バンドの活動休止中に弾き語りを始め、すでに相方とは別々でソロ活動をしていた。とにかく自由に音楽を作ってみたくて、ソロの1st Album 『朝が壊れてもあいしてる』を自主で制作していた。周りの方に協力してもらい、バンドセットでの録音と、ひとりで宅録もした。楽しくて夢中になった。

制作しながら、もうバンドには戻れないと気付いてしまった。正直いつか活動再開できたらいいな~とどこかで漠然と思っていた自分もいたのだけれど、もうどう考えても無理だった。

バンドの解散を報告すると、元マネージャーが、「別イベントで押さえていた渋谷クアトロがあるから、その日に解散ライブやる?」と日程を譲ってくれた。そのおかげで運よく、解散ライブをさせてもらうことができた。それがなかったら解散の文章だけを出して、自然消滅のような終わり方だっただろう。

解散ライブは満員だった。それまでのライブは椅子席が多く、じっと泣いてくれているファンの方が多かったが、最後はオールスタンディングで、ステージまでモッシュのように、みんなが泣きながら手を伸ばしてくれた。はじめて、自分たちの熱量をファンのみんなが越えてきてくれる経験をした。泣かないと決めていたので泣かなかった。

その日はライブ中の写真も映像も残っていない。ただ残っているのは、最後に元マネージャーがステージ上からスマホで撮ってくれた、みんなとのボケボケの画質が悪い集合写真1 枚だけだ。

解散ライブの写真

今でもバンド時代の曲はどれも大切に思っている。たまに弾き語りで歌うこともあるし、特に思い入れのある曲(『K』や『しゃかいのごみのうた』) は、何度かバンドセットでも演奏した。

3、4年前までは、バンド時代の曲はバンドセットでは絶対にやらないと決めていた。私なりのバンドや楽曲への敬意のつもりだった。最近ではそのこだわりもほとんどなくなり、喜んでもらえるのであればたまには歌ってもいいかな、くらいに思っている。

作った音源は、当時のみんなの努力の結晶のようにも聴こえる。どれもなかなかできない経験ばかりだった。自分にとって必要な経験だったと今は思っている。

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当時の私は、自分のことしか考えていなかった。自分が売れることが、周りの人のためにもなるんだと本気で勘違いしていた。とにかく売れなくちゃと必死で、自己肯定感が低く、変なプライドだけが高い。人にそれを指摘されても、自分ではよくわからなかった。若さといえばそれまでだけど、相当な世間知らずだったとも言える。

よく頑張ったねとか、大変だったねとか、誰かにそういう言葉をかけてほしかった。こんなに辛いのに、ということをわかってほしかった。どうやったって満たされない。人にしてほしいことでいっぱいで、毎日さびしかった。

わかってほしい、認めてほしい、愛してほしい、今もそういう気持ちがなくなったわけではないけれど、表現の形は変わった。思えば今も昔も、ずっと人間のそういう感情について歌ってきたような気もする。

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音楽を作ることは最高に楽しい。ひたすらに楽しい。ただフリーになってからは、その後が大変な作業だった。

音が完成に近付いてきたら、CDケースの仕様や歌詞カードの枚数、紙質などを決め、CDプレス会社へ見積もりを取る。設定したリリース日に間に合うように、デザイナーさんと打ち合わせをして、ジャケや盤面のデザインしてもらい、完成した音と一緒に入稿する。

ここまでだけでも、大変なのだ。歌詞やクレジットに誤字がないかなど、細かく確認する。何度も歌詞を変え過ぎているので、必ずたくさんミスがある。

アーティスト写真やMV制作のオファーや交渉、打ち合わせなどをして撮影。リリース情報やプロフィールなどをまとめた紙資料を作り、知人や関係者に送り、ナタリーなどのニュースサイトに載せてもらえるように、プレスリリースを出す。

レコ発のライブハウスを押さえ、遠征やツアーをするならその段取りも組む。グッズのデザインや入稿も同時進行だ。私の場合はCDショップ特典などもひとつひとつ手で作ったので、そういう作業もあった。

よくわからないので、こんな感じかな、となんとなく見よう見まねでやった。手伝ってくれる人の好意を無碍にしてしまったり、紙資料をなぜかめちゃめちゃ高品質なフルカラーで発注していたり、失敗もたくさんした。
 
自主制作のCD流通会社(というものがある)に委託をお願いして、タワレコやビレバン、Amazonなどに置いてもらう。ありがたいことに店頭で展開してもらえることになり、いくつかのお店ではインストアライブもさせてもらった。すごく親切にしてもらい、お店も、ひとりひとりの方の想いや気持ちで動いていることを知った。

1stAlbumリリース時はまだCD時代だったこともあり、作った枚数がすぐに売り切れ、すぐ追加発注をかけた。多過ぎるとは思いつつも、1000枚単位でしか発注できず、その後はだよね、というくらい売れ残り、自宅に段ボールを何箱も抱えることになった。しばらくはその段ボールに部屋を占領されながら暮らしたが、何年もかけて、売り切った時は本当にうれしかった。

タワレコさん

この頃はまだ、すぐに新しい事務所やレーベルのような人たちが現れて、助けてくれるんだと思っていた。だけど何年経っても誰からも声はかからず、結構すねたし落ち込んだ。ガッツでがむしゃらにしがみついていく体力はもうなく、とにかく地道にコツコツと自分の音楽をやっていくことにシフトしていった。

私はいつも、どこからか突然ふわ~とやってきた風に、ふわっと乗っかってやってきた。ご縁がある人とはご縁があるし、ないものはなかった。自分の努力が足りないと責めた時期も長かったが、わたしはわたしなりに精一杯やったと思う。これ以上も以下もなくて、もっとできたはず、と思うこともない。これしかできなかった。これでよかったと思う。

ひとつずつ手作業で手描きサインを付けた

1st アルバムリリース日の当日と翌日、ありがたいことにラジオが2本決まっていたのだが、そこで、まさかの40度近く熱が出てしまった。ひとりになってからの大切な仕事で、キャンセルをするにも仕方がわからず、もう当日だ、せっかくもらえたお話、と点滴を打ち、なんとか歩けるくらいになって向かった。

2日共アコギ演奏の予定があり、1 本は公開生放送だった。bayfmが横浜、NACK5は大宮で、都内からどちらも電車で1 時間半くらいかかる。(今調べたらNACK5は大宮駅から徒歩25分だ)また、どちらもちょうど夕方の帰宅ラッシュとかぶってしまい、満員電車でぎゅうぎゅうに揺られながら、立ちっぱなしだった。

途中で吐きそうになり下車し、駅のトイレでしゃがみこんだ。脂汗がダラダラ出た。辿り着けないかもしれない。その場合誰にどうやって連絡したらいいんだろう。今みたいに仕事の人とLINEで繋がってはいなかった。

なんとか辿り着いた先で、寒気と吐き気と闘いながらむりやり公開生放送で弾き語りをし、見にきてくれたファンの方たちと少しお話をして、ひとりでまたアコギを抱えて帰った。泣いた。この頃はアコギのケースが大き過ぎた。なんであんな重たくてでかいケース背負ってたんだろう。今はもうそういうのは疲れたので、小さいギターを軽いケースでらくらく持ち歩いている。

こういう時に、もしもアコギを持ってくれる人がいたらどんなによかったか、ひとりって本当にきついな、と、スタッフの方がいてくれたありがたみを、しみじみと感じたのだった。

発掘してきた写真。本当にきつかった

バンド解散後は、やりたいことをやり、作りたいものを作るためなら、なんでも経験したいと思っていた。世間知らずを痛感していたので、バイトをして全然違う世界を見て、社会勉強のようなこともしてみたかった。とにかくいいものを作りたい。よくないものをこの世に生み出したくない。その一心で、どんどんひとりよがりになり、とんでもない時間と労力をかけて曲を作るようになった。神経質が悪化し、自分で自分をがんじからめにしていった。

活動し始めてすぐ気付いた。自由なはずなのに、全然自由じゃない。何をやってもいいはずなのに、恐怖で動けない。また人に失礼をしているんじゃないか、自分のしていることは間違ってるんじゃないか、という思考が抜けない。

歌詞ももはや、ひとりでどうやって書けばいいのかわからなかった。聴く人の目線ばかりが気になり、自分の目線がわからない。何を感じても、やっぱり自分がおかしいのでは、愛想尽かされるのではないか、と不安になる。元々できたはずのことができない。

毎日歌詞のことを考え過ぎて、逆にうまく書けないので、始めた事務系のバイトを真剣にやってみたり、他人のトラブルに時間とエネルギーを割いたり、お金をわざと計算せずに使って全財産を500円にしてみたり、あえて歌詞から意識を逸らすように生活した。日々はぐちゃぐちゃだった。何をしていても、歌詞になるかな、というネタ探しのために生きているような感じで、頭の中は常にフレーズや単語探しでいっぱいだった。パッと花が咲くようなひらめきや感覚が、突然元に戻ってきてくれることを望んだ。


ライブ活動は、基本的には弾き語りだった。昔の素直な感覚を思い出そうと、フロアの床を転がってみたり、頭を使わず即興をしてみたり、過去の初期衝動のようなものを追いかけてみたが、なにをやってもしっくりはこなかった。昔はエネルギーになっていたはずの怒りも、表現に変える方法がわからなかった。

ライブ中、これだ!と何度か感覚を掴んだ時期もあった。自分でもしっくりきたし、おもしろい!と思った。途中でフロアに降りて好き勝手して、最終的にはステージに戻ってギターを投げ捨てて帰る、みたいな流れだったのだけど、最後の2曲がいつも同じだったので、先が読めてしまい飽きてしまった。テンプレートをくり返すことは全然おもしろくなかった。慣れたらつまらない。

いつも新鮮で、自分自身がわくわくしていることをしたかった。

坂口喜咲

坂口喜咲

(さかぐち きさ)
歌手 / 作詞•作曲家

東京都出身。2011年、バンド HAPPY BIRTHDAY のVo.Gt.としてSony Music Associated Recordsよりメジャーデビュー。TVアニメのED曲などを手がけたのち、2015年よりソロ活動を開始。

光と影、強さと繊細さ、両極を描くような楽曲は、長年にわたり女性たちを中心に支持されている。皆さんにハッピーの粉を勝手にふりかける、ハッピーエンジェルきいちゃん。

弾き語りやバンドセットでのライブ活動のほか、楽曲提供、ナレーション、コラム執筆など幅広く活動。