「フィラデルフィア・ファッション」からアメリカの「ファッション」へ

ここまで見てきたように、ファッション・ジャーナリズムの成立はモードの中心地パリや産業革命の発生地であるイギリスがリードしてきた。とはいうものの、現代においてはアメリカがその中心にあることは否定できない。ゆえに、ここからはアメリカがファッション・ジャーナリズムの中心地となった経緯を解き明かしていくことも目的の一つとなっていく。そのためにもまずは、アメリカにおけるファッション誌の成立をたどってみることにしよう。

アメリカではイギリスの植民地だった17世紀末から新聞が発達し、1775年に始まる独立戦争時には重要な言論のツールとして威信を獲得していた。そういった事情もあってか、19世紀には政治的言論と文化的な情報の発信経路はある程度離れて発展していったと見ることができる。言い換えれば、アメリカでファッション・ジャーナリズムの萌芽が見られる19世紀前半には、文化的情報を発信するメディアの領域がすでに活況を呈していた。なかでも、ファッション史を語るうえで必ずといっていいほど取り上げられる女性誌『レディズ・ブック』は、その後アメリカから世界に広まっていくファッション誌の原型を作った雑誌として注目に値する。ここでは、同誌とその後継誌『ゴーディズ・レディズ・ブック』を中心に、19世紀初期から中期にかけてのアメリカのファッション・ジャーナリズム事情をみてみたい。

『レディズ・ブック』は1830年にフィラデルフィアでルイス・アントワーヌ・ゴーディによって創刊された月刊の女性誌である。その創刊号を見てみると、「最新のイギリスのファッション(The Latest English Fashions)」という記事から始まり、全56ページ、大小50あまりにおよぶコンテンツのなかでファッション関係はごく一部にすぎない。圧倒的に多いのは小説や詩などの文学関連、そのほかにはダンス、乗馬、刺繍、音楽(楽譜)など、当時女性に関連するとされたライフスタイル全般に及ぶ。とはいえ、数号に一度ファッション・プレートも付されようになるし、少なくとも1833年の合本版には副題として「ファッションとアート」と明記されているので、ファッションがコンテンツ全体の中で重要なものとみなされていたことも垣間見える。ただ、興味深いのはそのファッションなるものがモード(流行)とは異なる展開を見せていたことである。それは「フィラデルフィア・ファッション」という名称として同誌に現れてくる[図1]。

『ゴーディズ・レディズ・ブック』(1831年10月号、プリンストン大学蔵)

そもそも、19世紀のアメリカでは東部に入植してきたプロテスタントたちが華美を慎み、パリの流行よりも控えめに装うことを良しとして、流行よりも1、2年遅れのものを着ることが上品とされることもあったようだ1。それは女性のあるべき姿ということにも関わってくるのだが、『レディズ・ブック』が説いたのは「家庭人」としてのレディ像、すなわち良き妻であり、母であり、家庭を取り仕切る女主人というものだった。いってみれば、同誌は記事を通じて慎ましい女性像を啓蒙し、その視覚的情報としてファッション・プレートを掲載していたのである。ファッション史家の平芳裕子は次のように分析している。

『レディズ・ブック』は、「レディ」の作法と「家庭人」としての振舞いを言葉の上で結びつけたが、それは女性の内面と外見を結びつけ、「良き女性」の姿を通して「レディ」の作法を表現するよう読者を説得する試みでもあったのだ。外見の慎み深さが内面の表現である限り、ファッションは好ましい「作法」となるのである。そして『レディズ・ブック』は、そのような装いを最新流行に代表されるヨーロッパのファッションから差別化するために、新たな名を必要とする。それこそが、先に述べた「フィラデルフィア・ファッション」なのである。2

いわば、ファッションにしてモードにあらずという言説空間が形成されていくわけであるが、そもそもフランス語の「モード」を英語にするとそれは「ファッション」である。『レディズ・ブック』ではそれをイコールと捉えられないよう、ファッションということばを避け、装いや身だしなみという語に置き換えられるという局面さえあった3。『レディズ・ブック』は必ずしも女性のファッションを扱ったアメリカ最初のメディアというわけではないが、1830年代にはプロテスタントの倫理観やナショナリズムをまとった、カギカッコ付きの「ファッション」を提唱していった。実際、イギリスのファッションに比べても、「フィラデルフィア・ファッション」のドレスは装飾や色が控えめに描かれている。

1837年には、小説家で社会運動家のサラ・ジョセファ・ヘイルを編集長に迎えたことで大きな転機が訪れた。ヘイルは1827年に奴隷制度に批判的な姿勢をとった小説『ノースウッド 北と南の生活』という小説を出版する。奴隷制度を扱った文学としては最初期のこの小説はすぐに話題となり、翌年にはその成功を知ったジョン・ウッド牧師から『レディズ・マガジン』という雑誌の編集を依頼され、編集者となった。1837年、ゴーディはヘイルをヘッドハンティングするために『レディーズ・マガジン』ごと買収したのである。『レディズ・ブック』は『ゴーディズ・レディズ・ブック』と改称し、さらに読者を獲得していく。これ以降、南北戦争後までプロテスタンティズムに根ざした慎み深い「ファッション」はいっそう推し進めたられていくものの、「フィラデルフィア・ファッション」という語は使われなくなっていく。

その理由としては、アメリカ東部諸都市の発展によってフィラデルフィアという都市の特権性を打ち出す必要性が薄れたことや、ファッションの大衆化によって、摸倣するための原型として『ゴーディズ・レディズ・ブック』こそがヨーロッパから受容した「ファッション」の正統であることを示す必要があったことなどが指摘されている4。つまり、ヨーロッパから受容したものでありながらも、プロテスタントの精神によって操作されたアメリカの「ファッション」として根付いていくこととなるのである。

キラーコンテンツ誌の成立

あらたに編集長に迎えられたヘイルの編集方針は、ひとえに女性による女性のための誌面作りという信念に尽きる。就任当初から女性の書き手を多く起用しているし、1840年1月には寄稿者が女性だけの号を発行している。女性が教育を受ける重要性や、女性の雇用問題も定期的に取り上げ、多くの支持を集めた。また、当時のアメリカの雑誌や新聞は国内外の記事の転載でコンテンツを補っていたが、ヘイルはすべての記事がアメリカ人による書き下ろしという方針をとった。発行部数は彼女が編集長に就いた時点の1万部から、1840年代には7万部、1860年には15万部にまで増加している5。当時アメリカで最大の発行部数を誇った雑誌であり、この国でいかに活字の情報が重視されていたかがうかがえる数字といえるだろう。同誌の小説のなかには、華美な装いを戒めるような、「ファッション」へと人々を導くような啓蒙的な内容のものもあった。この時点では、ヨーロッパの直訳模倣のモードはアメリカでは受け入れられるものではなかったということだ。では、『ゴーディズ・レディズ・ブック』やその類似誌である総合文化誌をファッション誌の原型と捉えた場合、そこに必要とされなかったものとは何だったのだろうか。

目を引く事実としては、ヘイルが『ノースウッド』で奴隷解放を説いていたにもかかわらず、『ゴーディズ・レディズ・ブック』は社主ゴーディの意向で、頑なに政治とは距離を置いていたことだ6。奴隷解放が争点になった南北戦争中ですら、自誌の立場を明確に示さなかったことが原因で読者の減少を招いたというが、ヘイルもそれに従っていたのだから、これは明確な経営判断だといえる。ファッション・ジャーナリズムの話題からは逸れたように映るかもしれないが、じつは、こうした政治的話題の排除こそが、のちのアメリカのファッション誌成功の鍵となるヴィジョンだった。フランスのモード紙があくまで政治的な主義主張のもとに成り立っていたのに対し、アメリカの女性誌・文化誌はあくまで政治から距離を取ることを良しとしていたのは興味深い。

ファッションということばが総合文化誌の副題に掲げられていたとしても、あくまでそのの一角にすぎないという編集方針はライバル誌でも同じだったようだ。たとえば、1842年に創刊フィラデルフィアで創刊された『ピーターソンズ・マガジン』なども構成は大きく変わらない。もう一つ、1840年以降『ゴーディズ・レディズ・ブック』のライバル誌と目されていたのが、やはりフィラデルフィアで創刊された、『グラハムズ・マガジン』である。この雑誌は1841年から1年あまり、エドガー・アラン・ポーが批評担当のライター兼編集者として働いていたことでも知られる。男女を問わず幅広く文化的話題を取り扱った雑誌だが、女性誌でなくとも事情は変わらない。たとえば、たびたび変わっている書名に注目してみたい。41年には『グラハムズ・レディズ・アンド・ジェントルメンズ・マガジン』、44年には『グラハムズ・マガジン・オブ・リテラチャー・アンド・アート』となるなど何度か名前を変え、最終的には56年に『グラハムズ・イラストレーテッド・マガジン・オブ・リテラチャー、ロマンス、アート・アンド・ファッション』となる7。当初から前面に打ち出していたのは文学と芸術であるが、そこにファッションの文字が加えられるのは1856年7月号からだった。

では、こうした雑誌の主役級のコンテンツはなんだったのかというと、文学である。そもそも『ゴーディズ・レディズ・ブック』でもヘイルは文芸推進派で、ファッションには別の担当編集者がおり、ファッション・プレートの掲載には消極的だったといわれる。『グラハムズ・マガジン』はスポーツの記事に重点をおいた男性誌『バートンズ・ジェントルマンズ・マガジン』と文芸を中心にした『アトキンソンズ・キャスケット』が合併して創刊された雑誌だったのだが、こういった例からも、アメリカの雑誌業界では文学とライフスタイルの組み合わせがキラーコンテンツだったことがうかがえる。『アトキンソンズ・キャスケット』もパリやロンドンのモードを紹介してはいたが、見るべきは、ファッションがどのようなかたちで取り上げられていようと、それだけでは雑誌は成立しえなかったということだ。くわえていえば、『ゴーディズ・レディズ・ブック』が圧倒的な発行部数を誇っていたことを鑑みれば、同誌が示す「ファッション」が、当時のアメリカではもっとも支持されていたありようだったと考えられよう。そして、そこに参入してあらたな地平を築いたのが、ハーパー兄弟社だった。


  1. 平芳裕子「アメリカのメディアと既成服」『ファッションヒストリー1850-2020』ブックエンド、2024年、p. 42。
    ↩︎
  2. 平芳裕子『まなざしの装置 ファッションと近代アメリカ』青土社、2018年、p.40。 ↩︎
  3. 同書、p. 40。 ↩︎
  4. 同書、pp. 60-61。 ↩︎
  5. P. Mark Fackler, Charles H. Lippy (ed.), Popular Religious Magazine of the United States, Greenwood Press, 1995, p. 241. ↩︎
  6. Patricia Bradley, Women and the Press: The struggle for Equality, Northwestern University Press, 2005, p. 30. ↩︎
  7. タイトルの変更の経緯を含め、『グラハムズ・マガジン』の歴史は以下の詳しい。
    Frank Luther Mott, “A Brief History of “Graham’s Magazine””, University of North Carolina Press, Vol.25, No.3, 1928, pp. 362-374. ↩︎
打林 俊

打林 俊

写真史家、写真評論家。
1984年東京生まれ。2010-2011年パリ第1大学招待研究生、2014年日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。博士(芸術学)。2016〜2018年度日本学術振興会特別研究員(PD)。主な著書に『絵画に焦がれた写真-日本写真史におけるピクトリアリズムの成立』(森話社、2015)、『写真の物語-イメージ・メイキングの400年史』(森話社、2019)、共著に“A Forgotten Phenomenon: Paul Wolff and the Formation of Modernist Photography in Japan”(Dr. Paul Wolff & Tritschler: Light and Shadow-Photographs 1920-1950, Kehrer, 2019)、「アンリ・マティスの写実絵画不要論における写真をめぐって」(『イメージ制作の場と環境-西洋近世・近代における図像学と美術理論』、中央公論美術出版、2018)など。
2015年、花王芸術・科学財団 美術に関する研究奨励賞受賞。