『ヴォーグ』の創刊
1867年以降、『ハーパーズ・バザー』はアメリカの女性誌界で着実に地位を築きつつ刊行を重ねていった。創刊の辞で表明されたように、女性、あるいは家庭にまつわるあらゆるトピックを扱い、子供の衣服についても定期的に取り上げていった。また、やや意外ではあるが、男性の装いについてのコーナーを巻末に設けていた期間もある。
創刊当初の『ハーパーズ・バザー』の特徴と強みは、あとで詳しく見るように、衣服のパターン(型紙)を付録としてつけていたことにもあった。
19世紀後半には独走ともいえる状態だったが、20世紀を目前に、『ハーパーズ・バザー』に新たなライバルが現れる。それが現在にいたるまで最大のライバル関係にある『ヴォーグ』である。『ヴォーグ』は1892年にアーサー・ボールドウィン・ターヌアによって週刊誌として創刊された[図1]。

残念なことに、現在の同誌とは発行者も雑誌の性格も異なることや、ターヌアが早世してしまったために彼の経歴はあまり詳らかではない。彼を知る有力な資料として、『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された訃報記事が挙げられる。それによれば、ターヌアはプリンストン大学卒業後、ニューヨークの法律事務所に就職し短期間弁護士として働いていたようだ。ところが、アートや出版業に興味をもちはじめ、『アート・エイジ』という雑誌を創刊する。興味深いのは、その後の彼の動向である。
その出版物〔『アート・エイジ』〕を売却し、ハーパー兄弟社のアート・ディレクターとなった。彼は芸術的な挿絵の熱心な支持者であった。彼はルー・ウォレスの『ベン・ハー』の豊富な挿絵入りの版を企画し、ウォレス元帥はこれにしばしば感謝の意を表した。〔……〕
ターヌア氏は『ヴォーグ』誌を創刊するためにハーパー社から手を引いた。彼は出版社の社長であり、定期刊行物の編集者でもあった。彼は特に女性のための慈善事業に積極的だった。彼は女性たちの間で多くの個人的な慈善活動を行った。
最近、彼が実質的な組織者であったS.P.C.A.改革協会に関連して、世間に知られるようになっていた。この協会は、主にS.P.C.A. 〔動物虐待防止協会の略〕のメンバーではない人々で構成され、その名が示すように、悪い方向に進んでいるS.P.C.A.の「改革」を目的としていた。
グロリア・クラブのほか、カルメット・クラブ、プリンストン・クラブ、アーキテクチュラル・リーグ、メドウ・ブルック・クラブの会員でもあった。1
まず驚くのは、ターヌアがハーパー兄弟社で出版物のデザイン面の責任者であるアート・ディレクターを務めていたことだ。この記事から推測するに、彼は『パーパーズ・バザー』ではなく単行本を担当していたようだが、ライバル誌『ヴォーグ』を創刊することになるのだから、ハーパー兄弟社では大いにインスピレーションやノウハウを吸収したことだろう。
とはいっても、創刊当初の『ヴォーグ』の性格を的確に描写するのは簡単なことではない。1892年12月17日付の創刊号は表紙を含めて36ページ(次号以降は当面表紙を含めて24ページ)で、『ハーパーズ・バザー』と比較してかなり薄いうえに、その約半分は広告である。副題も見当たらないし、創刊の辞はきわめて抽象的な文言しかない。手がかりとなるのは、表紙の下部に小さく書かれた「VOGUE-A DEBUTANTE」という見出しと、創刊の辞の次ページに掲載された、『センチュリー辞典』からの「Vogue」の項目の引用である。そこに示された用例には一つ目に「ある特定の時期に流行していた様式または流行。大衆受け、評判」、二つ目に「一般的な考え方の流れ」とある。他方、表紙に戻ってみると、「Debutante」は社交界にデビューする年頃の女性を指すことばである。いずれもフランス語由来で、つまりは若い女性がターゲットで、フランスのファッションを主体にした雑誌というニュアンスが込められているといえるだろう。全体の構成としては、目次に続いてファッション・プレート、そして小説と続くので、基本的にはターヌアが修業をしたハーパー兄弟社もお得意のキラーコンテンツ誌を踏襲した構成である。
初代の編集長はターヌアの友人でもあったジョセフィン・レディングというニューヨークの社交界の女性だったが、ファッションのトピックは必ずしも女性の流行に特化したものではなく、男性のファッションも取り上げられているし、ファッション以外の記事も多い。たとえば、『ニューヨーク・タイムズ』の記事はターヌアの動物虐待防止協会の活動に触れていたが、これは『ヴォーグ』でも「動物を考える」という連載記事などに反映されていく。ターヌアは巻末のステークホルダーに向けた声明文で「その明確な目的は、社会、ファッション、生活の儀式的側面について、品格のある本物の雑誌を創刊すること」と述べている2。その上で掲載広告に触れ、「ニューヨークの実業界に詳しい人なら、『ヴォーグ』誌が一流の商人や一流の業界を代表していることが一目でわかるだろう」とも述べていて、高級路線、一流誌であることのアピールも忘れていない。死亡記事にもあったように、ターヌアは多くの社交クラブの会員でもあったし、こうした声明から見ても、多くの歴史家たちがしばしば指摘してきたように、当初の『ヴォーグ』は「社交誌」と位置付けるのがふさわしいだろう。
ファッション誌がかたちづくられる
女性誌の中でも、もう少し細かく定義すれば『ハーパーズ・バザー』は家庭誌、『ヴォーグ』は社交誌であると位置付けたが、では、これらがファッション誌と呼べるような転換をしたのはいつで、どのようなきっかけだったのだろうか。じつのところ、ファッション誌がファッション誌たる要件に明確な基準はない。つまり、なんらかの基準を設けなくてはいけないのだが、ここでは、内容、広告とパターン、そして誌面ヴィジュアルの三つの要素から各誌を比較することで、その輪郭を浮かび上がらせてみることにしよう。
だがその前に、20世紀初頭におけるこれら2誌の変化について簡単に触れておく必要がある。『ハーパーズ・バザー』は1901年5月に週刊誌から月刊誌に変わる。他方の『ヴォーグ』は1906年にターヌアが肺炎によって49歳で急逝し、1909年に実業家のコンデ・ナストに買収され、1910年3月には隔週刊となった。『ハーパーズ・バザー』も1913年に実業家で政治家のウィリアム・ランドルフ・ハーストに買収される。こういった具合で、双方ともに同じようなタイミングで社主が変わり規模を拡大、同時に刊行ペースを従来よりも長く取ることで内容に厚みをもたせるような編集方針に転換していく。ファッション誌へと転換していくにあたって、まず重要なのはこの大出版社コンデナスト対ハースト時代の幕が開けたことである。大資本のもとで再スタートしたこれら2誌は、先に挙げた三つの要素を誌面に具現化していく。
『ヴォーグ』が1910年に隔週刊化した際の社告は、新たなヴィジョンを的確に表している。
『ヴォーグ』は今後、ファッション、アート、音楽、文学、演劇、社交界などの最新ニュースを、従来の週刊の2倍以上の判型で、2週間に1度、2回に分けてお届けする予定です。言い換えれば、現在各月の第1号と第2号となっているものを1つの大きなダブルナンバーにまとめて毎月1日に発行し、現在第3号と第4号となっているものを同様にまとめて、月半ばのダブルナンバーとして15日に発行するのです。わたしたちがこの計画を採用したのは、これまでの『ヴォーグ』では限界に達したと感じたためです。『ヴォーグ』をわたしたちが望むような大きく、興味深くて重要なものにするには、1週間のうちに十分なニュースがないことが多いのです。一方、『ヴォーグ』を毎月発行することは、現在発行されているファッション・ニュース誌の中でもっとも徹底した最新のものであるという、せっかくの評判を台無しにすることになります。『ヴォーグ』にとって、新しい隔週刊誌の形態は、週刊誌と月刊誌の両方の長所をもちながら、どちらの短所もありません。〔……〕
本号は、この新体制のもとで発行される最初の号です。次号は3月1日、春のパターン号です。春のパターン号には、125以上のヴォーグ・モデルの限定パターンが掲載されます。例年通り、今年のヴォーグ・スタイルも、アメリカで最もスマートで最先端であることを明確に示す独特の個性が際立っています。3
ここで述べられているように、たしかに週刊誌は情報の鮮度が高い。とはいえ、『ハーパーズ・バザー』がすでに月刊化していた以上、密度の薄い記事では太刀打ちできないという懸念もあったのではないだろうか。
さらに、同じ記事の中で次号の予告がされていることも注目される。春のパターン特集号はこの時期の『ヴォーグ』の中でも重要な号の一つで、隔週刊化以降は秋のパリ・オープニング号やクリスマス号と並んで重要な意味をもっていく。
パターンとは、洋服の胴や袖、襟などの各パーツを構成する図面の型紙である。女性服は1920年代までコートなどの重衣料や下着類をのぞけば注文服か、もしくは自製にかぎられていた。ゆえに、19世紀後半から20世紀前半にかけて、女性誌では家庭裁縫の記事やパターンの掲載・販売は重要なコンテンツだった。そもそもは1850年代に『ゴーディズ・レディズ・ブック』が初めて掲載し、ライバル誌がそれに続いたとされる。
太田茜は、1890年代の『ゴーディズ・レディズ・ブック』と『ハーパーズ・バザー』に掲載された広告やパターンに関する記事の比較から、2誌の読者層を比較する興味深い研究を行っている4。そこで扱われる服を比較すれば、読者層が浮かび上がってくるという趣旨だが、太田によれば、『ハーパーズ・バザー』は『ゴーディズ・レディズ・ブック』に比べ、注文服の広告が圧倒的に多く、その選択肢の幅はより所得の高い読者を想定していたという。つまりこれは、『ハーパーズ・バザー』が女性誌の中でライバルより一歩高級路線に踏み出したことを示しているといえる。
さらに20世紀に入ると、『ハーパーズ・バザー』はビッグ・シックスと称された『レディース・ホーム・ジャーナル』『ザ・デリネーター』『マッコールズ・マガジン』『ウーマンズ・ホーム・コンパニオン』『グッド・ハウス・キーピング』『ピクトリアル・レビュー』の6大女性誌とは一線を画すファッション誌に変貌していたとされる5。先に触れた経営者の交代があって以降、『ハーパーズ・バザー』も『ヴォーグ』もそれまで以上にフランスのモードを中心としたファッション記事を主体にしていく。掲載記事を流行記事と実用記事に大別するとすれば、パターン関連の記事は後者と認識されがちだが、1910年代には誌面構成の中でも見過ごすことのできない存在感を放っていくこととなる。
パターン販路拡大の地政学
服飾史やファッション史では、『ハーパーズ・バザー』のパターンについて取り上げられることが多い。当時の女性服はデザインが複雑であるため、パターンのサイズは基本的に胸囲を基準に起こした数サイズしかなかったが、『ハーパーズ・バザー』はこれにそれぞれの体型にあったサイズのパターンを起こすメイド・トゥ・メジャーのサービスなどを取り入れるなどの先進性があった。だが実際、1910年代以降にパターンの掲載と販売に圧倒的な力を注いでいたのは『ヴォーグ』だった。
コンデ・ナストはホーム・パターン・カンパニーという会社を設立し、ビッグ・シックスの一角を占める『レディース・ホーム・ジャーナル』と提携してパターンの通信販売を始める。そのウェイトは次第に『ヴォーグ』に移っていき、家庭誌向きの実用的な服のパターンからファッショナブルな方向へと転換していく。1913年7月15日号に掲載された自社広告では、「ヴォーグは3種類のパターンを作ります」という見出しで個人の体型に合わせたパターン作成、自社にストックのない特別なパターン作成、ヴォーグが常時ストックしているパターンの3種類の存在が挙げられている。このラインナップは、そのまま現在の服飾産業のパターン・オーダー(メイド・トゥ・メジャー)、フルオーダー(オートクチュールやビスポーク)、既製服(プレタポルテ)に当てはまるもので、まだ既製服が一般的ではないこの時代にあっては、実質的に現代のファッション誌が既製服を取り上げるのと同等の意味合いがあった。つまり、ヴォーグ社はモードの媒介者のみならず、実質的に服飾ブランドの役割も果たしていたのである。実際、1914年にはヴォーグの名を語る服飾品が出回っていることに対し、『ヴォーグ』とは関係のない旨を警告する社告が掲載されているほどである。
『ヴォーグ』のパターンに関する戦略を見ていこう。1914年、それまで各号で紹介されていたパターンは「ヴォーグ・パターン・サービス」の名を与えられ、服のイラストレーションに注文番号と簡単な説明が添えられるカタログ形式のレギュラーコーナーとなる。
春のパターン特集号などでは、その掲載は20ページを超えることもあるほどだった。型紙は通信販売かニューヨークの『ヴォーグ』の出張所で買えることになっていたが、1916年にはショールームと販売所を兼ねた「ヴォーグ・パターン・ルーム」がニューヨーク、シカゴ、フィラデルフィア、ボストン、サンフランシスコ、モントリオール、ボルチモア、ロンドンの8都市に設けられる。以降、各都市で特約店契約を結んで数を増やしていき、1919年3月ころには全国約30店舗からなるヴォーグ・パターン・カンパニーを設立する。翌1920年6月1日号からはヴォーグ・パターン・サービスのコーナーは「裁縫師のためのヴォーグ・デザイン」と名を変え、販路も拡大を続けて2年後には70店舗を超えていることが確認できる。
この戦略は、1916年のイギリス版および1920年のフランス版の『ヴォーグ』の創刊とも呼応している。さらに、パターン・ルームの拡大を追っていくと、アメリカを南北に流れるミシシッピ川以東に集中していることに気が付く。この展開はアメリカの西部開拓や大陸横断鉄道の延伸をなぞっている観があり、『ヴォーグ』が雑誌本体を含め、どのように販路を拡大しようとしていたのかという地政学的野心が見えてくる6。
『ヴォーグ』に関してはこのような大規模な事業の拡大を追うことが可能であるゆえにその野心を可視化することができるが、これは『ハーパーズ・バザー』にもある程度重なるものだろう。だが1910年代初頭、この雑誌は眠れる獅子といわんばかりの低迷に陥っていた。
眠れる獅子の覚醒
試みに、ハーストに買収される直前の1913年1月号の『ハーパーズ・バザー』を開いてみよう。活字は4段組(2月号以降は3段組)でぎゅうぎゅうに組まれ、イラストや写真は小さな挿絵程度にしか掲載されていない。相変わらず小説が巻頭に掲載され、まだ楽譜まで掲載しているような状況である。ファッション記事は巻末に寄り集められ、目立った広告も掲載されていないありさまだ。
一方、同じ月の『ヴォーグ』はといえば、表紙には人気イラストレーターを起用し、冒頭からティファニー、高級デパートのボンウィット・テラー、アンダーソン・エレクトリック・カー・カンパニー、パリのクチュールメゾンであるパキャンなどが全面広告を出している。誌面にはフランス語を用いた見出しが踊り、イラストや写真を多用したデザインも洗練されたものだ。あたかも、『イリュストラシオン』や『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』といったヨーロッパの挿絵入り新聞を彷彿とさせるヴィジュアル重視の誌面作りである。しかも、『ヴォーグ』はこの年から最初の本格的ファッション写真家といわれるアドルフ・ド・メイヤーを専属写真家として迎えるべくアサインをはじめ、1月15日号には早くも写真が1点掲載されている[図2]。

この時点の『ハーパーズ・バザー』は、かつて『ゴーディズ・レディズ・マガジン』などの雑誌がコンテンツの固定化で凋落していった状況に似た気配さえ感じる。内部的にこれではまずいということになったのか、あるいは『ヴォーグ』の変革を目の当たりにして焦りを感じたのかは定かではない。しかしながら、眠れる獅子ともいえる状態だった『ハーパーズ・バザー』は、ハーストに買収されてすぐに誌面改革がはじまっていく。
多くのファッション史関連の書籍には1913年に買収されたとしか書かれていないが、版元が5月号までハーパー兄弟社、翌6月号からハーパーズ・バザー社になり、社長も変わっているので、ここが買収のタイミングと考えられる7。
同年7月号の巻次がかわったタイミングから誌面改革が進み、徐々にファッション関連の記事が増えていく。また同時に、『ヴォーグ』同様にイラストや写真を多用したヴィジュアル重視の誌面づくりになっていくものの、この時点ではまだ、写真の切り抜きやコラージュを多用し、全体的にいえば雑多な印象を与える。1914年になると、目次ページに「アメリカ最古参の女性誌」といった文言を入れるなど自誌のレガシーを前面に押し出すようになる。記事ではいち早くシャネルやポアレの衣服を紹介するなど、高級路線を打ち出していった。
このようにして、両誌は1913年頃から少しずつ高級路線化していき、ファッション誌と呼ぶにふさわしい転換をはかっていく。そして、その中でなによりも重要な役割を担ったのが、イラストレーターや写真家による誌面のビジュアル的の充実だった。
- “ARTHUR TURNURE DEAD.,”NewYork Times, Apr. 14, 1906, p. 11. ↩︎
- Arthur Boldwin Turnure, “Statement,” Vogue, Dec. 17, 1892, p. 16. ↩︎
- “Announcement,” Vogue, Feb.15, 1910, p. 94. ↩︎
- 太田茜「1890年代のアメリカの婦人雑誌にみる衣服の入手方法―2誌の比較から―」『国際服飾学会誌』31号、2007年、pp. 32-42。 ↩︎
- 太田茜「1910年代アメリカにおける婦人服の入手方法―婦人雑誌とファッション誌の比較から―」『日本家政学会誌』65巻5号、2014年、pp. 25-35。本論で太田は『レディース・ホーム・ジャーナル』と『ハーパーズ・バザー』の比較をおこない、前者は主婦のための実用誌という性格が強いゆえ、『ハーパーズ・バザー』のような服飾の流行を追った記事が少ないことを指摘している。 ↩︎
- ミシシッピ川以西への郵便物の輸送はアメリカ政府にとっても課題となっていた。1818年7月には郵便のゾーン制を定める法律が施行され、ミシシッピ川以西の郵便物には追加料金が課されることとなる。こうした事実も、ヴォーグ・パターン・カンパニーが東部を中心に展開していったことと密接に関係しているだろう。 ↩︎
- ちなみに、1914年5月にはインターナショナル・マガジン・カンパニーに名称を変更する。この時期、ハーストやコンデ・ナストは雑誌ごとに分社化して発行しており、ハーストがインターナショナル・マガジン・カンパニーの社長に就くのは1918年5月のことである。 ↩︎