見えない壁
「に、兄さんホンマ冗談きっついわ。アレ、ただの乞食のオバはんやろ。オレこれでもバラモンやで」
えっ、今さら!?
サトシのカミさんがメヘンディ(ヘナアート)をやっているというので、すぐ近くの露店でそれをやっている婦人のことかと問いただしてみると、思いのほか厳しい反応が返ってきた。
カーストが違うよ、と。インド人は古来の身分制度に関してうるさい。これは何千年も続く優越感と劣等感とがワンセットになっているSMチックな娯楽なのだ。ただし一番上と一番下以外の中間層においては、だが。でもそんなこと、今さらカースト外の下賤な僕に言われてもなぁ。
……あ、でもまあ現代日本でいえば学校の名前に異様に執着する人たちみたいなものか。そう考えると身近にもけっこういたよな。医者や商社員の家の坊ちゃんばっかりの高校に通っていたこともあったのだ。
しばらくそういうコミュニティに身を置いていなかったので忘れかけていた。その拡大版と捉えたらいいわけか、つまりは。
とにかく、同じサダルストリートの似たような露店で、インドの神々のシールを売っている彼とヘナアート屋の彼女の間にはそういう僕にはよく見えない壁があるらしかった。
「コルカタのサトシ」といえばバックパッカー界隈では知らぬ者はいないほどの有名人だ。もちろん僕も1990年代から知っていて、少年時代から露店のシール売りを入り口に「何でも屋」としてストリート一本で気ままにやってきた彼の生きざまを「ヤルな」と思っていた。だが意外や意外、インド的なしがらみに縛られてる部分もあるようだ。
……あ、いや、ここは「こんなバラモンおるかいっ!」と、頭をひっぱたきながら突っ込みを入れて欲しかったのかもしれない。なにしろ本人はコッテコテの関西弁を売りにしているのだから。タイミングを逃したか。僕にはそっちのセンスがない。たとえ待ち望まれていたとしても彼の頭を引っ叩くのは躊躇があるのだ。
インドに来てまで難儀なこっちゃで、ホンマ。
とりあえずチャイでもしばこか。
ナガランドへ呼ばれて
メヘンディは都市部の主に上流階級のマダムたちの趣味ということだった。貧乏人は半月ほどで消えてしまうメヘンディにその都度費やすお金はないからだ、とサトシは言う。
インドのカースト=ヴァルナの身分制度の原型は、3500〜4000年も前に白人のアーリア人が北西部のカイバル峠を超えて黒人のドラヴィダ人の地に進出して来たところから始まったとされる。当初は支配者のアーリア人、被支配者のドラヴィダ人という白と黒の2階層だったものが、そのうちに混血が進んで白、茶色、黒の3階層になり、もっと時代を経るにしたがって茶色の中でも薄茶、茶、焦茶というようにどんどん細分化してきたという。
それが個別の職業的な括りと結びついて、さらに何千種類にも分類されたものがジャーティだ。これらの仕組みは後にインドを植民地化したイギリスにとって、バラモンよりもさらに色が白い自分たちの支配を正統化するのに好都合だったため、制度をより強化する形で利用されたのだとも聞いた。
異なるカースト間での結婚をタブー視する風潮は、カーストによる差別を違法とする現在でも根強く残っているのは僕も知っている。自由恋愛で結婚したというインド人夫婦には今まで出会ったことがなかった。全部親が決めた結婚なのだ。
ちなみにこうした親決め婚は世界では圧倒的な主流派だ。日本だってちょっと前までは「つり合う家柄同士」のお見合いが基本だったわけで。結婚式のその日まで相手に会ったこともなかったなんて話も僕の祖父母世代からはよく聞いたものだった。
つまり、ここインドでは今でも肌の色味を見れば身分が分かるのだ。たとえば、ボリウッド映画の白い肌の主役たちは上流階級、セリフのある役柄の茶色の肌の役者は中流階級、背後で踊っているその他大勢の黒い肌のダンサーたちは下流階級というわけだ。
征服者である肌の白い英雄クリシュナが、肌の黒い土着の蛮族の群れを一網打尽に叩きのめす物語に誰もが素直に酔いしれている。白い肌の女神ドゥルガーが、足下に組み敷いた黒い肌のアスラ神を槍で殺害している絵図を皆が有り難がって崇拝している。

Image: Mukerjee / Public Domain (via Wikimedia Commons)
これは、体毛が薄くて目が細い桃太郎が、農耕技術による栽培穀物であるキビ団子を見返りとして家来にした動物たちを従えて、毛深くて二重まぶたの目の鬼たちを退治するという日本の昔話と似たような構図だが、インドは子供向けではないし、もっとダイレクトな表現で熱量も高い。映画館の中では客が総立ちになり歓声を上げて踊りまくるのだ。
「けっきょく、よう似とるいうことやな、インドと日本は」
メヘンディの発色はオレンジがかった茶色なので、そもそも色の濃い肌の上では見えない。だから金があるかどうか以前の問題として、それは土着のドラヴィダ人の文化ではなかったのだと僕は考える。
ヨーロッパに起源を持つ印欧語族であるアーリア人がそれをインド亜大陸に持って来たのだろう。ヘナアートのもうひとつの中心であるアラブ地域に、やはり征服者として南下してきたエーラーン=イラン人はアーリア人と同一の民族と考えられている。
色の濃い肌の人たち、つまりカーストの最下層であるシュードラや、カースト外のかつて不可触民と呼ばれていたダリットの人たちの主な身体装飾はタトゥー=ゴドナだ。黒いタトゥーなら濃い肌色の上でもよく見えるからだ。
漁撈や畑仕事をしている田舎の人、都会の地べたにしゃがみ込む乞食の人にゴドナをよく見かける理由は、彼らが貧乏人だからではなく、ドラヴィダ人の形質が強いからなのだ。だからドラヴィダ系はたとえ金にゆとりがあったとしてもメヘンディはやらない。それがより正確なところだろう。
なお、そのドラヴィダ人たちのタトゥーは、歴史上どこから来たのか現在のところまだよく分かってはいない。これもまたアーリア人がヨーロッパや中央アジアから持って来たのか、それともドラヴィダ人が独自に編み出したものなのか、あるいはモンゴロイドの南下によりアジア方面から波及したものなのだろうか。マサラのように複合化するのもまたインド人の得意技でもある。
今回は北東インドのミャンマー国境沿い、アジアとインドが混ざり合う地域、ナガランド州にタトゥーを見に行くことを伝えた。

2011年の1年間に限り試行的に個人旅行者の入境を許可するという情報をネット上で偶然に見かけて、驚いて二度見した後、残り期間が少ないと分かり、取るものもとりあえず急ぎでやって来たのだ。およそ10年ぶりのインドだった。今考えても何がどうなってそんなマイナーな情報に偶然アクセスしたのかが不思議でならない。
「またインドに呼ばれてしもうたんやなぁ(笑)……頭、盗られんように気いつけてな」
サトシはタトゥーの入った腕を振った。
おおきにやで。またな。
酒を求めて越える州境
いつも通り2等寝台列車に乗って北東部に向かった。ネパールとバングラデシュに挟み込まれてインドの形がちぎれそうなぐらいに細くなる部分にある街、シリグリで一旦降りてみた。べつに何の目当てがあるわけでもなかったが、ふと、シッキムに行ってみようと思ったのだ。まだ行ったことがなかった。
シッキムはネパールとブータンに挟まれた土地で、かつてはチベットの属国のひとつのシッキム王国という国だったものが、いろいろあった末に1975年にインドのシッキム州になった。それぐらいしか知らない。
シリグリからミニバスでダージリンに入り、さまざまな上品で美味い紅茶を飲み、鉄道オタク垂涎の的である大英帝国スタイルのレトロな高山鉄道に乗り、またミニバスで山道を登っていく。

Felixferiatravel(https://www.felixferiatravel.com/blogs/discover-the-top-10-best-places-to-visit-in-sikkim)
州境の検問ゲートを越えると、道路脇におびただしい数の酒屋が出現した。ヒンドゥー教やイスラム教では酒は禁忌だが、シッキムは仏教徒のエリアなのでこうして大っぴらに酒を売っている。これらの店では世界のさまざまな酒を扱っているようで、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒がこっそりと買いに来るのだ。ワインやウイスキーや日本酒なんてインドのほかの地域ではまずお目にかかれないシロモノだ。彼らは酒を買うためだけの目的でシッキムに来ていて、買ったらすぐに帰る。だから州境を越えたすぐのところに酒屋が密集しているというわけなのだ。
じつはインド人は酒好きだ。どこでも手に入って、古代からの伝統としてヒンドゥーからもイスラムからも容認されているマリファナペーストのバングーを使った飲み物の「バングラッシー」なんかまったく目じゃないくらいに酒が大好きなのだ。どうにかこうにかして酒を飲みたいものだからエタノールとメタノールの違いもよく分からずに密造し、毎年ものすごい人数の死者が出ているほどだ。
僕もヒッピーの頃はそういう怪しい密造酒を、街の外れの怪しい密売所まで買いに行って、インド人仲間と飲むことが折につけてあった。飲酒という行為に後ろめたい気持ちがあって酔うとそれが反転するからなのか、あるいはたまにしか手に入らない貴重品だから適度な量が分からないのか、はたまたそれが間違って混入したメタノールの毒性なのか、泥酔してやらかしてしまう人がけっこう多い印象だった。
やっぱり抑圧的な政策はろくなことにならない気がする。強く禁止されればされるほど、その物事の魅力が実質以上に増すというのも人の心だ。
一方で日本の若い世代はもう酒を飲まなくなってきている。うちの忘年会なんかでも、気がつくと飲んでいるのは僕と彫あいとカケハシ君などのオッサン組だけで、二十代の若手スタッフたちは烏龍茶だったりする。
そのかわりなのか何なのか、日本では毎年ものすごい人数の有望な学び手や働き手たちが、たかがマリファナごときで逮捕されてそれまで積み重ねてきたキャリアを失っているわけだが、社会にとっては本当に勿体ない大きな損失だろうと思う。
1996年のマナリ
ぐねぐねに蛇行した峠道の果てに州都ガントクに到着した。平地のない山肌に、建物が、街が、びっしりとへばりついている異景。山に一国の首都を作ると、つまりこうなるわけなのか。
一つひとつの建物の雰囲気もインドの平野部とはかなり違う。古くからの木造建築だけではなく、新しいビルも。マナリやカトマンドゥともまた違う。5〜7階建てのほとんど同じようなサイズの小さなビルがひしめき合っていて、どれもが斜面を利して上層階からも外に出られるようになっている。それがきっと一般的な住み家のスタイルなのだろう。メインの通り沿いの、ひときわ大きくて調子の良さそうなホテルにチェックインした。
さっそくホテルの一階のレストランでバター茶を飲んだ。これは茶とはいっても味噌汁ほどの塩分がある。ヤクのバターはこってりとしていて、頭皮の毛穴からさっそく脂が滲み出てくる感じがする。街を歩きながら人々の顔を見てすでに感じていたのだが、ここはやはりチベット文化圏なのだ。
ホテルの女将と世間話をしていると、やがて共通の知り合いがいることが分かった。女将は結婚前はゴアでパーティーフリークをやって遊んでいたとのことだった。ちょうど僕がゴアを去った後の時代だ。絵描きをしている旦那もそうだったらしい。
成り行きで昼飯に招待され、ホテルの屋上のペントハウスを訪ねた。歴史を感じさせる調度品がさりげなく配された豪華な家だ。服も髪型もちょっとオーバーなぐらいちゃんとした7〜9才ぐらいの肥満の男の子がそつなく英語で挨拶してきた。きっとものすごい金持ちなのだろう。
「パーティーフリークあるある話」だ。上流も中流も、下流も不可触民ヒッピーも、そして人種や肌の色の分け隔てもなく、ごった混ぜになって遊ぶのがトランスパーティーなのだ。そしてとりわけシーンに長逗留する者たちは、金がたくさんあるか、まったくないかのどっちかの場合が多いのだ。
アーティストの旦那が現れて、自己紹介し合った後でアトリエに案内された。アメリカのセレブばりにフィットネスでピカピカの筋肉と快活で眩しめの笑顔の持ち主だった。僕の周りの絵描きたちとはかなり違う。
彼の絵はなんというか、ギーガーとエッシャーの混ざり合ったような作風だった。まあ、つまり、凄くブッ飛んでいるということだ。僕にはよく分かりますよ、この感じ。でもこの国じゃあさぞかし売れないでしょ。でもこの際、関係ないのかな、金の話は。
階下のレストランにオーダーしたスペシャルメニューが並ぶ食卓を囲んでもっと話し込んだ。
「僕がアーティストとして今の作風にたどり着いた大きなきっかけとして、1996年のマナリの体験を抜きにして語ることはできません。すごい偶然なのですが、あなたと同じタクという名前の日本人で、しかもあなた同様にタトゥー彫師だった人に、H.R.ギーガーの画集を見せてもらったんですよ」
……うーん……僕しか考えられないですね、そのタクっていう人。1996年のマナリでしょ。僕、確かにいましたよ。ギーガーの画集って『ネクロノミコン』のことでしょ。持ってましたよ、その頃。
「いやいやいや、違うんですよ。タクはもっと痩せている人で、いつもキラーループのサングラスをかけてエイリアンみたいな感じのルックスで、ギャングのグループのボス的な存在で、なかなか近寄りがたい男なんです」
1996年ということは、僕は26才だからたぶん50kg台の前半の体重、ひょっとしたら40kg台後半だったかもしれない。今、41才で85kgだからね。そりゃルックスもかなり違うだろうよ。キラーループのサングラスもかけてたよ。よくブランドまで覚えているね。バンコクで買ったやつ。フレームがオフホワイトでちょっとヒビ割れたような模様が薄っすら入ったやつだ。懐かしいなぁ。あれ、僕の目元周りの形にすごくフィットして気に入ってたんだよなぁ。
彼は衝撃を受けた様子で、その頃のもっと細かいいきさつを説明した。僕もだんだんと記憶が甦ってきた。
思い出したぞ。デリーから来たというガリガリに痩せこけた汚ったない美大生。そこらへんで野宿していて、パーティーでアシッドを買う金を用立てるためにマナリのタウンで靴を売っぱらってしまって、裸足で過ごしていた奴。
たしか、それを見かねた僕の仲間がサンダルを買い与えていたっけ。そうだ、ある日そいつが韓国人のJという男に連れられて僕のタトゥースタジオに来て、ギーガーの画集を見せたらどえらく感動していたのだった。
ていうか、キミの見かけの方がよっぽど見違えると思うぞ、はっきりいって。おいおいおい、自分で分かってないのかよ。
ギャグだ。完全にギャグだ。全員で大笑いした。
それにつけても、ギャングのボスか……。……たしかに取り巻きみたいな仲間がたくさんいた。僕は何かにつけて1人で気ままにやっていくのが好きなので、本来決して群れるタイプではない。
でも、その頃は何故だかいつの間にか人に囲まれていた。それはたしかに、ただの和気あいあいとした仲良しグループなどではなく、何かしらの不穏な空気を纏っていたのかもしれない。若い男たちの群れがそういうふうに見られるのは仕方がない面もあるだろう。僕は自分の意思とは関係なく勝手にその集団の神輿に乗せられて担がれていたのだ。
僕は今までの人生において特定の誰かに対して憧れたり崇拝したりしたことがない。たとえば、世の中のその時々の歌手とか俳優などに心酔するという気持ちを味わったことがないのだ。
音楽や映画は楽しいけれど、それをやっている人自体に特別な思い入れはない。たぶん世の中の半分くらいはそういうタイプで、それ自体は特段に珍しいことではないと思う。そういう人間たちは思い思いにバラけて生きていけば良いのだ。
問題となってくるのは、そういうタイプの人間が、一方的に誰かから崇められてしまった場合だ。自分自身が誰かを崇めたことがないわけだから、その力学やシステムを理解できないし、スムーズに対応するなんて無理なのだ。そうやってモゴモゴと躊躇している間にも、冷たいところがまた最高、みたいな曲解によってさらに人数が増えていく。僕と同じような服を着て、同じような発言をする人々が。
まるで珍しい教義の新興宗教団体だった。そういう団体ではこれも定番だと思うが、内部と外部の間に変な対立軸を作ったり、僕との距離感を巡る嫉妬心で内部に諍いが起きたりもする。
自由が好きだから旅をしているのに、いつしか妙なことになっていた。「もう放っておいてくれ」というボキャブラリーの適切な使いどころを修得するまではその変な感じがずっと続いた。苦い思い出だ。以来そういう匂いに僕は敏感になった。









