ファッション写真は1910年代に成立を見たが、ここから20年代にかけてのファッション・ヴィジュアルの花形は、まだイラストだったといえるだろう。『ヴォーグ』ではヘレン・ドライデンをはじめ、ジョルジュ・ルパップ、ジョルジュ・プランク、ベニート、ハリエット・メセロールらが活躍していた。一方の『ハーパーズ・バザー』はメイヤーを獲得するまでスター写真家と呼べる存在はいなかったので、エルテのイラストレーションを中心にした誌面作りに力を入れていた[図1]。

軽妙なタッチで細部まで衣服の構造を伝えられるファッション画と、劇的なライティングで大づかみの雰囲気を伝える緊張感のあるファッション写真によって、誌面には華やかな視覚的対比が作られていく。ただ、そうした素晴らしいファッション写真を撮れた写真家はメイヤーを除けばそう多くはない。このなかなか誌面に登場しない高給取りの写真家の代わりに『ヴォーグ』や『ハーパーズ・バザー』で活躍したのは、アイラ・ローレンス・ヒルやアーノルド・ジェンス、そしてE・O・ホッペといった写真家たちだった。ヒルはニューヨークの5番街667番地にスタジオを構えていたアメリカの写真家で、1938年か39年に没しているが、1910年代から20年代を通じて活躍した初期のアメリカ人ファッション写真家である。ドイツからの移民であるジェンスは、1895年にサンフランシスコにやってきてから写真を学びはじめ、1911年にニューヨークに引っ越し自身のスタジオを開いて以降、ルーズベルトやロックフェラー、女優のグレタ・ガルボを撮影するなど、ポートレートで高い評価を受けていた。ホッペはドイツに生まれロンドンで活躍した写真家だが、彼もまた舞台写真やポートレート写真で20世紀初めに世界的によく知られた写真家だった。ファッション誌には主にソーシャライトのポートレートが掲載されている[図2]。

こうした事実からもかいま見えるように、この時代のファッション写真やハイブラウな肖像写真は、主にヨーロッパ人写真家の撮影によるものが多かった。またいまひとつ注目しておきたいのは、メイヤーもそうだったように、バレエや舞踊、演劇などの舞台写真を得意とする写真家の仕事が初期のファッション写真と親和性が高かったことである。これにはいくつかの理由が考えられるが、人工の照明やセットを用いて演出的な写真を撮るということが、そもそもファッション写真の構造と似ていることがまずいえるだろう。しかも舞台写真といっても、技術的な問題で上演中の写真をスナップで捉えることはまだ難しかったので、衣装を身につけてスタジオでポーズを取る写真が一般的だった。こうした、特殊なシチュエーションのポートレートという点もまたファッション写真に近い。また、バレエなどはポール・ポワレなどのファッション・デザイナーが早くから衣装を手がけるなど、そもそもファッション界と関係の深いジャンルである。劇評などはファッション誌がもっとも力を入れていたアート情報でもあり、舞台写真はファッション誌にも不可欠な存在となっていた。こうしたエンターテインメント界の撮影に関わることができるのは一握りの肖像写真家で、先に挙げたヒルやジェンス、ホッペもそうした逸材といえる。
いいかえれば、まだファッション・ヴィジュアルがイラスト重視の時代にあって、ソーシャライトの肖像や舞台写真は、ファッション誌の中で写真家たちが腕を競う重要な場でもあった。まだ特定の雑誌と専属契約を結んだ純粋な「ファッション写真家」と呼べる存在がメイヤー一人だった以上、そのほかの写真家は、別のジャンルを専門としていたということになる。その最右翼がホッペやジェンスのような、舞台の写真を専門とした写真家たちだった。そうした熾烈な争いの中で1920年代に活躍した一人の日本人写真家の名前が、ある時期の『ヴォーグ』に散見される。その名を、堀一郎という。
ニューヨーク――成功への道
20世紀初頭から太平洋戦争以前、多くの日本人がアメリカ、とくにカリフォルニアに移住している。ロサンゼルスの日本人街リトル・トーキョーなどはその名残りだが、この地はアメリカン・ドリームに人生をかけた日本人写真家たちのメッカでもあった。谷崎潤一郎の1938年の京阪神を舞台にした小説『細雪』に登場する不遇の写真家板倉なども「ロスアンジェルスで五六年間写真術を学んで来たというのだけれども、実はハリウドで映画の撮影技師になろうとして機会を掴み得なかったというのだという噂もある」と描き出されている。実際、言語的な壁や孤独感に苛まれて、ほとんどの日本人たちは板倉のように数年で日本に帰ってしまうことが多かったという。
他方で、現実にはハリウッドの映画雑誌のカメラマンになったハリー・シゲタこと重田欣二や、舞踊家の伊藤道郎の専属写真家兼ライティングアシスタントをしながらロサンゼルスで自身のスタジオを開いた宮武東洋など、アメリカで成功した日本人写真家も多くこの地から輩出されている。ファッション誌で活躍した最初期の日本人写真家である堀一郎と中山岩太も、やはりカリフォルニアを足がかりとした青年だった。こうした日本人写真家の成功の裏には、ハリウッドの台頭も一役買っていた。ハリウッドにおける映画利権に関する環境が整ったのとほぼ同時期に第一次世界大戦が終結し、映画産業の中心地はヨーロッパからアメリカ西海岸へと移ったのである。ハリー・シゲタや、あるいは谷崎が作り上げた板倉にも、そのような背景があったのである。
他方、すでに見てきたようにアメリカのファッション・ジャーナリズムの都はその成り立ちからいっても東海岸だったし、「パターン販路拡大の政治学」の節でも見たように、その広がりはすなわちあまねく地政学的な格差として現れてくる。さらにファッションだけでなく、1910年代にはブロードウェイが急成長したこともあり、ミュージカルのメッカもすっかりニューヨークに定着していた。つまり、ファッション写真や舞台写真で注目されたければニューヨークへ行くしかない。もっとも、野心がそこに向いていないにしても、アメリカの有名写真館のほとんどはニューヨークに集中しているのだから、どのみち肖像写真家としての成功を夢見ればニューヨークという地名は必然的に浮かんでくるはずだ。実際、カリフォルニアからニューヨークへ移って成功したアーノルド・ジェンスなどはまさにそうした野心をもっていたものと思われる。彼のようにアメリカン・ドリームを掴んだ写真家が『ヴォーグ』にアサインされるというのは、そもそも上流階級の社交誌としてスタートした同誌の性格を考えれば、肖像写真家として栄誉なことに相違ない。
そんなアメリカン・ドリームを、戦前にもっとも理想的なかたちで達成した日本人写真家が堀一郎だった。堀は1879年に島根県松江で生まれ、12歳の頃から地元松江の森田写真館で働いていたという。1897年に上京し、江木写真館でさらに修業したのち1901年に渡米、サンフランシスコに居を構える1。サンフランシスコでも写真館で働くものの、それだけでは生計を立てられず、テーラーでも下働きをしていたという。1903年には、翌年から当時万博がおこなわれるミズーリ州セントルイスに移り、1906年頃にミシシッピ川を渡ってニューヨークに行き着く。ブラッドリー写真館で修業をしたのち、一時期フリーランスの写真家を経て1917年には5番街665番地に自身のスタジオを開く。ちなみに、アイラ・ヒルのスタジオから目と鼻の先という立地である。だが、堀の経歴にとって重要なのは、むしろブロードウェイから近いということだった。
堀はすぐにダンサーらに贔屓にされたらしく、開業後瞬く間にニューヨークの有名写真家の仲間入りを果たす。その具体的な成果の一つが、1920年代初頭の、アートや舞踊、映画を扱う雑誌『シャドウ・ランド』や、『ヴォーグ』への相次ぐ写真掲載だった。
管見のかぎりでは、『ヴォーグ』には1921年12月15日号にクレジットの入った写真を最初に見出すことができる。しかし、『写真芸術』1921年3月号には「雑誌VogueおよびShadow Landに時々その作品を発表して、在米邦人の為に大いに気を吐いてゐる」とあり、それ以前から『ヴォーグ』に発表していたと考えられる2。同誌への掲載は1922年がピークで、1月と2月の計4号に連続して登場している[図3・4]。


さらに同年3月1日号のフランス版にはメアリー・ピックフォードを撮った写真が掲載され、アメリカ版ではその後しばらく間をあけて5月15日号、8月15日号にも見られる。しかも8月15日号は、目次のすぐ次のページのソーシャライト紹介の花形ともいえるページを任されているのは、堀の実力を物語っているといえるだろう。
なお、東京美術学校臨時写真科を第一期生として卒業した中山岩井太は、農商務省海外実業練習生としてカリフォルニアに渡り、その後やはりニューヨークに移って5番街に写真スタジオを開いている。中山はその後パリに渡るが、一年あまりのそう長くはない滞在中、マン・レイなどの前衛芸術家たちと交流し、1901年に創刊したフランスのファッション誌『フェミナ』に写真を掲載している。
彼らの仕事はともに舞台写真やソーシャライトの写真にとどまらず、雑誌から依頼を受けて撮影したファッション写真である。ゆえに、彼らを日本のファッション写真家の第一世代と見ることもできるだろう。だが、堀は舞台写真、中山や芸術写真に邁進し、ともに自身をファッション写真家とはみなしていなかったように映る。おそらく、それはメイヤーがファッション誌専属の写真家、すなわち最初のファッション写真家と位置付けられてきたこととも無関係ではないが、やはりこの当時、まだ多くの写真家はその都度依頼された撮影をこなす程度であったようだ。では、メイヤー以外でファッション誌にアサインされていた写真家は、どのように紹介されていたのだろうか。
芸術写真家としての堀一郎、ホッペ、ジェンス
ここでは堀を手がかりにしてみたいが、堀はアメリカではすでに舞台写真家としての名声が定着していた。では、日本ではどのように紹介されていたのだろうか。先にも引用で触れたように、堀は日本でも断続的に紹介されている。たとえば、『山陰新聞』1925年11月17日付の記事では、次のように紹介されている。
堀氏はいまアメリカで一流の芸術写真家として認められてをります私が洋行してニユーヨークに滞在してゐた昨年あたり氏の名声は実に錚々たるもので東洋の絵画趣味をダンサーの芸術写真にして好評を博し師のブラドリー氏を凌駕する程の勢でした3
ここでは、堀が地元山陰出身の名士としてその活躍が報じられ、親交のあった森村財閥の一族でのちに東洋陶器(現・TOTO)の社長となる森村茂樹の仲介によって東京と大阪で堀の個展が開かれる旨が報じられている。
この個展はすぐには実現しなかったようだが、約2年を経た1927年秋に朝日新聞社主催で100点規模の個展として実現したようだ。舞踊批評家の永田龍雄は、『アサヒカメラ』で堀の実力を次のように評している。
ホツペ傑作写真集を見た。巻頭序文はまことにいゝ小論である。さすがに彼は芸術家である、――ホツペの名をわたしが始めて知つたのは、彼の『露西亞舞踏』の写真を愛蔵してからだ。もう十年前位にならう。
M男爵の資生堂でやつたときの小展覧会にホツペのイエツの写真があつたが、たかいので実にほしくてたまらなかつたがよしたことを覚えてゐる。その後、丸善で彼の肖像集をかつてやつとはかない望みを達したものである。
M男爵がおなじく、こんど紐育〔ニューヨーク〕の堀一郎君の作品展を大阪朝日でやつたことを、大阪から四五日前、遊びにきた舞踊家、楳茂都陸平〔うめもとりくへい〕君にきいたので見たいと思つてゐた。
(いゝ踊手の写真が大部分です、値がたかいので手がでません)
と楳茂都君はこぼしていた。4
永田はその後、この展覧会が東京に巡回されると聞くに及んで、関係者に保管中の作品を見せてもらい、それがどれも素晴らしい写真だったと続けている。ここで話題になっているもう一人の写真家ホッペは当時日本の写真界でさかんに紹介され、もっとも知名度の高い舞台写真家であった。そのホッペとともに堀の作品が紹介され、写真の質としても作品価格としても遜色がないことが示されているのは、堀のアメリカでの実力を知る重要な手掛かりであろう。なお、先に引いた『写真芸術』誌の堀の紹介記事の下段でホッペが紹介されているのも示唆的である。
堀のこの個展は、興味深いタイミングで開催されたといっていい。というのも、堀はこの個展に先んじて朝日新聞社の主催で国際的写真公募展として始まった第1回国際写真サロンにも特別出品していたからである。この特別出品のためにアメリカで作品を選定し日本に送った北野吉内は、「国際サロン御開催につき当地知名の作家の作品を直送いたしました。アクトン印画紙の発明者ジエーコブソン氏を始めアーノルド・ゲンテ氏やルーマニヤ出身のボーリス氏(当地第一流のアーチスト)及び当地邦人写真家堀一郎氏も作品提供を承諾しました」と述べている[5]5。こちらの証言には、堀とともにジェンス(ゲンテ)の名前が見られ、ニューヨークからはるばる作品を送って日本で展観する価値のある写真家だとみなされていたことがわかる。
ここで堀と同時期に『ヴォーグ』で活躍したホッペ、ジェンスの名前も出揃ってくるが、日本では彼らをファッションあるいはモードということばを使って紹介した例は見出せず、『アサヒカメラ』や『写真芸術』、国際写真サロンなどの文脈で舞台写真の作品がとりあげられる芸術写真家として紹介されていた。これはすなわち、日本ではまだファッション写真やモデルを使った広告写真がなかったという事情にも関わってくるが、他方では、舞台や映画といったショービジネス関連の写真がファッション写真と近い位置にあったことを示しているといえるだろう。
こうした写真は役柄や世界観を構築するために、ソフトフォーカスやドラマティックなライティングなどがしばしば用いられ、欧米でも芸術写真の文脈で紹介されていった。そもそも、最初のファッション写真家たるメイヤー自身、舞台写真で有名になった写真家であるし、フォト・セセッションという写真芸術運動に関わったことが『ヴォーグ』への道を開いたのだから、この時代の写真芸術と舞台写真、ファッション写真はかなり密接して展開されていたといえるだろう。
『ハーパーズ・バザー』は1910年代に劇評コーナーのタイトルを「ファッションの鏡としての舞台(The Stage as the Mirror of Fashion)」としていたことがあったが、ファッション写真と舞台写真の距離感を表すことばとして、言い得て妙である。そして、この先もバレエや演劇の写真にかかわっていた写真家の多くが、ファッション写真の世界で活躍していくこととなる。
- 本名は堀市郎だが、アメリカに渡ってからは一郎と名乗っている。さらに、多くの日本人アメリカ移住者がしたように彼もミドルネームを付け、ニューヨーク時代はIchiro Essni Horiと名乗っていた(西島太郎「堀櫟山・市郎父子に関する新知見-展覧会会最後の調査より-」『松江歴史館研究紀要』3号、2013年、pp. 80-100; 西島太郎「「写真の開拓者」堀市郎の研究-在外史料を中心として」『松江歴史館研究紀要』4号、2014年、pp. 11-36)。 ↩︎
- 「堀一郎の事ども」『写真芸術』1921年3月号、p. 29。 ↩︎
- 「アメリカ人を驚かしたダンサーの芸術写真」『山陰新聞』1925年11月17日付、3面。 ↩︎
- 永田龍雄「微笑む姿態 濃艶な情緒 堀一郎、ホツペ両氏の傑作を見て」『アサヒカメラ』1927年11月号、p. 516。文中の「M男爵」は森村財閥総帥の森村開作とも考えられるが、おそらくは前出のその弟・茂樹だろう。爵位は有していないが、男爵家の肉親という意味合いだと考えられる。また、資生堂の小展覧会は1922年10月24・25日に開かれた〈パブロワ夫人の舞踊写真展〉を指していると考えられ、『写真芸術』1923年3月号には、堀の《パブロヴ夫人肖像》が口絵掲載されている。 ↩︎
- 北野吉内「ニューヨークだより」『アサヒカメラ』1927年7月号、p. 59。 ↩︎