パリで一旗揚げたリーバーマン、影の功労者は恋多き母?
ところで、ファッション誌はその方向性や性格を決定づける編集長やアートディレクターの在任期間が長い。たとえば、この6月に退任が発表された『ヴォーグ』の現編集長アナ・ウィンターは140余年続くこの雑誌の編集長としてはわずか7代目に過ぎず、その在任期間は40年に迫ろうとしている。『ハーパーズ・バザー』は『ヴォーグ』に比べて短い期間で入れ替わっているものの、いま話題にしている20世紀前半から中ごろの状況を見てみると、1934年に編集長に昇格したカーメル・スノウは1958年まで24年務めているし、同年にアートディレクターになったブロドヴィッチもやはり24年ものあいだその地位にあった。
つまり、これらの雑誌はかなり長期的な戦略でブランディングをおこなっており、編集長やアートディレクターといった役職は、ほとんど終身でその座に就く王位のような性格をおびている。そしてそこに就くと、やはり王位同様に社内の政治的な理由や敵の登場によって退任に追い込まれている人物も少なからずいる。
おそらくは、『ヴォーグ』がアートエディターに代わって新設したアートディレクターという役職に収まったアガ博士も、強力なライバルが現れなければ、戦後までその地位にあったのかもしれない――。そのライバルこそが、のちにコンデナスト社の帝王となり、アナ・ウィンターの後ろ盾ともなるなど後年まで絶大な影響力を保ったアレクサンダー・リーバーマンだった。
リーバーマンは1912年にロシアのキーウ(現・ウクライナ領)で、ロマノフ家に仕えた学者の父・シモンと女優の母ヘンリエッテの間に生まれる。アレクサンダーが4歳の時にモスクワに移住し、父はレーニンの顧問となる。1921年、一家はロンドンに渡り、アレクサンダーはこのころ父からカメラを送られ写真に熱中していく。
リーバーマン家の立場は非常に不安定なもので、父はロマノフ王朝が崩壊して以降、ソヴィエトの新しいリーダーであるレーニンに引き続き仕えるものの、ボリシェヴィキには加わらず、いわばレーニンから特別扱いを受けているような状態だった。しかし、革命前後の政府内には常に緊張感が充満しており、ボリシェビキからすればどっちつかずのシモンは幾度となくその忠誠心を試されることとなる。さすがに身の危険を感じたシモンはその職を辞し、一家は1925年にパリへと渡った。父は材木会社の顧問となり、母は自由奔放な恋をする舞台役者、アレキサンダーは母の影響で幼い頃から芸術家たちに囲まれ、自身も写真や絵に興味をもつ美学生への道を歩もうとしていた。
1925年といえば、本連載にも登場した多くのアーティストたちの転機ともなったアールデコ博覧会が開かれた年である。若いアレクサンダーも、この博覧会を訪れたことが人生で最も重要な経験のひとつだったとのちに語っている。モダニズムに触発されていった彼は、若いながらもアンドレ・ロートに師事してキュビズム風の絵画を学んだり、ニジンスキーの妹でダンサーのブロニスラヴァ・ニジンスカやジャン・コクトー、マルク・シャガールといった前衛芸術家たちの輪に入り込んでいく。ここには少なからずロシアから亡命してきた芸術家も含まれていた。そうなると、とうぜんわたしたちの関心はアレクセイ・ブロドヴィッチとの関係に向いていくだろう。だが不思議なことに、パリではこのふたりの“アレックス”に交流があったかはよくわかっていない。それは彼らの年齢が一回り以上離れていたからかもしれないし、リーバーマンがまだグラフィックデザインよりも建築に興味をもっていたという理由もあるだろう。
リーバーマンはまもなく建築特殊学校に進んだものの、すぐに訪れた1929年の世界恐慌の影響で父親が失職。そのためリーバーマンも学校の授業料が払えなくなり、同郷のポスターデザイナーであるアドルフ・ムーロン・カッサンドルのアトリエで働き始める。カッサンドルはすぐにリーバーマンに絵の才能があることを見抜き、図面よりも絵画を学ぶことを進め、リーバーマンは国立芸術学校に進む。彼の興味はグラフィックの方向へ向いていくが、ここで彼の人生を大きく動かしたのが、恋多き母親ヘンリエッテだった。どういうわけか、ヘンリエッテはカッサンドルと恋仲になるが、息子が出入りする芸術家サークルにいた画家のアレクサンドル・イアコヴレフの恋とも同時進行である。ヘンリエッテのふたりの恋人は、連れ立ってファッション誌『ガゼット・デュ・ボン・トン』やグラフ雑誌『ヴュ』などを創刊させた編集人リュシアン・ヴォージェルにアレクサンダーを紹介する。すると、こんどはヴォージェルがヘンリエッテに夢中になり、1932年、アレクサンダーは『ヴュ』の美術部門に迎えられた。
『ヴュ』といえば、ムンカッチやロバート・キャパ、ホイニンゲン=ヒューンらが写真を寄稿していた当時ヨーロッパ随一のグラフ雑誌で、アートディレクターはブロドヴィッチの弟子のイレーネ・リドヴァが務めていた。ところがリドヴァがブロドヴィッチの後を追ってアメリカに渡ると、リーバーマンはその座にすっぽりと収まってしまう。さらには、ほどなく編集長のヴォージェルが新しいオーナーとの政治的見解の相違を理由に『ヴュ』を去ると、リーバーマンは編集長を兼ねるようになる。この雑誌で、リーバーマンは当時ソヴィエトの宣伝活動などに多用されていたコラージュやフォトモンタージュを用いるなど、視覚優位の報道の新しい方向性を打ち出していく(図1)。

だが、それも当時のヨーロッパの情勢により長くは続かず、やはり彼も、1940年にナチスの侵攻が始まると南仏経由でアメリカへと亡命した。
1941年の1月にニューヨークへ到着すると、リーバーマンはすぐに雑誌の仕事を再開するべく、ブロドヴィッチとの面会を取り付ける。数年前に『ハーパーズ・バザー』のオーナーのハーストがブロドヴィッチにしたのと同じように、彼はリーバーマンに誌面のレイアウトのサンプルを作らせる。ところが、年上のアレックスはそのレイアウトが弱々しいとしてリーバーマンの採用を見送った。
『ヴォーグ』と『ハーパーズ・バザー』の歴史を見ていったときに不思議なのは、写真家や編集者、アーティストなど、多くの人々が面接や採用試験を受けては不採用になる。それでも、優れた才能と運をもった人物たちには捨てる神あれば拾う神ありという展開が待っているのだが、多くの場合、彼ら/彼女らの活躍の舞台になるのは、受けなかった方のどちらかの会社であることだ。つまり、リーバーマンもそのセオリーにもれず、『ヴォーグ』のスタッフとなる。
アガを引退に追い込む男の手腕
リーバーマンは、やはりロシア出身でコンデナスト社の財務アドバイザーを務めていたイヴァ・パチェヴィッチを紹介され、彼の手引きでアガに引き合わされることとなった。アガはリーバーマンに『ヴォーグ』のレイアウトを担当させるも、やはりニューヨークの大手ファッション誌が求める能力とは異なっていたようだ。アガは1週間でリーバーマンを解雇する。ここまでの成功が運だったといえばそうかもしれないが、グラフ・ジャーナリズムとファッション・ジャーナリズムに求められるグラフィックデザインの才能はまったく違ったということだろう。
ただし、人の懐に入り込む能力は彼を裏切らなかった。かつての上司ヴォージェルの伝手でコンデ・ナストとの面会のチャンスを得る。こうしたチャンスを掴む時の推薦状というのはえてして誇張気味に書かれるものだが、リーバーマンの人に取り入る上手さがよくあらわれた書状ともいえる。ヴォージェルからナストに送られた書状の冒頭部分を見てみよう。
親愛なるコンデ
アレクサンダー・リーバーマンはわたしが以前一緒に仕事をした人物の中でもっとも優れた人物で、長年『ヴュ』のアートディレクターとレイアウトマンを務めていました。
彼はニューヨークに着いたばかりで、あなたに彼のことを知ってもらうべきだと思っています。彼は若い芸術家だったころから、優れた才能と音響技術の知識、そして素晴らしい趣味をもっています。1
30歳になるかならないかという若者がコンデ・ナストほどの人物との面会を取り付けるにはこれくらいのアピールが必要なのだろうが、ヴォージェルがいかにリーバーマンを信頼していたかが伝わってこよう。一方のリーバーマンも、このチャンスを無駄にはしなかった。リーバーマンの熱意にほだされたナストは彼を元のポストに戻すように命じる。オーナーというこれ以上ない後ろ盾を得て以降のリーバーマンの傍若無人さは尋常ではない。自分こそがアートディレクターだといわんばかりにアガを無視し、報告はナストに直接上げ、フェルナン・レジェやマルセル・デュシャンを勝手に起用し始めたのである。
さすがのアガも、自分が能力不相応と判断して解雇した若造が幅を利かせていればたまったものではない。だが、アガにとってさらに運が悪かったのは、翌年にコンデナスト社の社長が交代すると、その座に収まったのはなんとパチェヴィッチだったのである。ほどなく我慢の限界を感じたアガは社長室につかつかと歩いて行き、パチェヴィッチに自分かリーバーマンのどちらかを選ぶように迫る。
かくして、2日後にアガの引退が発表され、リーバーマンは1943年に『ヴォーグ』のアートディレクターに就任した。
さらにリーバーマンは、借金をしてまで派手なパーティーを開いて社交界に乗り込み、1940年代にはダリやシャガールをはじめ、グレタ・ガルボやクリスチャン・ディオール、ココ・シャネル、マーガレット英王女らをもてなす、ニューヨークの社交界の中心人物のひとりにまでなっていった。
アートディレクターとアーティストのあわいで
ところで、もともとグラフィック・デザインで身を立ててきたブロドヴィッチやアガと違って、リーバーマンはあくまで雑誌の世界で生きてきた。それも、『ヴュ』はグラフ雑誌とはいえファッション誌ではないので、そのデザインは洗練を求めるというよりは、視覚的インパクトや情報伝達の合理性に置かれている。例えば、現代のファッション誌では当たり前になっている、表紙にその号の特集を見出しとして入れ込む手法は、リーバーマンが始めたとされる。誌面では真四角に整然と文字を組むことを好み、ブロドヴィッチほどのデザインの遊びは見られない(図2)。こうした両者のデザイン観の隔たりは、そのまま『ハーパーズ・バザー』と『ヴォーグ』の誌面デザインにダイレクトに反映されていく。
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リーバーマンのこうしたシンプルさは、戦後に再開された絵画制作にも反映されている。1945年以前に描かれたリーバーマンの絵画はピカソやセザンヌの作風を彷彿とさせるものだったが、戦後にはジャクソン・ポロックやバーネット・ニューマンといった抽象表現主義の画家たちの作風に傾倒し、研究を重ねていく。自身の制作ではモチーフに円を好み、黒地に白く細い円を描いた初期の作品《ミニマム》をはじめ数点は、ニューヨーク近代美術館に収蔵されている(図3)。

だだし、これらは抽象表現主義に則った作風というわけでもない。実際、美術史ではキュビスムやロシア構成主義、さらには抽象表現主義などは1960年代にアメリカで展開するミニマリズムの展開を胚胎させたといわれているが、まさに時代がミニマリズムに向かう過程に身を置いていたのがリーバーマンだった。そう解釈してみると、シンプルで厳格な『ヴォーグ』の文字組みは、リーバーマンの美的スタイルを反映したものと見ることができる。
美術史の流れをざっと俯瞰すると、抽象表現主義はシュルレアリスムの影響を多分に受けて成立したもので、これまでみてきたようなヨーロッパのアーティストたちがアメリカへ渡ったこともそれを加速させていた。
とくにアメリカの美術シーンでは、シャガールやシュルレアリスムの中心人物であるマックス・エルンストなど、ユダヤ系の前衛美術家たちがアメリカで教育に携わることで若いアメリカ人画家たちに影響を与えていったのである。人材の流入がアメリカの前衛美術の展開を促したという意味では美術界もファッション写真界も同じような流れを形成していたとみることができるだろう。それが抽象表現主義を経て1960年代にミニマリズムに行き着くという流れは美術史の基礎知識である。
ところが、ファッション写真、ファッション・ジャーナリズムの世界に目を向けると、美術の分野ほど明確な流れは見えてこない。ただ、その回路を作ったうちのひとりがリーバーマンだったということは間違いなさそうだ。19世紀から20世紀の変わり目に生まれた芸術家やデザイナーたちと比べると、1912年生まれのリーバーマンは一世代下に位置する。彼らは、シュルレアリスムからファッション写真への影響を一歩先に進める世代だったのである。
ユダヤ人や白系ロシア人といった、アメリカに亡命してきた表現者たちが、自由世界で芸術に与えた表現は計り知れないものがあった。それは美術のみならずファション・ジャーナリズムの分野でもおなじことだが、ブロドヴィッチやリーバーマンの感性は、アメリカに生まれてアメリカで教育を受けた、いわば「純アメリカン・フォトグラファー」としてファッション写真の世界で名を馳せていく、アーヴィング・ペンやリチャード・アヴェドンの表現にも影響を与えていくこととなるのである。
- Charles Churchward, It’s Modern: The eye and Visual Influence of Alexander Liberman, Rizzori, 2013, p. 31. ↩︎









