ダイアン&アラン・アーバス
ダイアン・アーバスもまた、ファッションをめぐる虚構の世界に懐疑的な写真家のひとりだった。ダイアンの母方のラセック家は1885年、マンハッタンに衣料品店ラセックスを開いたポーランド系ユダヤ人一家である。他方、ダイアンの父デイヴィッド・ネメロフは当時ロシア領だったキーウからの移民2世で、ショーウィンドウのディスプレイ係としてラセックスに雇われるが、裁縫の技術やセールスに才覚がある人物だった。そのうち、ラセック家の娘ガードルードと恋に落ち、結婚した。ほどなくデイヴィッドは自分の店をもちたいという気持ちに駆られたが、そこで彼が考えたのはこぢんまりした店を開くのではなく、ラセックスの規模を拡張してデパート化するという驚くべき考えだった。そこで創業者のラセック兄弟を説得し、1924年9月にバーグドルフ・グッドマンやサックス、ボンウィット・テラーなどの高級デパートがひしめくニューヨーク5番街の36丁目に壮麗な新ラセックスをオープンさせた(図1)。デイヴィッドはラセック兄弟と同額を出資し、販売責任者に成り上がった。
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ラセックスに限らず、このころアメリカのデパートは同族経営が一般的で、それぞれの店に特色があった。『ヴォーグ』の編集者になる前は大手デパート、メイシーズで働いていたグレース・ミラベラは、1970年代以前のニューヨークのデパートについて、こう述べている。
たとえば、ロード&テイラーは大学入学前に足を運ぶべき店であり、シンプルだけど流行を取り入れたクレア・マッカーデルの一着目のドレスが買える店だった。品質のよい本格的なスーツ――モンテサーノ、プルーザンやカーメルといったブランド――を買うならばサックスに、子供服ならベスト&カンパニーに行く。現在のデパートは、その店に入っても同じ品物が置いてあり、本質的な部分ではどこも同じである。だが当時のデパートは店専属のメーカーやデザイナーを抱えようとしのぎを削っていた。品揃えが独特であることと、メーカーと単独契約していることが店の誇りだった。1
では、ここには出てこないラセックスが得意とする分野はなんだったのかといえば、毛皮である。そもそも、ラセック兄弟が1885年に開いた小さな衣料品店が毛皮専門店で、デパート化してからも売り上げの大半は毛皮だった。
新装開店の広告には「偉大なるラセックスの準備が整った」という見出しが踊っているが、そのことばにふさわしく、ラセックスはまさに黄金時代を迎えた。その豊かさを享受しながら1923年に生まれたのが、ネメロフ家の第二子、ダイアンだった。彼女はマンハッタンの豪華なアパートメントで、幼い頃から家庭教師を付けた高度な教育を受けて育つ。聡明な子供だったというが、一方ではその裕福な育ちや賢さから、孤独を感じることも多かったようだ。
15歳になると、ラセックスの美術部で働く4つ年上のアラン・アーバスと恋に落ちた。だが、ラセックスのほかに別の会社のセールスマン、ファッション写真の修業をしてやっと生計を立てていたこの青年との恋を、ダイアンの両親は許さなかった。両親はあの手この手でアランからダイアンの気をそらすよう画策する。だが、ダイアンは一度こうと決めたら曲げない頑固さをもった夢想家だったので、4年越しに両親が折れて、1941年にふたりは結婚することになった。
思えばダイアンの両親も同じような出逢いだったにもかかわらず、である。一番事情が異なったのは、アランがラセックスでの仕事に野心を抱かなかったことだろう。アランは俳優志望だったが、結婚2年後の1943年に第二次世界大戦で徴兵されると、通信隊に入って本格的に写真を学ぶ機会を得た。
一方のダイアンも1946年に短期間ベレニス・アボットに付いて写真を学び、ふたりは生計のためにファッション写真を撮ることに決めた。苦しい生活だったにもかかわらず、ネメロフ家はふたりに金銭的な援助はほとんどしなかった。代わりに与えられたのは、ラセックスが新聞などに出稿する広告のファッション写真の撮影依頼。興味深いのは、これがアランとダイアンどちらかの仕事ではなく、ダイアン&アラン・アーバスというコンビで仕事をこなし、発表していたということである。ラセックスでの仕事がメインの時期から、ふたりは店のバイヤーやアートディレクターの意向をまったく聞かないということで有名だった。
当然、こうした仕事は格が高い方がギャランティも上がるので、売り込む先はコンデナストとハーストということになる。そこでふたりもポートフォリオを抱えて売り込みにいく。こういう場合、たいていは例によってアートディレクターが対応するのだが、『ハーパーズ・バザー』に持ち込んでも、ブロドヴィッチの対応はけんもほろろだった。
一方、コンデナストではドル箱雑誌『グラマー』のアートディレクター、ティナ・フレデリックスが1947年1月にアーバス夫妻に会った。だが、フレデリックスが見せられたポートフォリオにはファッション写真は1枚もなく、ひび割れた天井から裸電球がぶら下がっている写真だけだったという2。
そんな独特な世界観をもったふたりの話を聞いているうちにファッション写真のセンスがあると直感したフレデリックスは、ボスのリーバーマンにポートフォリオを見せ、『グラマー』でのアサインが決まった。最初の写真は1947年5月号で、その後、49年からは『ヴォーグ』にもアサインされている(図2)。
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ふたり、とりわけダイアンの撮影時のこだわりは有名で、撮影時間が長引くためにモデル代などの経費がかさむことでも知られていた。それなりの稼ぎになっていたというが、それでもアーバス夫妻にとってファッション写真は食い扶持にすぎなかったのである。ナンシー・ホール=ダンカンは『ファッション写真の歴史』で「アーバスのファッション作品は、彼女の作品群の中で最も刺激に欠け影響力の薄い部分である」と指摘する3。たしかに、ダイアンとアランのファッション写真についてここで深掘りしていくことは得策とはいえない。だが、ファッション誌業界でのダイアンの立ち位置を探っていくことは大いに意義があるだろう。
1960年代の『ヴォーグ』と『ハーパーズ・バザー』の変化
ダイアン・アーバスのどの写真集を見ても、初期にファッション写真を撮影していたということは簡単に触れられているが、その写真作品が載せられているものはない。もちろん掲載誌側の権利の問題とも考えられるが、それ以上に、これはダイアンの娘・ドゥーンをはじめ、彼女の没後に作品を管理している著作権継承者による明確なメッセージだと考えられる。というのは、ファッション写真はアーバスの「作品」ではないという意味にも取れるし、ファッション写真はダイアン&アラン・アーバスのもので、決してダイアン個人の作品ではないという意思表示にも映る。
そのことを如実に物語っているのが、ダイアンの雑誌掲載作をまとめた写真集『ダイアン・アーバス マガジン・ワーク』である。この写真集には1960年から彼女の死の直前の71年までに雑誌に掲載された作品をまとめたものである。ダイアンは1956年頃にアランとコンビで仕事をするのをやめ、サーカスや「フリークス」と呼ばれるヌーディストや異性装の人々などのポートレートを撮影するようになっていた。1960年は、彼女がひとりで撮影したそうした作品が初めて『エスクァイア』7月号に雑誌掲載された年である。
以降、快進撃とまでは言えないものの、雑誌掲載は途切れることなく続いていく。61年にヘンリー・ウルフに代わってマーヴィン・イズラエルが『ハーパーズ・バザー』のアートディレクターになると、ダイアンの作品は『ハーパーズ・バザー』11月号に初めて掲載され、以降、その関係は彼女の晩年まで続くこととなる(図3)。

注目したいのは、ダイアンとアランのコンビの生活を支えたのがコンデナストの雑誌『グラマー』や『ヴォーグ』で、『ハーパーズ・バザー』にはアサインされなかったのに、ダイアンが単独で活動し始めると、コンデナストは『グラマー』に2、3度彼女の写真を掲載しただけで、『ヴォーグ』には掲載されなかったことである。ここからは、それまで社交界向けの高級雑誌を作ってきた『ヴォーグ』と『ハーパーズ・バザー』にはっきりと性格の違いが現れてきたことを示しているといっていいだろう。
前回も触れたように、『ヴォーグ』は1962年にダイアナ・ヴリーランドが編集長に就任する。気位の高いヴリーランドは、虚構であればあるほどに輝くというファッション誌のドグマをかつてないほどに推し進めていった。誌上には表紙や特集のために、市場には存在しない特注の服をデザイナーに作らせて掲載し、現実との乖離が進んでいった。たとえば、あるときにはこんなことがあったとミラベラは怒りを込めて回想する。
冬のファッションとして〔ヴリーランドが〕“北極の白”をテーマにしようと夢見る。雪の女王風の衣装が見つからないとなると、ヴリーランドはそれを注文して作らせてしまう。その結果、白のミンクで縁取られた中世風フードつきの純白のイヴニング・ケープができあがってくる。〔……〕問題はヴリーランドが撮影のために特別に注文して作らせた服が、どの店でもお目にかかることができないことだ。ヴリーランドがメーカーとバイヤーを説得してなんとか生産までこぎつけたとしても、そんな服は一着たりと売れなかった。雪の女王風ケープは北極点を雄々しく歩くにはふさわしいかもしれないが、雪の日にパーク・アヴェニューでタクシーを呼び止めるにはまったくふさわしくない。撮影用の服は単に目を楽しませるだけ。ファッション写真の撮影技術を映画並みに引き上げ、完璧なルックスを作り出すための服だった。その写真から読者の存在はすっぽり抜け落ちていた。セヴンス・アヴェニューにとっても、また『ヴォーグ』を販促媒体として期待している小売業者にとっても、ヴィリーランドのやり方は死の接吻、息の根を止められるに等しい。
デザイナーたちはヴリーランドが自分たちの新作よりも頭の中にある絵空事を優先させ、市場にありもしない服を『ヴォーグ』の表紙に掲載するやり方に不快感を覚えた。ヴリーランドがデザイナーたちの服を絵空事のために利用したときには、不快感は怒りに変わった。4
このように、60年代の『ヴォーグ』は服のための雑誌ではなく雑誌のための服を優先させたあまり、もはやデザイナー、市場、読者という本来のファッションの関係性を置き去りにして、目的意識を見失ったまま燦然と輝く巨塔になってしまったのである。
他方、戦後は野心的な写真表現や挑戦的なグラフィック・デザインを取り入れてきた『ハーパーズ・バザー』はブロドヴィッチの退任後も、その精神を受け継いでいく。ここで見ていくソール・ライターやアーバス、ロバート・フランクといった写真家たちは、ある意味でファッション写真のはみ出し者、あるいは反抗者だが、1950年代から60年代に彼ら/彼女らを積極的に起用していったのが『ハーパーズ・バザー』にほかならなかった。
とくにアーバスに関しては、彼女が独立して以降、コンデナスト社はほとんど手のひらを返したように関係が切れたのだから、なかでも『ヴォーグ』にとってはほとんど受け入れらない表現だったことは容易に想像がつく。だが、『ハーパーズ・バザー』が野心から彼女の作品を掲載したのかというと、そう単純な話しでもない。そこには、アメリカの写真芸術の60年代の変容が大きく関わっているのである。
- Grace Mirabella,In and Out of Fashion, 1995(実川元子訳『ヴォーグで見たヴォーグ』、文春文庫、1997年、p. 70). ↩︎
- Patricia Bosworth, Diane Arbus: A Biography, 1984(名谷一郎訳『炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス』文藝春秋、1990年、p. 139).
この表現は刊行直後から信ぴょう性を欠いた部分があることが指摘されている。だが、2000年代に刊行された、ダイアンの初期作を掲載した写真集には初期作としてフレデリックスの証言に近い写真が掲載されていることを付け加えておく。 ↩︎ - Nancy Hall-Duncan, The History of Fashion Photography, Harry N. Abrams, 1978, p. 180. ↩︎
- 前掲『ヴォーグで見たヴォーグ』、pp. 176-177。 ↩︎









