「ギタ女」という言葉が流行っていた時期がある。今でもそうだが、アコギを持って歌っていると「ギター弾き語り女子」という謎のカテゴリに入れられてしまうことが多い。私はそういうくくり方に興味がなかったし、ファンの方も女性が多かったため、男性向けに作られたであろうそういうムーブに、なにもかもがはまらなかった。「ギタ男」が存在しないことも納得がいかなかった。
一時期「ギタ女」と性別でくくるライブオファーをすべて断っていたことがあり、すると出られるライブがほとんどなくなってしまった。
「ギタ女」の現場には、若い女の子が一生懸命頑張る姿を応援したい、アドバイスをして育てたい、という男性たちが多くいて、私はそういうターゲットから見事に外れていた。金髪で派手な服の私がステージにあがるやいなや、みんな一斉にうつむいて居眠りを始めたり、スマホや腕時計を見て、心の底からつまらなさそうにするのだった。

勿論すべてがそうだったわけではないが、そこで求められているのは基本的には「音楽」ではなく「頑張る女の子」だった。終演後の物販では、女の子たちが一列に横並びにテーブルに立つのだが、彼らは私に決して話しかけてこなかった。まるで存在しないかのように、目をそらして、見て見ぬふりをする。何度も何度も続くと、さすがにみじめで心が折れそうになってくる。
誰もハッピーになれないオファーを受ける私も悪い。断ろう。そうやってライブの本数を減らしていくと、必然的にワンマンライブや自主企画ばかりになっていった。
数少ない一本、絶対に後悔をしたくない。前回より必ずいいライブにする。それができないならステージに立たない方がいいと思っていた。ライブが近付くといつも不安で熱が出た。
毎回反省ノートはびっしりで、目標や改善点などを書き込んでは、達成できたとかできなかったとかで、自分を責めていた。
結果、ライブが怖くてできなくなっていく。私は毎日自分にひどい言葉を投げ続けていた。まったく認めてあげなかったし、とことん意地悪をして厳しくした。精神状態が悪いので、やっぱりもう休もう、となりオファーを断る。ずっとそんなことの繰り返しだった。

この時期、どうしてこんなに追い詰められていたかというと、正直付き合っていた人の影響も大きい。とてもじゃないけど自分のことに打ち込める環境ではなかった。
心が安らぐとか、そういうものとはずっと無縁だった。私はその人との関係にとんでもない時間とエネルギーを割いていた。その人の言動に、私の生活は朝から晩まで大きく左右され、何度本気で別れようとしても、結局むりやり力づくで丸め込まれてしまう。
何度も何度も同じくりかえしで疲れ果て、次第に別れようとする気力を失った。いつか自然と変化の時が来るだろう。今を受け入れ、楽しむ方向に切り替えた方がいい。自分の感情をあきらめて、彼に合わせて生きる覚悟を決めた。どうにもならない。10年近い共依存だった。
20代の私がしてきた選択の多くが、その人の影響下にあった。あまり書きたくはないのだが、どうしても存在なしで書き進めることができそうにない。

私は昔から、人のケアに周りがちな側面があった。そういう面で反省もしていたので、なるべく人のサポートを過度にするようなことは避けていたのだが、ひょんなことから、重度障害者の介助という仕事があることを知る。介護ではなく、介助だ。高齢者介護とはけっこう違う仕事なんじゃないかと思う。
子供と関わったり、福祉系の副業があったらいいなとはずっと思っていた。だが資格もないし、週1、2ではなかなか難しいだろうなと思っていたところで、無資格から始められることを知った。
ある日、ヘルパーを入れて一人暮らしをする、重度障害者の方のご自宅に遊びに行く機会があった。そこではじめて、脳性麻痺の人に出会ったのだ。脳性麻痺とは、出産時やその前後の脳のダメージによって起こる先天性の障害で、手足を動かしづらかったり、言葉を話しづらかったりする。知的障害がある人もいれば一切ない人もいて、障害の重さも人それぞれだ。
その方は私よりずっと年上の男性だったのだが、全介助が必要な、かなり重度の方だった。ベッドに横になり、笑顔でうれしそうに出迎えてくれた。身体障害者と関わったことがなかった私は、どんな感じなのか、全くイメージがついていなかったのだが、そのくしゃくしゃの笑顔を見た瞬間に、ほっと安心して、もっと知ってみたいな、と思った。

どう考えても、私の好きそうな仕事だった。楽しくて素敵な仕事だと言い訳にして、目の前の音楽活動から逃げそうな自分すら見えた。
ならばいっそ本業にできるくらい天職だったらよかったのだが、そうではないこともわかっていた。歌以上に、自分も他人もしあわせにできる仕事はない気がする。福祉で目の前の1 人を笑顔にするより、歌った方がよっぽどたくさんの人を一度に笑顔にできた。なにより自分自身が、歌っている時以上にしあわせな時間、魂が震えて喜ぶような瞬間は、人生で他になかった。
いっそ音楽なんかやめて、この仕事だけでしあわせだと思えたらどんなに楽か、と何度も思ったが、どう考えても自分にそういう道はなさそうだった。
* * *
とりあえずやってみよう。そこから、重度訪問介護に入れる簡単な資格を2日で取り、重度障害者の家事援助や移動支援などをするようになる。後に、初任者研修終了という資格も取った。
表に出る仕事ばかりしてきた私にとって、堂々と人の裏方に回っていい仕事は、とても新鮮だった。そして案の定楽しくて夢中になった。目の前ですぐに喜んでもらえることは、とてもやりがいもあった。
この時期、さまざまな重い障害を持つ方たちに出会ったのだが、彼女たちはなんの偏見もなく、当たり前のようにまっすぐ「私」を受け入れてくれた。誰ひとり、私のことを変な人扱いしなかった。人の評価にさらされ疲れていた私は、すごく救われた。たまに出現してくる、まじめで繊細すぎる私が、ゆっくりのびのびできる時間だった。

ライブで爆発する「動」の時間と、そっと静かに人に寄り添う「静」の時間。それを交互にくりかえすことで、少しずつ心のバランスが取れてきた。交互浴みたいな感じだ。
身体障害者の方は、何に支援が必要なのか視覚的にわかりやすいことも多いが(例えば足が不自由であれば歩行にサポートが必要、など)発達障害や、診断や病名がついていない健常者の生きづらさは、なかなか目に見えずわかりにくいことも多い。
その人の生きづらさや、どこからが障害でどこからが障害じゃないのかとか、そういうのははっきり白黒つけられるようなことではなく、本当にグラデーションなのだと思う。その人の生活や人生にとって、なにが障害となるかは、人それぞれで、きっと時代や住む場所、周りの環境によっても大きく変わってくるんだろう。
2017年に、今もずっとお世話になっている大切な方に出会う。その方は脳性麻痺の当事者でありながら社会福祉士の資格を持ち、一人暮らしをしている。都内でNPO法人を立ち上げ、ヘルパー派遣事業や、同じ障害者の悩みを聞くピアカウンセリングなどに打ち込む彼女は、とても明るく知的でユーモア溢れる魅力的な人だ。誰に対してもいつもやさしく寄り添い、慈愛のある言葉を選んでくれる。
ちょっとした一言から心情を汲み取り、さりげなく声をかけてくれるやさしさに、私自身も何度も救われてきた。「DECEMBER」という曲のMVにも出演してもらった。車椅子で旅行に行き、豪快に酒を飲みまくる。自宅にたくさんの男性陣(かっこいい男性が大好き)を招いて飲み会を開くような、アクティブでパワーのある彼女との出会いで、私ははじめて音楽以外の仕事を続けることができた。
私は昔から、とにかくアルバイトが続けられないタイプだった。嘘をついたり、ずるいことをしたり、人をいじめるような人がいると、しんどくて続けられなくなってしまう。昔から、共通点なくいろんな人がいる輪の中に入ることが、向いていなかった。大体どこに行っても、必ずいじめのようなものを目の当たりにした。発達障害のある人をいじったり、不器用な人を馬鹿にしたりするような風潮が、どうしても我慢できない。そういうことをする人たちと時間を過ごすことは、とても苦痛だった。
なるべくそういう人たちとは、関わらないように生きてきたし、どうしても関わらなくてはいけない時は、正面からぶつかってしまい喧嘩になった。デビュー前10代20代の頃は、ずっと飲食店を転々としていた。
それに比べて重度訪問介護は、一対一ということがよかった。おそらくスタッフがたくさんいるような施設では働けなかったと思う。好きな人と一対一であれば、私の苦手なストレスがひとつもない。彼女の一人暮らしのご自宅へ行き、雑談をしながら、家事や日常生活を手伝う。何も辛いことはなかった。

音楽活動はやりたいことをやり、足りない生活費をこの介助で補う、次第にそういうルーティンができていった。だけれど、いつしか音楽をしていない時間の方が多くなり、ライブも制作もほとんどせず、私はパートナーとの用事やトラブルに多くの時間を割いていた。それでいいのだと、それを自分は望んでいるのだと、思い込んでいた。
本当はいつだって、もっともっと歌が歌いたかった。見て見ぬふりをしていた。だけど私が自分の気持ちを認めたところで、どうすることもできなかった。どうやっても逃げられない。もう一生こうやって生きていくしかないのかな。だけどいつか絶対自由になりたい。どこかでずっとそう思っていた。









