アヴェドン・ブラー
〈ドヴィマと象〉を見ても明らかだが、それらの写真は大型カメラで撮られているので解像度は高く、ピントも画面全体に行き届いている。だが、その一方でアヴェドンがファッション写真において駆使したのが、ボケやブレといった効果だった。
実は、アヴェドンがこうした手法を用いて物議を醸したのには、先に触れた逸話が大いに関係している。そもそも、アヴェドンのボケを駆使した写真を評価したのはブロドヴィッチだったわけだが、彼自身、その前年の1945年に出版した写真集『バレエ』で動きによるブレや露出不足を補ったことによる粒状感、すなわちブレを表現として受け入れていた人物だったからである。かの逸話がどれほど盛られた話かは定かでないものの、ブロドヴィッチがアヴェドンのボケの使い方を気に入り、その後『ハーパーズ・バザー』に雇い入れてからもボケを取り入れた表現を追求するように助言したのは間違いなさそうだ。1946年8月号の「ジュニア・バザー」では、当時としては驚くほどのブレの効果が用いられている(図1)。

ここで、『ヴォーグ』のチーフ・フォトグラファーがアドルフ・ド・メイヤーからエドワード・スタイケンに変わったときのことを思い出してみてほしい。時代はピクトリアリズムの影響下にあったふんわり、ぼんやりとした画面から、カメラやレンズの機械的描写力を最大限に生かした鮮明なイメージを信条とするモダニズムの時代に移った。アヴェドンがファッション写真家として活動しはじめた1940年代半ばは、そのモダニズム写真の考えがピークに達した時期だった。もはやソフトフォーカスなど過去の遺物となった世において、ブロドヴィッチの『バレエ』にしても、『ハーパーズ・バザー』にあらわれたアヴェドンの一連のファッションにしても、批判が噴出するのは自然なことだろう(図2)。

ダール=ウォルフがアヴェドンを毛嫌いしていたのもこうした表現ゆえだったというし、『ハーパーズ・バザー』の内部にかかわらず、1949年には早くもジョナサン・ティケナーが『U.S.カメラ』誌でアヴェドンを「写真界で最も論争を呼ぶ人物」と評している1。この頃のアヴェドンについて、サージェントは次のように述べている。
アヴェドンの商業写真家としての最初の5年間、多くの潜在的な広告クライアントは彼から距離を置いた。なぜならば、かれらが自分たちの製品を不透明な霧の塊に包まれたように写されるのを恐れたからである。2
サージェントは1958年にこの原稿を書いた段階で総じてアヴェドンを好意的に評しているが、「アヴェドン・ブラー(アヴェドン・ボケ)」は一種の奥義になっていたと述べる。
技術的にいえば、アヴェドンの作品は、今なお多くの商業写真家が理想とするシャープネスや正確さに対してほとんど敬意を示していない。リアリズムを重視しないアヴェドンは、ときに意図的に初歩的な写真の欠点を再現し、リハーサルなしの即興的——ほとんど偶然のような——雰囲気を帯びた写真を作り出す。彼のカメラはしばしば半陰影の領域に侵入し、プロのあいだで長年へたくその証と見なされてきたボケを詩的な表現の手段として用いる。背景のボケ、光のボケ、モデルの動きのボケといった様々な種類のボケを自在に操ることで、かつて極めて文字通りの芸術であったものに新たな次元をくわえたのである。実際、アヴェドン・ボケは一種の奥義と化している。アマチュアを常に屈辱に陥れるこのボケの効果を意図的に生み出す写真家は彼だけではないが、彼は誰よりも一貫性と創意に富んでいる。想像通り、アヴェドン・ボケは、単に鮮明な写真に必要なものよりもはるかに多くの創意工夫と技術的熟練を要求する。なぜなら、それはとりわけ、その仕事にどれほどのぼかしが望ましいかを判断し、その量を正確にネガに収め、一枚の写真の中でぼかしとシャープネスの対比を構築し、直感的にぼかす時とぼかさない時を決定することを含むからである。3
サージェントは「背景のボケ、光のボケ、モデルの動きのボケ」と一緒くたにしているが、実際には光の効果はおそらく反逆光か、光量不足によって引き起こされるネガの粒状感の悪目立ちのことだろうし、モデルの動きによって起こるのはボケではなくブレである。ただ、ここでは「アヴェドンのボケ」ではなく「アヴェドン・ボケ(The Avedon blur)」と、まさにアヴェドンを象徴する奥義のように名付けられているのが興味深い。このボケやブレが何に触発されてあらわれてきたのかといえば、ひとつには間違いなくブロドヴィッチの『バレエ』の表現に基づく彼のアドバイスだろう。アヴェドンは、それが自身の近視に由来するとたびたび語っている。たとえば、サージェントには雨の夜に眼鏡を外すと視力1.0の人よりも美しい世界が広がり、自分だけがひそかに楽しんでいた詩的なイメージを再現したかったと語っている。さらに晩年には、そのイメージを作り出す方法についても語っている。
背景のディテールにいつも気が散るのです。不要な情報が多すぎる。だから暗室で画像の上にティッシュペーパーをのせて、それを透かしてプリントすることでそれらを除去していたのです。4
だが、議論や嫌悪感を呼び起こしつつもそれが単に「へたくその証」や前時代的表現の再来と見なされなかったのは、その技法を戦略的に用いていたからに他ならない。50年代後半にはそれがアヴェドンの奥義ともみなされるようになっていた一方で、同時代にそうしたボケの表現を得意としたのは、実はアヴェドンだけではなかった。
もうひとりの愛弟子
ブロドヴィッチを意図的にボケやブレ、粒状感(アレ)を表現に取り込んだ元祖だと位置づけてみると、アヴェドンはその忠実な弟子ということになる。だが、もうひとり、ブロドヴィッチの弟子で、さらにラディカルにこの効果を追求した写真家がいた。リリアン・バスマンである。バスマンもまた、親の世代にロシアからアメリカに亡命したユダヤ系アメリカ人2世である。
バスマンはアーヴィング・ペンと同じ1917年の生まれで、ニューヨークのブルックリンで育つ。当初は画家を目指していたがなかなかチャンスを得ることができず、1939年、22歳で画業と生活に折り合いをつけるためにファション画を学び始める。翌年には夫で写真家のポール・ヒンメルがブロドヴィッチの存在を聞きつけ、彼にファッション画を見せにいくようリリアンに勧めた。ブロドヴィッチはバスマンをニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチの自身のクラスに誘ったが、バスマンは経済的な理由で断る。ならばと、ブロドヴィッチは彼女を学費免除で入学させた。ブロドヴィッチはバスマンによほどの可能性を見出したのだろうが、それはファッション画ではなかった。まもなくバスマンは師の勧めにしたがってグラフィック・デザインに転向し数か月学んだのち、1941年から『ハーパーズ・バザー』でブロドヴィッチのアシスタントとなった。弟子としてはペンとアヴェドンの間に位置する。
ところが、あいかわらずブロドヴィッチはデザインの知識も技術も惜しみなく弟子に教え込むかわりに無給という丁稚奉公スタイルだった。経済的に困窮していたバスマンはすぐに根をあげ、化粧品ブランド、エリザベス・アーデンのアートディレクターのアシスタントに転職してしまう。だが、どうやらブロドヴィッチはそれが惜しかったようで、「バザーに戻ってほしい」「裕福な家の子じゃないから食べ物が必要なの」という応酬を半年にわたってほとんど毎日電話で繰り返したあげく、ブロドヴィッチが会社側と交渉し、有給のアシスタントとして迎え入れられた。ブロドヴィッチの弟子として初の有給のスタッフである5。
1945年、ファッション・ジャーナリズム界でティーンエイジャー市場の開拓が加熱してきたことを背景に、それまで『ハーパーズ・バザー』の巻末のコーナーだった「ジュニア・バザー」を雑誌として独立させることになった。編集長のカーメル・スノーは11月の創刊を前にバスマンをアートディレクターに指名した。ところが、ブロドヴィッチは優秀な愛弟子が『ジュニア・バザー』のアートディレクターとなれば社内の自分の権力基盤が揺らぐと思い、猛反対する。しまいには辞職もちらつかせ、『ジュニア・バザー』のアートディレクターはブロドヴィッチとバスマンのふたり体制でスタートする。
だが、物資の流通統制の解除など戦時体制から平静を取り戻すにしたがって、『ビッグ・バザー』(『ジュニア・バザー』の創刊以降、業界では『ハーパーズ・バザー』をこう呼んだ)の仕事が忙しくなってくる。そしてついに、1947年12月号からバスマンは単独で『ジュニア・バザー』のアートディレクターとなる。ところが、わずか5か月で辞任し、『ジュニア・バザー』は48年5月号で廃刊。ふたたび『ビッグ・バザー』に統合された。彼女は8年にわたって世界最高峰のアートディレクターからなにを学んだかと問われ、次のように答えた。
決して予想通りのことをするな、ということです。ブロドヴィッチの有名なことばはこうでした。「なぜ、毎日朝食にベーコンと卵を食べる必要があるのか?」6
このことばは、まさに彼女の写真家人生を象徴するものともなる。バスマンはアートディレクターとして働くかたわら、ほとんど引退状態にありながらもハーストの社内に残っていたホイニンゲン=ヒューン専用の暗室を使って写真のプリント技術を独学で身につけた。そして、『ジュニア・バザー』の最終号でファッション写真を発表し、以降、写真家に転身して活躍する。先にも触れたように、バスマンのボケ、ブレ、アレの表現はときにアヴェドンを凌駕するほど激しいもので、画面が抽象化することもしばしばあった(図3)。

ある意味で、このラディカルな表現はブロドヴィッチ・スクールということもできるだろう。バスマンは70年代初頭までファッション写真家として活躍するが、彼女が表立った活動をやめるのと入れ替わるように、サラ・ムーンやパオロ・ロヴェルシといった、画像の粒状感やブレを、カラー写真を駆使してファッション誌に発表する写真家が登場してくるのである。
なぜ、アヴェドンは成功者となったのか?
バスマンもアヴェドンも『ハーパーズ・バザー』でデビューした時期はほとんど変わらない。ふたりの仲もたいへんよかったらしく、アヴェドンがパリ取材に行っているあいだにバスマンにスタジオを貸したり、郊外の別荘をシェアしていたこともあったという。彼女もまた、プリントの際にティッシュやガーゼを使用したり、漂白剤を用いて部分的に画像濃度を落としたりしていた7。方法としてはアヴェドンと似たところもあり、暗室技術についての情報交換をしていたとしてもおかしくはない。
ところで、なぜ時代はアヴェドンをもっとも議論を呼ぶ人物、言い換えればファッション写真の革新者に仕立てたのだろうか。おそらくそれは、先に見たサージェントによる論考の「その仕事にどれほどのぼかしが望ましいかを判断し、その量を正確にネガに収め、一枚の写真の中でぼかしとシャープネスの対比を構築し、直感的にぼかす時とぼかさない時を決定することを含むからである」ということばに要約されているように思える。つまり、ファッションはあくまでファッションであって、さまざまな美術表現を本質というよりはスタイルとして取り込むことで常に新奇性を打ち出してきた。たとえば1930年代のファッション写真におけるシュルレアリスムがそうだったように、ボケやブレの表現もまた、その上澄みをスタイルとして取り込むというのがファッション写真のあり方だった。
ファッション誌に掲載される写真はあくまで美に還元されるということが前提であり、服や装いの美を伝えるための制約も多くあった。その意味ではバスマンの表現は「やりすぎ」で、結果としてボケやブレ、アレが革新的要素として認められるには、アヴェドンのように計算が必要だったのではないだろうか。『ハーパーズ・バザー』に掲載されたバスマンの写真の一例を見てみると、それは当時のファッション写真界ではかなりラディカルだったことが見えてくる(図4)。

ただ、それをファッション写真のあらたな様式に昇華しようとしたアヴェドンすら非難の的になっていたのだから、1950年代に世界で最も挑戦的な表現に寛容だったニューヨークにですら受け入れられるのは難しかった。
とうぜん、こうした新しい表現を積極的に取り込んでいく『ハーパーズ・バザー』の姿勢を、『ヴォーグ』も黙って見ているだけではなかった。
- Jonathan Tichenor, “Richard Avedon: Photographic Prodigy,” U.S. Camera, January 1, 1949, p. 35. ↩︎
- 前掲(2)“A Woman Entering a Taxi in the Rain”. ↩︎
- 前掲(2)“A Woman Entering a Taxi in the Rain”. ↩︎
- Jane Livingston, “The Art of Richard Avedon,” Evidence, 1944-1994, Random House, 1994, p. 11. ここでアヴェドンは『シアター・アーツ』誌1949年3月号に掲載された俳優たちの肖像写真の制作過程について語ったのだが、ファッション写真についても同様の手法が用いられていたと考えられる。 ↩︎
- Martin Harrison, “A Life in Images,” Lillian Bassman, Little Brown, 1997. ↩︎
- Vince Aletti, “Junior Bazaar,” Aperture, No.182, 2006, p. 57. ↩︎
- 前掲(5)“A Life in Images”. ↩︎









