モダニズムへのあゆみ

1923年にメイヤーが『ハーパーズ・バザー』に引き抜かれた直後、『ヴォーグ』はさらに別の危機に直面した。1909年以来、同誌の表紙・誌面を彩ってきたスターイラストレーターのヘレン・ドライデンが、やはり1923年半ばに契約を解消したのである。

ドライデンはボルチモアで砂糖製造業を営む裕福な家庭に生まれるが、幼くして親の事業が破綻する。しかし、学校の課題で制作した紙人形が新聞のファッション欄に掲載されたのをきっかけに、その後、『フィラデルフィア・パブリック・レジャー』紙と『フィラデルフィア・プレス』紙でアン・リッテンハウスのファッション記事の挿絵を1年間担当することになった。絵画やイラストレーションの専門的教育を受けたことはほとんどなく、本人いわく自分の好きなものを好きなように組み合わせるスタイルだった。

1909年、27歳でニューヨークに移り住んだドライデンは、その自由な作風が災いして、初めての挫折を経験する。ファッション誌に売り込みをかけるも、どの雑誌も彼女に興味を示さなかったのだ。とはいっても、天はこの非凡なイラストレーターを見捨てなかった。この年にコンデ・ナストが『ヴォーグ』を買収して誌面改革が始まると、すぐにドライデンに声がかかり契約が結ばれた。以降、23年までに24冊の『ヴォーグ』の表紙をはじめ、『ヴァニティ・フェア』や『ハウス・アンド・ガーデン』などのイラストも手がける、アメリカを代表するイラストレーターとなったのである。

ドライデンのイラストは木版画やナビ派の絵画を思わせる平面的な構成が多く、彼女の興味の中心だった18世紀フランスの雰囲気を現代的に解釈した画風は人気を博していった(図1)。

図1 『ヴォーグ』1917年6月1日号(表紙:ヘレン・ドライデン)

写真家にしろイラストレーターにしろ、ヨーロッパ出身のアーティストを起用することが多かった当時のファッション誌業界にあって、アメリカ人がこれほど成功するのは稀有な事例といっていいだろう。ちなみに、ドライデンはコンデ・ナストを去った後もファッションと装飾の雑誌『デリネーター』の表紙を手がけたり、20年代後半からはインダストリアル・デザイナーとして食器から照明器具、自動車の内装までを手がけ、アメリカでもっとも高給取りの女性アーティストと言われるまでになった。

他方で、『ハーパーズ・バザー』は1915年に有望なイラストレーターの獲得に成功していた。ロシア出身のエルテことロマン・ド・ティルトフである。名前に「ド」がつくことからもわかるように、サンクトペテルブルクの貴族であった。父は海軍将校で、ロマンも同じ道を歩むことを望んでいたという。だが、15歳でパリに遊学した際に美術やファッション・デザインに触れたことで運命の歯車が大きく動くことになる。この頃からすでに、名前の頭文字「R(エール)」と「T(テ)」をフランス語読みにして繋げた「エルテ」というペンネームで作品の発表を試みていた。1911年に再びパリに戻り居を構えると、ファッション・デザインに携わるかたわら、画家のルドルフ・ジュリアンの画塾アカデミー・ジュリアンに学んだ。この画塾はもともと国立美術学校の受験に備える準備学校だったが、19世紀末から20世紀の始めには多くの留学生や女性も在籍し、あらたな表現を生み出していく磁場のひとつとなっていた。

その後、エルテは1913年に当時の著名クチュリエであるポール・ポワレのもとで働き、舞踏会や演劇のセットのデザインで頭角を表していく。あとで詳しく見ていくように、ポワレはアメリカのファッション・ジャーナリズム界と深い関係を築き、『ハーパーズ・バザー』や『ヴォーグ』に多くの美術家を送り込む役目を果たす。『ヴォーグ』もエルテの獲得を狙っていたが、1915年に『ハーパーズ・バザー』が独占的な契約を結び、以降、1937年まで200以上の表紙を担当し、世紀末芸術や同時代の前衛表現に影響を受けながら、同誌のスターイラストレーターとして活躍した(図2)。さらに1923年にメイヤーを獲得することで、『ヴォーグ』とは対照的に『ハーパーズ・バザー』は誌面展開に安定を見せていった。

図2 『ハーパーズ・バザー』1915年1月号(表紙:エルテ)

『ヴォーグ』のヴィジュアルを牽引してきたドライデンとメイヤーがほぼ同時期に同誌との関係を終えたのは、偶然であったとしても示唆的である。単に10年以上にわたって密に誌面作りに関わったスタッフが去ったというだけにとどまらず、世界の視覚文化自体が新たな方向に舵を切りつつある時期だったのだ。それこそが、工芸や装飾芸術の新たな様式であるアール・デコに代表されるモダニズムの時代であった。

第一次大戦後の新たな時代にあって、ファッション誌に描かれる人物はみな一様にスレンダーで、モディリアーニなどの絵の中の人物を思わせる、エコール・ド・パリ風の画風が多い。ヨーロッパ在住のイラストレーターたちは、アメリカがパリに求める憧憬の正体とでもいうべきモダニティの息吹を誌面に吹き込んでいった。同時に、ファッションでいえばシャネルが本格的にアメリカで紹介される時期とも重なる。シャネルのシンプルなスタイルは直線美を追求したアール・デコとも重なり、絵画の世界ではエコール・ド・パリの画家たちが描く人体のフォルムとも呼応している。時代はこれらをひっくるめた表現動向であるモダニズムにシフトしつつあった。

モダニズムの特徴は、視覚芸術からデザイン、文学にいたるまで、それまでの芸術に通底していた感傷性やロマンチシズムを否定するところが起点となっている。たとえば、デザインならばそれまでの植物をモチーフにした有機的な曲線に彩られていたアール・ヌーヴォーから水平・垂直を意識した直線を好むアール・デコへ、写真ならばソフトフォーカスやぼかしを多用したピクトリアリズムから、レンズの描写力を最大限に生かした鮮明な描写を良しとする「ストレート写真」と呼ばれる表現に代表されるモダニズム写真へと移行していく。また、モダニズム写真の空間構成も、やはり水平・垂直の線による画面の分割や線と面による構成を重視し、アール・デコとの一定の共通性が見出せる。

つまり、こうしたファッション・デザイン、イラストレーション、写真があらたな時代の表現で繋がっていくのが、モダニズム時代のファッション誌のエディトリアル・デザインだと言えるだろう。

前衛芸術家たちの集結

メイヤーがコンデ・ナストを去ったのちに新たに同社のチーフ写真家として雇われたのは、エドワード・スタイケンであった。スタイケンはルクセンブルク出身の移民で、若い頃はミルウォーキーの石版画印刷会社で画工をしたり、第一次世界大戦の際は駐仏アメリカ空軍で空撮の任務にあたるなど、異色の経歴の持ち主である。また、フォト・セセッションの主要メンバーとしてアメリカのピクトリアリズムをスティーグリッツとともに牽引した写真家でもあった。ギャラリー291におけるヨーロッパの前衛美術の展覧会もほとんどが彼の人脈を頼って実現したもので、ヨーロッパ美術界とのコネクションも抜群である。

先に、291で二度以上個展を開いたことのある写真家はメイヤーとスタイケンだけだと述べたが、フォト・セセッションに関わった二大写真家が、続けてコンデ・ナストのチーフ写真家になったという点も見逃せない。つまり、これはピクトリアリズム=芸術写真の様式による肖像写真をファッション誌の側が求めていたということを意味している。では、なぜ彼ら以外の芸術写真家たちが次々とファッション誌にアサインされなかったのか。ひいて言えば、芸術写真界とファッション界を隔てていたものはなんだったのだろうか。スタイケンの初期のファッション写真に、それをひもとく手がかりがある。

じつは、スタイケンはメイヤーよりも先にファッション写真を手がけたことがあった。それは、フランスの装飾芸術専門誌『アルテ・デコラシオン』の1911年4月号の記事「ドレスの芸術」のために撮影された、ポール・ポワレのドレス11点のファッション写真である(図3)。

図3 『アルテ・デコラシオン』1911年4月号(エドワード・スタイケン撮影)

これらの写真を見ると、ピクトリアリズム時代のスタイケンのファッション写真が、『ヴォーグ』で働き始めたころのメイヤーのそれと遜色ないレベルにあることがわかる。12年後に『ヴォーグ』に写真を掲載しはじめたころのスタイケンの写真を、「メイヤーの表現を手探りで解釈したような弱々しいもの」と評する歴史家もいるが、実際にはそうではなく、1923年当時の写真界ではまだピクトリアリズムの表現様式が十分に通用するものだったことを示している。実際、美術史家のパトリシア・ジョンストンは1920年代の広告写真はピクトリアリズムのふんわりとしたソフトフォーカスによる効果がエレガントで上流階級の雰囲気を意味していたとして指摘している1。さらに、この頃から登場してきた、誌面全体のデザインを統括するアート・ディレクターの影響も見逃せないが、それは別で詳しく見ていくことにしよう。

いずれにせよ、メイヤーやスタイケンのようなピクトリアリズムの表現がファッション界でも十分に通用したということにほかならないが、ピクトリアリズムとファッションの間に有機的な繋がりが生まれなかったのは、スティーグリッツの姿勢にも関係があった。たとえば、写真史家のキャロル・スクワイアーズはスタイケンのキャリアを以下のように表現する。

1923年、エドワード・スタイケンが商業的なイメージ制作の仕事に就いた時、写真史上もっとも物議を醸したキャリアチェンジのひとつが起こった。その数年前に画家として、またピクトリアリズムの写真家として名声を得ていた彼は、アルフレッド・スティーグリッツが抜擢した、芸術家としての写真家の模範だった。しかしその20年後、コンデナスト社のチーフ写真家となり、『ヴォーグ』のファッション写真やポートレート、『ヴァニティ・フェア』でセレブリティのポートレートを手がけるようになると、スティーグリッツの聖戦を裏切るかのようになった。2

はたして、スティーグリッツの「聖戦」とは何を意味するのか? これは、そもそもフォト・セセッション(写真分離派)が何からの分離を意図していたのかということにも関わってくる。一般的には旧来の写真界という言い方がされるが、そこには商業主義という面もあり、実際にスティーグリッツは写真の商業主義的側面をたびたび批判していた。だからこそ、スタイケンの最初のファッション写真がスティーグリッツの影響の及ばないフランスだったと見ることもできるだろう。

ただ、いずれにしても裕福な家系に生まれたスタイケンとは違って、メイヤーもスタイケンも最終的に選択したのは職業写真家という道だった。ファッション写真とはなにかと定義してみるとき、ここに、当時の芸術的なポートレート写真とファッション写真を隔てていたものが、商業主義であったというひとつの側面が垣間見える。

スタイケンがファッションに関わった最初の仕事がポール・ポワレのドレスの撮影であったということもまた興味深い。当時もっとも独創的で影響力があるファッション・デザイナーの一人だったポワレは、自身がデザインするドレスのプロモーションに新進気鋭の芸術家を使うことに積極的だったからである。1908年には弱冠25歳のフランス国立美術学校出身のイラストレーター、ポール・イリーブを抜擢して『ポール・イリーブが語るポール・ポワレのドレス』というファッションアルバムを出版、次いで、1911年2月には第2弾としてやはり国立美術学校出身の23歳のジョルジュ・ルパップによる『ジョルジュ・ルパップが見たポール・ポワレの作品』が出版された(図4)。

図4 『ジョルジュ・ルパップが見たポール・ポワレの作品』(1911年、スミソニアン博物館蔵)

『アルテ・デコラシオン』にスタイケンの作品が掲載されるのはその2か月後のことである。イリーブ、ルパップのように単体のアルバムではないものの、ルパップのアルバムがイラスト15葉であることを考えれば、写真11点というボリュームは遜色ない。それらの中には空間構成が近しいものもあり、イラストと写真のファッション・イメージをめぐる同時代性も垣間見える(図3右と4参照)。

ポワレはコンデ・ナストとも親交があり、国立美術学校出身でキュビスムやアール・デコといったモダニズム美術の薫陶を受けたルパップやエドゥアルド・ベニートら若いヨーロッパ人イラストレーターがこの人脈から次々と『ヴォーグ』へと送り込まれた。スタイケンはこのルートからではなく、当時『ヴァニティ・フェア』の編集長を務めていたフランク・クラウニンシールドの推薦だったが、モダニズム時代の若い芸術家たちが『ヴォーグ』に集結していったということは注目しておいていいだろう。こうした時代に移行していくにつれて、ピクトリアリズムのファンタジックな表現も旧時代のものとなっていく。対して、スタイケンはモダニズムの息吹を敏感に感じ取り、新たな時代を築いていくのである。


  1. Patricia Johnston, Real Fantasies: Edward Steichen’s Advertising Photography, University of California Press, 1997, p. 82 ↩︎
  2. Catol Squiers, “Edward Steichen at Condé Nast Publications,” Edward Steichen in High Fashion: The Condé Nast Years 1923-1937, W. W. Norton & Co., 2008, p. 109. ↩︎
打林 俊

打林 俊

写真史家、写真評論家。
1984年東京生まれ。2010-2011年パリ第1大学招待研究生、2014年日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。博士(芸術学)。2016〜2018年度日本学術振興会特別研究員(PD)。主な著書に『絵画に焦がれた写真-日本写真史におけるピクトリアリズムの成立』(森話社、2015)、『写真の物語-イメージ・メイキングの400年史』(森話社、2019)、共著に“A Forgotten Phenomenon: Paul Wolff and the Formation of Modernist Photography in Japan”(Dr. Paul Wolff & Tritschler: Light and Shadow-Photographs 1920-1950, Kehrer, 2019)、「アンリ・マティスの写実絵画不要論における写真をめぐって」(『イメージ制作の場と環境-西洋近世・近代における図像学と美術理論』、中央公論美術出版、2018)など。
2015年、花王芸術・科学財団 美術に関する研究奨励賞受賞。