ソロ10年を振り返るにあたり、その前のバンド時代についても、少し触れておこうかなと思う。

「HAPPY BIRTHDAY」という2人組バンドを、2010年に結成した。とにかくおもしろそうだったから、だいすきな親友と組んだ。将来のことなどは何も考えていなかった。すぐに事務所が決まりインディーズでアルバムを1 枚出し、翌年にはメジャーデビューという、すごいスピード感だった。

結成当初

2社のレコード会社からオファーをもらい、すっかり有頂天になった。ひとつはフェスなどを目指しロックバンドとして売り出す路線、もうひとつはJPOPシンガーのような売り出し方の路線だった。

「危険な方を選べ」と岡本太郎も言っているし、やばそうな方に挑戦したい。直感もあって、当時アングラまっしぐらだった私たちは、後者に決めた。変なやつがJPOPで売れる世界の方がかっこいいと思った。そっちの方が、危険で魅力的に見えた。

ライブハウスでの下積みもないので、ファンがほぼ0のような状態でデビューした。無名にも関わらず、ライブの楽屋には毎回、大勢のスタッフがおり、終演後の関係者挨拶もいつも長蛇の列だった。最初に出演したメディアが、地上波TVの有名音楽番組だったことからも、期待の新人扱いだったことがわかる。なにもかもが初めての経験で、右も左もわからず、ただただ流れに流され乗っかっていった。

インディーズ時代

「きささんは天才だから」「きささんの曲はすごい」当時のスタッフの方たちは、私をめいっぱい持ち上げてくれた。 Mステを見ながら「来年はこれに出るんだよ」と言われ、その気になった。「きささんは弦なんか替えなくていいよ」とライブ前にはギターの弦を張り替えてもらい、ローディーさんが完璧にステージセッティングしてくれ、小さな撮影にもヘアメイクさんが何時間もかけて入ってくれた。

無理やりスマホからほじくり出してきた画像。きれいにメイクしていただいている

わざわざ難しそうな道を選んだのだ。一気に頭を切り替え、とりあえずなんでもやってみようと思った。歌詞にアドバイスや訂正が入ることも、作品が良くなるのであれば、と受け入れた。
「嘘でもかわいいと言って」というミニアルバムからがそうだ。

「こうやってまた君に嫌われる」という曲があるのだが、重たい女の子の曲を書くことになっていた。最初は「あなたの髪とパスタを首に巻いて~」などと書いていたが、なにやら全然違うらしかった。何度も訂正を受け、これでもか、これでもか、とどこまでも重たく、しつこくねちねちと書いた。

ある時「「花火に行く約束も結局なくなりそう」という部分を「鎌倉」にしてはどうかな、最近は若い女の子も鎌倉に行くらしい。」と言われ、愕然とした。そんな単語にまで訂正が入るのか。花火という言葉のときめき、儚さ。かまくら…口に出したらわかる、イメージ、文字数、イントネーション…なにもかもが不一致だった。なぜボツになるのか、なぜそこが訂正なのか。私には基準がよくわからなかった。私は鎌倉は女友達と行きたい。

だけど結局気が付けば、ふしぎなことに、自分の経験談を生々しく書いた曲になった。そういうもんなのだ。おもしろいものだと思う。自分が感動する愛しいラインを探して書き続けると、なにやらどれだけ調整しても、自分の出汁ってやつが、嫌ってほど出るらしい。

次第に、求められていることからギリギリ外れないとか、攻めても大人にバレないラインはどこなのかとか、そういうことばかりに集中するようになっていった。細かいことがどんどん気になり神経質になり、1 単語を決めるのに何日もかかった。

アニメのタイアップが立て続けに決まり、一見好調だった頃、声帯結節の手術で活動休止をした。何を作ってもボツばかりで、毎日せっせと自分いじめに勤しんでいる最中だった。お酒と煙草で声はガラガラ、部屋もぐちゃぐちゃ、毎日ほとんど眠れず、そのままリハへ行く日々を繰り返していた。精神的にも限界だった。やっと休める。本心はそうだった。
そのあたりから、少しずつ周りの空気が変わっていった。がっかり、といった雰囲気だった。

自分の置かれている環境の異常さに気付いてはいた。なにかが絶対におかしい。こんな風になにもかも勝手にうまくいくわけがない。私には基礎が何もない。未だにギターの弦も自分で替えられない、コードも全然わからない。

そんな時たまたま、信頼していたスタッフが自分の悪口を言うのを耳にした。周りの大人がいつも自分に見せている笑顔と、本心は違うことを知ったのだった。情けない。反省の日々だった。

筆談になり当時のマネージャーがくれたやつ

声帯手術後、ボイトレの先生に出会わせてもらったことは、人生の転機だった。初回から散々だった。「あいづちや表情、なにもかもが感じ悪い、今すぐ全部変えろ」自分の喋り方を録音して聴き、確かに、とショックを受けた。緊張して、はい。はい。しか言えていないのだった。

その後、何度かカウンセリングのような形で話をし、「あんたには人を喜ばせようっていう愛がない。次、喋り方から何から全部変えてこないともうあんたには会わない!」と言われた。毎回すごく怖かったのだが、全身全霊、とんでもないエネルギーでぶつかってくれる、嘘のないまっすぐな愛を感じていた。誰も言ってくれなかった、私に圧倒的に足りていなかったことが、そこにはあった。もっと早く出会いたかった。あと一年早く出会えていたら。でもそれも含めて運命だったとも思っている。

その日のことを覚えている。必死だった。なんとしてもレッスンを受けたかった。緊張していた。扉を開け、今まで出したことがない声で、目を見開き、別人を演じて挨拶をした。髪型もメイクも変えていった。これが最後のチャンスだった。もう後がない。今思えば、なんてことない、普通の挨拶だったような気もする。

「いいじゃん! よくなった! やればできるじゃん!」はじめて褒めてもらえて、泣きそうにうれしかった。そこから毎日、明るい話し方や態度を練習した。今までの失礼をなんとか挽回したくて、会う人ひとりひとり、全員が課題だった。なにもかもやり直したかった。

正直、歌のレッスンまではほとんど辿り着けなかった。通っている方は紅白に出場するようなアーティストばかりで、私には先の予定があるわけでもなかった。通い続けることができず、自分から連絡もしなくなってしまった。なんとなくうしろめたくて合わせる顔がないと、どうしても今まで書くことができなかったけれど、先生に出会える人生だったことに、感謝している。

復帰後

声帯の手術をするまでは、小さい頃からずっとハスキーで、声が低くてなかなか出なかった。気性が激しく、3、4歳で喉をつぶしたらしい。会話をしていても、ぱっとリアクションを取ることができなかった。手術後からは、びっくりするくらい高い声が出るようになり、即座に思っているリアクションが取れるようになった。人生が変わった。声がスッと出るだけで、こんなにコミュニケーションは楽になるのか。笑えばパッと高い声が出るなんて、はじめての経験だった。新しい声で、新しい生き方を知れたことは、大きな自信になった。

* * *

事務所やレコード会社と契約が切れる頃、ここで終わり、というはっきりとした線引きはなく、なんとなくスタッフの数が減っていき、ライブ後の打ち上げがなくなり、フェードアウトしていった。
活動休止中だった。気付けばだれもいなくて、ここから先は好きにしてね、とポーンと放り出された感じだった。これからどうしよう。毎日考えていた。春だった気がする。

スタジオの廊下。ギターの弦を張り替えてくれる人がいなくなったので、自分で張り替えたら、失敗して逆に巻いていた。本当に、私はまだここからだ、ここがゼロ地点だと思った。

坂口喜咲

坂口喜咲

(さかぐち きさ)
歌手 / 作詞•作曲家

東京都出身。2011年、バンド HAPPY BIRTHDAY のVo.Gt.としてSony Music Associated Recordsよりメジャーデビュー。TVアニメのED曲などを手がけたのち、2015年よりソロ活動を開始。

光と影、強さと繊細さ、両極を描くような楽曲は、長年にわたり女性たちを中心に支持されている。皆さんにハッピーの粉を勝手にふりかける、ハッピーエンジェルきいちゃん。

弾き語りやバンドセットでのライブ活動のほか、楽曲提供、ナレーション、コラム執筆など幅広く活動。