東南アジアの怪魚
35メートルほど向こうの水面に炭酸水の気泡のような細かい粒々が無数に上がっている。1000匹ぐらいのライギョの稚魚の群れだ。特殊な呼吸器官を持つため、ときおり水面へ顔を出してくる。
……ということは群れの周りにはそれを守護している親魚が2匹いるはず。ライギョのグループにはそういう習性がある。チャンス到来だ。
群れのちょっと向こう側にルアーを投げ、ど真ん中をグイグイと攻撃的に通す。ギョンッといった感じで竿が絞り込まれ、ジーッという音とともに激しい勢いでリールからラインが出ていく。
爆発的な泳力。水面からジャンプして暴れている。50〜60センチほどか。そのサイズでこんなにも強力な引き味のライギョには今まで出会ったことがない。
が、しかし、持久力はあまりない。ほんの30秒ほどで岸の草地に引きずり上げることができた。僕の心臓は異様に高鳴っている。虹色に輝く太い魚体。世界中の釣り人の憧れ、トーマン(現地名チャドー)だ。やや震える指でスマホカメラを構え、写真を撮りまくる。

「Pilot 111」はルアーやフライが好きな日本の釣り人にはよく知られた、バンコク近郊の管理釣り堀だ。トーマンのほかにも、日本のアカメの近縁種の巨大魚バラムンディ、20〜30kgに達するメコンオオナマズやチャオプラヤーナマズ、アマゾン川原産でラグビーボールみたいな形をした怪力のパクー、やはりアマゾンの有名なファイターで体色が美しいピーコックバス、などのいかにも外国人ツーリスト受けするような夢の魚釣りがここでは手軽に楽しめるのだ。
昔からその存在は知ってはいたのだが、実際に来たのは今回が初めてだ。若い頃は釣り堀なんてと小馬鹿にしていたような気がするのだが、歳を食うと物事の感じ方がいろいろ変わってくる。何かに対して無理して格好つけることもなくなってくるというか何というか。肩の力が抜けてくるというか。いや、そもそも力が落ちているというか。要するに魚は魚。そして僕はそもそも魚が大好きな人間なのだ。

しかし、まあ暑い。南国だから暑いのはいいとしても、日差しがとにかく暴力的なのだ。池の周りには日陰になるようなスポットがほとんどない。そして僕はただの半袖半ズボン。前腕や首の後ろがジリジリと音を立てるようだ。
他の釣り人はドライメッシュのアームカバー、タイツ、口元まで覆うフードなどを着用している。利口な選択だ。すごく羨ましい。僕は明らかに準備不足だった。そして釣り道具もここで貸し出しや販売しているものでは魚から完全に見切られているようなので、すでに僕なりの攻略法が当然ムクムクと頭をもたげてきてもいる。
ナメすぎた軽装はどこに出かけるにせよ僕の得意技みたいなものだ。仕方がない。いつも通り現場でどうにかする。とりあえず宿に帰ったらコンビニで日焼け止めを買って明日に備えよう。時間を作ってバンコクの釣具屋も回ってみたい。
次回の旅からはきっと飛行機の預け荷物枠も買って自分の道具を持ってこよう。ルアーは危険物扱いで、機内持ち込みがアウトらしいから。
南国の夜の一皿
場内の小さなレストランスペースで冷たいミネラルウォーターを飲んでいると、声をかけられた。先ほどトーマンを上げたのを見ていたらしく、ルアーの種類を教えてほしいという。ここは釣り堀とはいえ、そう簡単には釣れないことでも有名なのだ。僕自身、いつのまにか完全に本気になってきているのはそのせいもあるだろう。彼は韓国人だった。
僕は彼が隣の池でメコンオオナマズかチャオプラヤーナマズの大物をヒットさせ、30分以上格闘した末に逃し、ショックで地面に倒れ込むのを目撃している。そのズッコケ方からして日本人かと思っていたのだが違ったようだ。僕らはギャグセンスにしてもよく似ているらしい。
レストランに飛び交う会話からすると、中国人、タイ人、アメリカ人、フランス人など国際色が非常に豊かだ。今日は、日本人は僕ひとりのようだった。その昔に聞いた話では、ここに集まるのはほとんどが日本人のオジさん客ということだったから、今はずいぶんと様変わりしたのだと思われる。経済バランスみたいなことが要因なのだろうか。
そういえば来るときの飛行機にも、日本在住者ではなさそうなタイ人の普通の観光客がたくさん乗っていた。どこかホリデーの雰囲気があるから何となく分かる。僕はこれまでタイではずいぶんと遊んできたから、こうしてタイ人たちが記録的な円安下の日本の旅を楽しんでくれるのは素晴らしいことだと感じた。世界中の国々の物価感覚が同じぐらいになって、皆が旅を楽しめるならそれがベストだと思っている。
今タイで流行っているらしいGrabアプリで呼んだバイクタクシーで現場にほど近いホテルに帰り、辺りの通りをぶらついて見つけたカオマンガイの屋台でメシを食う。カオマンガイは直訳すると「茹で鶏飯」。鶏を茹でた汁でコメを炊き、その上に鶏を短冊切りにして並べてパクチーなどを添える。その鶏肉を小皿に注がれた、その店独自の辛タレに浸けて食べる東南アジアの定番料理だ。
なお、鶏の茹で汁に旨味調味料や塩を加えたスープも付いてくる。非常に合理的なコンビネーションで無駄が一切ない。それにいつでもどこでも絶対に旨い。隣の屋台から茹でた小さな赤貝を20個ほどとシンハビールも調達し、至福感に満ち溢れて脳髄が痺れる。
タイ料理バンザイ。

Pilot 111からほど近いパタヤーという歓楽街に暮らす友人のDual Flowの杉山孝博に連絡を取ってみた。彼は超絶細密技巧を誇る、現代シルバージュエリー世界に頂点の1人として君臨するアーティストなのだが、古い友人でもあり、僕のタトゥーもたくさん入っている。一緒に縄文時代のデザインを世の中に押し出していこうという同志でもあり、刺激的なライバルでもある。そういう人だ。普段、僕は彼をマッチョ君と呼んでいる。
マッチョ君はたまたまパタヤーにはおらず、北部のチェンマイで今週末から開かれるタトゥーコンベンションに物販ブースで参加するとのことだった。顔を出さないかと誘われた。ついこの前の夏にベルリンのクラブで一緒に遊んだfangophiliaのタロー君や全身真っ黒縄文族の亜鶴君もいるらしい。さらに、うちの忘年会常連メンバーのイチベー君も参加アーティストということだった。
国内線の飛行機でほんの1時間ぐらいの距離だ。釣りをちょっと中断して20数年ぶりのチェンマイというのも悪くないかもしれない。
ゴールデントライアングルの光と影
チェンマイの北にはミャンマー、タイ、ラオスの三国にまたがる国境未確定エリアがある。そこは黄金の三角地帯、ゴールデントライアングルと呼ばれている。かつて大々的にケシを栽培し、それを原料にヘロインを精製し、世界中に卸して金を稼ぎまくっていたゆえの「黄金」なのだ。
ヘロインはその精製プロセスの仕組み上、原理的に純度100%にはなり得ない。だが、ここで生産されるものは限りなく純粋に近いということで、99.9%――通称「スリーナイン」と呼ばれていた。アフガニスタンやタジキスタンといった中央アジア産のヘロインにはわずかに黄色味があるのが常なのだが、スリーナインはあくまでも純白そのものなのだ。昔、僕は酢酸のような匂いの立ち込める現場で、出来たてホヤホヤの純白スリーナインの、チョークみたいにカチカチのブロックを見たことがある。ここにはNetflixの大人気ドラマ「ブレイキング・バッド」のミスター・ホワイトのような凄腕の化学者がいたのだろう。
それが流通経路の一次業者、二次、三次と進む過程でどんどんカサ増しされ、欧米などの末端消費者に届く頃には純度10%前後のモノになる構図になっていた。ジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンといったヘロインのオーバードーズで死んだとされる有名人たちはだいたい、普段とは違う新規の良心的な売人のカサ増しなしのネタをたまたま手に入れて、「いつも通りの量」を注射して、「効き」過ぎて気絶したまま吐瀉物を気管に詰まらせて死んでしまったケースが多いという。当たり前だ。たとえば美味いメシだって腹一杯の10倍量を強制的に胃に詰め込まれたら死ぬだろう。
そのゴールデントライアングルには「王様」がいた。麻薬王クンサーだ。ミャンマー、中国、アメリカなどのそれぞれの思惑を手玉にとり自由自在に立ち回っていた彼は、1980〜90年代、とくにアメリカに敵視されていたということもあり、ピカレスクヒーローとして世界中から畏敬の眼差しを集めていた。
独立国としてのゴールデントライアングルを標榜し、山地民の自由と安全や教育機会の権利を主張していたのだ。アメリカのエロ雑誌(でもないか)『PLAYBOY』で特集されていたのを高校生の頃に読んだのを覚えている。そういえば若き日のトランプ現アメリカ合衆国大統領なんかも、その頃は風雲のギャンブラーとして特集されていたものだった。
クンサーは中国語表記では「昆沙」と書く。彼の父は第二次世界大戦後に起きた中国共産党との争いに敗北してタイ北部辺りに逃走した国民党軍の残党、いわば落武者であり、母はゴールデントライアングルの山地民、シャン族である。当時の僕の理解としては、世界にはとんでもなくアナーキーでスマートな自由人がいたものだなぁ、という印象だった。
でも、今になってゾミアという概念に照らしてみると、中華での政争に破れた勢力が東南アジアに移住するという流れは、4000年に及ぶゾミア移住者の歴史の中では非常によくあることなのだ。
住所不定の山中で平地国家の禁制品を生産するというサバイバルの手法も、典型的なパターンといっていい。つまり、僕はその当世最新版を目の当たりにしていたのだった。
クンサーは、アメリカから本格的に命を狙われることになった1990年代後半のタイミングでミャンマー政府と手打ちを行い投降した。その後は保護監察下に置かれることによってCIAのエージェントによる追撃を振り切った。
ちなみに今でもゴールデントライアングルは違法薬物の生産地として稼働し続けている。トップが誰とかの問題ではなかったということだ。
ヤマソー
チェンマイのご当地グルメとして、いま断然有名なのがカオソーイだ。油でカラッと揚げた小麦麺にレッドやイエローなどのココナッツ系タイカレーのスープを合わせたものだ。そこにレモン汁を絞ったりもする。
ここ10年ほどで都内のタイ料理店でもよく見かけるようになった。僕はタイカレーも揚げ麺もそれぞれ好きなので、その二つが合わさった料理は当然好きに決まっている。一度硬く揚げた麺をさらに茹でて柔らかくするという凝った趣向には、かつてこの地で栄えたラーンナー王朝の王侯貴族の贅沢を感じるではないか。
僕は家でもしばしば「いなば」のタイカレー缶詰めと長崎皿うどんの乾麺を合わせて食べている。ほぼカオソーイだ。その際に出番を失った皿うどん用の調味片栗粉は、後日八宝菜にしてご飯にかけて食べるのもまた楽しみのひとつなのだ。チェンマイの城壁内の中心部にはカオソーイの名店の数々が軒を連ねている。外国人旅行者たちが行列を作る店も珍しくない。
今回は喧騒を避けて城壁外のホテルに泊まった。すぐそばには早朝から開くマーケットがあり、その外郭を囲むようにさまざまな軽食の屋台が並んでいる。こういうところには必ずアレがある。いや、べつに大したものではない。僕が探しているのはタイならどこの通りにもあるような、ただの焼鳥屋だ。辺りに鶏や豚のタレ焼きの煙が漂っていたから匂いの元を犬のように辿っていく。
あった。さっそくハーブソーセージ2本と餅米一袋をもらって、その場で立ったままかじりつく。
……やはり山のやつは素朴にして偉大だった。あまりの懐かしさで、水戸黄門の徳川葵の紋所が描かれた印籠を見せつけられたような心境になる。このまま地面にハハーッと平伏してしまいたいぐらいだ。
タイ北部では肉と餅米を混ぜて軽く発酵させた、ネームという酸味のあるソーセージが有名だ。これをスライスし、キャベツや生姜などの生野菜と合わせて食べるネームスライは日本のタイ料理屋でどこにでもあるような定番メニューとなっている。
だが、これはネームとは別物のソーセージなのだ。こっちは東京のタイ料理屋では見かけない。なぜなら、おそらく作り手側の意識としては、これはタイ料理というよりも、本格的なドイツソーセージに近いものなのだろう。山間部で栽培される餅米のオカズであることにひたすら特化した結果として、図らずも別物の旨い何かになったということなのだろう。
このハーブソーセージはタイ北部やラオスといった東南アジアの山間部ではごく一般的なものだ。挽肉とハーブを混ぜ込んだもので、清涼感のある香りと食味がとてもいい。また使われるハーブの種類には地方や作り手ごとにさまざまなバリエーションがある。平地でも売られているが、山に来ると味が格段に上がるので、僕らはこれを「ヤマソー」と呼んでちょっと特別視しているのだ。
隣の売店で昔ながらの小瓶のレッドブルを買い、これも立ったまま一気に飲み干して準備完了だ。12バーツ。味がまろやかだ。日本のコンビニで売られている缶のやつは69バーツもする。「効き」の差がそれぐらいあるということなのだろうか。
5分後にそうなのだと確信した。
半ズボンタトゥーを追って
マッチョ君から教えてもらったコンベンションのInstagramの公式アカウントをチェックしていると、おやっ、と思うアーティストがいた。
この前ラオスでも遭遇した、あの半ズボン型のトライバルタトゥーを手掛ける人物が参加しているのだ。これはレアだ。さっそく投稿にタグ付けされている本人のアカウントに、メッセージを送った。
しかし、待てど暮らせど返信は来なかった。SNSには実質的に手を触れていないのだろう。だからこそ僕のようなマニアですらも今までその存在を認識していなかったのだ。マッチョ君たちの関係者として飲み食いし放題の前夜祭にも参加させてもらったが、そこにもやはり現れない。きっとタトゥーコンベンションのそうした慣習も知らないのだろう。
なおさらいいじゃないか、と思った。
有名カオソーイ店のように行列になってしまうと面倒だと思い、初日のオープンと同時に半ズボンのブースに押しかけた。
が、誰もいない。仕方がないから外の喫煙所にタバコを吸いに行ったら、はたしてそこにそれらしきグループがいた。半ズボンタトゥーが描かれたフルサイズの蝋人形を3体も持ち込んでいる。かなり不気味だ。
「あのー、DMで問い合わせた者なんですが」
やはり英語はあまり通じないか。そこは折り込み済みだ。その中の1人が檳榔(ビンロウ)セットの入ったザルを持っている。「ブアイ」だ!
「あのー、じつは僕それ大好物なんですけど、一個いただけませんか」
こっちはすぐに通じた。ラッダ、オッディーの師弟コンビとその半ズボンタトゥーが入った地元の客たちだった。

ラーンナータトゥー。
ラーンナーとは、かつてチェンマイを中心都市として栄えた王国と、その文化の名称である。ラーンナー朝は現在のタイ北部、ミャンマーのシャン州、中国雲南省のシーサンパンナ・タイ族自治州までに及ぶ地域を13〜18世紀にわたってその版図に収めていた。

そのラーンナーの男たちが20世紀初頭頃まで施していたタトゥーは、柄をみっちりと敷き詰め、半ズボン型に下半身を覆うものだった。仏教のダイレクトな影響下にあり、ヤントラ(仏教の聖図)やマントラ(お経)で構成され、主に上半身に施されるサクヤンとは区別され、これはサッカライとも呼ばれる。
デザインの構成モチーフとしてさまざまな生物が描かれていることからも、これは人類史のもっと古層に横たわるアニミズムに根差しているタトゥーだということが分かる。
ここチェンマイにおいては一般的にラーンナータトゥーと認識されているようだが、これと同様のタトゥーはかつてのラーンナー朝の支配地域に限らず、タイ全土、ミャンマー、ラオス、カンボジアなど東南アジア中に広く分布していて、各地でそれぞれ別の呼び名があり、またさらに、膝下、膝上、ショートパンツ、全身などの規格の違いにより名称も細かく分かれているようだ。今回はざっくり総括する意味で、ただ半ズボンタトゥーと呼ぶことにする。
僕やマニアな仲間たちの今までの目撃経験からのイメージでは、これは大まかな括りとしてのタイ族系の集団が、平地と山地の中間ほどの高地や山麓でやっていた習俗なのではないかと感じている。この高地や山麓は仏教とアニミズムが混ざり合っている地域でもあり、また餅米を栽培することで、ゾミアに展開する無数の少数民族たちよりも、もう少し大きな社会規模を志向する人たちであるともいえるだろう。

恋の魔法のために
さっそく右上腕の小さな空きスペースに彫ってもらう。サクヤンと違ってお経の詠唱はないが、先ほどの檳榔や、タバコの入ったザルにお金を置いて精霊に捧げる。彫り方はサクヤンの場合と同じように真鍮の彫り竿をピストン運動させて使うが、彫師が足の裏を使って施術面をストレッチするのが独特だ。あぐらと体育座りの中間ぐらいの姿勢で、ちょっと真似してみたらすぐに足指がつった。相応の訓練が必要なようだ。

デザインは猫だった。ラーンナーの半ズボンタトゥーのモチーフは猫の一択。それを四角や丸の枠で区分したブロックをいくつも彫って全体をびっしりと埋め尽くすスタイルである。いや、正確には猫のほかに虎やライオン柄もあるのだが、要するに猫科の動物なのだ。猫好きにはたまらニャイだろう。
前にラオスで見たラオルー族の半ズボンタトゥーは馬だった。やはりひたすら馬をリピートしていた。
ほかには孔雀、精霊、蛇、魚などのバージョンもあるらしい。これはそういう生物たちの持つ、人間では及びもつかないようなその能力に対する憧れに基づいている。それを己のものにしたいということなのだ。
だから伝統的なインクは煤と、虎、馬、孔雀、熊、牛、蛇、魚などの生物の胆汁を混ぜ合わせて作る。デザインのモチーフとなっている動物の体液を直接的に己の体内に取り込むことでそれらと同化しようという呪術でもあるのだ。
この発想のずっと延長線上に、たとえば現代医療の最先端領域である遺伝子治療があるわけだ。
サクヤンにも仏陀の遺灰を直接体内に取り込んで己も仏陀に同化するという儀礼的な原理があることが広く説明されている。本家のインドには存在しないこのような仏教タトゥーがタイで花開いた背景には、この地域に先行していた古来からのアニミズムの呪術タトゥーがあったからこそといえよう。
半ズボンタトゥーのブースではブラックマジックの護符が売られていた。馬と女のセックスの様子が描かれている。これはもともと男女の恋愛に関するマジックタトゥーのデザインであり、それを施術する時のインクに狙っている女の髪の毛を燃やした灰を混ぜることで呪力を発揮するとのことだった。間違えて馬の毛でやってしまったらどうなるのだろう。

僕のタトゥーはほんの30分程度で完成した。
ちなみに本式の半ズボンタトゥーは3日連続の3セッションで完成するという。左右の腿が1日ずつ、最後の1日が腰だという。凄まじいスピード感だ。それを10〜13歳の少年が喰らっていたという。さぞかしキツかったことだろう。男は若いほど痛みに敏感なのだ。
でも少年たちはこれを入れなければならなかった。動物のパワーがどうとかいう以前に、もっとずっと身近で切実な「恋の魔法」の問題として、これが入っていないと女の子にモテなかったからだ。いや、もちろん入っていても必ずモテるという保証はないのだが、入っていないのは論外だったのだ。
女の子たちは小さい頃から、しっかりしたタトゥーが入っていない男を相手にしてはいけないと親から教わっている。タトゥーを我慢できないような男は真面目に仕事をして家族を食わせていくことなんてできないのだから、と。肉体労働時に動きの邪魔にならないようにたくし上げた腰巻きから覗く半ズボンタトゥーは、男の精神力の証立てだったわけだ。
19世紀の終わりというのはタイの人たちにとって、近代都市社会の価値観の訪れとともに洋服を着はじめた時代だった。そのタイミングで半ズボンタトゥーは物理的に外から見えないようになり、そのことからやがて女たちによる品定めの基準からも外れていくことになり、さらにしばらくしてひっそりと滅んでいったということだ。誰かから禁じられたとかでもなく、モテパワーの切れ目が縁の切れ目だったのだという。身も蓋もない話だ。









