令和に入って少ししてから、相模湖のそばに住み始めた。

 家賃17000円。非常に不便な場所であったが、数年の間、伊東市の競輪場の裏山に住んでいたので、それを思えば大して不便さは感じなかった。 それにこの家賃の安さを鑑みると、自分も含めた人類が、今までに支払ってきた家賃やローン、それを支払うために費やした労働時間とそのエネルギーの総数量に想いを馳せずにはいられなかった。

  屋根裏を這うネズミ(たぶん)の足音も睡眠導入音のように心地よく感じられよく眠れた。 大家に会った時分に「何か問題はないか?」と聞かれ、「問題はないけど、屋根裏を鼠が元気に走り回っていますよ」と笑って応えると、青ざめた顔をして帰って行った。

 翌日、猫いらずを持ってきて「屋根裏に撒いてくれ」と言って帰った。 独特な匂いがするソレを眺めながら、「これがよく自殺に使う猫いらずか」と、懐かしいような気持ちで見つめた。 同時にこれを食べたねずみが苦しむ姿を思うと気の毒なような気がして、猫いらずをそのままゴミ箱へ入れた。 都会の鼠ならいざ知らず、こんな山奥の森に囲まれた場所にいる鼠なら大して汚くもないだろう。 森ネズミならきっと大丈夫さ。 この家は交通量の多い通りから若者でも息が上がるほど急な坂を登ったてっぺんに建っていて、周りには森があり、その先には大きな川が流れている。川までの高低差が数百メートルあり、大きな地滑りがあれば土砂もろとも川の底に埋もれて、いつか、保存状態のいい僕やご近所さん達や屋根裏を這い回る森ネズミを、未来人が掘り起こしてくれるかもしれない。

 相模湖のほとりの崖の上に、昔岡本太郎も展示をしたことがあるというホテルの廃墟があった。このホテルは火事で全焼してしまったらしい。といっても、僕が行ったときには、すでに上の建物はなくなっていて、建物の土台とその下に続く地下駐車場(地下といっても断崖絶壁に立っているので湖の水面より高い位置にある)、そしてそこのオーナーは駐車場二台分の価格を1角として主に芸術家に貸していた。そこに友人が住んでいて、たまに遊びに行った。窓等は全部取り外されていて酔っているとそこからそのまま落ちそうになる。階段の窓コンクリートは全部打ちっぱなしで、内装は何もなくて窓枠だけがあった。足元まである背の高い窓枠からギリギリに身を乗り出して、月明かりにうっすらと照らされた相模湖に向かって小便をする。湖から何か出てきそうで、この高さから水面に吸い込まれそうでぞっとする。今までに小便をした場所の中で、1番お気に入りの場所かもしれなかった。 

 ここは心霊スポットらしく、長期休暇などになると、よく若者がキャーキャー言いながら入ってくると友人が言っていた。

 「みんな俺を見てびっくりするんだ。」

 「ここはほんとに幽霊がいるの?」

  「俺にはわからないよ」

 そいつは、何も気にしてないみたいだった。僕もそこに何度か泊まったが、気持ちが悪いと思った事は1度もない。ただ相模湖の水面の幽玄さにぞっとするだけだ。

  22歳で体を壊して以来、初めは這いつくばるような気持ちで始めたジョギングも、今ではお手の物だ。相模湖近辺の高低差は、なかなか走り甲斐があった。 家を出て急な下り坂を駆け降りて、そこから主要道路に出て少し走ると相模湖が見える。そして相模嵐山という山の周りに通っている道を1周して家に帰ってくるのだ。大体10キロの道のりで、コースの途中には戦後日本最悪の大量殺人事件が発生した津久井やまゆり園がある。この時分もまだ門の外には花が供えられ校舎は工事中のようであった。僕はこの門の前を通るとき、手を合わさずにはいられなかった。

 よく知らない道を走りながら、気になる道や気になるものがあったときに、脇道にそれて行くのも好きだ。いつも何かに呼ばれているような気がする。

 結局行き止まりになってまた帰ってきたり、とんでもない遠回りになったり、そんなことばかりだけれども面白い発見もある。 

 川のほとりに、怪しい小路を見つけて入って行った。 

 小さな丘のいびつな形の石の階段を上っていくと小さな祠があった。 

 祠を守るように大きな屋根がついている。 

 そこには獣の毛などが散らばっていた。 

 ここはどうやら獣たちの宿のようだ。 

 なぜだかわからないけどその祠が好きだった。

 軒下に小さな竹ぼうきがあったので、周りを軽く掃いた。 すると、ヒカゲシビレダケのような見た目をしたキノコがあった。僕はかねてより精神病の治療のために、トレパネーション手術かマジックマッシュルームを試したいと思っていたので、このヒカゲシビレダケのように見えるキノコを食べようと思い持って帰った。冷蔵庫に入れたがもし全然関係ないただの毒キノコなら? キノコ取りの名人でもたまには間違えるらしいから確信が持てなかった。僕は勇気が出なかった。

  高い橋から緑色の川の水を見下ろしてここから落ちたら死ぬか否か想像してみたりした。

 ここに住んだのは他でもない仕事のためで、知り合いが経営する金属加工工場で働くためであった。 ジクロロメタンという有機溶剤で金属製品についた油を脱脂するのが主な仕事であった。この有機溶剤は、沸点が40度でこれを大きな水槽に入れて温める。そして揮発した蒸気にこの金属製品を暴露させ脱脂する作業なのだが、この水槽でこれをやるために、自ら製品の入った鉄のカゴを持って身を乗り出して、上半身を水槽の中に入れて脱脂しなければならない。ひんやりとした感触とともに、手の油が一瞬にして脱脂され白くカサカサになる。皮膚からも吸収するそうだ。 この仕事を始めて何ヶ月も経たないうちに、1.5と1.2あった視力が0.8と0.5まで落ちた。網膜が溶けたのであろう。この有機溶剤がトルエンか何かであれば、気持ちよく酔っ払っていたかもしれないが、あまり良いものではなかった。半年ぐらい働いた時にはもう毎日めまいと頭痛に襲われ、夜布団に入ってからも目が回り続けて眠ることができなくなった。そしてまた朝になって工場に行って、1日10時間10キロから20キロほどの鉄のカゴを片手で持ち上げ、有機溶剤の蒸気に浸すのであった。  

 坂の下にはほとんど水のない池があった。なんの変哲もない池で気にも留めなかった。ある日、暇潰しに散歩している時にその水のない池に、立て札がついていることに気がついた。何の気なしにその札を読んでみる。すると、

 「武田信玄は、永緑12年8月総勢2万の軍勢を率いて甲府を出発 信州佐久を経て碓氷峠を越え、長駆して関東諸城を攻略し、遂に北条氏康の居城小田原城を攻撃して目的を達した。 甲州への帰路、愛甲と津久井の境界である三増峠を越えんとした 時、武州滝山城主北条氏照率いる2万の軍勢の迎撃を受ける。しかし、山嶽戦を身上とする武田軍はこれを打ち破る。時に永緑12年10月8日であった。この三増合戦に勝利を得た武田軍の本隊は、三ヶ木から落合坂を下り沼本の渡しより、他の一隊は三ヶ木新宿からみずく坂(七曲坂)を下り道志川を渡り、この地に入った。この二筋の信玄道を、通ってきた武田軍は合流し、この地において戦勝の儀を執り行なった。

  「新編相模風土記」によると、武田信玄はこの地「反畑」にて討ち取った首級の首実験を行った。その数、実に3269であり、ここにて勝関を上げる。その討ち取った首を、この池で洗ったと言われるので「首洗池」と言い伝えられている。また、武田軍は反畑に おいて首実験を行った後浅間の森に埋葬して塚を築き、社を建てたといわれる。この社が浅間神社である」

 とある。

 そこに武田信玄が3269の首を洗い、首実検をした場所らしいが不思議と陰鬱なエネルギーが全くなかった。僕は少しだけ霊感がある。

 それに初めて気づいたのは10代の頃に姫路城に行った時だった。中を見て回っていて、ある広場に行くと吐き気がして内臓が気持ち悪くなった。腹を壊していたわけでもないのだが、急にはらわたを掻き回されているような激しい不快感を感じた。どうしたものかと思ったが、そこがどこか知って腑に落ちた。そこは姫路城の腹切り場だった場所らしい。腹を切った人々の最後の想念が今でも残っているんだと思った。 しかし、この首洗い池には、それがない。きっとそこで死んだ人々は、怨念などを残していないのだろう。「武士道とは死ぬことと見つけたり」を地で行く人々だったに違いない。 僕は多少霊感があっても霊をさほど気にはしない。いずれみんな死ぬし、なんなら、誰もが何度も死んでいて、我々全員幽霊のようなものだと思っているからだ。

 断崖絶壁の野山を無理矢理切り開いたところに1本の散歩道が通っている。林とも森ともしれない木々の中。緩やかな坂で舗装もされていない。昼間はたまに誰かとすれ違う程度に利用者がいたが、夜ともなると街灯もなく気味も悪いので、誰も近付かなかった。しかし家から一番近いコンビニまでの最短ルートなので深夜に酒が飲みたくなったら、毎回その道を通った。 その度に顔に無数の蜘蛛の巣のような物が引っかかり続ける。ソレをぬぐい続けてコンビニで酒を買い飲みながら帰る。またソレを払い続ける。 いい加減うんざりして「お前らいい加減にしろ!俺はお前らと違って暇じゃないんだ!俺にかまうな」、そう言い放つとその場限りはソレが纏わりつく事が無くなるのであった。しかし幽霊は記憶力が悪いのか、次回そこを通るとまた同じことで全身に蜘蛛の巣が引っかかり続けるのであった。 あるきあるきビールを飲みながら、街灯に薄く照らされている校舎を見てゾッとする。美しいと思う。思わず見惚れてぼんやりしている。

 今になって思えば、変わったことが多い土地であったような気もする。

 ワンロフトのこの狭い部屋に珍妙なるメンツで、1、2ヶ月ほど共同生活したこともあった。 20数年間の毒親からの束縛から逃れてきたR女史。某暴力団組織から逃れてきたB氏。僕の3人で暮らした期間があった。といっても、僕は万年山中にある小さな工場にて有機溶剤を浴びるのに忙しく、あまり家にはいなかった。

  都心に出かける際にはバスで相模湖駅まで行くが帰りはバスの終電が早い。都心で酒を飲んで、最終電車で相模湖駅につくとタクシーもいない。 改札を出ると一台のマイクロバスにこの時間帯に見た事もない人数の人々が乗り込むところであった。不思議に思った僕は、思わず話しかけた。

 「こんな夜遅くに何処へ行くんですか?」

 元サーファーみたいな風貌をしたドライバーが、爽やかな笑顔でこたえる。

  「廃墟ツアーですよ」

 「廃墟?あるんですか、今からですか?」

 「きれいですよ。ライトアップされていて」

 「俺も乗っていいですか?」

「完全予約制でして。ぜひまたお待ちしています」

 どこでどう予約するのかなどは何も教えてくれず、運転手は終始笑顔でそのまま運転席に乗り込み、薄暗い街灯に照らされた道を走り去った。

 僕はたった1人で置いてきぼりになったような気持ちになった。マイクロバスの後ろ姿を見送ってから、徒歩で一時間ほどかかる家路を僕は歩き始めた。

 たった1台の車のヘッドライトが深い霧を切り裂いて現れる。

 遠くにぼんやりと霞んでいくテールライトを見送った後、

 湖のほうに目をやって、

 湖面に湯気のように、立ち込める霧、

 深く暗い湖の水面の霧に上空から差し込む月光が虹を作っていた。

 その七色の霧を深く吸い込んで月光霧虹を目に焼き付けた。まま目を瞑ると僕の意識もこの幻想的な景色に溶け込んで雲散霧消、何処かへ消えてなくなってしまった。

「雲散霧消」

DyyPRIDE a.k.a. 檀廬影

DyyPRIDE a.k.a. 檀廬影

平成元年、横浜市生まれ。日本人とアフリカ人とのハーフ。12歳で精神病と自殺衝動を発症し、二十歳よりDyyPRIDE名義でラップを始める。2011年 音楽レーベルSUMMITから1st ソロアルバム「In The Dyyp Shadow」、グループSIMI LAB 1st アルバム 「Page 1 : ANATOMY OF INSANE」、2013年 2nd ソロアルバム「Ride So Dyyp」、2014年2nd グループアルバム「Page 2 : Mind Over Matter」をリリース。2017年 SIMI LABを脱退。
2019年4月 処女小説「僕という容れ物」を立東舎より出版。
2024年 3rd ソロアルバム「THIRD EYE」リリース。