自尊心の流通
前回まではファッション誌の源流を駆け足で見てきたが、ファッション誌と写真がどこで接点をもったかについても考えてみたい。
だが、そのためにはまず、簡単な写真史の基礎情報を確認しておかなければならない。写真という技術の発明を目論む人々は1820年代頃から同時多発的に現れてくる。実際に人々がこの技術を使えるようになったのは1839年にフランスのダゲールが、翌40年にイギリスのトルボットがそれぞれ特許を取得し、公表してからとなる。だが、新聞や雑誌に写真を印刷するとなると話しはまた別である。写真の濃淡、特に中間調といわれる黒と白の間のデリケートな諧調を再現する印刷技術は19世紀の末まで実用化にはいたらなかった。だからこそ新聞や雑誌の図版は19世紀を通じてほぼ版画だったのだが、写真印刷の実用化まで写真表現とファッションがなにも接点をもたなかったのかというと、決してそうとはいえない。
美術評論家の多木浩二は「ファッション写真の誕生には、いろいろな要素が混じりあっているとはいえ、肖像写真の線上で捉えるのがもっとも妥当である」と述べている1。実際、ファッション誌などの印刷媒体に掲載できなくとも、ファッション写真と共通する要素をもった表現は、初期の肖像写真の中に見出すことができる。
写真と肖像の関係はかなり深く、写真術が公表され、まずそこに飛びついたのは自分の肖像をもつという、それまでは上流階級にしかできなかったことを叶えられると考えた大衆だった。1839年末に出版されたテオドール・モーリセによるカリカチュアには、写真館に大衆が押し寄せ、その行列がパリから遥かイタリアまで続くという風刺がなされているが、肖像の所有はそれほど大衆に歓迎されたものであった[図1]。
たしかに、ダゲレオタイプの登場が肖像所有の大衆化をもたらしたことは事実である。とはいえ、銀メッキした銅板の上に直接画像を形成するダゲレオタイプは一度の撮影で一枚きりしか作れず、写真の基本的特性の一つである複数生産性をもっていないので、一点モノという意味では絵画と大してかわらない2。
そこから10年あまりを経た1851年、イギリスのアーチャーがロンドン万博でガラスをネガに用いるウェット・コロジオン法を発表する。さらに、ほぼ同時期にフランスのブランカール=エヴラールが、卵白を塗った紙(鶏卵紙)を印画紙に用いてにじみのない高解像度のプリントを可能にしたことによって、写真は新たな次元に突入していった。ウェット・コロジオン法+鶏卵紙のコンビは鮮明な写真を何枚でも作ることができる。じつは、これこそが肖像を流通させるあらたなイメージ革命にほかならなかったのだ。
アレクサンドル・デュマは、前回も引いた記事の中で、こう語っている。
以前は、人々が自分の肖像を他人にあげるとしても、気前よくあげることはできなかった。肖像画はたいへん高価だったので、人々はそれを心から愛している人だけにあげることができたのである。〔……〕
いまやすべては過去のことである。人はまるで物乞いに施しをするかのように、欲しがるものには誰にでも自分の肖像写真を与える。そして、もしわたしたちがかかわりをもたない人には肖像を与えないとしても、その場合、肖像は交換の対象とされ、わたしたちは別の一枚をもらうという条件で一枚の肖像を人にあげることになる。〔……〕あなたにとってもっとも無関係なあらゆる種類の人々が、彼らのコレクションの中にあなたの肖像を加えている。〔……〕あなたは蝶や蛾のコレクションのように並べられるのだ。唯一の違いは、熱帯地方の美しい蝶や貴重で神聖なカブトムシの標本は一つが100フランもするが、コレクションに加えられている同時代大部分の同時代の人たちは、いつも一枚10スーで売られているということだ。3
ここでは重要なことが三つ述べられている。一つは、肖像写真は誰にでもあげられるほど複製の大量生産が可能になったこと。二つめは、それが交換の対象になったということ。そして、それは10スー、すなわち500円程度とかなり安価になったことである。
このうち、一つめの技術的革新についてはすでに触れたが、残りの二つについては、ウェット・コロジオン法から派生したカルト・ド・ヴィジット(名刺判写真)の発明が大きく関係してくる。
1854年にフランスのアンドレ・ディズデリによって発明されたカルト・ド・ヴィジットは、レンズを4つ備えたカメラでネガをスライドさせて2度撮影することによって、一枚のネガに名刺大の同じ写真を8枚写すものである。客には、一枚一枚切り離して台紙に貼って納品される。同じ写真を複数手にした人々はそれをどうするのか? デュマがいうように、名刺のように他人にあげたり交換したりするのである。また、有名人のカルト・ド・ヴィジットを販売するという商売も登場した。さながら現在のトレーディングカード文化のはじまりである。これはイギリスとフランスを中心に流行し、名刺判写真コレクターたちは「カルトマニア」と呼ばれるようになった。
生粋のカルトマニアとして知られたのが、『失われた時を求めて』で知られるフランスの文豪、マルセル・プルーストである。写真家のブラッサイによれば、プルーストはあるパーティで知り合ったロベール・ド・モンテスキュー伯爵にカルト・ド・ヴィジットをねだった。モンテスキューは『失われた時を求めて』に登場するシャルリュス男爵のモデルともいわれる、ダンディズムを体現した唯美主義の作家である。写真をねだられのらりくらりとかわすモンテスキューに送りつけた執拗な手紙を読むと、プルーストの写真に対する熱狂が常軌を逸したものだったことが伝わってくる。
その写真というのを見ると、自宅のジャルダン・ディベール(サンルーム)なのか、植物に囲まれた明るい空間で気取ったポーズで読書をする全身像のモンテスキューが写っている[図2]。そこには、あきらかに人の手に渡ることを前提にした自尊心が見られよう。初期の肖像写真に見られるこうした自尊心こそが、ファッション写真に通ずる一つの要素にほかならない。
撮られる人間の自尊心はカルト・ド・ヴィジット以前の肖像写真にも見られないわけではないが、人に写真をあげるという文化の普及はみずからの似姿のみならず、その自尊心さえも流通させる装置になっていたといえるだろう。カルト・ド・ヴィジットが普及させた写真の自尊心は、当然、より大きなサイズの写真にも見られるようになっていく。
かくいうモンテスキューも、ある人物の自尊心たっぷりの写真に魅了され、伝記を書いているほどである。その人物こそ、イタリア出身のカスティリオーネ伯爵夫人こと、ヴィルジニア・オルドイーニである。
カメラを飛び越える自尊心
時は1855年。イタリア半島のピエモンテ・サルディニア王国はクリミア戦争への派兵を通じてフランスに恩を売り、それを足がかりに列強国の後ろ盾を得てイタリア統一を果たそうと目論んでいた。ところが、講和会議を前にした55年11月にフランスを表敬訪問したピエモンテ・サルディニア国王のヴィットリオ・エマヌエーレ2世に対するフランス皇帝ナポレオン3世の対応は剣もほろろだった。そこで浮上した作戦が、イタリア問題にフランスの目を向けさせるべく、女性問題でなにかと艶聞を広めていたナポレオン3世のもとに女スパイを送り込むというものである。
白羽の矢が立ったのが、当時19歳でエマヌエーレ国王の愛人にして、同国の宰相カヴールの親戚筋にあたるヴィルジニア・オルドイーニだった。彼女は権力者の籠絡にはかなり長けていた人物で、1856年の秋にはナポレオン3世はおろか、従兄弟のプリンス・ナポレオンやモルニー公爵らもその術中にはまったと噂されたほどである。ところが、皇帝と愛妾の関係は、1857年4月に皇帝がモンテーニュ大通りのオルドイーニの屋敷から出てきたところでイタリア独立運動の志士3人に襲われるという事件を契機として終末を迎えた。
高慢なナルシストだったオルドイーニは社交界で敵が多かったようで、すぐにこの事件は彼女の内通によるものではないかといった噂が立つ。さすがの皇帝も国外退去を言い渡さざるをえなくなり、オルドイーニもしぶしぶ一旦はイタリアに退却するが、1861年にはパリに戻っている。1863年にはふたたび社交界への出入りを許されるが、皇帝とのよりは戻らず、肩身の狭い思いをしたようだ。写真史家のピエール・アプラキシンは次のように考察している。
1863年、彼女は再びチュイルリー宮殿に迎えられ、その姿はまたもや新聞に取り上げられたが、1856年、1857年のような社交界における特別な地位を取り戻すことはできなかった。ナルシシズムに支配されていた彼女にとって、これは大きな敗北だった。彼女が自分の全存在と同一視していた美貌が、彼女を安心させるすべてだったのである。4
その全存在たる美貌を永遠に留めるためか、あるいはかつてのような特別な地位を取り戻すための武器とするためか、オルドイーニはフランスに戻った直後から、自分の姿を過度な演出による写真に残すことにのめり込んでいく。
それらの写真を撮ったのは、ピエール=ルイ・ピエルソンという写真家だった。ピエルソンはダゲレオタイプの公表直後に写真技術を習得し、1844年には自身の写真館を開業している。1851年にはメイヤー兄弟と提携し、メイヤー&ピエルソンは皇帝夫妻や上流階級の人々を顧客に抱える、パリでも有数の写真館となった。
アプラキシンによれば、オルドイーニが最初にこの写真館を訪れたのは1856年のことで、翌年までに16枚の写真を撮った記録があるという。同定できる写真を見るかぎり、この時点で撮られているのはなんら変哲のない肖像写真である。ところが、彼女はそののちピエルソンの個人顧客となり、1861年にパリに舞い戻って以降は、1867年までに自尊心に満ちた肖像写真を多数残している5。
モンテスキューはオルドイーニの評伝のタイトルを『神聖なる伯爵夫人』と題しているが、それは彼がガリフェ侯爵夫人から聞いたという次のような証言に集約されているといっていいだろう。
伯爵夫人はときどき彼〔ピエルソン〕にこう言ったものだ。「この世界が初まって以来存在するもっとも美しい人間の共同制作者になることで、神があなたに何を成し遂げようとしているのか、あなたは十分に理解しているのですか? … 」〔……〕このようなことを言われると、彼は話しかけてきた女性に無言で目を上げ、何も言わずに仕事に戻った。6
この時期にオルドイーニとピエルソンによって制作された写真はしばしば油絵具やグアッシュで着彩されている。1867年のパリ万博で「ハートの女王」と題された作品が出品された以外、オルドイーニの写真は公衆の目に触れることはなく、彼女自身の管理によってごく親しい人々に送られるにとどまった。知られているところでは、モルニー公爵やオマール公爵、のちに大統領となるアドルフ・ティエール、マチルド皇妃をはじめ、恋人でもあったポニャトフスキー公爵、美術監督官ニューヴェルケルク伯爵、ロートシルト男爵、ガリフェ侯爵らに贈られている。また、彼女自身が相手に価値を見出せなくなったと判断すれば、容赦なく写真の返却を求めたともいう。
こうした事実は、ヴィルジニアがかなり戦略的に自分の化身としての写真を贈っていたことを物語っている。相手が軒並み政治や社交界の中心にいた人物だということを考えると、それは自身の立場を築くための自己顕示欲にあふれた「プレゼント」だったわけである。デュマの表現を借りれば、それは蝶や蛾の標本どころではなく、金を積んでも買えない神聖な熱帯の蝶に匹敵するようなもので、オルドイーニとの関係を取り結ぶ契約書かパスポートのようなものとさえいえるだろう。
それらの写真は、同時代のファッション・プレートや舞台写真を参考にしたもので、オルドイーニのオンステージであるのはもちろんのこと、多くの写真に認められる強いまなざしにも見てとることができる。
その中でも、「フォリアのスケルツォ」と題された一枚は、魔力とさえいいたくなるほどの蠱惑的な眼差しをこちらに投げかける[図3]。この写真に対するアプラキシンの分析を見てみよう。
ヴェルディの「仮面舞踏会」を彷彿とさせる「フォリアのスケルツォ」では、視線そのものが主題となっている。伯爵夫人は空の額縁を頬にあて、顔を覆い、右目を孤立させている。粉をたはいた髪、むき出しの肩、白鳥の首のような曲線を描く筋肉質の腕、すべてがこのイメージの奇妙な魅力に貢献しているのである。額縁に入れられた眼が独自の生命力をもつにつれ、座っている人物の身元は抹消される。7
当時のありふれた肖像写真は写される人物の佇まいが類型化され、視線もカメラを見ているような説明的なものでしかない。言い換えれば、写真空間の中に閉じ込められた彼ら/彼女らの身体はその眼差しもカメラより遠くを意識しているようには感じられない。当時一般的に写真用に流通していた楕円形の窓があいたフレーム越しに投げかけられる眼差しは、オルドイーニの視線がカメラ(写真家)を通り越して、写真を見るものに向けられているのは明らかである。
シチュエーションは写真の中で完結していることが求められつつも、視線はカメラを飛び越えて写真を見るものを想定した広がりをもつという構造は、20世紀以降のファッション写真に求められた理想形と重なるといっていいだろう。
写真術が複数生産性を確立した直後の1860年代の肖像写真がファッション写真の源流だと考えられる理由はもう一つある。それは、ファッション写真の基本原理ともなる、自己投影の欲望である。それを探るために、海を渡ってアメリカの事情を見てみよう。
西部開拓時代の自己投影の欲望
1861年にアメリカ大統領となったエイブラハム・リンカーンは、前年におこなわれた選挙戦で史上初めて写真を利用したといわれている。ニューヨークのブロードウェイに壮麗な写真館を構えるマシュー・ブレイディが撮影したものだが、その写真は複製に複製を重ねられ、ジェムと呼ばれる切手程度のサイズのものまで残っている。ある種の海賊版だが、それだけこの肖像には需要と価値があったということだろう。カルト・マニアの文化がアメリカにも自然と発生していたであろうことを裏付ける現象といっていいのではないだろうか。
ところが、アメリカにはヨーロッパとはやや異なる事情があった。それは、ヨーロッパのカルト・ド・ヴィジットが紙焼きのプリントを主流とするのに対して、この時期のアメリカでは黒いエナメルを塗布したブリキ板に直接写真を写すティンタイプという技法が主流だったことだ。ブリキ板は前もって一枚分に裁断され、小型のカメラで一枚だけ撮るというのがアメリカにおける一般的方法だった8。一点モノという意味ではダゲレオタイプに似ていて、人にあげたり交換したりというよりも、むしろ自分の手元に置いておくということが主体になっていたと考えられよう。
南北戦争が終結した1865年以降、アメリカでは西部など新たな開拓地域への移住が盛んになった。1870〜80年代のアメリカを舞台にしたローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原の小さな家』に描かれるような時代である。そのような地域が町や村のような規模になっていれば写真館もあったかもしれないが、家族単位で定住を始め、次第に人数が増え始めた集落ではそうもいかない。そうした事情もあって、アメリカでは馬車引きの旅回りの写真館が各地を回っていた。そのような背景を考えれば、ブリキ板に直接画像を写しとってそのまま客に納品すればよいティンタイプは都合がよかっただろうし、誰かにあげるよりも自分のために撮るというのにも納得がいく。
わたしの手元に、西部開拓時代初期の1860年代から70年代のものと思われるアメリカのティンタイプが2枚ある[図4]。紙にプリントした写真は通常、台紙の裏面に写真館の名前や住所が印刷してあるのだが、ティンタイプは台紙に貼ることも稀なので、どこで撮られたか、移動写真館だったのかもわからない。
だが、別々に入手した2枚の写真には、驚くほどの共通点がある。まず目がいくのは背景のセットである。書割には大邸宅の軒先が描かれている。写っている人は、どちらも表情が固く、写真に撮られるのは初めてではないか。書割やセットも、この手のシチュエーションのものは同時代のアメリカではほかにも多く見出せる。ブレイディのような大資本の写真館でもないかぎり、そう多くの書割やセットをもっているわけではないので、これが当時のアメリカにおける理想の肖像写真の典型ということになるだろう。
ファッション写真は、理想の生活や夢の世界が作り出される。これら2枚の写真は、まさしく流行(ファッション)になりきった、自己投影の達成が写されているのである。
いつの時代であっても、カメラを前にした時に撮られているという意識を払拭するのは不可能なことといっていいだろう。むしろ、その意識を写真家に投げ返し、写真という空間の中で何者かになりきる、あるいは巧みに利用してそこに自尊心を閉じ込める。こうした行為が、のちのファッション写真につながっていく要素とみることができるだろう。
- 多木浩二「ファッション写真の誕生」『写真論集成』岩波書店、2003年、pp. 408-409。なお、本論は1980年から81年にかけて『流行通信』に連載されていた論考である。 ↩︎
- トルボットが発明したカロタイプは当初からネガを介してプリントを作る、現代のアナログ写真と同じ方式だったが、ネガが紙であったために解像度が低かったこと、さらに特許がかけられていたことから、あまり普及していなかった。 ↩︎
- “Alexander Dumas on Photography”, The Photographic News, August 10, 1866, pp. 379-380. ↩︎
- Pierre Apraxine, “The model and the photographer”, “La Divine Comtesse”: Photographs of the Countess de Castiglione, Yale University Press, 2000, p. 30. ↩︎
- Ibid., pp. 26-27. ↩︎
- Robert de Montesquiou, La divine Comtesse: Étude d’après madame de Castiglione, Goupil & Cie, 1913, p. 61. ↩︎
- Apraxine,op.,cit.,p. 31. ↩︎
- ウェット・コロジオン法はネガの黒色になる部分がアイボリー色で現れるため、濃色の布や紙を下に敷くとポジ像(通常の黒白写真)に見えるという特質があった。ティンタイプはこの原理を利用したもので、あらかじめ黒く塗られたブリキ板に薬品を塗布して撮影すると、ポジ像の写真が得られた。これはプリントを作らずすぐ客に納品できるため、1860〜70年代にかけてアメリカで流行した。 ↩︎