性の解放とファッション誌
1970年前後にファッション界にあらわれてきたもうひとつの変化が、ファッション・ジャーナリズムは女性のものという認識だった。たしかに、ファッション誌は女性向けのものが圧倒的に主流であり、『ヴォーグ』や『ハーパーズ・バザー』に代表される大手ファッション誌の多くは、創刊以来の編集長が女性である。
とはいえ、これまでも見てきたように、アートディレクターや写真家といったファッション写真に関わる中枢の人物のほとんどは男性だった。女性のための雑誌の写真において、カメラ越しに向けられる女性へのまなざしが男性中心主義的であるということは、とりもなおさず女性のための女性の姿が、男性の視線を通して流通しているということになる。この問題については1960年代後半から70年代には、まだ社会構造と性差の問題としては表立って認識されていなかった。だが一方で、1960年代後半から70年代を通じて、いわゆるウーマン・リブと称される第2波フェミニズムの動向が盛んになると、一部のファッション写真の表現に批判が当てられるようになっていく。
その背景のひとつとなったのが、1960年代から70年代にかけて起こった性の解放運動だった。マーティン・ハリソンは「1970年代、セクシュアリティ、そしてそれより程度は低いものの、暴力もファッション写真の中心的なテーマとなった。セックスは、これまで常に隠微な形で存在していたが、「表舞台に現れる」ことで、ファッション写真は現代社会の実情を直接的に指し示すようになった」と分析している1。一方、ファッション写真の本家アメリカは性に対して潔癖な清教徒主義が一般的であったため、ヨーロッパとアメリカでは微妙な価値観の乖離が生じていく。
そんななかで性の話題や表現をアメリカのファッション誌に積極的に取り込んでいったのは、ヨーロッパ出身のスタッフたちだった。たとえば、アメリカ版『ヴォーグ』でそれを推し進めたのはかつてのアートディレクターで、いまやコンデナスト社の重役となっていたアレクサンダー・リーバーマンである。1971年に編集長となったグレース・ミラベラは次のように回想する。
いわゆる性革命が、ファッション界に猛威を振るっていた。『ヴォーグ』でこの動きを大きく牽引したのはアレックス〔リーバーマン〕だった。彼は、アメリカ的な清教徒主義と彼が呼ぶものに対する、典型的なヨーロッパ人のような軽蔑の眼差しをもち、この新しい「解放された」時代を、雑誌にセクシーさを注入する好機として捉えていた。彼は『プレイボーイ』や『ペントハウス』のスタイルを気に入り、それらのページから写真家を探し始め、ついには『ペントハウス』の写真家スタン・マリノフスキーを雇うことになった。〔……〕いずれにせよ、アメリカのメディアの大半がそうであったように、『ヴォーグ』における性革命とは、長年抑圧されてきた男性の空想を紙面に書き記すことであり、女性読者を革命的に変革したり解放したりすることではなかったという事実について異論の余地はない。それはおもにヌードの増加と、あらゆる話題にセックスを見出そうとする一種の執着に他ならなかった。1970年代初頭、わたしたちなりのその表現は、「旅先でのセックス」や「ホテルのエロティシズム」といったタイトルの旅行特集や、「裸vs.ヌード」といった切り口で書かれたフィットネス記事といったものだった。2
ミラベラは男性の視点で女性誌にヌードやセックスの話題が持ち込まれることに不快感を示している。だが、それはヴィジュアル面、すなわち写真でも同じことだった。
革新者か、ミソジニストか?
ミラベラがこのように回想するなかで、ヴィジュアルの面で同時に話題に挙げられたのが、ヘルムート・ニュートンだった。彼女はこうも記している。
彼〔マリノフスキー〕は、10年前にオーストラリアでわたしに強い印象を残したヘルムート・ニュートンを新たな専門分野――見開きを性的に曖昧なシナリオの物語へと変えること――において後押しした。ヘルムート・ニュートンの手にかかれば、この新しいボディラインを強調する服は、動きのある身体を披露する機会となった。ワーナー社が初めて発売したボディスーツを着た少女が、リードでつながれたまま彼女を掴む男から必死に引き離そうとする動きのように、ときに予想外で驚くべき結果が生まれた。ヘルムートも承知していた通り、わたしは彼の作品の一部を不快に感じることも多かった。しかし、その技術的な完成度はあまりにも素晴らしく、彼が写真にもたらしたユーモアと洗練は、乾いていて実に味わい深かったため、技量の劣る写真家の手にかかれば単なるソフトポルノに過ぎなかったであろう表現も、彼なら許されるのだと感じた。1970年代を通じて、彼は一線を行き来しているように思えたが、わたしはほぼ常に彼の側に立った。3
ここには、ときに露悪的ともいえるニュートンのスキャンダラスな表現に対して、ミラベラが芸術的革新とアメリカの保守的価値観の間で、『ヴォーグ』の編集長として、またひとりの女性として揺れ動く心情がうかがえる。ニュートンの女性表現は、まさしく全米の『ヴォーグ』読者、ひいてはファッション界を二分する議論を巻き起こしたのである。
ニュートンは1920年にワイマール共和制下のベルリンに、ヘルムート・ノイシュテッターとして生まれたユダヤ人である。1936年、16歳にして当時のドイツで著名なファッション写真家だったイーヴァのアシスタントとして働き始め、ネガのレタッチやライティングの基礎を身につける。しかし、時はナチス政権下。38年には、やはりユダヤ人であったイーヴァのスタジオは、住居もろともナチスに没収されてしまう。ヘルムート少年は職を失っただけではなく、自分の身にも危険が迫り、同年12月にイタリアのトリエステから中国行きの船に命からがら飛び乗った。
本人は生涯にわたって前半生の話をすることを好まなかったが、晩年のインタビュー映画『ヘルムート・ニュートンと12人の女たち』(2020年)のなかで、イーヴァに師事した2年間は幸せな時間で、彼女は素晴らしい師だったと回想している。ヘルムートはいつ知ることになったのだろうか、彼女はその後、強制収容所でほかの多くのユダヤ人とともに虐殺されたのだった。
さて、ヘルムート少年が乗った船は戦時のゴタゴタによって行き先がシンガポールに変更になり、彼はそのまま同地に腰を落ち着けることにする。地元紙『ストレーツ・タイムズ』のカメラマンの職を得るが、本人曰く、無能だったことを理由にわずか2週間で解雇されてしまう。そのまま路上生活同然の日々を送り、1940年にはオーストラリアに渡って、軍務など写真とは関係のない仕事をして雌伏の戦中を送った。
1945年の戦後まもなく、メルボルンに自身の写真スタジオを開き、ほどなく『プレイボーイ』などに写真が掲載されるようになる。48年にはオーストラリア国籍を取得しているが、ヘルムートはこの前後に姓をノイシュテッターからニュートンに変えたと考えられる。ドイツ語でノイシュテッターは「新しい街の人」を意味する。「ニュートン」はそれを英語読みにしたものだろう。
1956年にはヨーロッパへ長期旅行に出て、ロンドンでイギリス版『ヴォーグ』から短期の契約を提示されてそのまま約1年イギリスにとどまった4。とはいえ、与えられた仕事はほとんどなかったようだ。妻のジューンは、「すべてがツインセットに真珠のネックレスを身につけた「淑女」ばかりだった〔……〕花のアレンジメントには決まったやり方が「あった」。ヘルムートにとってはまったく適した環境ではなかった」と振り返っている5。この回想からは、ヨーロッパでは60年代以前の古いファッション写真の因習がまだ色濃く残っていたことがうかがえる。その後、パリで一時期『ジャルダン・デ・モード』誌の仕事をし、メルボルンへ戻った。61年、今度はフランス版『ヴォーグ』の写真家となり、パリに拠点を移す。そして次第に感傷性を排した、ときにはポルノや殺人現場の写真とさえ評される硬質な作風を確立していった。6
だが、大局的にはニュートンを大きく評価するミラベラが絶対的なお気に入りと絶賛するのが、1975年5月号に掲載されたニュートンの〈ストーリー・オブ・オーゥ〉である(図1)。

だが一連の写真にはファッション誌としては官能的すぎるものも含まれており、アメリカ中西部から南東部にかけてキリスト教原理主義者や福音派の多い、バイブル・ベルトと称される地域から猛烈な顰蹙を買い、抗議の手紙や定期購読の解約が相次いだという。ただ、この抗議の矛先は、ニュートンの写真だけではなかったようだ。ミラベラは次のように続ける。
奇妙な偶然で、同じく1975年5月号に掲載された別のフォト・ストーリーもまた、読者の怒りを買った。それはデボラ・ターヴェヴィルがニューヨークの23丁目にある公衆浴場で撮影したシリーズである。女性たちは裸だったわけではなく、水着を着ていた。だが彼女たちはあまりに痩せ、あまりに青白く、そしてロケ現場もあまりに狭くあまりに気味の悪い場所だったので、読者たちはガス室に入れられた女性の姿を想起したのである。拒食症を思わせるという意見もあった。7(図2)

これらの講義の声は、ファッション写真のその後のゆくえを占う意味で示唆的である。まず目につくのは、アヴェドンらが戦後に広めてきた粒状感の目立つ写真が、カラー写真でも展開されているということである。このような、カラー版のアレ・ブレといった表現は、50年代から、クリフォード・コフィンやゴードン・パークス、サラ・ムーンらの写真をはじめ、少なからず見られる。これらは技術的には増感と呼ばれる、フィルムを規定よりも高感度の設定で使用することによって得られる効果だ。だが、増感は粒状性を増して解像度を低下させるだけでなく、カラーフィルムでは色の再現性も著しく低下させる。つまり、すっかりファッション写真の作法のひとつとして定着していたアレ・ブレの手法も、テーマとの相性を考えなければ不吉なものを想起させる表現となってしまうということを露呈させたのである。
もうひとつはモデルが拒食症的に見えるというもので、これは80年代以降、スーパーモデルブームやスキニーな身体を良しとするファッション文化の弊害として社会問題化していく。こうした声が、70年代に少なくともアメリカでは講義の声としてすでに挙がっていたということは注目しておくべきことだろう。
ヒッピー文化や第2波フェミニズムに影響されたアメリカの女性たちはファッション誌を敵視し、『ヴォーグ』は70年代前半には購買数、広告収入ともに激減した8。こうした動きは、80年代にかけて『ヴォーグ』をはじめとするファッション誌が保守的な傾向へと回帰していく一因ともなっていく。
力強い女性の姿
たしかに、ニュートンの表現には過激な一面もある。人権問題に関する著述を多く残した作家のスーザン・ソンタグは、写真のもつ暴力性を訴え続けたひとりだが、彼女もまた、ニュートンを女性蔑視主義者だと猛烈に批判した。一方、ニュートンがこんにちにおいて写真史で高い評価を受けていることも事実で、必ずしも女性蔑視主義者と酷評されていただけとはかぎらない。
たとえば、ミラベラの後任として長年『ヴォーグ』の編集長だったアナ・ウィンターは、『ヘルムート・ニュートンと12人の女たち』のなかで、彼の作品をずっと記憶に残る不穏な写真だと評しているのは印象的である。ウィンターは、「なぜなら、ファッション業界で扱う写真は魅力的で愛らしくて夢のように美しいものばかりで、それと対照的な作品も必要だから」だと述べている。
実際、ニュートンが新しい時代において力強い女性像を押し出す写真家のひとりだったこともまた事実だ。たとえば、フランス版『ヴォーグ』の1975年9月号に掲載された一枚は、イヴ・サン=ローランが両性具有のスタイルでデザインしたと述べるパンツスーツのコンセプトを見事に表現している(図3)。

一方ではモデルのツイッギーがマリー・クワントのミニスカートを着用した姿が世界中でアイコン化していった時代において、確かに不穏でありながらも新しい時代の女性のあり方を示した写真だといえよう。また、やはりフランス版『ヴォーグ』の1981年11月号には、4人の女性モデルがそれぞれ同じポーズで衣服を纏った姿とヌードの2枚が対になった写真が掲載された(図4)。

これと同じモデルが同構図でヌードとなっている作品が対になっている。
写真は決して作り込まれたものではなく、スタジオの床や背景紙の端といった、通常のファッション写真では映り込むことのない、カメラの外の現実も映している。こうした光景は、見る者のなかで、ヌードというありのままの姿とリンクしていく。服は自己表現であり社会的な鎧であるが、衣服を纏わずとも、ありのままの姿でも力強い女性の姿が打ち出されているといっていいだろう。
さらにニュートンは、ブランドのキャンペーン広告でもあらたな局面も切り拓いた。1982年から84年にかけて、イタリアのジュエリーブランド、ポメラートから依頼された広告である。同社によれば、ファッション写真家とコラボレーションをおこなった最初のジュエリーブランドだという9。ここでも女性性の曖昧さと退廃性が前面に押し出された。
ファッション写真は次第にファッション誌からブランドの広告へとフィールドを拡大し、同時に、その主戦場もアメリカからヨーロッパへと軸を移していくのである。
- Martin Harrison, Appearances: Fashion Photography Since 1945, Jonathan Cape, 1991, p. 270. ↩︎
- Grace Mirabella, In and out of Vogue, Doubleday, 1995, pp. 159-160. ↩︎
- Ibid. ↩︎
- ニュートン財団のホームページに掲載された経歴による。
https://newton-foundation.org/en/helmut-newton/(2026年5月10日閲覧) ↩︎ - Harrison, op. cit., p. 221. ↩︎
- Mirabella, op. cit., p. 161. ↩︎
- Ibid. ↩︎
- Ibid., p. 130. ↩︎
- 『ポメラート、ヘルムート・ニュートン&1980年代』展覧会ブックレット、ポメラート、2025年。 ↩︎









