公民権法の前後

1940年代から60年代にかけて、アメリカではロシア系やユダヤ系の表現者たちが台頭し、ファッション写真は大きく花開いていった。だが一方で、それはアートディレクターや写真家であって、彼ら/彼女らが直接誌面に登場する存在ではなかったということには注意が必要だ。つまり、誌面にあらわれるモデルたちは、依然として白人女性が圧倒的優位の状況だったのである。

これは、『ヴォーグ』や『ハーパーズ・バザー』をはじめとするファッション誌が、広告収入を化粧品会社やデパートといった企業に頼っていたためであった。こうした広告出稿主は概して中流階級の白人女性を主要ターゲットとしていたため、有色人種のモデルを起用することに抵抗をもっていた。WASPたちが異常な嫌悪感を示したのは、なによりも肌の色だったのである。

公民権法が成立する1964年まで、アメリカ、とくに南部では約1世紀にわたって有色人種の公共施設の利用を制限する州法が制定されており、これらはジム・クロウ法と総称される。アメリカ文学の巨人ジョン・スタインベックが「マザーロード」と呼んだ、シカゴとカリフォルニアを結ぶ大陸横断の幹線道路、国道66号線(ルート66)は、ジム・クロウ法の歴史的な闇を象徴している。南部の街々では日没後に黒人が公共施設のみならず飲食店などにも立ち入りを禁じており、その制度から「シャドウ・タウン」と呼ばれた。ルート66が通る街の約半数がシャドウ・タウンであることを宣言していたのである。

ロバート・フランクの『ジ・アメリカンズ』は、人種差別もその主題のひとつとしているが、ヨーロッパ人にとって、黒人差別は異常な状況に映った。フランクはこう回想する。

わたしは初めて南部を訪れ、初めて人種差別を目の当たりにした。ドラッグストアでは、白人は黒人女性が隣に座ることも許さないのに、自分の子供を黒人女性に預けるという事実を、わたしは非常に異様なことだと感じた。1

フランクが目の当たりにしたこの異様な光景は、ほとんどそのまま人種差別に対するヨーロッパとアメリカの感覚のずれとして、現代まで引きずられていく。 

では、ファッション誌ではどのような動きがあったのだろうか。アメリカでまず触れておきたいは、アヴェドンの捨て身の交渉である。1959年、アヴェドンはポルトガルとタイにルーツをもつモデルのチャイナ・マチャドを起用しようとして、『ハーパーズ・バザー』側からノーを突きつけられた。これに対してアヴェドンは契約更改を拒否すると脅して、59年2月号掲載されることとなった(図1)。

図1 『ハーパーズ・バザー』1959年2月号に掲載されたチャイナ・マチャド(リチャード・アヴェドン撮影)。

だが、問題はこれがアヴェドンの人権意識に根ざした行動ということではなく、動機はあくまでマチャドのエキゾチシズムをまとった容姿が彼の体現する美の表現に必要だったという点だ。この、ある意味での「エキゾチック枠」という有色人種モデルの起用は、決して前向きな態度といえるものではない。

見えない美

アメリカのファッション業界、ひいてはアメリカ社会と有色人種モデルの活動にどのようなせめぎ合いがあったのかを、初の黒人スターモデルとも称されたドニャーレ・ルナの活動に注目して見てみよう。

ルナは1945年にミシガン州デトロイトで生まれた。本名はペギー・アン・フリーマン。1963年、イギリスのファッション写真家、デイヴィッド・マッケイブが仕事でデトロイトを訪れた際にたまたま彼女を見かけ、ファッションモデルになることに興味があるなら手助けをしたいと声をかけて、電話番号を教えたという。このとき、彼女はすでに身長が180センチ近くもあり、目を惹く少女だった。1年後の秋、高校を卒業したルナは、マッケイブを頼ってニューヨークに出ることを決意する。娘のドリーム・カッツァニーガは、このときのルナの決意に思いを馳せる。

19歳の誕生日を迎える頃には、彼女はニューヨークへ移住することを決めていた。それは1964年の秋で、アメリカ史上初めて人種差別を法的に禁止した公民権法が成立してからわずか数か月後のことだった。そしてその後の数年間には、マーティン・ルーサー・キングの暗殺、彼女の故郷を荒廃させた人種暴動、そしてブラックパンサー党の結成といったできごとが起こる。当時、『エボニー』のようなアフリカ系アメリカ人向けの専門誌以外では、有色人種のモデルにチャンスはほとんどなかった。明確な計画も安定した収入もなく、見知らぬ人が急いで書き留めた電話番号だけを頼りに、あの歴史的な時期に家を出てマンハッタンへ向かった母の勇気に、私は今でも驚かされる。当時の有色人種の少女にとって、単に自分の価値を信じ、自分の天職に従うこと自体が大きな革命的な行為だったのだ。2

この頃に、みずからドニャーレ・ルナと名付けたと考えられる。「ドニャーレ」は特定の意味をもつ単語ではないが、スペイン語で貴婦人を意味する「ラドーニャ」に近い響きを感じさせる。ほどなくマッケイブの紹介で『ハーパーズ・バザー』との面会に訪れた際、ルナは編集部の面々の目を惹き、そのときの彼女を捉えたというスケッチが、同誌65年1月号の表紙を飾った。ただ、この逸話はやや伝説化されていて、問題の本質を見えづらくしている。それは、表紙をイラストから写真に変更して久しい『ハーパーズ・バザー』が、なぜスケッチとして掲載したかということである。表紙というのは雑誌の売れ行きを左右する文字通りの顔だ。つまりここに、冒頭で触れた白人優位社会と広告主との関係という歪んだ経済原理が作用するのである。 

それでも、ルナは誌面には次々登場し、アヴェドンに頻繁にアサインされるモデルのひとりになり、アンディ・ウォーホールら、感度の高いセレブリティのコミュニティの一員となった。アメリカメディアは初の黒人スターモデルの登場ともてはやす。それでも、アメリカの保守的な民意は動かせなかった。カッツァニーガは次のように続ける。

華やかに見えるが、母は偏見から完全に逃れることはできなかった。〔……〕他方で、彼女が雑誌の表紙を飾ると、南部の広告主は資金提供を打ち切り、読者は購読を解約した――その反発のせいで、アヴェドンは最終的に彼女の撮影をやめるよう命じられたのだ。しかし、彼女がマーティン・ルーサー・キングの「I have a dream」の演説に込められた崇高なメッセージを共有していたことに疑いの余地はない。彼女はそこで、私の名前の由来となるインスピレーションも得ていたのだ。だが結局のところ、彼女が何をしようとも、アメリカでは常に肌の色によって制限される運命にあった。そこで彼女は再び飛躍を決意した――今度は、差別がそれほど蔓延していないヨーロッパへと。3

スイングするロンドン

ルナは1965年12月にロンドンに降り立つ。たしかにイギリスはカッツァニーガがいうように、アメリカほど人種差別が蔓延していなかったかもしれない。とはいえ、イギリスでむしろ気がかりなのは厳然たる階級差である。これはむろん、写真家やモデルとも無関係ではない。

イギリスにおけるモデルのギャランティはニューヨークよりも低水準だったし、写真家の立場は、セシル・ビートンが言うように、1950年代まで「一種の下級職人」と見なされていた。これがイギリスのファッション誌がいつまでもアメリカからの質の低い複製ポジフィルムに頼りきりで独自性を開花させられなかった一因でもあるのだが、イギリスでは写真家の立場が一夜にして変化するできごとがあった。1960年にファッション写真家のアンソニー・アームストロング=ジョーンズとエリザベス2世の妹であるマーガレット王女が結婚し、アームストロング=ジョーンズが伯爵に叙せられたのである。さすがに王族に写真家がいるということで、イギリス社会の写真家に対する印象は急速にかわっていった。しかもそればかりではなく、1960年代のイギリスは、こうした階級による区別が急速に瓦解しつつある時期だった。

このように、イギリスでもファッション写真が花開く素地ができていく。そんななか、1966年に象徴的なできごとが起こった。イギリス版『ヴォーグ』が3月号で、初めてルナを黒人モデルとして表紙に起用したのだ(図2)。

図2 『ヴォーグ』イギリス版、1966年3月号(デイヴィッド・ベイリー撮影)

撮影はイギリス出身のデヴィッド・ベイリーである。ベイリーは、出身階級による社会的区別が明確だったイギリス社会にあって、労働者階級から成功を掴んだ写真家だった。

ベイリーは1960年にイギリス版『ヴォーグ』と契約し、主に「スウィンギング・ロンドン」と呼ばれる若者文化の動向を担当するようになっていた。ルナをモデルにしたこの歴史的な表紙写真も、その流れを汲むものとも解釈されている。

だが一方で、彼女の顔は手によって覆われた大胆なポーズをとっている。直後の同年6月には、後を追うようにイギリス版『ハーパーズ・バザー』でもルナが表紙に起用されるが、こちらは横顔で、口より上は「HARPER’S」の文字に隠れている(図3)。

図3 『ハーパーズ・バザー』イギリス版、1966年6月号(ビル・キング撮影)

つまり、表紙に起用はするが、完全には可視化しないという態度が見え隠れするのである。たしかに、このようなかたちでの黒人モデルの起用は、当の本人や黒人社会にとっては屈辱的な扱いである。だが、これがひとつのエポックとなったのは間違いないだろう。

実際、誌面でのルナは千変万化の表情で人々を魅了しはじめていた。フランスの『パリ・マッチ』誌では、同年3月5日号で、11人の写真家たちが撮影したルナのファッション写真を掲載するという大規模な企画を打った(図4)。

図4 『パリ・マッチ』1966年3月5日号より

見えない美

少なくともヨーロッパでは次第に活躍の場を着実に得ていったルナを、アメリカはどう見ていたのだろうか。翌4月、『タイムズ』誌は「ザ・ルナ・イヤー」と題する記事を掲載した。「ドニャーレ・ルナ──彼女自身がそう名乗るこの女性は、間違いなく今、ヨーロッパで最も注目を集めているモデルだ。まだ20歳、黒人、デトロイト出身で、『ハーパーズ・バザー』『パリ・マッチ』、英国版『クイーン』、そして英・仏・米各国の『ヴォーグ』を読んでいるなら、彼女を見逃すわけにはいかない。「彼女は実に素晴らしいプロポーションの持ち主だ」と、英版『ヴォーグ』のベアトリクス・ミラーは語る。「どこか角張っていて、とてつもなく背が高く、独特な雰囲気だ。彼女には一種の鋭さと個性がある」と冒頭に書かれ、一見ルナを称えているようにも読める一方、たった20歳の中西部出身の黒人女性という嘲笑的な雰囲気も垣間見える。さらにたちが悪いのは結びの部分である。

「デトロイトにいた頃は、美しいとかそんな風には見られていなかったけど、ここでは違うの」と彼女は付けくわえる。「それに、1年前、彼らは新しいタイプのモデル、今まで見たことのないような美しさを持つ女の子を探していたのよ」。それが彼女の秘密であり、ファッション界で他の人より長く活躍できる理由なのだ。というのも、彼女は決して美しいわけではないからだ。しかし、その名前の由来である月のように、彼女はどの段階でも異なってはいるものの、常に一目で彼女だとわかる、彼女自身であり続けているのだ。4

はたして、ルナ自身のことばを引きつつ、「彼女は決して美しいわけではない」と断じるとは何事だろうか。こういったことばの端々に(しかもこの記事は無署名である)、侮蔑的な表現が垣間見える。アメリカで大手のファッション誌が黒人モデルをはじめて表紙に起用したのは、それから8年も経った1974年8月号の『ヴォーグ』だったことを考えれば、アメリカにおける人種差別がヨーロッパに比べていかに根深いものだったかがわかるだろう。

アメリカでは大手ファッション誌やファッションショーに黒人モデルがほとんど起用されないことや、白人モデルとのギャランティの差といった不均衡に対して、黒人モデルたちが抗議の声を上げるというのは1950年代から断続的にあった。だが、それが本格化するのは1970年代以降だった。

その中心的人物のひとりが、べサン・ハーディソンである。1942年にニューヨークのブルックリンに生まれた彼女は、1967年にアフリカ系アメリカ人ファッションデザイナーのウィリ・スミスに見出されてファッションモデルとしての活動を始める。1973年には、フランスとアメリカのデザイナーを、それぞれ5人ずつ選出して開催された歴史的ファッションショーである「バトル・オブ・ヴェルサイユ」に登場したことで一躍注目をあつめるようになった。

ハーディソンはモデルになった直後から黒人モデルへの不当な扱いに直面することとなり、ファッション誌の編集部や広告主のもとに直接出向くなどの行動を起こす。『ヴォーグ』が1974年になってようやくビバリー・ジョンソンを表紙に起用したのはこうした運動のひとつの成果ともいえるだろう。さらに、1980年には有色人種を多数抱えるモデルエージェンシーを設立し、機会や待遇の改善を求めていくこととなる。

80年代以降のハーディソンと黒人モデルたちについてはまたあらためて見ていくことになるだろう。しかし、2023年に公開された、ハーディソンが自身の半生を語ったドキュメンタリー映画のタイトルが『見えない美(Invisible Beauty)』と題されていたことは、記憶に留めておくべきだろう。


  1. Peter Galassi, “Introduction,” Robert Frank: In America, Steidl, 2014, p. 26. ↩︎
  2. Dream Cazzaniga, “Donyale Luna Changed the Face of Fashion in the 60’s. Now, the Revolutionary Black Model is Finally Getting her Due,” https://www.vogue.co.uk/article/donyale-luna-model-vogue (2026年4月14日閲覧). ↩︎
  3. Ibid. ↩︎
  4. “The Luna Year,” Times Magazine, April 1966 ; https://time.com/archive/6634719/fashion-the-luna-year/ (2026年4月14日閲覧). ↩︎
打林 俊

打林 俊

写真史家、写真評論家。
1984年東京生まれ。2010-2011年パリ第1大学招待研究生、2014年日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。博士(芸術学)。2016〜2018年度日本学術振興会特別研究員(PD)。主な著書に『絵画に焦がれた写真-日本写真史におけるピクトリアリズムの成立』(森話社、2015)、『写真の物語-イメージ・メイキングの400年史』(森話社、2019)、共著に“A Forgotten Phenomenon: Paul Wolff and the Formation of Modernist Photography in Japan”(Dr. Paul Wolff & Tritschler: Light and Shadow-Photographs 1920-1950, Kehrer, 2019)、「アンリ・マティスの写実絵画不要論における写真をめぐって」(『イメージ制作の場と環境-西洋近世・近代における図像学と美術理論』、中央公論美術出版、2018)など。
2015年、花王芸術・科学財団 美術に関する研究奨励賞受賞。