をほとんど感じさせないエッジの利いたディテール。直接手で触れてみたが表面も滑らかだ。彫師の技量の高さを感じる。25年前に入れたという。ということは50歳で入れたのか。するとガイドが、これくらいの田舎で、これくらいの年代の人たちの言う年齢や時系列の年数を鵜呑みにしないでくださいね、と言う。年号やカレンダーなんてどうでもいいんだから、と。

彫師は自らの両足の裏を使ってこの男性の皮膚を伸ばし、そこに両手を使って現代サクヤンでもお馴染みの「バンブー」の手法で彫ったという。その足技は僕は今まで見たことがない。興味深い。その彫師は行商スタイルでラオルー族の村々を回っていたのだという。こんな深い山里までその彫師は道具を背負ってはるばる歩いてきたんだなぁ、偉いなぁ、なんて感心していたら、村に車が走っているのが見えた。なんだよ!道あるじゃんかよ!!それを早く言えよ!!!

ポンサリー県へ

その後、さらなる僻地を求めてラオス最北端のポンサリー県に移動し、さまざまな民族の村々を今度は最初からバイクで回った。歩けば5日かかるような山道もバイクなら1日で行ける。それを二度繰り返した。もちろん道はガタガタでグチャグチャの未舗装路だが、そういうのはかえって楽しいくらいだ。川にかかる竹の浮き橋もバランスを取りながら突っ切る。橋マニアのお客さんが興奮しそうなやつだった。

ポンサリー県だけでも10〜20ほどの、じつにさまざまな少数民族たちが散り散りになって暮らしている。その中を通過したが、同じ民族が隣り合って同一地域に固まるということはまったくないように見える。隣村はいつも別の民族だった。

焼畑農業では生活拠点の周囲の一定の面積の山肌の樹木を伐採し、それを焼いてから芋などを育てている。肥料を入れる必要はない。土地そのものが豊かだからだ。やがて地力が落ちてくれば栽培をやめて、ほかの山肌に移る。

休止した古い焼畑跡は30年ほどで元と同様の森に戻るという。そうやって新たな地力のある土地を求め、また人数が一定以上に増えると適切な集団規模に分かれながら、ランダムに移動を繰り返した結果、このように完全にシャッフルされていったのだろう。

小さなトライバルタトゥーが脚に入ったカムー族のお婆さんは、「10年前なら全身にタトゥーが入った人がいたのに」と言いながら、首から下を撫でてみせた。パーリ語とサンスクリット語で書かれたマントラが前腕に彫られたタイルー族のお爺さんたちにも出会えた。トライバルタトゥーが文字に吸い込まれていく過渡期の姿だ。この後タトゥーが消えていく。タイルー族もまた仏教徒で、お爺さんたちの前の世代では半ズボンタトゥーが盛んだったと言って腹から膝までを撫でていた。

図 5 タイルー族の古いタイプのサクヤン(2024年に著者が後年再訪した際に撮影)

分かってますよ。でも残念ながらヒッピー時代の僕は奇妙なプライドをたくさん持っていて、旅先でカメラを持ち歩くのはその御法度のひとつだったのだ。だからその頃の写真が残せなかったのは仕方ない。

図 6 タイルー族の仏教寺院(2024年に著者が後年再訪した際に撮影)

それでも彫る理由

ところで、実は現代タトゥーが入っている若者は山にも街にもたくさんいた。和彫りがなんといっても大人気らしい。そのためにわざわざ首都ビエンチャンにいるモグリの彫師たちか、国境を越えてベトナム・ハノイの実力派彫師たちに彫ってもらいに行くという。それって日本のスタイルだよね、とGoogle翻訳で尋ねても、当人たちはまるで分かっていない。

とにかくカッコいいと思ったから理屈抜きで入れた。楽しいからもっと入れる予定。法律も罰金も刑務所も、本当にやりたいことの前ではあまり関係ない。だから、残念ではあるけれど、お上に禁止されたくらいで滅びるモノは所詮そこまでの運命だったってことだ。まあ、そういうことなのだ。

今回の滞在でお世話になったガイドは3人で、なぜかみんなカムー族やその支族だった。

ガイドA
「私は村の小中学校ではかなり勉強ができる子供でした。だから高校に行くか、家族の畑仕事を始めるかで親も私も大きな決断を迫られました。結局、教師の強い勧めもあり高校に行きました。通学は早足で片道3時間の山道でした。

朝暗いうちに家を出て、帰りも村にたどり着くころには暗くなっていました。高校卒業後は都会の大学に行くことになりました。私の村はほとんど貨幣経済とは無縁の自給自足生活だったので、親たちは私の学費を稼ぐためにたくさんの水牛を売りました。これは私たちの村にとってはすごく大変なことなんです」

ガイドB
「大学を出てそのまま都会でエンジニアの仕事に就いて今の妻と出会い、子供も2人できましたが、生活はなかなか楽ではありませんでした。この国では特定の社会層の既得権益が幅を利かせていて、政治の腐敗も常態化しています。

何のコネもない私のような田舎者は、後から入ったロクに仕事もできないような社長の親戚の息子とかにあっさり追い抜かれ、組織の最底辺でずっと安くこき使われ続けるわけです。このままでは親たちに恩返しも出来ないし、子供たちの面倒も見きれない。だから外国人旅行者向けのガイドになったんです」

ガイドC
「子供たちや妻は街育ちだから退屈すぎるでしょうが、私自身は村の暮らしに戻りたい気持ちはあります。実際、コロナの鎖国で観光客がいない時期はずっと村の畑にいましたから。いつもセコセコとお金の心配ばかりをすることはやはり私の性には合わないんです。

……でも、私の村もこれまでの小さな暖かい世界のままではいられないということも分かっているんです。今まで政府の懐柔にも脅しにもほとんど動じなかったのに、スマホには完全にやられていますからね。村の人たちみんな夢中ですよ。こんな山なのにどこに行っても電波があること、もう気がついていますよね? 外国人旅行者はみなさん驚きますから」

ラオルー男性75歳
「タトゥーを彫られている間は痛みを紛らわすためにずっとオピウムを吸ってたもんだけどさ、今じゃあどっちもダメだって言うんだから、つまらん時代になったもんだよなぁ。一体全体、人間がこの世に生まれてくる意味とかあるのかい?」

税金払うためですよ。
もちろん。

大島托

大島托

1970年、福岡県出身。タトゥースタジオ「APOCARIPT」主宰。
黒一色の文様を刻むトライバル・タトゥーおよびブラックワークを専門とする。
世界各地に残る民族タトゥーを現地に赴いてリサーチし、現代的なタトゥーデザインに取り入れている。
2016年よりジャーナリストのケロッピー前田と共に縄文時代の文身を現代に創造的に復興するプロジェクト「縄文族(JOMON TRIBE)」を始動。