不幸なめぐり合わせ
歴史に「もしも」はないといわれるが、それでも、もしもウィリアム・クラインの『ニューヨーク(NEW YORK)』がアメリカの出版社から刊行されていたらどのような反応があったのだろうか。パリで出版されたにもかかわらず、アメリカ写真界の重鎮マイナー・ホワイトがあれほどこきおろしていたのだから、アメリカでは到底受け入れられなかったに違いない。実際、『ニューヨーク』としばしば比較される写真集『アメリカ人(Les Américains)』をアメリカの出版社からも刊行したロバート・フランクは、集中砲火を浴びることとなった。
ロバート・フランクは1924年にスイスのチューリッヒで生まれる。父のヘルマンはドイツ生まれのユダヤ人で1915年頃にスイスに移住、母のローザはスイス出身のユダヤ人だった。1920年代の生まれともなると、ナチスによるユダヤ人迫害が強まった時期と青年期の入口が重なるため、芸術家になる野心を抱いたとしても、パリに出ることは難しい。フランクは17歳でチューリッヒの街で写真家の見習いになり、そのまま第二次世界大戦が終結するまで雌伏の青春期を送った。
1947年にスイスを出てニューヨークに渡ると、フランクはすぐに『ハーパーズ・バザー』のスタッフ写真家となる。だが、23歳の青年はある程度の写真技術を身につけていたとはいえ、虚構に満ちた写真を撮ることも、商業のために写真をやることも忌み嫌っていた。ウィリアム・クラインやソール・ライターはそれでも生活のためと割り切ってファッション誌の仕事をしていたが、フランクはそれすらも許せない性分だったようだ。この頃に『ジュニア・バザー』のアートディレクターだったリリアン・バスマンは、悲しみを込めて「彼はわたしたちのことを本当に理解していなかったと思う」と回顧している1。実際、『ハーパーズ・バザー』とフランクの関係は不幸なめぐり合わせでしかなく、彼はわずか6、7か月でスタッフ写真家の職を辞したという2。
とはいっても、20代前半の外国人が好き勝手に写真を撮って生きていけるほどニューヨークは甘くない。その後もフランクはフリーランスの写真家として『ハーパーズ・バザー』には関わっている。フランクとルームシェアをするほどの仲で、のちにスナップ写真の名手として知られるようになるエリオット・アーウィットは、『ハーパーズ・バザー』のスタジオでファッション写真を撮影しているフランクを捉えている(図1)。

詳細な記録によると、フランクの写真はおそらくフリーランスになった1948年には『ジュニア・バザー』を含めれば12月を除く毎号にファッション写真を撮っているし、翌49年は数か月ヨーロッパに滞在していたとはいえ7つの号、1950年は6つの号、51年には8つの号に掲載されている3。
だが、フランクがファッション誌を理解しようとしなかったというバスマンのことばは、実際に掲載された写真を見ればより現実味を増す(図2)。

自動車のフロントグリルとヘッドライトは無様なほどに不要なピンボケで画面の半分近くの面積を占めている。いくらボケや手ブレがファッション写真のテクニックとして浸透しはじめていたとはいえ、これでは当時の評論家たちがブレやボケを批判して言ったように、素人同然である。だがこのおよそ10年後、フランクのこうした構図取りは彼の特徴のひとつとしてあらわれることとなる。
養い親への憎しみと評された写真集
フランクが、ファッション写真のような虚構に満ちたキラキラとした世界を好んでいなかったのは間違いない。むしろ、彼の目に映っていたのはファッション写真界だけではなく、アメリカ自体がそうした虚構に満ちた国だという事実だった。
1955年、フランクはアメリカで若手の芸術家を支援するもっとも有力なプログラムであるグッゲンハイム奨学金に、外国人として初めて採択されている。この奨学金を資金にフランクはアメリカ中を旅して写真を撮り、58年にパリのデルピールから出版されたのが『アメリカ人』である。同書は翌年にはジャック・ケルアックの序文を掲載したアメリカ版がニューヨークのグローブ・プレスからも刊行された。
ところがこの写真集、アメリカでの刊行直後から非難轟々、侃侃諤諤の議論を引き起こす。『ポピュラー・フォトグラフィ』誌は1960年の5月号に同誌編集部員7人の短評を掲載するが、評価は控えめに言っても概して最悪なもので、「この本がアメリカへの攻撃であるという結論は論理的だ。その意味で、これは圧倒的な成功作と言わざるを得ない」、「そこにあるのは憎悪と絶望、荒廃と死への執着だ。養い親となった国を憎む、喜びを知らぬ男が見たアメリカの姿」、「技術への無頓着さ、衝撃を与え安っぽい興奮を煽ろうとする欲望がそこにある」、「写真界に登場した最も苛立たしい写真集のひとつ」といったことばが並ぶ4。ここまでの圧倒的な非難を表明される『アメリカ人』とはどのような内容だったのだろうか。
一般的によく言われるのは、『アメリカ人』に写されたのは、アメリカの暗い部分、影の部分だった。第二次世界大戦の戦勝国で、20世紀初頭からユダヤ人や白系ロシア人を含む多くの移民を受け入れてきたアメリカは、自由世界の象徴とみなされてきた。しかも、1950年代にはモータリゼーションによる重工業の成長を背景とした経済発展も著しく、アート分野でも世界の中心地とみなされつつあった。ところが、現実には経済格差や黒人差別など、あらゆる問題も抱えていた。フランクが映し出したのは、そうしたアメリカの分断や空虚だった。
『アメリカ人』に掲載された写真の多くはブレたりぼけたりした写真が多く、内容としては一枚で何かを明確に語るような種類の写真はほとんどない(図3)。

こうしたイメージづくりは、フランクがユダヤ人だったこととも無関係ではない。そもそも、フランクが生まれ育ったスイスではユダヤ系の人々は周縁的な存在で、連帯意識や愛国心が薄かった。そうした生い立ちがアメリカを一歩引いて見つめる姿勢の底流になるのだが、もちろん、フランクとて初めからアメリカに対して批判的な感情をもっていたわけではあるまい。むしろ、自由世界に夢を抱いて渡って来たはずだ。それが次第にこうした視点をもち、一冊の写真集としてまとめようと思ったのは、アメリカの外見と内情のギャップに驚きを禁じ得なかったからに違いない。ファッション写真の仕事は、フランクにそうしたギャップと空虚さを早々に気づかせる機会になったのだろう。
もうひとつの視点として注目したいのは、アメリカにおけるユダヤ人芸術家評価の流れである。アメリカでは抽象表現主義が1950年代のアートシーンを代表する動向になったことに触れたが、マーク・ロスコやバーネット・ニューマンのようなユダヤ人芸術家、さらにはその周辺にはクレメント・グリーンバーグのような抽象表現主義を高く評価するユダヤ人批評家がいた。こうした背景から、元来偶像崇拝を禁じるユダヤ教の文化と抽象表現は相性がいいといわれてきた。偶像崇拝とは神を物や画像として表象することだから、それは英雄化につながる。こうした考えをフランクに当てはめてみると、やはり英雄化されるような人物は写されていない。たとえば黒人差別を写真で語ろうとすればマーティン・ルーサー・キング・ジュニアを登場させれば話は早いが、フランクが写し取ったのは、そいった中心を定めることのない光景だった。かわりにこの写真集に頻出するのは星条旗やジュークボックスであり、フランクはアメリカを象徴するいくつかのモチーフで、ばらばらのイメージの断片に通奏低音を与えようとしたのである。国家を全面的に信用しないフランクの立ち位置は、内部にいながら同化せずに外部の視点をもち、写真は真実を語るのかという疑念をもつ。
だが、暗いアメリカ、アメリカの影を星条旗で包装したような『アメリカ人』は、アメリカ人たちの怒りを買うこととなる。
アメリカのプライドと伝統
先に見た『ポピュラー・フォトグラフィ』の書評は、『アメリカ人』に対する最初期のまとまった評価として、また長らくフランクの評価を歪めたものとしてたびたび参照されてきた。7人によるこれらのレビューは、大きく分けてふたつに大別される。ひとつは、先に引いたような、技術や写真家としての品性を突くものである。ふたつめは、その主題がアメリカ人のプライドを傷つけたというものだった。
『アメリカ人』の原書、フランス語版のタイトルはLes Américains、アメリカ版はThe Americansで、いずれも全体性・総称性を意味する定冠詞が付されている。驚くべきことに、この点が批評家たちの怒りを助長したのだ。
それらを掬いあげてみると、レス・バリーの「彼はこれを『アメリカ人』と呼んでいるが、フランクの作品は実際にはアメリカの生活のごく限られた側面を探求しており、しかも最も魅力のない側面である」という評価にはじまり、ジョン・ダーニアックは「出版社はタイトルから一語を省略している。正しくは『あるアメリカ人たち』である。フランクが実際に行ったのは、まさに「あるアメリカ人たち」を写すことだった」、チャールズ・レイノルズは「フランクがほぼ独占的に焦点を当てたのは、アメリカ生活のほんの一部である、みすぼらしい、孤独で、悲しい光景だった」と述べる。もう少しオブラートに包んだ物言いのアーサー・ゴールドスミスとH ・M・ギンザーさえ「ロバート・フランクとグローブ・プレスは、この本のタイトルを『ジ・アメリカンズ』より刺激の少ないものにすべきだった」、「タイトルが「すべての」アメリカ人を暗示しているように見える点については、明らかに皮肉を込めた意図がある」と評している5。
つまり、ここにレビューを寄せた編集部員7人のうち5人が、ここで写されたものはアメリカ全体の姿ではなく、アメリカの一側面に過ぎないと主張しているのである。それに、写真はアレやブレ、ボケばかりだというのだから、見た目も内容も醜いというのが彼らに共通した評価ポイントだった。
のちに、ニューヨーク近代美術館のチーフキュレーター、ジョン・シャーカフスキーは「雄弁で完璧な印画への愛着や自然風景がもっている神秘性への鋭敏な感受性、普遍的な形式言語が存在すると信じること、そして、社会的動物としての人間への最小限の関心」が1950年代までのアメリカの写真における支配的な価値観だったと述べる6。その意味で、フランクの『アメリカ人』はすべてにおいてその価値観に逆行しており、『ポピュラー・フォトグラフィ』による評価はアメリカの世評を代弁しているといっていいだろう。
しかし、アヴェドンやバスマン、クラインを通ってフランクにも見られるイメージのアレ・ブレ・ボケといった手法、クラインやフランクにおける、内側で外側の者の視線をもち得る主題は、たしかにアメリカのユダヤ人写真家たちを中心に確立されてきた。これらはいずれも多かれ少なかれ批判にさらされたわけだが、それだけで終わったわけではない。
ヨーロッパのアメリカ人クラインとアメリカのヨーロッパ人フランクは、ともに自分が周縁的存在である疎外感をもってアメリカの路上にカメラを向けた。それは、アメリカ人やアメリカ人社会への同化を目指したそれまでのユダヤ人写真家たちにはない視点だった。ここに、アメリカで活動するユダヤ系の写真家たちにも世代交代、ものの見方の変化が見られる。それまで路上で撮られる写真といえば、ほとんどが大義や物語をもったドキュメンタリー写真だったわけだが、いわゆるストリート・スナップというあらたなジャンルを開拓したのである。
クラインとフランクに影響を受けた彼らより下の世代の写真家たちは、60年代後半以降、さかんに路上でカメラを手に取ることになる。実際、マリリン・ローファーはこうした傾向がグッゲンハイム奨学金をはじめとする芸術家支援プログラムに申請されたテーマにも明確にあらわれていると指摘している[vii]7。不思議なことに、アメリカのプライドを抉った写真を生み出したロード・トリップという手法は、この後、アメリカ写真史の伝統にさえなっていく。
他方、「美」という名のもとにあらゆるものを様式化してしまうファッション写真にも、例外なくロード・トリップ調の写真が登場してくる(図4)。

ファッション界は、ファッション写真を忌み嫌い、逃れていった者の表現さえ取り込んでしまうのである。
- Vince Aletti, “Junior Bazaar,” Aperture, No.182, 2006, p. 56. ↩︎
- Peter Galassi, “Introduction,” Robert Frank: In America, Steidl, 2014, p. 10. ↩︎
- Stuart Alexander ed., Robert Frank: A Bibliography, Filmography, and Exhibition Chronology, 1946-1985, Center of Creative Photography / University of Arizona, 1986, pp. 6-8. ↩︎
- “An Off-Beat View of the USA: Popular Photography’s Editors Comment on a Controversial New Book,” Popular Photography, May, 1960, pp. 104-106.引用はそれぞれレス・バリー、ブルース・ダウンズ、ジェームズ・M・ザヌットの評より。 ↩︎
- Ibid, “An Off-Beat View of the USA: Popular Photography’s Editors Comment on a Controversial New Book”. ↩︎
- John Szarkowski, “Mirrors and Windows: American Photography since 1960,” Mirrors and Windows: American Photography since 1960, The Museum of Modern Art, New York, 1978, p. 17. ↩︎
- Marilyn Laufer, In search of America: photography from the road, 1936-1976, Graduate School of Architecture & Urban Design Theses & Dissertations, 1992, Chapter 6-7. ↩︎









