参考にならなかった天才
日本語では「家を守る」と書いてヤモリと読む。霊力を纏った小さな神とされている。東南アジアや南太平洋でも同様の存在として理解されていて、各地の伝統的なタトゥーデザインにもなっている。
部屋の壁に張り付いていた胡麻塩がかった灰色のヤモリは、なかなかのデカさだった。大人のサンダルぐらいはある。僕が近くを通ってもほとんど動じなかったのだが、いざ捕まえようという気配を発した瞬間、素早くタンスの裏に隠れた。
間髪入れずタンスをどけるのとほぼ同時にジャブのように伸ばした僕の手を、そいつは逆にこっちがびっくりするほどの大跳躍でかわした。そして窓から外に飛び出て、中庭の鬱蒼と生い茂る熱帯植物の中に消えていった。
ここは常宿にしていたので、その後もそいつにはしょっちゅう遭遇していて、そのたびに機をうかがっては挑んでいたのだが、直接触れたのはたったの一度だけ。そいつが僕の頭を踏み台にして後方に跳んだときだけだった。まるでジャッキー・チェンの初期の名作のモンキーシリーズに登場する、あの鼻の赤い師匠みたいな老獪さだった。
バリ島には1990年代にしょっちゅう出掛けていた。インドから半年に一度出て、タイのバンコクでインドビザを更新する。そのついでに、ちょこっと1〜3カ月ぐらいその辺をぶらぶらするのが恒例になっていて、インドネシアのバリ島は気安い行き先のひとつだったのだ。
バリ島は当時から世界中からバカンス観光客が集まる大人気リゾート地だったわけだが、メインのビーチがあるクタ周辺や、森の避暑地ウブドといったガチガチの新婚カップルのハネムーンコースを外せば、生活物価はインドよりもさらに安いぐらいだった。そのうえ、発展途上国にしては何でもそろっている便利さがあった。サーフィンや釣りも本場だし、それらをやる者たちにとってはまさに楽園そのものだ。
じつはその頃のヒッピー旅行者界隈では、旅をしながら売りさばく物品の一大生産拠点になっていた。どこかで何かを安く大量に買い付けて、それを別のどこかで個別に高く売る。それはもちろん旅の商人の定番なのだが、そのちょっとした延長線上には独自のブランド商品を作り、付加価値を被せてもっと高く売る、というのもある。
そういう段階ではこれまでとは桁が違う資本金や組織が必要になるのが通常の仕組みだと思うのだが、それが桁違いの安さで、しかも個人旅行者の身分のままで実現してしまうのがバリ島だったのだ。
ジュエリー、ファッション、アパレルグッズ、食器、家具、書籍類……仲間内を見渡すだけでも、じつにいろいろなモノを作っている人たちがいた。日本人でいえば文化服装学院など大都市の服飾系専門学校を出た者が多かった印象だ。自分のブランドを持つというのは、彼らにとっては見果てぬ夢でもあったのだと思う。
まあ、そんな土地柄なので、あくまでもヒッピーの物差しの範疇ではあるが、バリ島拠点組は庭にプールがあったり、お手伝いさんを雇っていたりと、ちょっとバブリーなイメージだった。その人たちを相手に僕も濡れ手にアワの素敵なビジネスができたなら最高だったのだが、世の中そんなに上手くいくわけもなくて、そこらへんのコミュニティにはすでにバーニー・ルーザーという人が広く根を下ろしていた。
1980〜1990年代を代表する世界最高峰のオーストリア人彫師だ。マジックマッシュルームのトリップみたいなカラフルでファンタジックな妖精とかの世界観を超絶描写力で表現するスタイルだった。スミニャックの66ストリートにある彼のオーナースタジオ「Demon Art」にショップスタッフ彫師マデの客として出入りしていると、たまたま様子を見に来た彼がとても気さくに声をかけてくれて、今度誰それの屋敷で出張セッションするからアシスタントをやらないか、ということまで言ってくれたのだ。
まさに願ったり叶ったりだったが、実際に目の当たりにした彼の仕事はユニークすぎて、まったく何の参考にもならなかったことをよく覚えている。「まいったね、こりゃ」と思っただけだ。あの頃、勉強のためにとバーニーに彫ってもらった彫師は仲間内にも何人かいたけれど、皆が同じ意見だった。
発情する島
バリはイスラム教が趨勢のインドネシアにおけるたったひとつのヒンズー教の島なのだが、そのヒンズー教はインドとはだいぶまた趣が異なる。インドを哲学的とするならバリは呪術的なのだ。僕が呪術的だなと感じるのは、ジェラシーに満ちたような熱く湿った空気感のことだ。
僕個人の感覚や仲間たちの行動の変化を観察した限りでいえば、まずバリ島に来ると人はいきなりサカリが来る。サカリとは発情期であり、性欲や恋愛感情の発露のことである。恋愛関連は占いで人が気にするトピックでも最大級のものと見受けるし、呪術と相性が抜群の事柄であるのは間違いない。
数日前までインドでは脇目も振らずにスピーカーの前に張り付いて踊り狂っていたのに、バリに来たらすぐにクタのディスコ「サリクラブ」でビール片手に踊るふりをしながらナンパに行くことになる。(ちなみにこのサリクラブは退廃の象徴として2002年にイスラム過激派の爆弾テロで爆破され、202人が死亡した)
ここでは、男も女も相手がいないと何だかマズいような切迫した感覚に取り憑かれたようになる。まずローカルの男たちからしてそうなのだ。インドで外国人の女性旅行者を本気でナンパしにかかるローカル男はほとんど見かけないが、バリのローカル男はヒンズー教徒でもイスラム教徒でも真剣に旅行者をナンパしているし、実際に非常に魅力的なのだ。とくに一連の話芸が素晴らしいし、英語に限らず相手の言語でやってみせるという驚異的な器用さまである。
ここをビジネスの場にしている長期滞在者たちもまた、呪術の結界の内側に囚われていた。誰と誰が付き合った、浮気した、別れたといった色恋沙汰もそうなのだが、何よりもビジネスそのものの在り方がきわめて呪術的だった。
世間話をしていると、誰それに自分のやり方をパクられた、という中傷めいた話題がやたらと多かった。だから自分の手の内は過剰なほどに隠すし、他方で周りの動向はさまざまな手を使ってどうにか探ろうとしている。彼らが発注しているローカルの職人や工場もまた、そういうノリなのだ。要はみんなが疑心暗鬼に陥っている状態だった。そんなことに構っていないで、どんどん新作を出せばいいのに、と思ったりもしたが──これはもう、まさに呪術の温床だ。
でも、その彼らにインドやヨーロッパ、日本で会うと、実際のところは「のほほん」としたオープンでいい奴ばかりだ。やはりあそこには、バリ島特有の何か訳が分からない、特殊な地磁気のようなもの、あるいは風水みたいなマジカルな要素が存在しているような気がしてならない。誰かに一度、真面目に研究してみて欲しい。
ちなみに僕は放浪時代の後半で性や恋愛に関してポンコツになった経緯があり、そういう面でのバリの良いところが感じられなくなって、だんだんと足が遠のいていった。サリクラブの爆破事件に僕が巻き込まれなかったのはじつはそういう理由なのだ。
ところで、本当にユニークなモノはバーニーの仕事がそうであるように、他人がパクることなんてできない。すべてのパーツがそれぞれメチャクチャなのに最終的に何故か完璧に至ってしまうような所業のことだ。
だから凡人に模倣できる程度のことは、べつにそれほどユニークではない。あらかじめ普遍性を持っているともいえる。でも、いつの頃からか、それまでの他人と違うことをやった人がエラいみたいな風潮がでてきて、さらにそれを真似したらアカンみたいなノリまで流布されはじめた。挙げ句の果てには、作り手本人まですっかりその気になって真似っ子をクソミソに口撃する……なんてことが起こりはじめて久しいように感じる。
まるで審判員にオーバーにアピールするスポーツ選手だ。脚だけ使ってボールを蹴るとか、ワタ袋をはめた手だけで殴り合いするとか、ドーピング禁止とか、の。あまりリアリティが感じられない。我々が今生きているのは仮想現実だとでも言いたいのか……まあ、まさかホントの本気で言ってるわけではないとは思うのだが。
トライバルタトゥーの系統樹
僕はいろいろ模倣してきた。インターネットでヴィジュアルを確認しやすいように、今回はInstagramの現時点でのアカウント情報を併記しながら僕の作風の周辺部を解説したい。
まず現代タトゥーの中でそもそも「トライバルタトゥー」というものを打ち出したのはレオ・ズルエタというフィリピン系アメリカ人の彫師だ。僕よりだいたい20歳上だと思う。僕はキャリアの最初からレオの作風であるクレイジートライバルやボルネオアレンジをコピーしまくった。みんながそうだった。それこそクレイジーなぐらい世界中で大流行していたのだ。
そこからさまざまなデザインアレンジの方向が巨大な系統樹のように枝分かれし、伸びていく。たとえば僕と同世代で、東京を経て現在サンパウロを拠点にするジュン・マツイはなかでもトライバルタトゥー的な描線で動物などの具象を表現するような方向で、1990年代の日本で大きなブームを巻き起こした。彼が東京を出たのと僕が入ってきたのはおそらく同じぐらいのタイミングだったので、当時は彼のお客さんたちを引き継ぐような形でジュンスタイルをいくつも真似て彫った思い出がある。
また、『一滴の黒』でひとつずつ紹介した、僕が得意としているポリネシアン各種やハイダ、ベルベルなどの長い歴史を持つような真性の伝統的なトライバルタトゥーの現代リバイバルジャンルであろうとも、じつはレオの作り出したムーブメントの影響を抜きに現在を語ることなどできはしない。それによって、トライバルタトゥーは「復興するに値するクールなもの」へと格上げされたというのが事実だからだ。それぐらいに根本的なポジションにあたるアーティストなのだ。
我らがハンキーパンキー親分ことヘンク・シフマッヒャーは、やはり僕の20歳ほど上の世代にあたる人物で、世界中のトライバルタトゥーにフォーカスし、実際に現地を周って取材を重ね、よりエスニックなトライバルタトゥーの領域をリードしてきた存在だ。
彼のアムステルダムのスタジオからは、イェルーン・フランケンをはじめとするトライバル系オールラウンダーの数々の見事な枝が展開し、僕もその集団に追いつこうと先輩たちの作ったトレンドをせっせと吸収してきたのだ。
また、レオやヘンクとはちょっと別の意味で、思想的に僕のルーツにあたるのがアレックス・ビニーだ。彼はネオトライバルという、「皮膚というよりも、より身体の形に合わせて彫る」という基軸を提唱するとともにロンドンで「Into You」という伝説的なタトゥースタジオを1993年からオーガナイズする。
ここからさらに、さまざまな方向へと才能たちの枝が広がっていくことになる。あまりに膨大になるので今回ここでは個別には触れないが、ドット、アブストラクト、ミニマルヘビーブラックなどなど。ここからの広がりはだいたい「ブラックワーク」と総称されることになる。とくに部族由来だけに限らないような自由な白黒幾何学デザインの世界が展開したからだ。
僕サイドの流れに限っていえば、「MAXで全身に彫るとしたらどのようなデザインバランスが適しているのか」という、アレックスが言い出しっぺのまま途中で放棄し、リタイアしたボディコンシャスのテーマがある。
それをしぶとく地道に実際に人体の上で形にしていったのが、Into You生え抜きで現在は埼玉の熊谷市で活動しているトーマス・トーマス、ベルリンのゲッハート・ヴィーエスベック。そしてタヒチでブチギレてやる気を出した僕だった。
この3人は年齢もキャリアも同世代。コンピューターグラフィック幾何学パターンのトーマス、オーナメンタルパターンのゲッハート、部族パターンの僕と、一見するとだいぶ違うようだが、通底するコンセプトが同じなのだ。自分の直接のジャンルであるトライバル系オールラウンダーのほかのアーティストたちよりも、強い親近感を感じている。我々はSNSに登場した当時はアタマが完全にイッちまってる奴らなどといわれていたが、今ではわりと普通に見えていることだろう。我々の先にもどんどん枝は伸び続けているからだ。
ジュンの枝先にはハヌマントラ。
トーマスから派生した流れにはルイス。
ゲッハートの影響下にあるアーティストは本当にたくさんいるのだが、たとえばディアマンテ。僕の系統ならハイバースリーやスワスティクなどだろうか。
画像をざっと比較することで、それぞれがどのように関連しているのかが具体的にお分かりいただけるのではないだろうか。
僕は今、ケロッピー前田とともに縄文タトゥーのシリーズをタトゥーファン以外の層にも届くように意識的に発信している。たとえばギャラリーの展示や、テレビで僕を見かけただけのタトゥーに全く詳しくない人からは、街でもよく見る和彫りやアメリカントラディショナルなどとの非常にザックリとした印象の比較の上で、僕の作品が異様に突飛なモノと理解されている雰囲気を感じることが多い。だが、実際のところそんなことはなく、僕の作品もそれなりのジャンルの中にあり、今挙げたような模倣とアレンジの大きな木に実ったマンゴーのひとつに過ぎない。それがリアルだ。
つまり、模倣によってでき上がった僕自身が誰かに模倣されて不満を感じるなんてことはない。シェアしてもらったらありがたいくらいだ。それに作品は完成した瞬間からもう僕の手を離れて過去になる感覚もある。
走っている最中に後ろを振り返ると、転倒して鼻骨や前歯を折ることになるのはインドの山でも目撃した。
最強のオカズとは
いやいや、僕が本当に書きたかったことはそんなことではない。またずいぶんと話が脱線してしまった。さっさと今回の本題である、バリ島名物「ナシチャンプル」の話をしよう。
ナシはご飯、チャンプルはミックス。つまり、ひとつの皿にご飯とさまざまなオカズを盛り合わせるスタイルの食事を指すインドネシア語だ。呼び名は違えど、東南アジア全体にこうしたスタイルの食事文化は広がっている。
これがインドのターリーやネパールのダルバートになると、大皿の上にカレーやヨーグルトなどの汁物のお椀が別個に載せられるので、またちょっとニュアンスが違う気がする。とにかくオカズごとに皿は分けないのだ。
……いや、ナシチャンプルにも汁物小鉢がついている場合もあるか。でも何かが根本的に違うような気がするんだよな。……南アジア料理と東南アジア料理の違いということなのか。まあそこはいいか。
ナシチャンプルにはあらかじめ店のおまかせで複数のオカズがセットになっている場合と、店のショーウィンドウに並ぶいくつものオカズの中から自分で指差して選ぶ場合とがある。おまかせセットの場合はいろいろなオカズがそれぞれちょびっと載っていて、彩り豊かな見た目になっている。これは、ちょっと洒落た小さめの店に多いような気がする。
ローカル向けの定食屋は指差しタイプが主流で、20種類ほど並ぶなかから肉か魚の料理を一品と野菜料理を一、二品選ぶ。あるいは、肉と野菜が合わさった料理を一品だけ選ぶ人も多い印象だ。それに必ずサンバルを合わせる。家庭内では、ご飯の上にサンバルだけを乗せて食べるのも一般的だ。
サンバルとは、トウガラシとニンニク、タマネギ、ラッキョウ、トマト、油、トラシ(発酵エビ粉)などを一緒くたに石のすり鉢でゴリゴリとすり潰したペーストに、ライム汁を絞ったものだ。この地で一番ベーシックな辛味調味料であるとともに、ご飯がいくらでも食える最強のオカズそのものでもある。僕はこれが大好物なので、自分でもたまに作る。
自分で料理するときは作り置きができるように軽く炒めているが、本当は生のパンチのある味の方がさらに好きだ。このサンバルが出てくるかどうかがインドネシア料理やマレーシア料理と、その他の東南アジア料理との決定的な違いなのではないかとも思える。
そして、ご飯にサンバルを載せて食べてみれば歴然とする事実なのだが、これは手で食べることがさらに重要なのだ。その頃、僕は普段からインドのターリーを手で食べていたので、バリ島でも基本的にそうしていた。あるとき、たまたまフィンガーボウルも手洗い場も見当たらないツーリスティックなレストランでナシチャンプルをスプーンとフォークで食べてみて、中途半端な味わいに驚いたことがあった。とくにサンバルと米の組み合わせが決定的にひどい。
固形物はフォークや箸でもまあいい。汁物もスプーンでどうにかなるが、サンバルは粗いペーストであり、これをご飯に完璧に混ぜ合わせるのは指先を使わないと無理なのだ。混ぜ合わせ、さらに練り潰すような動作を経て、はじめて本来の狙いどころの味に到達するように最初から計算されて提供されている。それが「チャンプル」の本義なのである。
最近はいつどこの話でもこればっかり言っているような気もするのだが、それでもやはり「とにかく、混ぜて、混ぜて、練り上げるのじゃ!」と広島弁で言わざるを得ないのが、老人の習性なのだ。
指先は人体のさまざまなパーツのなかでもとくに精緻な感覚器官で、食べ物に触れた瞬間から「咀嚼」がはじまっている。試しに箸でおにぎりを、あるいはナイフとフォークでフライドチキンを食べてみたら、きっと失われた「味覚」の大きさに気づくはずだ。
ナシチャンプルのオカズの種類には、べつにこれといった決まりがあるわけではない。ヒンズー教やイスラム教といった宗教のタブー食材を除けば、あとは何でもありだ。その時々で実際に客によく売れているオカズが残り、売れないオカズは消えていく。どこかで大ヒットしているオカズがあれば、すぐに他店も取り入れる。そういうオールスターみたいな布陣だから、何をテキトーに食べてもまずハズレがない。
インドネシアは無数の島々がきわめて広域に散らばる巨大な国なので、郷土料理のバリエーションも豊富だ。有名どころでも5系統の食文化があるといわれている。
僕は無作為に選んだオカズのなかでもとくに感銘を受けたものに関しては、店員とちょっと話をする。そのなかでよく聞くワードに「パダン」や「バタック」というのがあった。どうやらそれが僕のツボらしい。パダンは都市の名前、バタックは民族名だ。どちらもスマトラ島のようだった。
湖で出会った旅人
そこからじつに10年あまりも経った2000年代後半の、あるとても腹の減った日、パダンやバタックのことをふと思い出した。そこで7kg以内の小さなリュックだけを背負い、東京からスマトラ島北部の都市メダンに飛んでみた。そこからバスとフェリーでトバ湖のサモシール島へ向かった。

https://mediaindonesia.com/nusantara/812945/pemkab-samosir-kebut-pembangunan-kawasan-wisata-danau-toba#goog_rewarded
メダンやトバ湖周辺はバタック料理の本場なのだ。今回は、それらを食い倒れるためだけに来た。僕はインドネシア語が全然分からない。だからなるべく指差しスタイルの店がいいのだが、最悪それがなくても、食べ物のメニューの表記法だけはある程度わかっている。
最初にご飯やスープなどのカテゴリーと食材の種類がきて、次に調理法、その後に料理の系統や地名が続くだ。たとえばソト(スープ)・アヤム(鶏肉)・ゴレン(揚げ)・メダン(メダン風)が、「メダン風揚げ鶏のスープ」になる。日本語のちょうど真逆の配置だ。
米はナシ、麺はミー、ココナツミルク煮はグレイ、カレーはカレ。豚肉はバビ、牛肉はサピ、水牛はクルバウ、羊はカンビン、魚はイカン、エビはウダン、野菜はサユール。野菜ももちろん個別にいろいろ呼び名はあるのだが、基本的にあまり興味がなくて覚えられないので、まとめてサユールで済ませているのだ。
焼きはバカール、グリルはグリン、茹でるのはルブス、蒸すのはペベス。とかそんな具合だ。たぶん。助詞も語形変化もない。非常に直観的でシンプルな構造なのだ。バタック料理は豚と川魚が多いのが特徴で、豚は東南アジアの部族料理では定番の炭火ローストや「サクサン」と呼ばれる山椒がビリビリ効いた煮込み、川魚はフナやコイやティラピアなどを野菜と一緒に蒸した「アルシック」や甘辛揚げなどがとくに美味かった。
この地で起きた7万5千年前の超巨大火山噴火の影響で、当時の地球上の人類のほとんどは死滅したらしい。遺伝的多様性が一気に失われた形跡を示すボトルネックと呼ばれる現象からそう推定されるのだという。
その噴火口に水が貯まったトバ湖は、世界最大のカルデラ湖だ。ここはインドネシアのイスラム社会が厳格化しはじめる1980年代以前には、ヒッピーの聖地だったらしい。ちょっとした隔絶環境にあるサモシール島には、良い毒キノコがたくさん生え、景色は美しく、物価はタダみたいなものだったという。そりゃあハメを外しまくったもんさ、というパラダイス話を親世代ぐらいの先輩方から何度も聞いた。だが、今はひっそりとしていて、どこかヒマな感じだ。かつて語られたトップレス女が歩き、ジャンベの音が聞こえてくるようなノリは見る影もない。
世界的に見ると、かつてヒッピーの溜まり場だったような場所は、その後どんどん一般社会でも人気が出てきて地価が上がり、やがてはハイソな人々に占拠される流れがある。だが、ここはそうなっていない。このケースはけっこう珍しい。ほかにはアフガニスタンぐらいだろうか。
まあ、ヒマだし湖だし釣りに出かけてみると、ガブースが水面近くに浮かんでいるのが見えた。インドネシアのライギョだ。あれを定食屋に持ち込んでアルシックにしてもらったらさぞかし旨かろう。
午前中いっぱい、日本のライギョ釣りで使う中空フロッグルアーで岸際の浅場の水草の上をしつこく攻めたがダメだった。どうやら食性が違うのかもしれない。ひょっとして、もっと遊泳性が強いトーマンというライギョなのだろうか。小さめのティラピアを生き餌にして、開けた水面を狙ったらいいのかもしれない。
船着き場で浮き釣りしている子供たちのバケツの中を見ると、ティラピアはどれも手のひらサイズ以上だった。もっと小さいやつを釣ってくれと伝えたかったのだが、「小さい」を意味するインドネシア語が分からない。日本語混じりでジェスチャーしていると、背後から日本語の声。
「小さい、はクチルだと思いますよ」
40代後半ぐらいのよく日に焼けた日本人男性が立っていた。
腹が減っていたので、船着き場近くの屋台にその人も誘って、ビールとバタックスパゲティというローカルの麺料理をオーダーした。野菜たっぷりのスープスパゲティでこれもまたかなり旨い。
彼は丸2年ほど旅を続けているらしい。世界中のめぼしい観光地はほとんど回ったという。銀行勤めをアーリーリタイアし、いまは管理会社に任せてアパートをいくつか貸し出しているだけ、とも言っていた。
僕とはある意味で逆パターンだ。僕は30代はじめまで旅を続けるために仕事をし、いまは仕事のために旅をしていることを話した。順序が逆というだけでなく、彼はオンとオフがはっきりしていて、僕はその境が曖昧だ。
彼はこの2年でもう退屈しはじめていて、長く旅を楽しむコツを僕に聞いてきた。
「もう我慢していないで、またガッツリ働けばいいじゃないですか」
と伝えると、それは絶対に嫌だと言っていた。









