喘息がどうにもしんどい。
 大学病院で2ヶ月に一度、注射を打ち薬もたんまり貰っているけれど、一向に良くならない。もう、医者通いをやめようかとも思う。発作時に飲む薬や吸入薬が無ければ、切実に生命が危うい。薬が効かないのではなく、もう自分の身体には体力がないのだろうか。
 元気な時は昼間から激しいセックスをやり、自転車で街を走り回りサウナに行き、夜遅くまで遊んでたりする。
 かと思えば、特に運動もしていないのに、発作で息苦しくなる。
 そんな状況にうんざりしてきた。
 今、2ヶ月に一度打ってる注射は、重症患者向けの治療で、ひとり親家庭の公金の補助で殆どタダ同然で受けられる。新薬なので通常ならとても払える金額ではない。補助がなくなれば高額療養費制度を使うしかないけど、それでも数万円は掛かりそうだ。
 子供が成人して巣立ったら、生活保護を申請してそれが通れば医療費はタダとなるから、注射も打てる。
 誰にも会わずに、隠遁した生活を送ってみるのも良いかもしれない。
 身体が弱ってくると、そんなことばかり考えてしまう。

 10年前は何をやっていたのかなあと思い出してみたら、当時は倉庫でバイトをしていた。
 急に息子を引き取ることになり、タウンワークか何かで探した仕事だった。
 まだ息子は保育園に通っていたので、送り迎えに間に合う時間帯の仕事しか出来なかった。
 今思えば、ハローワークでゆっくりと正社員の仕事を探しても良かったとも思うが、子供の病気で早退や欠勤はしにくい。まだ当時は働き方改革が施行される前だったので、時間通りに退勤できるとは思えなかったので、学歴も何の資格も取り柄もない自分には苦しかったけどバイトしか選択肢はなかった。
 立ち仕事で9時から18時まで働いて、保育園に息子を朝一番の7時半に送って、お迎えはギリギリの19時半前に行ってた。
 あの頃は、体力あったんだなあと思う。喘息は持病ではあったけど、今思えばたいして出てなかった。

 その倉庫は大手運送会社関連のもので、自分が配属されたのは外資系のアパレルの倉庫だった。
 どういう仕組みなのかはわからないが、ブランドものの洋服がかなりディスカウントされて販売されていた人気の会員制ファミリーセールのサイトで、商品がその倉庫に入ったばかりで、最初はなかなか混乱していた。
 自分みたいにレギュラーで勤務している人間は半分くらいで、後はその日の物量によって派遣バイトで来ている人たちだった。商品のピッキング、梱包などをやっていた。
 社員の人の中には稀にいいひともいたけど、ドライバー上がりの気性の激しいひとや、とにかく1日の荷物量とコストに追われてか、みんなピリピリしていて、バイトの人たちには厳しかった。
 虫を殺すような目で、よく睨まれた。デスクに座って主にパソコンに向かってる彼らからすると、バイトなんてただ立ち仕事をこなすしか能がないどうしようもない人種だと認識してるんだろう。そう思わないと、きっと彼らも仕事としてやっていけないんだろうなとはわかっていた。
 短い時間帯勤務のパートの主婦たちは、割と穏やかで、休みの日は連れ立ってピクニックに行ったりもしていて仲が良さそうだった。倉庫の辺りは、都内でも一等地なので、生活自体にはある程度ゆとりのある主婦たちだったようだ。
 男のバイトは独特な人たちばかりだった。地元にずっといて金には困ってないやつか、社員にもなれず、ただ身体を使ってしか稼げないひとたち、本業は占い師と言ってた胡散臭いひと、自分みたいなひとり親家庭の人間なんか他にいないし、相当おかしいと思われていたと思う。時給は安かった。
 平日は倉庫で働き、土日のどちらかはライブをやって、何とか稼いでいたのか。
 今思い返しても、暗黒期だったなあと思う。
 現場でちょこちょこ会話するようになったひとはいたけど、その誰ともちゃんと連絡先を交換などしていないのは、今になって寂しいなと思う。よく一緒に仕事していた綺麗な主婦の人たちなど、元気かなあとたまに思いだす。
 
 そんな中で、このひとにはもう一度会いたいと強く思うひとがいる。
 岸さん。
 男性。
 下の名前は覚えていない。
 年齢は自分より、少し下くらいか。
 髪は白髪混じりだったけど、いつもスポーツ刈りで綺麗にしていた。 
 岸さんは、誰とも話をしていなかった。
 声を掛けると、一瞬必ずギョッとされる。怒られたりすることを想定していたのかなあと、切なくなる。おそらく、これまでの人生経験からか、そういう習性を得てしまったのかなと思う。
 とにかく岸さんは一心不乱に仕事をしていたが、それは全くひととの関わりを断ち、私語なんて交わさず、1日ただ働きに来て帰る、という感じだった。
 朝、朝礼の前、殺伐とした倉庫にみんなが集まり、そのちょっとした時間にある時から岸さんに話しかけるようになった。
 話しかけると岸さんは、決まって少しギョッとするのだが、だんだんそれはなくなった。
 話すといつも笑顔を見せてくれるようになった。
 倉庫の辺りが地元で、妹さんと二人で暮らしてること。
 今思い出しても、それくらいしか岸さんの情報はなかった。
 他のセクションでリーダー的なバイトの韓国人のひとから「岸さんと何話すんですか?」と笑われながら言われたりした。
 岸さんはその職場では、皆に全く無視されていた。
 思えば、自分はそういう人間と割と仲良くなった。小学校や中学校の頃のこと。保護者同士で仲良さそうな出来のよい子供よりも、なにか親に問題があったり、陰があったりして、クラスの端っこにいるような子供に自然と近づいていた。
 その頃はまだ勉強などで落ちこぼれたりしていなかったが、自分には吃音があったので、どうせまともな大人にはなれないんだろうなあという予感があった。その予感は、悲しいくらいに当たってしまうのだけど。
 その倉庫で、2、3年は働いていただろうか。とにかく面白くはなく、やたらと怒るバイトにキレられたり、ロクなことはなかった。
 時々、息子が発熱をして、休んだり、早退もした。ズル休みも時々した。仕事に向かうつもりが、朝から映画を観たりしていた。弁当を毎日作っていた。職場で食べる時は普通に食べてた弁当がズル休みをして、外で食べたらやたら不味かったことを強く覚えている。食べる場所によって、なんでこんなに味が違うんだろうと思った。
 その頃は、多少病んでいたのかもしれない。
 息子にちょっとした出来事があり、これは母親の力を借りなければどうしようもないという時に異国にいた元妻に連絡したが、2年ほど何も返信がなかった。
 どんどん追い詰められていって、よく破綻しなかったと思う。
 それはやっぱり大した金にならなくても、ずっと音楽活動を続けていたからで、友人や仲間はいた。その頃作っていた曲は、沈鬱な曲が多く、あまり思い出さない。

 職場を辞めることになって、岸さんにそのことを話すと「寂しくなりますね」と言われたことをはっきりと覚えてる。
 岸さんが好きだったのは、いつも綺麗だったから。彼は孤独だったけれど、その身に纏った空気はいつも綺麗だった。
 自分が音楽をやってるとか、話したことはない。ただ、その職場で同じ身体を使う同僚として付き合っていたし、それで良かった。
 人生で何を残してきたかと問われると、「特に何もありません」としか答えられないけれど、あの時、岸さんに「寂しくなりますね」と言われた時の胸を締めつけるような、はかない思いに駆られたことは忘れられない気がする。
 とても小さなことだけど、自分が生きてきた証がその言葉に残されたと思っている。
 今でも時々朝の寝起きに、あの倉庫の光景を思い出す時がある。
 新幹線に乗って東京へ行き、倉庫の前まで行く。
夕刻に倉庫から退勤して、リュックを背負ってひとりで駅まで歩く岸さんを探し出して会いたい。
 だけど、ゆっくり目が覚めるとそんな気持ちも薄れ、喘息の軽い発作を抑える吸入薬を吸って、落ち着いてしまう。
 せつない朝には慣れてしまった。

豊田道倫

豊田道倫

とよたみちのり

1970年生まれ。1995年にTIME BOMBからパラダイス・ガラージ名義でCDデビュー。以後、ソロ名義含めて多くのアルバムを発表。単行本は2冊発表。
スタジオ盤『大阪においでよ』(25時)を3月20日に発売。

photo by 倉科直弘