アメリカがパリに焦がれた瞬間

第6回 『ハーパーズ・バザー』の創刊

『ゴーディズ・レディズ・ブック』がゴディ=ヘイル体制で1877年まで刊行を続けられたのに対し、『グラハムズ・マガジン』は1850年代には早くも苦境に陥った1。その大きな要因の一つが、ハーパー兄弟社による月刊誌『ハーパーズ・ニュー・マンスリー・マガジン』の創刊だった。

のちに『ハーパーズ・バザー』を創刊するこの会社は、1817年にジェームズとジョンのハーパー兄弟によってJ&Jハーパー社として創業し、その後、1833年に彼らの弟ジョゼフとフレッチャーを加えてハーパー兄弟社(Harper & Brothers)となる。1840年代にはそれなりの数の書籍を出版していた彼らもまた、キラーコンテンツ誌に乗り出すこととなった。それが、1850年6月に創刊された『ハーパーズ・ニュー・マンスリー・マガジン』である。同誌は「文学、政治、文化、金融、アート」を副題に掲げていることからわかるように、性格としては一見『グラハムズ・マガジン』同様の雑誌であるが、文学と文化の間に政治が割って入るような誌面構成が最大の違いである。そういった意味ではこんにちの新聞のコンテンツに近いものがあるが、これが『グラハムズ・マガジン』の経営を苦戦させるほどの人気となり、同年末には発行部数は早くも5万部に到達していた。

こうして月刊誌を軌道に乗せたハーパー兄弟社の次なる展開は、より新鮮な情報を提供できる週刊誌を作ることだった。1857年に『ハーパーズ・ウィークリー』として創刊すると、当初は民主党支持だったものの、南北戦争勃発以降は共和党支持に転じ、有力な政治雑誌となっていく。同誌は「文明のジャーナル」を副題に掲げ、やはり小説やエッセイを掲載したりもしていた。

この段階ではファッションや女性誌はほとんどハーパー兄弟社の専門外だったが、『ハーパーズ・ウィークリー』の発行が堅調になると、ハーパー4兄弟の末っ子フレッチャーは、ファッションを主体にした女性誌の創刊を思いつく。このアイデアは、フレッチャーがベルリンで1854年に創刊された隔週刊の女性モード紙『デア・バザー』に出会ったことがきっかけだった。しかも、調べていくうちに同誌は掲載しているファッション・プレートの転載事業を展開していることがわかってくる。アメリカでは1830年代から産業革命が始まっていたが、南北戦争の終結で奴隷解放が起こった結果、1860年代半ば以降に労働力が拡大し、産業革命の成果が一気に広がりを見せていた。ヨーロッパの事例でも見たように、産業革命といえば繊維産業の興隆と所得の増加による中産階級の誕生である。フレッチャーはここに勝機があると考え、兄たちを説得し、1867年11月に新たな週刊誌『ハーパーズ・バザー』の創刊にこぎつけた(図1)。

図1 『ハーパーズ・バザー』創刊号

編集長に『ニューヨーク・タイムズ』の最初の女性記者の一人であるメアリー・ルイーズ・ブースを起用し、1860年にパリで『ラ・モード・イリュストレ』を創刊させたエメリン・レイモンとパリ特派員契約を結ぶなど、女性スタッフの起用に積極的であった。内容的には『ゴーディズ・レディズ・マガジン』と一見似たような構成をとっていたとはいえ、『ハーパーズ・バザー』が画期的だったのは、カギカッコ抜きのファション、すなわちモードを主軸にすると宣言したことにほかならない。創刊号に掲載された「わたしたちのバザー」と題された創刊の辞では、次のように述べられている。

わたしたちはヨーロッパの主要なファッション誌、特にパリの新聞社にファッションを供給していることで有名なベルリンの『バザー』と特別な取り決めを完成させました。わたしたちはヨーロッパのモードの主要な中心地であるパリとベルリンで毎週最新のファッションが発表されると同時に、それを受けとります。これは、この国のほかの新聞にはない強みです。わたしたちの読者は3週間も4週間も前のどこのものともわからない雑誌からではなく、パリジャンたち自身と同時に本物のパリのファッションを手に入れることができるのです。これが望ましいことであるというのは、ファッション界でパリのあらゆるものが人気を保っていることを知っている人なら、あるいは、パリから帰ってきた女性のワードローブが、この偉大なファッションの殿堂から届いたばかりのものを真似しようと好奇心旺盛に吟味されているのを見たことがある人なら、疑う余地はないでしょう。2

 

そもそも、アメリカで『ハーパーズ・バザー』以前にパリ・モードの紹介がまったくされていなかったわけではない。すでに1850年代から、『ピーターソンズ・マガジン』などでは定期的に「パリジェンヌのモード」と題されたファッション・プレートが掲載されていることが確認できる。だが、これにしてもイルマン・アンド・サンズというアメリカ国内の会社で制作されているし、具体的にそれを説明する文章も掲載されていないので、基本的には『ゴーディズ・レディズ・マガジン』の方法と変わらない。さらに1853年にはパリの『ル・モニトゥール・ド・ラ・モード』がニューヨークに拠点を置いてアメリカ版の『ザ・モニター・オブ・ファッション』を創刊させるも、翌年には姿を消している。この雑誌については残念ながら詳細がよくわからないのだが、本国版の英訳をベースにパリのファッションをそのまま英語で紹介していたと考えるのが自然だろう。前回も見たとおり、1850年代にはやはりパリ直輸入のモードはアメリカでは受け入れられるものではなかったのだ。ではなぜ、『ハーパーズ・バザー』はそれまでアメリカで馴染みの悪かったパリのモードを取り入れることに成功できたのだろうか。

一つには、なによりも南北戦争後という、アメリカの経済成長や社会意識が変化した時期だったことが挙げられる。このころには『ゴーディズ・レディズ・マガジン』や『ピーターソンズ・マガジン』の編集方針が形骸化し、読者が新鮮味を感じなくなったという、想定される最大のライバルが失速したという指摘もある3。つまり、経済的なボトムアップを達成し、家庭人としての女性という理想像と「ファッション」を過度に結びつける風潮が薄らぎつつあった折に登場したのが『ハーパーズ・バザー』だったのである。

ひとえにフレッチャー・ハーパーを讃えたいのは、彼がそうした世論の変化に対して、ファッションの情報源をイギリスでなくパリに定めたことだといっていい。坂井妙子は、19世紀半ば以降のイギリスにおける女性のファッションについて、「女性服では、「これぞイギリス!」と呼べるものは少ない。19世紀後半に一世を風靡した唯美主義ドレスや、女性用スーツ(乗馬服を転用)を除き、上流階級、中産階級の女性たちはパリのファッションの二番煎じに甘んじていた」と述べている4。つまり、二番煎じのイギリスから輸入しアメリカ流に翻訳された「ファッション」はイギリスの二番煎じ、ひいてはパリの三番煎じということにほかならない。1860年代まではむしろそれがアメリカのファッション・ジャーナリズムが追い求めた姿だったとしても、もはや時代は移り変わっていた。

1870年代半ばになると、『ハーパーズ・バザー』はパリのモードを「ニューヨーク・ファッション」という名で紹介するようになる。とはいえ、もはやそれは、かつてのアメリカナイズされた「ファッション」ではなくなっていた。先行雑誌の形骸化した、ないしはバイアスのかかった女性像に求められる「ファッション」をパリからの直輸入の「モード」におきかえようとした『ハーパーズ・バザー』の編集方針は、見事に読者に迎え入れられたというわけだ。アメリカがパリのファッションに焦がれる時代、言い換えればモードとファッションがイコールで結ばれる時代が幕を開けたのである。とはいえ、創刊当初の『ハーパーズ・バザー』をファッション誌だと言い切るのはまだ早い。なぜなら、ハーパー兄弟社が導き出したのは、わたしたちがよく知った無難な路線でスタートを切って同誌の経営を安定させるという答えだったからである。

ファミリー・ジャーナルというスタート

たしかに、「わたしたちのバザー」の冒頭はファッション誌誕生の高らかな宣言のように聞こえる。とまれ、ハーパー兄弟社は自社の先行する雑誌の成功体験から抜け出せなかったのか、あるいは週刊という刊行ペースで生じる誌面を埋められなくなるリスクを分散させるためか、当初は小説や芸術関連記事、科学記事なども掲載している。意外にも、パリ直輸入のファッション情報を売りにしていながら、その実ファッション誌という未曾有の形態としてスタートを切らなかったことに逆説的成功があったのではないだろうか。「わたしたちのバザー」は次のように続けている。

しかし、ファッションは『ハーパーズ・バザー』の主役ではあるものの、それだけが唯一の目玉というわけではありません。ファッション誌は文学的権威としては何の価値もないという意見が一般に広まっています。わたしたちはこの偏見を払拭し、家庭紙が世論の真摯かつ思慮深い代弁者であるという主張からそれることなく、これほど普遍的な影響力をもつテーマに特別な注意を払うことができるのだと証明するために、何かをしたいと考えています。『ハーパーズ・バザー』は、文字通りの「ファミリー・ジャーナル」となるようデザインされており、その文学的な利点と実用的な統一性とが等価なものになることが期待されています。連載小説、中編小説、詩、文学、芸術の雑学、身近な科学、美学、当世文学、新刊書、娯楽、ガーデニング、建築、家庭文学--つまり、家庭の人々が興味をもちそうなものなら何でも取り上げます。子供も、自分たちが忘れられていないことに気づくことでしょう。わたしたちは純粋で高潔なモラルの精神を維持し、もっとも潔癖な趣味を害する可能性のあるものはすべてコラムから排除するよう努め、同時に、党派や政治的な議論に立ち入ることは、本紙が扱うものの範囲外であるとして避けなければなりません。『ハーパーズ・バザー』がわたしたちの望みの少なくとも一端を達成し、アメリカの家庭の幸福の増進に寄与することを切に願いつつ、それらの価値を大衆の歓待にゆだねます。5

この書き振りからも、アメリカの文化における最大の権威は文学であり、これを排除することは無謀に等しいということが伝わってくる。とはいえ、ライバル誌との色の違いを示せなければ失敗に終わってしまう。政治的な議論を排除するという宣言はハーパー兄弟社の先行する雑誌との差異を強調したのだろうが、結果的に、創刊当初の『ハーパーズ・バザー』のラインナップは基本的にキラーコンテンツ誌を踏襲している。いってみれば、『ゴーディズ・レディズ・マガジン』や『グラハムズ・マガジン』がとっていた文学と文化のコンビにファッションを添える家庭誌が女性誌の王道のラインナップだったことを認めざるを得ない構成だ。しかし、まだパリのファッションを主体にした純粋なファッション誌の成功例がアメリカにはなかったことを考えれば、「家庭誌」(ファミリー・ジャーナル)という路線でのスタートは賢明な判断だったといえるだろう。

繰り返しになるが、『ハーパーズ・バザー』がプロテスタンティズムやナショナリズムに支えられた「ファッション」とは異なる文脈からスタートし、その情報源をパリとしたことはきわめて新しいヴィジョンだった。『ハーパーズ・バザー』はすぐに『ゴーディズ・レディズ・マガジン』としのぎを削る雑誌となり、同誌が身売りして以降は、アメリカを代表する女性誌へと成長していく。そして世紀末には、こんにちまで最大のライバル誌と目されるかの雑誌が登場してくることとなる。


  1. ゴディは1877年に同誌の経営権を売却し、ヘイルも79歳で編集長を退いた。その後、同誌は何度かの経営権譲渡を経て1898に廃刊した。 ↩︎
  2. “Our Bazar.”, Harper’s Bazar, November 2, 1867, p. 2. ↩︎
  3. 前掲『まなざしの装置 ファッションと近代アメリカ』、p. 140。 ↩︎
  4. 「スーツ、黒服、メイド」『ファッションヒストリー1850-2020』ブックエンド、2024年、p. 39。 ↩︎
  5. “Our Bazar”, Harper’s Bazar, November 2, 1867. ↩︎
打林 俊

打林 俊

写真史家、写真評論家。
1984年東京生まれ。2010-2011年パリ第1大学招待研究生、2014年日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。博士(芸術学)。2016〜2018年度日本学術振興会特別研究員(PD)。主な著書に『絵画に焦がれた写真-日本写真史におけるピクトリアリズムの成立』(森話社、2015)、『写真の物語-イメージ・メイキングの400年史』(森話社、2019)、共著に“A Forgotten Phenomenon: Paul Wolff and the Formation of Modernist Photography in Japan”(Dr. Paul Wolff & Tritschler: Light and Shadow-Photographs 1920-1950, Kehrer, 2019)、「アンリ・マティスの写実絵画不要論における写真をめぐって」(『イメージ制作の場と環境-西洋近世・近代における図像学と美術理論』、中央公論美術出版、2018)など。
2015年、花王芸術・科学財団 美術に関する研究奨励賞受賞。