スタイケンのモダニズム的方法論
コンデナスト時代のスタイケンの仕事を見ていくに先立って、それ以前の彼の表現を少し追っておこう。というのも、石版印刷会社の画工、アメリカにおけるピクトリアリズムの立役者、駐仏アメリカ空軍での航空写真研究という、一見するとかなり多様な角度から写真に関わっていたように見えるが、彼の興味は常にフォルムの追求や黒白というかぎられた諧調で表される写真という表現媒体の探究であったように映る。そして、それらにこそコンデナスト時代のスタイケンの作風を決定づける要素が多分にあるように映るのである。
絵画の造形要素や雰囲気を写真で表現しようとしたピクトリアリズムの時代にあって、絵画的効果を追求した写真は絵のまねごとというような批判にさらされることも少なくなかった。スタイケンも例に漏れず、美しいが不自然であるとか、まがいものを作っているという批判を受けている。だが、考えてみればファッション写真自体が作りものなのだから、このような批判はむしろファッション写真に携わるようになって以降、スタイケンの強みになったはずだ。
ピクトリアリズム時代のスタイケンの作品群を見ていて驚かされるのは、その明暗法があまりに大胆なことである。たとえば、《グランプリのあと》と題された、競馬のあと場外でドレス姿の女性を写した一点を見てみよう(図1)。

ドレスはまばゆいばかりに白く輝き、周囲の環境は目を引かないよう明度をおさえて焼き込まれ、周到な明暗法が生み出されている。こうした白を生かすための大胆なヴァルールの選択は、のちにファッション写真でも存分に生かされていく。
その後に携わった航空写真の研究はどうだろうか。フランスのヴォーを空爆した後の、スタイケンの撮影とされる写真が残されている。黒白の写真はカラー写真にくらべて情報量が少ない。このヴォーの空爆はかなり大規模なものだったようで、焦土と化した地形の判別は難しいが、それでも相当に生々しい状況が伝わってくる。
石版画工だったスタイケンは、ポスターなどの目を引くようにグラフィカルに描かれた平面的な絵の中で何を強調して表現するべきか、なにが不要な情報になるのかという取捨選択の方法論を身につけていたはずである。その能力は、どうすれば伝えたい情報を最大限引き出せるのかということにも繋がっていったことだろう。こうした的確な視覚的情報を引き出せる術をもっているということは、それを逆手に取れば、何を曖昧にしたら視覚的な面白さを引き出せるのかということにもなる。ファッション写真家になる前夜のスタイケンは、それを自家薬籠中のものにしたかったようだ。1920年から21年にかけては、写真の諧調表現に磨きをかけるために日々ティーカップとソーサーを撮影し続けたり、独学で幾何学を学んでもいる。
石版画からこうした研究にいたるまで、さまざまな分野を通じて三次元の現実を写真という二次元に変換するための方法論の確立を目指してきたスタイケンは、そのような道をたどって1923年にアドルフ・ド・メイヤーの後釜のチーフ写真家として迎えられた。
アール・デコの構成と輝く白
この年の4月、コンデ・ナストはそれまで『ヴォーグ』ならヴォーグ社のように雑誌ごとに分かれていた自身の出版社をまとめ、コンデナスト・パブリケーションズとして統合した。スタイケンは『ヴォーグ』以外にも、同社が発行する『ヴァニティ・フェア』や『ハウス・アンド・ガーデン』などの雑誌にも写真を撮り下ろすようになる。その立場についてはチーフ写真家やコンデナストの写真編集長などさまざまな言われ方がされるが、ともかく、大出版社の写真を統括する立場になったのである。
スタイケンのそれまでの地道な研究と絵画的才能は『ヴォーグ』において遺憾無く発揮されることとなる。前回見たように、おりしも当時は装飾芸術や工芸の分野ではアール・デコが花開きつつあった。一時代前のアール・ヌーヴォーの曲線の優美さや柔らかさがピクトリアリズムと親和性をもっていたとすれば、メイヤーはまさにアール・ヌーヴォーの人だった。そう考えれば、メイヤーのスタイルは、彼が『ヴォーグ』を去った時にはすでにピークを過ぎていたといえるだろう。
実際、パリに移ったメイヤーのファッション写真もモダニズム写真の空間構成に触発され、水平垂直を意識した構図を取ったり、画面もソフトフォーカスを抑えた鮮明なものとなっているのが見て取れるが、アメリカ時代の独創性や威厳は感じられない(図2)。

一方で、スタイケンは新たな時代の息吹を全面的に『ヴォーグ』に昇華していた。
それを支えるアール・デコが世界的な潮流になったきっかけとして、1925年のパリ万博が挙げられる。アール・デコ博覧会の異名をとるこの万博以降、『ヴォーグ』をはじめとするファッション誌も、誌面構成にアール・デコの要素を急速に取り入れていったといわれる。だが、ヨーロッパの人脈と芸術動向への敏感な感性をもっていたスタイケンは、このパリ万博に先んじて、すでにアール・デコの要素をファッション写真に取り入れていた。
『ヴォーグ』1925年1月1日号に掲載された《アール・デコ風の大判スカーフをまとうタマリス》(図3)には、モダニズム写真の特徴ともいえる線と面による特徴的な画面構成が見られる。

モデルの伸ばした手から垂れるスカーフが生み出す斜めの線は、そのまま背景の絵の線と同化している。このような2次元(背景の絵)と3次元が、写真という平面で等価に融合されているあたり、石版画工としてキャリアをスタートしたスタイケンの空間構成能力の高さを物語っていよう。
さらにスタイケンのファッション写真を語る上で欠かせないのは、野外ロケ撮影の積極的な導入である。野外ロケは現代でこそ珍しいものではないが、この時代にはまだスタジオ撮影の方が圧倒的に多かった。ここでも、白を生かすために黒を犠牲にするスタイケン流のヴァルールは大いに生かされている。『ヴォーグ』1931年7月15日号に掲載された《ランバンとシャネルのドレスを着たモデルのクレア・コールターとエイヴィス・ニューカム、5番街1200番地》はその中でも出色の一点といえる(図4)。

夜の暗がりでは早いシャッタースピードでは撮影が難しかったのだろうか、右のモデルのドレスの裾はブレていて、それがかえって優美にさえ感じる。しかしなんといっても目を惹くのは左側のモデルの白いサテンの上着と金髪である。この当時、HMIのような映画用の光量の強い照明機材が登場してきていて、スタイケンはそうした機材も積極的に取り入れていた。遠景の夜景の明かりと比較しても格段に白く写されていて、あたかもモデル本人が光を発しているかのような眩さだ。白を生かすというスタイケンのピクトリアリズム時代からの十八番の手法も、新たな機材の登場によってこうしたシチュエーションでも実現できたといっていい。
そして、スタイケンの白の表現は、1935年の《白》に行き着くこととなる(図5)。

前年に発表された《黒》との対になる作品と解釈されることが多く、歴史的にはこちらの方が注目を浴びる機会が多い。モデルを堂々と暗黒の中に溶け込ませる表現も実にスタイケンらしいといえるが、すべてを白で支配するというこの表現は、まさに写真家としてのスタイケンの黒白写真表現の集大成といってもいいだろう。
「『ヴォーグ』をルーヴルにしよう」に込められた二つの意味
スタイケンには「『ヴォーグ』をルーヴルにしよう」というよく知られた名言がある。一見すると、ファッションのリーダーである『ヴォーグ』を美術の殿堂たるルーヴル美術館のような華やかなものにしようという意味にも取れる。実際、スタイケンのファッション写真を集成した『エドワード・スタイケン・イン・ハイ・ファッション』でも章のタイトルに使われているなど、聞こえのいいフレーズである。しかし、そのことばの真相はわたしたちが抱く印象とは少し違っていたようだ。
スタイケンのコンデナスト在籍時代にあたる時期の動向としてもう一つ注目しておきたいのが、印刷技術の向上である。1932年4月15日号には『ヴォーグ』初のオールカラー印刷の写真が掲載されている。それと同時にスタイケンが目をつけたのが、ダブルトーン印刷(英語ではデュオトーン印刷)である。ダブルトーン印刷は黒白写真を2度刷りで再現する印刷技術で、黒の深みを増したり、黒の上に微妙に色調の異なるインクを使うことによってセピアや温黒調のように色調に微妙な奥行きやニュアンスを与えることができる。
1934年の6月、『ヴォーグ』に美容関係の記事「ビューティー・プライマー」が掲載された。問題は、ここに当時まだファッション誌では馴染みのないヌード写真を使うことになった点で、これは『ヴォーグ』編集部内でもかなり議論の的になったようだ。そこで、スタイケンは編集長のエドナ・ウールマン・チェイスに宛てた手紙の中で、くだんのセリフをしたためた。
品格がある際立った「美」の表現というわれわれの考えに関して、もしそれらがデュオトーンで表現されるなら、それらは大いに引き立つだろう。ルーブルには、もしのぞき見小屋で展示されたらポルノとして非難されるような作品がある。ルーブル美術館では、それらはアートなのだ。ヴォーグをルーヴルにしよう。
ケイトリン・ブーハーはニュージャージー州立大学に提出した博士論文「ファッション・マス・モダニズム――『ハーパーズ・バザー』、『ヴォーグ』とアメリカのファッション雑誌における写真、1929-68年」の中で、この手紙によってヌード写真掲載のリスクを相殺するための苦肉の策としてダブルトーンが承諾されたのだろうと考察している1。結果、『ヴォーグ』6月1日号とフランス版の7月号に、「ビューティー・プライマー」にはダブルトーン印刷で深みを与えた写真が掲載された(図6)。

ピクトリアリズムの時代に水彩絵の具をもちいる写真技法で色味のあるモノクロ作品を作っていたスタイケンは、その視覚効果がもつ重要性を十分に認識していただろう。
煌びやかで豪華絢爛なルーヴル同様の世界を誌上に作り上げようという意味にも聞こえるこの一節は、いかにも、ファッション・ジャーナリズムの煌びやかな帝国が完成したというわたしたちの印象と重なり合っている。しかし、それもまた間違ったこととはいえないだろう。歴史として振り返ってみれば、まさしくこの時期に、ファッション誌は虚構の帝国を完成させたといっていい。
スタイケンは1937年にコンデナストを去ることになるが、30年代半ばには表現の停滞を自覚していた。それと同時に、これまでのようにひとりの写真家がひとつの雑誌を取り仕切る時代も終わりを迎えつつあった。すでに『ヴォーグ』でもフランス版では独自にホイニンゲン=ヒューンが専属のチーフ写真家になっていたし、アートディレクターの役割も次第に存在感を増してきていた。
「モダニズム」ということばを考えてみる時、印刷媒体の分野で重要になってくるのは、タスクの細分化と総合力ということができるだろう。たとえば、写真ならばタイポグラフィと結びついた新たな表現の可能性や、商業写真、報道写真といった新たな分野の開拓が、印刷技術という地平で総合力として統合されていく。この時代の雑誌を考えてみる時、やはり、編集、写真、イラストといったそれぞれに進歩してきた要素をまとめるアート・ディレクションという総合力が、重要な要素として立ち現れてくるのである。
- Kaitlin Booher,“Fashioning Mass Modernism: Harper’s Bazaar, Vogue, and Photography in the American Fashion Magazine, 1929–1968”, The State University of New Jersey, 2023, p. 113. なお、スタイケンからチェイスに宛てられた手紙の日付は明確でない。現在この手紙はコンデナスト・アーカイヴに所蔵されているが、本論では同書から引用した。 ↩︎