バロン・ド・メイヤーをめぐる伝説

『ハーパーズ・バザー』も『ヴォーグ』も、19世紀から写真を用いていた。とはいえ、それはソーシャライト(社会的地位や名声のある女性)のポートレートだったり、当時のファッショニスタたちが一堂に会する社交の場である競馬場での街頭スナップなどにすぎない。そうした状況を変えたのが、最初のファッション写真家とも称されるアドルフ・ド・メイヤーの登場だった。

メイヤーは、ファッション誌史上初めて、特定の雑誌の専属写真家になった人物としてなかば伝説化されている。例えば、『ヴォーグ』の歴史を記した『イン・ヴォーグ』ではこのように語られる。

ド・メイヤーと『ヴォーグ』との関係が正式に結ばれたのは、第一次世界大戦が勃発し、彼がアメリカに亡命した1914年のことだった。彼はナストと専属契約を結び、当時の写真家としては天文学的な金額とされた週給100ドルで撮影した。すぐにド・メイヤーの背景、照明技術、女性とその服装の表現方法が雑誌の性格を変えたのである。1

専属写真家と言われると、どんな印象を抱くだろうか。売れっ子写真家が独占的にアサインされ、ハイセンスな写真はライバル誌を凌駕し、雑誌の中はメイヤー写真で埋め尽くされる……といったところだろうか。1913年中に3つの号に写真を掲載したのち、正式契約に至ったとされる1914年になると、早速1月1日号を皮切りに、2月1日号、2月15日号と、1点から数点の写真を掲載している。ところが、その後はとんと誌面に現れなくなる。前年の9月にコンデ・ナストが創刊した『ヴォーグ』の姉妹誌『ヴァニティ・フェア』のためにもときおり写真を撮り下ろすことがあるものの、結局この年の本家『ヴォーグ』にはその後、11月1日号と12月1日号に1点ずつ写真を掲載しているにとどまる。これはいったいどうしたことか? たしかに、撮影してから現像、プリントを行い、それを元に印刷用の版を起こす作業には手間がかるので、隔週刊というタイトな刊行サイクルの中で一人の写真家の写真を大量に掲載することに無理があるというのは理解できる。とはいえ、結論から言うと、『ヴォーグ』自体がメイヤーをどう使うのがもっとも効果的なのかを判断しきれず、持て余していたのでないかという印象を受けるのだ。

というのも、メイヤーが優れた技量をもった肖像写真家だということはまぎれもない事実であっても、この時期のファッション誌のイメージはほとんどが人気イラストレーターによるイラストだったのである。まださして印刷のクオリティが高くない当時にあっては、衣服のディテールを伝えるのは明らかにイラストに任せるほうがよかった。さらにいえば、ファッション写真というジャンル自体がまだ明確に成立していなかったのだから、モデルに衣装を着せてポーズを取らせ、ドラマティックなライティングでパトゥやランバン、キャロといったパリの一流メゾンの雰囲気を伝える写真がどういうものかなど、編集者の側もなかなか想像できなかったのではないだろうか。

メイヤーがこのころ、コンデ・ナストにどのように関わっていたのかが伝わってくる興味深い資料がある。『ヴォーグ』1915年2月1日号に掲載された『ヴァニティ・フェア』の自社広告である。

「カルメン」役のジェラルディン・ファラー嬢の驚くべき衣装のポートレート4点が、現代最高の写真家として知られるバロン・ド・メイヤーによって『ヴァニティ・フェア』のために特別に撮影されました。
 これらのポートレートは2月号に、グラビア印刷によって特別な用紙で4ページにわたって掲載されています。これほど魅力的で貴重なプリマドンナのポートレートはほかにありません。特殊な加工は、オリジナルの繊細さと際立った特徴を十分に引き出しています。雑誌から簡単に切り離せるこの一式は、保存して額装する価値があるものです。

メイヤーはもともと、当代一流の女優サラ・ベルナールやニジンスキーのバレエを撮影したことなどをきっかけにヨーロッパではその名が知られる存在となった。その彼の技術をまだファッション・ジャーナリズムに十分に生かす術を見出せていないコンデ・ナストにとって、「現代最高の写真家、バロン・ド・メイヤー」という名声はとりわけ重要なものだったろう。彼の写真は必ず「Photograph by Baron de Meyer」とクレジットされていて、アメリカには存在しない男爵の称号や、貴族であることを示す「ド」はフランスに対するそこはかとない憧憬と魅力をもっていたに違いない。なにしろ、この時期に彼以外でファッション誌に登場する「ド」がつく名前をもった人物はユベール・ド・ジバンシーくらいしかいなかったのである。そんなわけで、契約当初のメイヤーはソーシャライトや女優を撮影する社交界御用達の肖像写真家に甘んじていた。と同時に、高給取りでありながらもなかなか登場しない専属写真家という矛盾が成立してしまったのである。

バロン・ド・メイヤーの登場

メイヤーについては従来語られてこなかった謎はまだあるのだが、先を急ぐ前に、彼がコンデ・ナストに雇われるまでの経歴を見ておくことにしよう。

アドルフ・ド・メイヤーはユダヤ系ドイツ人の父親とスコットランド系の母のもと、1868年にパリで生まれ、ドレスデンで育つ。ロンドンで若くして写真家として成功し、その頃にはサラ・ベルナールやオスカー・ワイルドのポートレートを撮影している。1899年、オルガ・カラッチオーロと結婚するが、この結婚からしていわく付きである。オルガはのちのイギリス王エドワード7世となるアルバート・エドワードの非摘出子であると噂されているし、伝記作家のフィリップ・ジュリアンはメイヤーの同性愛を公的に偽装するものだったことを示唆している。これらはいずれも根拠がないので深く立ち入ることはしないが、いずれにしても、花婿付添人がアルバート・エドワード皇太子で、かつ彼がオルガの名付け親であったことから、この結婚に際して男爵の爵位が授けられたということはたしかなようだ。バロン・ド・メイヤーの誕生である。

この頃から、メイヤーは写真芸術に関するいくつかの運動に関わっており、1902年には、ロンドンで写真表現の芸術性を追求する唯美主義的な国際的写真家グループ「リンクト・リング」に加わることになる。このグループの活動と親和性をもち、彼らの作品をアメリカに紹介していたのが、のちに画家のジョージア・オキーフと結婚する写真家のアルフレッド・スティーグリッツが主宰するグループ「フォト・セセッション」だった。フォト・セセッションは、ニューヨーク5番街のスティーグリッツの画廊「ギャラリー291」や、機関誌『カメラ・ワーク』で彼らの作品を紹介し、メイヤーもその一人となる2

メイヤーは『カメラ・ワーク』に1908年から作品が掲載されているが、当初彼が好んだのは、静物写真で、のちには風景写真も掲載している[図1]。この当時、写真界ではピクトリアリズムと称される、絵画の作法や価値観に規範をおいて写真の芸術性を標榜する表現動向が世界的な隆盛のまっただ中であり、当時の彼の表現にはファッション誌の仕事へそのまま繋がる要素が見られる。たとえば、ソフト・フォーカスや半逆光を駆使したハイキーな画面作り、あるいは反対に、被写体を暗がりと同化させるようなライティング・ワークである。

図1 アドルフ・ド・メイヤー「静物」(『カメラ・ワーク』24号、1908年)

とはいえ、先の『ヴァニティ・フェア』のジェラルディン・ファラーのポートレートを見てみるとまだライティングは凡庸で、この段階ではピクトリアリズムで培った世界観がまだ十分にファッション写真に昇華しきれていない観も否めない[図2]。

図2 アドルフ・ド・メイヤー「カルメンを演じるジェラルディン・ファラー嬢の肖像」(『ヴァニティ・フェア』1915年2月号、ミシガン大学蔵)

ところで、この写真芸術の世界とファッションの世界が、どのようにしてつながったのだろうか。

ギャラリー291は当初、フォト・セセッションのメンバーたちの作品発表の場的な意味合いが強かったものの、1908年に以降、スティーグリッツの興味はヨーロッパの前衛美術の紹介に大きくシフトしていく。マティス、ロダン、ピカソ、ブラック、セザンヌ、ブランクーシ、ピカビアといった錚々たる画家、彫刻家の作品を紹介したのもギャラリー291、および『カメラ・ワーク』だった。中にはアメリカで初めて紹介される作家もおり、1908年から閉廊する1917年までのトータルの展覧会数は67、そのうち写真展は10回にすぎないというのも、ギャラリー291の性格を表しているだろう。これら10回の写真展のうち、2回以上の個展を開催しているのはメイヤー(2回)とエドワード・スタイケン(3回)のみである。

1911年12月から翌年1月にかけて開催されたメイヤーによる2回目の個展の際に、のちの彼の運命を左右する出来事が起こる。『ヴォーグ』のアート部門を経てこの年に編集主幹に任命されていたエドナ・ウールマン・チェイスがこの展覧会を訪れたのである。チェイスはナストとメイヤーを繋ぎ、1913年のいわば試用段階をへて、1914年から専属写真家となった。14年にはチェイスも編集長に昇格しており、前回見たヴォーグ・パターン・ルームの誌面上の展開やファッション写真の形成は、いずれも彼女のもとで行われていくこととなる。

メイヤーをめぐる最大の謎

先に述べたように、メイヤーはなかなか誌面に登場しない高給取りの写真家であった。だが、たしかに専属といってもその働きは社員的というよりは独占契約を結んだアーティストにすぎず、イラストレーターでも『ヴォーグ』のヘレン・ドライデンや『ハーパーズ・バザー』のエルテらが同様の処遇にあった。とくに、両誌ともにこの時期はまだ表紙はイラストで、誌面も半分以上はイラストに頼っていたため、ヨーロッパの人気イラストレーターの囲い込みはファッション誌の生命線であったといってもいい。

メイヤーはそのような背景でコンデ・ナストとの専属契約にいたったわけだが、どうも釈然としない点がある。『ヴォーグ』でも『ハーパーズ・バザー』でも当時の誌面展開からいって、専属契約を結んでいるイラストレーターは数人いたと考えられるのに、写真家に関しては『ヴォーグ』にはメイヤーのみで、『ハーパーズ・バザー』にはいなかったことである。そして驚くべきは、この事実に起因するメイヤーの身の振り方である。通説では、彼のキャリアはこのように語り継がれている。

〔第一次大戦の〕休戦後、コンデ・ナストがド・メイヤーをパリに派遣して『ヴォーグ』の新しいイギリス版とフランス版で働かせることを拒否したとき、ウィリアム・ランドルフ・ハーストは、ド・メイヤーが『ヴォーグ』の最大のライバルである自身のファッション誌『ハーパーズ・バザー』で働くならば、『ヴォーグ』での給料を3倍にするとオファーした。3

これは約半世紀前に出版された『ファッション写真の歴史』に書かれた一節で、メイヤーについて触れた多くの資料がこのように記している。じつはこれこそがメイヤーをめぐる最大の謎の源泉なのだが、こうした記述は、『ヴォーグ』の専属写真家だったメイヤーが、ハーストが提示した高給とパリを拠点にするという破格の条件のもとに『ハーパーズ・バザー』に移籍したと理解できるだろう。しかし実際のところは、捨てる神あれば拾う神ありといったような美談ではなく、ハーストはもっと以前から戦略的にメイヤーを引き入れようと手ぐすねを引いていたように映る。というのも、なんとメイヤーは1916年から『ハーパーズ・バザー』のために写真を撮り下ろしていたのである4。1916年といえば、同誌の創刊50周年にあたるのは偶然だろうか。

当時のメイヤーは、ファッションの世界において独創的な写真を生み出せる唯一無二の存在だった。先にも触れたように、ややぼけ気味のソフト・フォーカスの画面に、部分的な逆光やトップライトを用いた特徴的な画面作りは、写真芸術の表現手法がファッション写真の成立に寄与したことをよく物語っている[図3]。

図3 『ヴォーグ』1918年5月1日号(いずれもアドルフ・ド・メイヤー撮影)

こうした大胆で劇的な画面作りは写真館出身の肖像写真家たちには確立し得ず、『ヴォーグ』と『ハーパーズ・バザー』両方にアサインされていたアイラ・ローレンス・ヒルやウィン・リチャーズ、アーノルド・ジェンスといった写真家たちは、みな少なからずメイヤーの作風に影響を受けている。つまるところ、独創的なファッション写真家というのはまだメイヤーしかおらず、彼の写真が掲載されているかどうかで、誌面の華やかさには雲泥の差がでるのである。

当初、『ハーパーズ・バザー』への掲載は1916年に3回、17年に5回と散発的なものだった。もしかしたら、これはハーストに対するナストの寛大な措置だったのかもしれない。これが関係してか、1918年から『ヴォーグ』に掲載されるメイヤーの写真の数は漸次増え始め、1920年から21年にかけてピークを迎える。しかも、1920年秋にはメイヤーをパリに派遣し、同年11月15日号にはパリで特別に撮り下ろした写真と彼のレポート記事で特集が組まれている。

ところが、1921年の春あたりから事態が一変してくる。4月から『ヴォーグ』への写真掲載が目に見えて減っていき、他方で『ハーパーズ・バザー』には5月から途切れることなく掲載されるようになっていく。しかも、『ヴォーグ』には掲載ゼロという号まで出てくるようになった。たとえば、『ヴォーグ』では1921年8月1日号に6点、8月15日号がゼロに対して、『ハーパーズ・バザー』8月号には7点、翌22年にも『ヴォーグ』1月1日号に3点、1月15日号にゼロに対し、『ハーパーズ・バザー』1月号には9点と、掲載数が逆転しているような月さえ見られる。三者の間でどういったやり取りが交わされたのかは想像するしかない。しかし、1921年7月号の『ハーパーズ・バザー』のソーシャライトの紹介ページに、メイヤーが撮影した社主ハーストの夫人が登場していることは、控えめに言えば同誌の覚悟の表れ、直截的に言うなら『ヴォーグ』への実質的な宣戦布告とみていいだろう[図4]。

図4 アドルフ・ド・メイヤー「ウィリアム・ランドルフ・ハースト夫人の肖像」(『ハーパーズ・バザー』1921年7月号)

その後、同年12月号の『ハーパーズ・バザー』には目次にメイヤーの名前まで明記されていて、そこには「バロン・ド・メイヤーはもっとも美しいフレンチ・クリエイションの写真一式とともにパリから戻ったところだ」との見出しがある。これは、同誌の予算でパリ取材に行ったことの証左ともなるもので、もはやメイヤーが『ヴォーグ』の専属写真家とはいえない立場にあったことを濃厚に暗示している。

以後、コンデ・ナストとメイヤーの契約はなし崩しになっていき、化粧品メーカーのマダム・ルクレールやエリザベス・アーデン、靴メーカーのドロシー・ドッドの広告にもメイヤーの写真が使われるようになる。とくにメイヤーを重用したアーデンの広告は1924年の秋から頻繁に写真が替わっており、契約を打ち切ったあとも広告料のためにメイヤーの写真を掲載する羽目になった『ヴォーグ』は屈辱を味わったことだろう。

余談だが、ちょうどこのころ、白と黒の市松模様の床がもてはやされ、写真、イラストを問わずファッション・ヴィジュアルの中にもさかんに登場している。これはアール・デコの時代の建築の代表的な意匠の一つであるが、同時に、コンデ・ナストとハーストの優秀な人材を引き抜き合うゲーム――チェッカーゲームやオセロのような――の盤面を暗示しているようにも思えるのである5[v]


  1. Norberto Angeletti, Alberto Oliva, In Vogue: The Illustrated History of the World’s Most Famous Fashion Magazine, Rizzoli, 2012, p. 60. ↩︎
  2. 1905年の開廊当初は「ザ・リトル・ギャラリーズ・オブ・ザ・フォト・セセッション」という名前だったが、1908年に5番街291番地から293番地に移転し、元のギャラリーの番地に由来した「ギャラリー291」に改称する。 ↩︎
  3. Nancy Hall-Duncan, The History of Fashion Photography, Abrams, 1977, p. 40. ↩︎
  4. この事実が従来広く知られなかったのには2つの理由が考えられる。ひとつは、『ヴォーグ』が自誌のブランディングの過程でメイヤーを史上初の専属写真家だったと単純化した記述を流布しすぎたこと、2点目は、ファッション写真の歴史研究がほとんど進んでいないことである。 ↩︎
  5. それまでコンデ・ナストは雑誌ごとに分社化して発行していたが、1923年4月にそれらが統合されてコンデ・ナスト・パブリケーションズとなる。メイヤーにだけにかぎらず、その後、両者で引き抜きあったり移籍する人材は多く、アナ・ウィンターも例外ではない。 ↩︎
打林 俊

打林 俊

写真史家、写真評論家。
1984年東京生まれ。2010-2011年パリ第1大学招待研究生、2014年日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。博士(芸術学)。2016〜2018年度日本学術振興会特別研究員(PD)。主な著書に『絵画に焦がれた写真-日本写真史におけるピクトリアリズムの成立』(森話社、2015)、『写真の物語-イメージ・メイキングの400年史』(森話社、2019)、共著に“A Forgotten Phenomenon: Paul Wolff and the Formation of Modernist Photography in Japan”(Dr. Paul Wolff & Tritschler: Light and Shadow-Photographs 1920-1950, Kehrer, 2019)、「アンリ・マティスの写実絵画不要論における写真をめぐって」(『イメージ制作の場と環境-西洋近世・近代における図像学と美術理論』、中央公論美術出版、2018)など。
2015年、花王芸術・科学財団 美術に関する研究奨励賞受賞。