2018年は活動の幅が広がり、いろんなご縁もあって、音楽活動は順調だった。だけど仕事以外の時間は、ほとんど泣いてばかりいた。突然激しい怒りや悲しみの波がやってくると、涙を抑えることができない。ライブの直前でも直後でも関係なく波はやってきた。

パートナーとの最悪な関係はさらに1年続き、2019年、再び決定的なトラブルになり私は完全に心を閉ざした。

遂に終わったらしい。なんだか現実味がなかった。きっと傷付いてしまったからこれからが大変だな。自分のことだが、他人事のように思った。今まで一番近くにいたはずの人は、一晩で私とは無関係の、一番遠い人になった。

こんなにあっけなく終わるのか。最悪な終わり方だった。

髪を切った

何日間か、ひとりで布団の中にいた。恐怖で身体が硬直して動かない。寝返りを打つこともできない。眠ることも食べることもせず、ずっと緊張したまま、外の足音や自転車の音にじっと耳を澄ませていた。すべての音が気になった。自分の布団がカサカサする音すら恐ろしい。

なんだかよくわからないまま、時間だけが過ぎた。さすがにこのままではまずいかもしれない。誰かに助けを求めなくては。だけど私は昔から人に頼ったり甘えたりすることができない、というかやり方がわからなかった。その役割を全て担っていたのが彼だったのだ。私はずっと彼だけを頼りにしてきてしまった。

とにかく誰かに話さなくては。必死に検索をかけて見つけた一番よさそうなカウンセリングルームにメールをすると、運よくすぐに予約が取れ、数日以内に緊急のような形で受け入れてくれた。

本当に運がいいことに、そこでとても素晴らしいカウンセラーの方に出会うことができた。この方がいなかったら、今頃どうなっていたかわからない。

* * *

外に出る緊張で汗だくになり、駆け込むような形でカウンセリングルームに入ったものの、なにをどう話したらいいかわからない。少しずつゆっくり、なにがあったか、言葉にし始めた途端、突然すべてが現実として襲ってきた。頭が真っ白でぼんやりしていたが、すべて現実だった。

私はいつから、こんなにひどい扱いをされる人間になったんだろう。みじめで恥ずかしかった。

この時はまだ、どこかで自分が悪いんじゃないかと思っていた。もしかしたら別れるのはひどいことなのかもしれない。結局いつだって、自分が悪いんだと、ずっとそう信じ込んで生きていた。

あまりに長く付き合ってきたので、もう今更引き返せない、という気持ちもあった。だけど話していくうちに、はっきりと自覚した。私はこの人とずっと別れたかったのだ。何度も何度も、そう言って伝えてきた。
ここからもう一度本気で戦うしかないと、覚悟を決めた。人に頼るのは苦手だが、周りを巻き込んで協力してもらうしかないと思った。

1 回目のカウンセリングを終え、自分の気持ちに気づけた私は、はじめて母に頼ることにした。

母は都内で一人暮らしをしている。LINEすると、すぐに泊めてくれることになった。怯えながら電車に乗って、母の家に着いたとき、久しぶりに力が抜けて安堵した。安心安全がどれだけ素晴らしいことか。私は今まで、恐怖という感情をあまり知らなかったらしい。随分恵まれてここまできたんだなと思った。こんなに知らない感情がまだあったなんて。少しは安心して眠れるかもしれないありがたさ。毎日ずっと緊張していたことに気づいた。

母はとてもやさしく、夜中までただ寄り添って話を聞いてくれた。母にこんな風に助けを求めたのは人生ではじめてだった。基本的に何があっても、今まで家族に頼ろうと思ったことはなかった。というか頼り方がわからなかった。なにがあったのかはどうしても話せなかったが、母は深く追求することもなく、ただ、大変だったね、と受け止めてくれた。

あざらしの人形を洗ってくれた

母は昔からたくさんの豪勢な料理を作ってくれた。今思うと、どう考えてもやりすぎだったとは思う。テーブルには美しく完璧に盛られた料理が何品も並び、揚げ物の下には必ず綺麗にレタスが敷かれ、レモンやパセリが飾られていた。どれも色鮮やかで見た目が美しく、お店のようだった。父はそれでも、なにかしら気に入らないようだった。

高3の時に両親が離婚し、少しずつ変化していく食卓を見て思った。そうか、あれは父のための料理だったんだ。思春期の私は幼くて、極端な発想しかできず黙って拗ねた。それでも母は、忙しくてほとんど家にいない私にも、毎日1日も休まずご飯を作ってくれた。

元々、自分の気持ちを親に言うのは苦手だった。いつからか、食べることは恥ずかしくて醜いような気もして、「これが食べたい」といった願望は、口に出せなくなった。

私は、母の作る肉団子が大好きだった。一度揚げた肉団子(みじん切りのしいたけが入っていておいしい)に中華風の甘酢あんかけがめいっぱいからんでいる。毎日食べたい、何個でも食べたい。今書いていても、なんて手の込んだめんどくさそうな料理だろう。

母も一人暮らしが長くなり、食が細い自分のために手の込んだ料理をすることはだいぶ減っているようだった。私も「あれが食べたい!」と無邪気に言えるような性格ではなかったので、もう母の肉団子は食べられないかもしれないな、と半ば諦めかけていた。だけどこの時、チャンスだと思った。このタイミングを逃したら、もう一生母に甘えられない気がする。

「肉団子が食べたいかも」口に出すと緊張した。かも、というのは私の口癖で、なにかを言い切るとブチ切れる人たちと過ごして身に付けてしまった、相手を怒らせないテクだ。そうじゃない場合もあるかもね、という可能性を常に残しておく。

おこがましいんじゃないか、申し訳ない。すぐにそういう気持ちになってしまう。けれど母は何ひとつ躊躇うことなく、昔のように肉団子を作ってくれた。私は母に、自分の願望を言えたことが、涙が出るほどうれしかった。自覚的に、母に甘えられた瞬間だった。これは私の中で、すごく大きな出来事であり、進歩だった。こんななんてことないことでも、私にとってはずっとひっかかってることだったのだ。

その翌日には、次に大好きなもの、春巻き(まためんどくさそう)を作ってもらい、遠慮なく甘えた。うれしかった。

この頃、もう自分は終わりだと思っていたので、かわいい服を着ることをやめ、メイクもほとんどしない毎日を送っていた。大好きなかわいいものを避け、どんどんこうやって汚いおばさんになるんだ、と受け入れるつもりだった。31歳だった。

母は「何言ってるの、まだまだこれからだよ」と言ってくれた。それは私にとって、すごく希望になる言葉だった。もしかしたら、まだキラキラたのしく生きられるかもしれない。その後、一緒に行った駅ビルで、母にラベンダーカラーの袖がひらひらしたタンクトップを買ってもらった。大学生の子が着るような若々しいやつだ。

こんな服、久しぶりだった。こんなかわいい服、私が着てもいいのかな。私は本当にたくさんのことを制限されていたのだ。やっと自由になれる。今思えばそういう当たり前に思えることすら、いつからか私の生活からは、大きく失われてしまっていた。

なんだかだんだん自分がかわいそうに思えてきた。本当に長いこと、なにをしていたんだろう。

坂口喜咲

坂口喜咲

坂口喜咲(さかぐち きさ)
歌手 / 作詞•作曲家
東京都出身。
2011年、バンド HAPPY BIRTHDAY のVo.Gt.としてデビュー。2015年のバンド解散後からは、本名でソロ活動を開始。弾き語りからバンドセット、楽曲提供やナレーションなど、自由な表現スタイルで活動中。