今から4年ほど前、夕方キッチンで洗い物をしているとスマホに1件のメールが届いた。
仕事用のアドレス宛だったので何かと思い、洗い物を中断して一度手を拭きメールを確認すると、そこには出版社から「絵本の制作依頼」というタイトルで、谷川俊太郎さんの詩をもとに僕に絵を描いてもらえないか、という内容が記載されていた。
洗い物をしていたこともあってメールを一読してもあまり内容が頭に入ってこず、何度か読み返し、その上でようやく自分が谷川俊太郎さんの詩に絵をつける仕事なんだと理解した。当時、絵本という分野がほぼ未経験だった自分。谷川さんと絵本が作れる嬉しさと、漠然とした不安が入り混じるような感覚だったが、迷うことなくすぐに出版社へ「絵、是非描かせてください」とメールを返した。
ほどなくして出版社から連絡があり、まずは編集者との打ち合わせ。その後、徐々に絵本構想のやり取りが始まった。
絵本の構成ラフや叩き台となる絵のスケッチ、ストーリー展開についてなど、色々なアイデアを考えながら編集者と作業を進めていく中で、ある日
「そろそろ谷川さんと直接会って打ち合わせしましょう」
と、編集者が僕に打ち合わせを打診してくれた。
「そうですね。是非一度お会いしたいです」
と僕も言葉を返し、後日いつも着る服よりも少しだけ綺麗めなシャツを着て、電車に揺られ谷川さんの事務所の最寄駅へ向かった。まずは駅で編集者と待ち合わせることになっていたのだが、谷川さんとの打ち合わせに遅刻など絶対にあってはならないと思っていた自分は、編集者との待ち合わせ時刻よりも15分ほど早く駅についてしまった。しかし改札口を抜け、待ち合わせ場所に行くと編集者も全く同じ考えだったようで、僕よりも早く待ち合わせ場所に到着していた。二人揃ってずいぶん早く駅に到着してしまった状況に、ハハハとお互い緊張をほぐすかのように笑いつつ、一緒に谷川さんの事務所へ歩いていく。
到着した事務所でインターホンを押すと玄関でスタッフの人が出迎えてくれた。
靴を脱いで恐縮しながら用意してもらったスリッパを履き、廊下を渡り奥の部屋に通されると、そこには既に谷川さんがソファに座っているのが見えた。
当たり前だけど教科書や写真で見ていた「谷川俊太郎」そのままがそこに座っている。
「こんにちは」
谷川さんが僕らに声をかける。
編集者と僕も谷川さんに挨拶をして名刺を渡した後、どことなく懐かしい感じのする静かな部屋の中で、谷川さんとの打ち合わせが始まった。
絵本のことに始まり、詩のこと、絵のこと、詩人という職業、仕事についてなど。
編集者が隣に座ってはいるものの、僕は心の中でおそらく人生で谷川さんとサシで話せる機会なんて、もうそうないだろうと思っていたので、絵本のことに限らず「谷川俊太郎」という人物を知るために、そして表現を生業とする偉大な先輩を前にして、自分のために色々なことを質問した。
その内容は打ち合わせというより、僕から谷川さんへのインタビューに近かったかもしれない。
僕の多くの質問にも谷川さんは優しい口調で丁寧に答えてくれた。
そうした会話と打ち合わせの中で、
「詩は説明しちゃだめなんです、説明の絵にしないでほしい」
谷川さんから絵本を作る際のオーダーはこの「詩を説明しない」という1点のみだった。
僕は「わかりました」とその場では答えたものの、内心では「ああ、大きな宿題が来たな……」と思った。
その後、制作スケジュールなどを編集者を交えて話し合い、谷川さんとの1時間ほどの打ち合わせが終了。
谷川さんにお礼の挨拶をし、スタッフの人に導かれ玄関に向かうと、次の打ち合わせに来ていた別の出版社の人たちが既に廊下で待機していた。
僕との絵本の他に同時進行で3冊の絵本企画が進んでいるらしい。
「90歳を超えているのにすごい仕事ぶりだな……」
ただただ谷川さんのパワフルさに驚きつつ、無事に打ち合わせを終えた僕と編集者は大通りに出たところで、ふぅと息を吐き「お疲れ様でした」と、互いに谷川さんと共有した時間を噛み締めながら、待ち合わせた駅で解散した。
自宅に帰った後、谷川さんから大きな宿題をもらってしまった僕は、絵本になる詩をプリントアウトして、自分のデスク前の壁に貼りつけた。
テキストで見るとわずか数行しかない、短く淡々と綴られた谷川さんの詩。
それから毎日、毎日、何度も読んでスルメをしがむように、詩に込められた意図や思いを探ってみる。
朝に詩を読む。
トイレから戻ってふと詩を読む。
昼食後にウトウトしながら詩を読む。
風呂上がりに真っ裸で詩を読む。
夜、子供をあやしながら詩を読む。
寝る前に歯磨きをしながら詩を読む。
自分の生活の中に常に谷川さんの詩を置きながら、悩ましくも少しずつ絵のアイデアを出していった。
「いや~困ったな……」
多分、詩を読みながら一番発した言葉だ。
そして紆余曲折を経ながらも、なんとか完成したのが主婦の友社から2021年に発売された『うそ』という絵本。
谷川さんと初めて会って打ち合わせをした時から、約1年くらいの時間が経っていた。
絵本が完成した後、当然ながら谷川さんにも編集者を通して絵本が渡されたが、僕は最初の打ち合わせをして以降、谷川さんとは会っていないし絵本の感想も聞いていない。
ただ谷川さんと一緒に作品を作ったという事実だけが、絵本という形でそこに出現し、残ったという感じだった。
それで十分だ。
あの時の打ち合わせを忘れないように、大切に心にしまっておこうと思う。
