僕の色メガネ

第二話  「一億二千三百万食の闇鍋」

DyyPRIDE a.k.a. 檀廬影

※編注:JICA(国際協力機構)が、人材交流や連携イベントの支援のため、アフリカ各国との交流が深い国内の自治体4市を「ホームタウン」に認定したことをきっかけに、SNSを中心に外国人や移民を排斥する声が炎上。JICA本部に1日200件を超える抗議の電話が寄せられるなどの大騒動に発展した。この騒動では、先の参院選に日本保守党から出馬した冨田格氏が、自身のYouTubeチャンネルで差別的・排外的な主張を展開し、注目を集めた。

 僕の思索に辟易して読者が離れることを危惧して、次は軽めの馬鹿話でもしようと思ったが、いったんやめにすることにした。

 急遽この原稿を書いている。アフリカホームタウン問題(※)と、それに付随する移民問題についてである。興味のある人は、一人のアフリカにルーツを持つ日本生まれ日本育ちの僕の話を面白半分の気持ちでも聞いてくれたら嬉しい。

 たまたまYouTubeのおすすめでアフリカホームタウン問題に関する動画を見つけ、開けてびっくり玉手箱、僕の心臓は一瞬で吹き飛ばされたような気がして、もはや何も感じなかった。近頃は毎日こういう記事を読んでは、街で厳しい視線を向けられることに1人で苦笑ばかりしている。

「黒人は性欲が強い」「日本は単一民族」「レイプ大国になる」そういった言説がネットで流れてまもなく、僕への視線の厳しさは増した。これは新型コロナ禍の時期に僕の顔を怪訝な顔で睨み付け、マスクをつけ直す人間がそこら中に増えた時と状況が似ている。

 この際はっきり言わせてもらうが、日本は差別大国だと僕は思う。

「それのどこが悪いんだ。日本人が日本人を愛して、日本の風土を愛して、文化や歴史を愛して何が悪いんだ」。

 悪いことなど何一つない。だが少子高齢化によって、あるいはそれ以外の様々な要因によって、国の人口や経済力が縮小している。今こそ外国人と共生しなければ日本の国力は落ち、最終的には結局自分の意思も通せないような形で、アメリカや中国の1つの州のようなものになってしまう可能性が高いと考えている。どの道を選ぶのも日本人の自由だ。ナショナリズムを再び台頭させること、素晴らしい事じゃないか。結構だと思う。僕は社会の外からそれを眺めているよ。

 僕の立場から言わせてもらえば、現代の日本人のナショナリズムは非常に中途半端である。誰に何と言われようが差別主義者だろうがなんだろうが良いではないか。自分たちの信念を貫けばよいではないか。

 日本人は単一民族であり、1つの意識を持った集合体だというのならば、それを貫き通せばいい。そのかわりどう転んでも、それを外的要因のせいにすべきではない。それが日本人の未来のために最も重要なことだ。 外国人を排除するならすればいい。日本文化圏に属する人間として、1つの日本民族という言葉を使うのなら理解できるが、単一民族であるという幻想をいい加減捨てる気はないのだろうか。 国の教育も間違っているとは思う。それを学校の授業で教えないのだから。 そうかといって、国の教育のせいだけにはできない。国民一人一人が、日本とは如何なる場所か、いかなる民族であるかということをよくよく考える必要がある。

 外国人に対して思うところがあるならば、全員入国禁止にしてもう一度鎖国すればよいではないか。

 それとは反対に、もしも熟考した上で移民政策を推進するのであれば、移民を単なる家畜としてではなく対等な人の子であることを認め、幸福に生きられる社会構造にしなければならない。

 そのような意図のない移民政策に未来があるわけがない。その時に1番の地獄を見るのは日本人であろう。

 僕は日本が好きだ。日本文化が好きだ。日本の歴史が好きだ。 僕を嫌いな人が大勢いたとしても、そんなことはどうでもよいではないか。僕が日本を好きな気持ちとは全く何の関係もないのだから。 どうぞ僕を煮るなり焼くなり好きにしてください。

 僕の生涯はアフリカンホーム計画の先駆的現象かもしれない。 そしてそれは失敗に終わった。僕が日本社会を批判するような発言をすれば、恐らく「自分のルーツがある国に帰れ」と思うだけならまだしも、口にする人間が多く現れる。しかし、どうやらこの肉体に半分流れているらしいガーナの血の事は何も知らず疎遠であるし、行き場はないがどこか根無し草でも受け入れてくれる国家を見つけて宙ぶらりんで生きていこうかと考える今日この頃である。

 日本人を単一文化国家だと言うのならばまだ理解はできる。しかし単一民族国家であるというのはあまりに暴論で、この理論を唱える人は一体全体どういう理屈なのかをちゃんと説明してほしい。少なくともそういうことを言うのならば「日本人」という者の成り立ち、それをほんの少しでいいので知ってから言っていただきたい。

 黒人と日本人の性欲は違うと言っている人間がいる。確かにその通りかもしれませんね。僕は今日もかわいい女の子をレイプしないで済むよう性欲を発散させるため、10キロのジョギングをしてきました。 

 黒人の性欲は日本人のそれとは違うと、日本保守党の冨田格氏が自身のYouTubeチャンネルで言っていたが、そのコメント欄を見て僕は驚愕した。

  我が大和民族に穢れた血が入ってしまう

  アフリカはダメ。日本が真っ黒になる。

  黄ばんだ黒うんこ大量発生怖すぎるwww

  黒人の子供がうじゃうじゃ生まれたらどうすんの?

  エボラ出血熱も流行るぞ

  クロンボは帰るべき

  ゴキブリの繁殖力

  赤ちゃん生まれて黒人だった瞬間に地獄

  ニグロなんて入れるな

  黒人無理、好きな人いるのかな。性病も怖い。

  体臭が危険

  日本が黒く染まるのは嫌だ。黒い赤ちゃんだらけの日本嫌だ。

  エイズ大国にもなると思う

  黒人、ハーフだらけの日本!嫌だーーー

  臭いクロンボ

  ゴキブリじゃんね

  黒い子供が、たくさん生まれてきます…

           悪夢、そんな日本みたくない

「日本人がうんこ色になる」「エイズが増える」「ゴキブリが増える」「ゴリラが増える」「黒い日本人の子供が増える、気持ち悪い」「クロンボを入れるな」などなど、枚挙に暇がない。

 言葉であれば何を言ってもいいとでも思っているのだろうか。この想像力の乏しさといったら、他人の心臓に刃物を突き刺しエイッとえぐり、その痛みを想像することができないサイコパスと同じではないか。

 これらのコメントは外国籍のアフリカ人のみを対象として向けられているものではないという事がわかるはずだ。これがもしも仮に100%外国人にしか向けられていない言葉だったとしても、僕のような人間とピュアなアフリカ人との区別を、一体どれほどの日本人が見分けられるというのだろうか。

 こういう言葉を見た人、聞いた人が、どのような気持ちになるか、たったそれだけの想像ができないような人間が、外国人と僕のような混血と容易に見分けがつくとは思えない。糸4本使って作った網ともよべないような粗末な網でフィルターにかけ、全部を一緒くたにしてしまう程度の判断力しか持ち合わせていないだろう。

 なるほど、僕が子供の頃に「ウンコマン!」と怒鳴られてぶん殴られていた頃の小学校と現在の日本社会は同じレベルのようだ。正直でよろしい。誠に正直でよろしい。どうか諸君にはこの正直さを最後まで貫いてほしい。

 臆せずに信念を貫いてくれたまえ。

「まぁせいぜいクロンボと結婚したブラパンのお母ちゃんを恨むんだな」と内心つぶやく人もあるかもしれないが、誠に残念な事に僕には恨む事のできる程に高尚で親密な父や母はいない。

 信じられない言葉が並んでいる。

 80年代にHIV患者に対する無知から激しい差別があったと思うが、その頃から日本は進化していないのではないか。あるいは経済力と共に退化してしまったのか。

 日本保守党の冨田格氏のことは今まで知らなかったんだけれども、彼は自分で「私はゲイだ」と言っていた。もし80年代にゲイであることをカミングアウトしていたら、「HIVを持っているんじゃないか」等と言われて差別されていただろう。しかし実際に差別の毒牙に攻撃され数十年もその熱病と後遺症を経験してないのでわからないのかもしれない。もしも自身もそういう経験をしていて、他のマイノリティーを差別する発言ができるんだとしたら冨田格氏の脳と心は差別の毒牙によって腐乱していて手遅れなのであろう。

 結局、どれほど自分が差別に遭っているマイノリティーでも、悲しい哉、特別に広く深い想像力を持つ優れた人以外は他人の痛みは理解できないらしい。

 自分が酷い扱いを受けた事も忘れて、他のマイノリティが傷つくような発言をしている事にも気が付けぬとは、人間の業の深さに溜息すらも裸足で逃げ出し姿が見えない。

 様々な物事といろいろなもの同士の結びつきを安易に混同して考えて、それだけでも思考が混濁しているというのに、それに付け加え自分の感情と事実の区別もつかない人間が世の中に溢れている。

 36年間日本社会に迎合しようと1000%の努力を続けてきたが、それもここまでのようだ。その絶望と悔しさに僕は大衆の面前でこの身に火をつけて抗議したいくらいだ。それが最も正当で最も合理的な生き方だと僕は考えた。だけど、ただ死ぬのもつまらないから、死ぬ前に一花咲かせてみようと思う。一旗あげてみようと思う。まあ見ていてくれ。

 僕は移民の2世と言えるのだろうが、これは僕には全く身に覚えのないことで、どこかの誰かが道端の土塊に種を落としていって、そこから何か褐色の人間の形をしたものが、むくむくと育って出てきたくらいのものだと思っている。

 日本人とは、日本の単一民族とはいかなるものか、これをまず自称単一日本人である皆様の方でよくよく検討していただきたい。

 僕も日本文化に属すという意味では日本人のはずだが、おかしなことに日本人として受け入れられているとは到底感じられない。恐らく法的には日本人でも単一民族信者達の望む日本人像ではないのであろう。

 日本人が見たい外人像、「こういう外国人なら日本にいてくれ」と大衆が思うような善良風の外国人。ポジショントークが得意で民意感情に則したような外国人のコメンテーターや文化人たち。こういった方々を見ていると僕の黒い肌には鳥肌が立つ。特に在日外国人やハーフの人間でも、そういう人間が見受けられる。少し頭の良い人間が画策して、自分に都合が良いポジション、甘い汁が降ってくる下で、大きな口を開けて間抜けな顔をして、一滴でも多く一生懸命舐めているようにしか見えない。大衆日本人が求める在日外国人、在日移民、在日ハーフ、そういう役を演じることは、現代の生存戦略の一環と言えよう。本人が気づいているかどうかは知らないが。しかしそれもマイノリティーとして、自分の社会的地位やお金などそういったことを充実安定させようと思ったら仕方のないことだ。本人も無意識的にやっているのかもしれない。だからこそ、僕のようにあえて忖度なしに物申す人間がいても良いではないか。「世の人は我を何とも言わば言え」。そこから先はご想像にお任せします。

 落ち目になってからエリート外国人に今更きてくれと言っても後の祭りだ(民意としては“優秀な人”に来てほしいでしょうからこう書きます)。

 80年代、90年代、まだ経済格差が大きかった東南アジア諸国などに対して我が物顔で買春ツアーを行っていた日本が、今は逆に体を売る身分に落ちてしまった。しかしそれも仕方のないことで、兵どもが夢の跡とはよく言ったと思う。

 しかし、日本人はこれから自らを鑑みて進化することによって、また新しい時代の独自の文化を持った優れた国家として再興できると僕は信じている。 それだけのポテンシャルはある。しかし、それは臭いところに蓋をする悪習を日本人総出で断ち切ったところから始まる。

 もしも移民を受け入れたくないのであれば、国を縮小させていけばよいではないか。僕は日本の民主制を尊重する。例えそれが僕の命や精神衛生に関わるモノであったとしても、それが一日本人である私の責任でもある。

 今は話が逸れてしまうので、深くは語らないが、民主主義と言うものに対する一般的なイメージというものは、社会主義や共産主義の失敗、第二次世界大戦のファシズムの失敗、そういったモノの対極として美化して捉えているように、僕には見える。つまり日本における民主主義というのは一般的に考えられているほど人道的ではないと言うことだ。特にマイノリティーにとっては。

 なぜならば、日本の民主主義の目標は平等ではなく、合理性であるから。独裁政権や社会主義や共産主義の方が平等を目指したわけで、実はその反対側にある日本的民主主義というのは、大げさに言ってしまえば、数の暴力というものを肯定する社会構造である。

 「数の暴力」、その中で数の少ない者たちは顧みられず淘汰されていくシステムだという印象を、この身を以って形成した。しかし、もしもそれが嫌ならば、駆け足で北緯38度線を飛び越えて北朝鮮にでも亡命するより他に仕方がない。

 日本のメディアは幼稚で、普段大したニュースがない時には、芸能人の不倫とか反社との繋がりとか、百万煎じの新製品の広告とかディズニーランドの新アトラクションなど、見ているこっちの頭の中にまでふわっとお花畑が咲きそうな話題ばかりなので見ないことにしている。

 我々のような人間の中にも真面目な人間や日本人らしい人間もいるなどという分かり切った一般論を言うつもりはない。ただ大衆多数派日本人の意見が支離滅裂であるが故の不満や軋轢を我々マイノリティーに向けるのは少し筋が違うのではないか。僕ほど腹が据わった男をリンチするのは構わない。しかし、弱い人だっている。うまい反論の言葉が見つけられない人だっている。そういう人々をいじめるのはあまりに卑劣ではないか。どうか頼むから、僕のような男だけにしておけよ。

 僕は死んでも芸術家だから、転んでもタダで起き上がる気はない。どんなにひどい事が起きても、僕は全部ネタだと思っている。どんなに悲しい事があっても、それを上から見ている僕の魂は笑っている。

  真我「また良いネタが見つかったなぁ」

  僕「でもみぞおちきちいな」

  真我「いいから、気楽にやんなよ!カウンターパンチはここからこうやって繰り出すんだぜ」

  僕「こうかい?」

  真我「ちげーよ、ほら、こうやってやんだよ!やってみな」

  シャドーボクシングならぬソウルボクシングである。

  僕は僕の魂の操り人形に過ぎない。操り人形をどれほど痛めつけたところで、サイコパスで狂気の人形使いはこの世の者ではないのだから、めちゃくちゃに踏み潰されるのは人形だけで、本来の真我は全く無傷だ。 僕はそれを上から高みの見物。「地上にはこんなドラマもあるのだなぁ」という程度の心持ちで見ているに過ぎない。

 団塊世代の絶望と怒り、世界一から転落して、その絶望感が移民に向けられるのも理解できる。僕が当事者だったら右翼的な思想になっていたと思う。しかし考えてみてほしい。今生まれてくる新生児の数パーセントは、外国人の血が入っている。いつ自分の孫や親族、また自分の孫の結婚相手になるかもわからない。そういう人間がいることを考えたときに、自分の身内を攻撃することになるという覚悟を持ってほしい。僕は嫌でも見世物小屋に放り込まれ、ずっと見世物として生きてきた。今だかつてこんなに金にならない見世物は他に見たことがない。1回見られる毎に100円が僕の口座に振り込まれるのならば、僕は今頃億万長者になっていただろう。そうではないから、始末が悪い。心が擦り切れるばかりで、僕は疲れた。その疲労困憊の燃えかすが炭火となって、いつまでもどれほど火が小さくなっても、この火は決して消えることはないだろう。

『黒人の性欲は日本人とは違う』まぁそれが事実であったとしても、そんな話を聞かされる若い女の子の身にもなってみたまえ。そんなことも想像できないような人間が人前で堂々とでかい顔をして話しているなど見ていて呆れる。自分がその娘の親だったらどう思うか? すべては、想像力の幅と深さに尽きる。それさえあったなら、今頃、僕もこんな文章を書かずに、鳥のさえずりでも聞きながら、国境も戦争もない世界で昼寝をしていたことだろう。

 世間には、物事を細分化して整理して考えることができない人間が多いようだ。例えば、外国人という言葉は世界79億人の日本人以外全員に向けられていて、日本人と見分けがつく人がいればつかない人もいる。これをはっきりさせなければならない。移民にしたってそうだ。移民移民と簡単に言うけれど、一体誰の話をしているのか。東大で教授をやっている外国人だって移民だぜ。 移民とは一体誰なのかちゃんと考えなければならない。

 広い意味で移民という言葉を使うのであれば、ダーウィンの進化論的に言えば、日本人も全員古くに移住してきた移民だと言わなければおかしいではないか。

 この土地でニホンザルか何かから進化して、日本人になった人以外は全員移民と言うことになる。

 じゃあそのニホンザルは一体どこから来たのか?(笑)

 これを極端な馬鹿話だと一蹴する前に1度ぐらい真剣に考えてみてもいいんじゃないのか?

 いつどの瞬間からニッポン列島に住んでいる人を純潔日本人と呼ぶのか。

 アフリカホーム問題をテレビで見た浅薄な人々が、僕に敵意を抱き、攻撃的な目を向けることを考えると滑稽で笑えてくる。僕の一生はピエロの茶番劇です。

 女子高生が街頭演説で「単一民族の日本をこんなふうにしないでくれ」「これからレイプ大国になる」「強姦されるのが怖い」と言っている動画を見た。彼らが僕を見たときにどう感じるだろうか?

「日本に人種差別は無い」という神話ファンタジー。

「日本には差別はない」と言っている人がよくいるのだが。どうしてもその神話を信じたいようで、僕からしたらどうしてそんなどうでもいいことにこだわっているのか全く理解ができない。

 日本は完璧な国だと思いたいのだろうが、それすらも、国力の低下等による切なさを紛らわしたいがための正真正銘の悪あがきではないか。
 差別が無いと言っている人達は、今までにそういうことを真剣に考えてみたこともない人たちで、自分がそういうものを受けるような境遇や場所にもいなかったわけで、それはまるで戦争を体験したことがない人が戦争は存在しないと言っているようなものだ。

 レオニード・ローゼンブリットとフランク・C・カイルによる実験によれば、人間はどうやら自分がよく知らない事を知っていると思い込んでしまう非常に厄介な脳の癖があるらしい。

 よく理解していない事を言わなければいいのにと思うが、自分が理解していないことを自分で自覚できないのだから始末が悪い「日本に差別はない。区別です」という人もある。一生言葉遊びをしていればよい。

「日本に差別が無いわけじゃないが、海外だったら殴られたりもっと暴力的な目に遭うから日本は良い方だ」と言う人もあるけれど、自分が当事者になってごらんなさい。精神をじわじわと生殺しにされるぐらいならば、相手の眉間に銀ピカに輝く冷たい銃口突きつけて「この害虫野郎が」と言いながら引き金を引く方がどれほど人道的かわからない(笑)。僕がもしも銃口を向けられた人間だったなら、両手を合わせて相手の魂の幸福の為に祈るだろう。

 僕がもしも俗にいう純潔の日本人であったならば、僕はきっとナショナリストになっていたと思う。僕の風貌や境遇を以ってしても日本文化への愛は拭えないのだから……ナショナリストにならない理由を探す方が難しいだろう。だから僕はナショナリストを責める気持ちは一切ない。愛国心があればこそナショナリストになるのも差別主義者になるのも(もしも、この言い方が、気に入らなければ、区別主義者と言ってもいいが)愛情表現の一つだと僕は思う。しかし注意しなければならないのは本当のナショナリストとは何なのか? 本当の愛国心とは何なのか? ということを熟考し、自分なりに1本筋を通した答えをしっかりと持っていることが重要だ。

 抽象絵画はパウル・クレーの絵だけで十分です。

 そうでなければ、ありとあらゆることを細分化せずごちゃごちゃに考えて、その鍋の中に自分の心まで放り込んで、どれが誰の心なのか、どれが誰の考えなのか、何が何なのかわからないまま謎の闇鍋を日本人全員で食べてしまうことになる。

 そうなってしまっては、それは真のナショナリズムとも、愛国心とも呼べるはずがないではないか。そうなってしまえば、今までの失敗やうまくいかなかったことなど、すべて移民のせいにしかねない。もしかしたら、日本国家の裏で糸を引いている、大変聡明なる人物が、最初からここまで計算してやっているのかもしれないが(笑)。

 とにもかくにも、まずは東京ドーム一杯分程の大きさの鍋で煮出して作る闇鍋によって、一億二千三百万人総出で食中毒を起こす事だけは避けようではないか。

                   「闇鍋」

DyyPRIDE a.k.a. 檀廬影

DyyPRIDE a.k.a. 檀廬影

平成元年、横浜市生まれ。日本人とアフリカ人とのハーフ。12歳で精神病と自殺衝動を発症し、二十歳よりDyyPRIDE名義でラップを始める。2011年 音楽レーベルSUMMITから1st ソロアルバム「In The Dyyp Shadow」、グループSIMI LAB 1st アルバム 「Page 1 : ANATOMY OF INSANE」、2013年 2nd ソロアルバム「Ride So Dyyp」、2014年2nd グループアルバム「Page 2 : Mind Over Matter」をリリース。2017年 SIMI LABを脱退。
2019年4月 処女小説「僕という容れ物」を立東舎より出版。
2024年 3rd ソロアルバム「THIRD EYE」リリース。