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2022.04.05

06 やまさんと私

南阿沙美

写真集『MATSUOKA!』『島根のOL』で注目される写真家・南阿沙美が心動かされた「ふたり」をテーマにしたエッセイ連載。友人、夫婦、ユニット、親子、人と動物など、属性を超えて、ふたりのあいだの気配を描き出す。毎月2回更新予定。

やまさんと私

中学の国語の授業で、やまさんの詩の朗読は、こころを込めた自分の朗読をしていて、なんとなく照れがある私は、聞いているとちょっとむずむずするような感覚もあった。
今思い出しても、そのとき私と同じセーラー服を着たやまさんはおとなっぽかった。とても落ち着いていて、えくぼが可愛かった。
私たちが通っていた中学校は、3つの小学校から児童たちが集まって7クラスあった。彼女は真理絵ちゃん、という可愛らしい名前だったが小学校のときの名字由来のあだ名“やまさん”を引き継いでしまっていたので、出会ったときには既にギャップのある呼び名だったが私たちもそう呼んでいた。
彼女はリコーダー部に所属していて、私たちの中学はリコーダー部が強くてたしか北海道のコンクールでも金賞とか銀賞とか、代々良い成績を納めていた。私は陸上部で、100mハードルで北海道ではそこそこ良い成績だったので、高校は陸上部の先生に声をかけられたがスポーツ推薦というものはなかったので、一般の推薦入学で、文系の学科を受験し合格した。
うちの中学からは、十数人が同じ高校に入ったと思う。少し変わった高校で、普通科の他に国際文化科とか、流通サービス科とか、だいたいそれぞれ1、2クラスくらいの5学科でひと学年で、札幌や石狩、北海道の色々なところから生徒が集まっていた。
私と同じ国際文化科のもうひとクラスにはやまさんがいて、高校の友人には“真理絵”と呼ばれていた。
同じく小学校、中学校から同じでおやじっぽかったという由来で“おっちゃん”と呼ばれていたK二くんは、高校では“K二くん”と呼ばれ、私や同じ中学だった友だちが「おっちゃん!」と呼ぶと「おっちゃんって言うな」と脱おっちゃんを図り、成功していた。
春夏秋は自転車で30分ほどこいで通学することが多かった。冬は雪が降るので、バスを2本乗り継いで通った。
ときどき同じバスにやまさんもいて、静かに本を読んでいたと思う。
この高校はヘンなデザインのブレザーと裾にヘンなラインが入ったスカートで、私だけではなくそもそも似合う人はあまりいなかったけど、私もやまさんもその制服に身を包んでいた。
会うと少し言葉を交わすくらいで、2人で遊んだりじっくり何か話すことはなく、高校卒業後はおそらく大学に進んだのだろうが、どこに進学したのか、どういった道を進むのかは知らなかった。

私は高校卒業後は札幌の美術科のある短期大学に進み、そこで写真に少し触れ、卒業後はアルバイトをしながら写真を撮ったり写真展をしたりして、20代半ばで東京に移り住んだ。
30代を過ぎ、久しぶりに札幌で写真展が決まった。
「MATSUOKA!」は2014年に写真新世紀で優秀賞をもらった作品で、一人の半袖短パンの女性を春夏秋冬色々な場所で撮影したものだった。
そのときには写真を初めて12年くらい経ち、それまでの、写真に頼って自分の感情を重ねるような写真はやめて、ただ強くて美しい、「MATSUOKA!」という写真そのもので写真をぶっとばせるようなものを撮りたいと思って発表したシリーズだった。
発表したことで、写真を見た人の顔や言葉から、私はMATSUOKA!でやりたかった写真が、私から言葉を投げかけるよりも早いスピードで見る人に伝わっているのがわかった。
東京での展覧会の後、翌年の2015年の3月、札幌のsalon cojicaで「MATSUOKA!」の個展。設営をしてオープニングをして数日は札幌で過ごし、また東京に戻った。

 

3月いっぱいでの個展は終わり、4月の半ばころ、Facebookのメッセンジャーで〝羽根川真理絵〟という人からメッセージがきていることに気がついた。
メッセージは個展の最終日である3月31日、元々Facebookで繋がっていなかったせいもありすぐには気が付かなかった。
羽川さんは元・山内さん、やまさんだった。
「偶然あーちゃんの名前を発見しちゃって(笑)今日ギリギリセーフで写真展見てきました。すごくエネルギッシュな写真だった。ありがとう。」
新聞で写真展の記事を見つけて、最終日に見にきてくれたようだ。嬉しいなあと思いながらそこからFacebookのやまさんの投稿を見ると、男の子のママになっていることがわかった。
私が、
「やまさん!!今メッセージ気がついた!見に来てくれたんだね、ありがとう。今ママになっているんだね、すごいなあ。」
と送ると、
「あーちゃん、メッセージありがとう。なんとか母になったけど実は子どもを産んだ直後ガンが見つかって。もう手術、放射線も無理なかんじのかなり進行しちゃったガンで、医者には余命……とかいう話もされてさ。そんなかんじなもんで、食事療法やら、気功やらお灸やら、もうありとあらゆる民間療法試しながらなんとか入院もせず3年目さ(笑)人生何が起こるかわからないね。」

悪性褐色細胞腫というかなり珍しいガンで、副腎からリンパ節に複数転移してしまっている、という。
15年会ってないクラスメイトは、Facebookだけ見ると社会に出て仕事をばりばりやり、結婚をして子を産んで、とても順調のように見えたが身体はそうではなかった。
今度写真撮ってー、と言われ、その夏に札幌に帰る予定もあったので、会いにいった。

私たちの地元の西野、という地域は、札幌でも山のほうでクマも出るところだった。
山が近くて緑も豊か、家の前にはよくキツネも現れた。
やまさんが今住んでいるのは、西野よりさらに山側の福井という地域で、久しぶりに乗る地元の路線のバスはずっと上り坂の道のりで、バスの窓からの山や、変わったり変わってなかったりする建物を眺めながら15年ぶりに会うやまさんのことを考えていた。

やまさんは一軒家のすてきな家に住んでいて、リビングの大きな窓の向こうは、私も10代の頃よく訪れた発寒川に合流する左股川と福井緑地がある。家の窓を空けたら家の庭と地続きで緑地なので、まるでずっとずっと広がる緑がこの家の庭のように見えて興奮した。
青いワンピースを着たやまさんはぜんぜん変わらなくて、中学高校のときより今の年齢のほうがむしろ似合っていて、やっと年齢がやまさんに追いついたという感じがした。笑うえくぼは相変わらずで可愛らしかった。病気のせいか腕は細くなっていて、お腹は腹水でまんまるだった。
2階にいたお母さんが控えめに出てきてくれて挨拶をした。少し心配な様子だった。黒猫もいた。旦那さんはお仕事で、3歳のれいくんと、おしゃべりをしながら外に散歩に出かけ、写真を撮った。
れいくんは奇跡の子だという。産んでから3ヵ月で病気がわかった。もし妊娠中にわかっていたられいくんを諦めて治療か、産むかという選択を迫られていたらしかった。よく生まれてきてくれた、と山さんはれいくんを見つめながら言った。
病気になってからは、何もかも恨めしい時期が長く、あの人は病気じゃないんだからいいなあ、とか、好きなことやって羨ましいとか、どうして自分は病気になったんだろう、と考えてしまい、仲の良い友だちにも会いたいと思えない日々が続いたという。だけどそれをようやく乗り越えたところで、「MATSUOKA!」の写真を見て、そんな気分にもならないようなエネルギーを感じて、会いたいと思ってくれたと言う。
私にとってもこんな嬉しいことないよ。
久しぶりに会ったやまさんは美しく、素直にそれを伝えると、「病気は治ってないけど健康になりたい。病気を持っていることと健康であることは両立出来る気がして、健康美というか、目にエネルギーみたいなものがほしいなとか。身体をしっかりつくりたい。だから美しいと言われてお世辞でも嬉しい。」


9月になり、東京は残暑が続くが札幌はもう肌寒くなってきている頃、そのときの写真を送ると、本当に喜んでくれた。
Facebookの投稿でも送った写真と、そして私との再会のことが書いてあった。
「写真展で写真を見て、今まで親友にすら会いたくなかったりしたのに会いたいなと思った。15年以上会ってないのに、仲良かったわけでもない人と会いたくなったりするんだね(笑)
そんなわけでこないだ再会した。彼女は変わんないかんじで、山のようなカメラ道具背負ってわざわざうちまできてくれて、写真をとってくれた。写真とりながら話して、近所散歩しただけなんだけどなんかすごくいい時間だった。写真できたよー!って届いたの見てビックリ…子どももたくさん撮ってくれたけど、自分ってこんな顔するんだなあと…生き方が顔に出てるのだとしたら、私の生き方は結構いいのかも、と自分で思えた。心のこもった手紙も、すごく嬉しかった。あーちゃんありがとう!写真って、生き方を肯定してくれたりもするんだねー…」

その11月の終わりころに、やまさんは天国に行ってしまった。
15年ぶりの再会が最後になった。私はそれから、寝る前や朝起きたときにやまさんのことを考えることが多くなった。これまでの私の生活に、人生に、やまさんが度々登場していたわけではなかったけど、いまここは、やまさんがいない世界なのか、と思うのだった。

翌年の9月、私はやまさんの旦那さんに連絡をしておうちのお仏壇に手を合わせにお邪魔させてもらった。
れいくんは4歳になっていて、初めて会う旦那さんはやまさんのことを“まりえさん”と呼んでいた。
「冷蔵庫に、まりえさんが浸けたらっきょうがあるんです。」
とても不思議な気分だった。やまさんはもういないけどやまさんのらっきょうがこれから食べられるのだ。
どうやららっきょうというのは、おいしくなるのは浸けてから3年後らしい。
らっきょうは3年後だけれど、誰かの言った言葉とか、歌だとか、時間がたったり自分の状況や環境が変わると違ってみえることがある。
今も私は、ときどきやまさんのことを思い出す。
中学生のときの詩の朗読をするやまさん、高校生のころ廊下で見かけたやまさん、再会した夏のやまさん。
思い出した日の天気で、やまさんの顔に当たる光も違って見える。そして悔しそうな日もあれば幸福そうな顔の日もある。
私たちは混ざりあって生きているのかも知れない。

南阿沙美

Asami MINAMI
写真家。写真集『MATSUOKA!』(Pipe Publishing 2019)『島根のOL』(salon cojica 2019)。
ホームレス支援活動もしておりみなさまの捨てるのもったいない不要品回収中!

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