第一次世界大戦を経て、フランスではオートクチュールが盛んになり、パリはファッションの首都としての地位をより強固なものにした。1934年には、世界中でオートクチュールの顧客は2万人を数えるほどになっていたという1。とりわけ顧客のシェアが高かったのはアメリカで、こうした背景もあってニューヨークは1930年代にファッション・ジャーナリズムの首都としての地位を確立しつつあった。
とはいうものの、アメリカがその地位を獲得できたのは高級服の市場が大きかったからというだけではない。ここで重要な視点となってくるのは、両大戦間期のヨーロッパ各国の情勢不安によって、写真家やグラフィック・デザイナーといったファッション誌を作る上で欠かせない人材がアメリカに多く流入したことにもある。とくにこの時期のロシア革命とナチス政権の成立は、アメリカのファッション・ジャーナリズムにも大きな影響を及ぼした。
1917年に帝政の崩壊と内戦を招いたロシア革命では貴族や知識人をはじめ、帝政を支持したいわゆる白系ロシア人の多くが国外に亡命を余儀なくされる。ロシアは世界的に見ても先進的なグラフィックデザインで知られていた国でもあり、亡命者の中には優れたデザイナーやアーティストも含まれていた。
そうした白系ロシア人たちの亡命先となったのがフランスやドイツ、アメリカだった。ドイツでは1919年にワイマール憲法が制定され、移民政策にも手厚かったこともあって、白系ロシア人だけでなくユダヤ人にとっても重要な居住国となっていた。人種や性別の平等を掲げていたワイマール共和国では国内のほとんどの有名デパートや、当時ドイツ最大の民間銀行だったドイツ銀行もユダヤ人による経営だった。さらに、言論や出版、芸術、学問の自由が憲法に明記されていたこともあり、ウルシュタイン社などの大手の出版社、通信社もユダヤ人の手によって経営されていった。1920年代のドイツはユダヤ人天国とさえいわれたが、ナチスが台頭した1933年以降、悪名高いユダヤ人排斥が起こることとなる。そこで彼ら/彼女らの亡命先となったのが、新たな自由世界のアメリカだった。
言ってみれば、帝政ロシアで流れた血、ワイマール共和国が放った自由の光のかすかな残光は、アメリカで再び生を得たのである。こうした白系ロシア人やユダヤ人の中にはファッション・ジャーナリズムの歴史においても重要な人物たちが多く含まれている。この章ではそうしたアメリカへの亡命者たちが主役になっていくであろう。
大空と海原
1920年代から30年代にかけて、多くのファッション写真家にはメイヤー、あるいはスタイケンの作風が浸透していた。その一方、20世紀初頭に生まれたセシル・ビートンやジョージ・ホイニンゲン=ヒューン、ホルスト・ペーター・ホルストといった新たな世代のヨーロッパの写真家たちは、スタイケンがファッション写真の世界から去ろうとしていた1930年代半ば以降、前の世代の影響を乗り越えるべく、あらたな前衛芸術の表現をファッション写真に取り入れようと躍起になっていたように映る。
そうした清新な風をパリのファッション・ジャーナリズムに吹き込んだ最初の写真家たちのなかで注目すべきなのが、ホイニンゲン=ヒューンである。1900年にロシアのサンクトペテルブルクで生まれ、父は皇帝ニコライ2世の侍従長を務める裕福な家庭だった。しかし、一家は1917年にロシア革命によって国を追われることとなる。ホイニンゲン=ヒューンはイギリスへ渡ったのち、1921年にパリに居を移して姉のベティが開いた洋服店でカタログのためにスケッチをする仕事につく。そのかたわら、キュビスムの画家アンドレ・ロートに師事してファッションやアートへの造詣を深めていった。25年にフランス版の『ヴォーグ』とイラストレーターとして契約し、アメリカ人写真家アーサー・オニールのアシスタントも務めて写真を身につける。翌26年には早くもフランス版『ヴォーグ』に写真が掲載され、短期間のうちにフランス版『ヴォーグ』のチーフ写真家となる。ホイニンゲン=ヒューンにしても、当初の作風はやはり絶大な影響力のあったメイヤーやスタイケンを摸したようなものだった。
1930年代初頭までの彼の作風を見ていると、水平・垂直の線や面を活かした構図はスタイケン風、かたやモデルの背景にあるサテンのカーテンなどの反射などを活かした画作りはメイヤーの影響を感じさせる。これらのテクニックはシチュエーションによって使い分けられているが、こうした選択は彼だけではなく、同世代のホルストやビートンといったファッション写真家にも少なからず見られる。20年代後半から30年代に登場してきた若いファッション写真家たちがメイヤーやスタイケンの表現をファッション写真の伝統的な型として解釈し、アレンジを加えられるようになっていたことを示しているといえるだろう。
他方で、極端に傾いた不安定な構図や、あえてスタジオで撮影されたことがわかるような構成の写真など、それまでのファッション写真には見られなかった、前衛美術の影響が垣間見られるようになっていく。とくに、スタジオの白壁を水平線や空に見立てる手法は、ファッション写真の新しい手法として同時代の写真家にも影響を与えていった。アナ・ウィンターは『ヴォーグ』の長い歴史のなかで掲載された写真の中でお気に入りの写真を問われ、そのうちの1枚に『ヴォーグ』1930年7月5日号に掲載されたホイニンゲン=ヒューンの「ダイバーズ」を挙げている(図1)。

画面の中ほどで切り替わる淡いグレーは水平線と空を想起させるが、これはスタジオの壁をぼかして巧みにそのように見せたものである。彼はこの時期、背景を白と黒で大胆に二分する画面構成を好んだが、「ダイバーズ」も同じ発想から生まれてきたものかもしれない(図2)。

つまり、こうした巧みな見立ては、一見関係のなさそうに見えるアール・デコなどのモダニズムの様式からインスピレーションを受けている可能性があるのだ。
ホイニンゲン=ヒューンのアシスタントを務め、のちに『ヴォーグ』を代表する写真家の一人になるドイツ出身のホルスト・P・ホルストもこの手法を得意とし、1939年にはファッション写真史上の名作に数えられる《メインボッチャーのコルセット》を生み出した(図3)。

こちらは背景がまるで青空のように感じられ、モデルはあたかも崖で羽を休める天使のようにさえ見える。
このように、スタジオで撮影されるファッション写真のありかたは少しずつ変化していったが、ファッション写真により斬新な風を吹き込んだのは、シュルレアリスムの影響だった。
シュルレアリスムの影響
夢や無意識に意味を見出そうとするシュルレアリスムの表現の中でも、ルネ・マグリットやサルバドール・ダリの絵画のようなデペイズマン(転置による異化作用)の手法が、写真ではもっとも目立って取り入れられていく。シュルレアリスムと写真の橋渡し役になったのは、なんといってもマン・レイである。
アメリカに生まれ、既成の秩序や常識の否定を掲げたダダイズムなどの芸術運動を展開していたマン・レイは、1920年から収入を得るために肖像写真の仕事をはじめ、1921年にパリに渡るとダダの運動を本格化させ、シュルレアリスムへと発展させていく。ほどなくして『フェミナ』やフランス版『ヴォーグ』などに写真が掲載されるようになる。1925年8月号のフランス版『ヴォーグ』の掲載された写真はモデルに生身の人間ではなくマネキンを用いるなど、デペイズマン的な違和感を醸し出しているものの、後のシュルレアリスム的ファッション写真の展開からすると、まだまだ大人しい印象を受ける(図4)。

翌1926年8月号のフランス版『ヴォーグ』には、マン・レイの代表作のひとつである《黒と白》が掲載される。この作品は、本来は通常の黒白写真と左右、黒白が反転したネガ像との写真が対になったものとして知られる作品だが、ネガ像は掲載されていない。こうしたことからも窺えるように、ファッション・ジャーナリズムの側にも前衛美術の表現を受け止めるだけの時間が必要だったのだろう。
ファッション写真の世界におけるシュルレアリスムからの本格的な影響は、1930年代初頭から見られるようになっていく。ただ、フランス版『ヴォーグ』の写真を取り仕切る立場にあったホイニンゲン=ヒューンは古典美術に関心を寄せていくようになり、彼の表現は古典美術とシュルレアリスムの影響が入り混じるような穏健なものだった(図5)。

ホイニンゲン=ヒューンは1935年にアメリカへ渡り『ハーパーズ・バザー』に移籍するが、彼が『ヴォーグ』を去ったのと入れ替わるようにして、1936年からヨーロッパのファッション写真界ではシュルレアリスムの影響が急速に色濃くなっていく。とくにはっきりとシュルレアリスムの表現を取り込んでいったのは、ホルストとアンドレ・デュルストだった。
ホルストは1931年12月号のフランス版『ヴォーグ』に初めて写真が掲載されるが、それらの写真は化粧品ブランドのクリティアやヴァンクリーフ&アーペルなどの商品写真で、しかも「ホルスト、ヴォーグスタジオ」とクレジットが入っていて、この段階では『ヴォーグ』のスタッフ写真家の一人にすぎなかったことがわかる。1932年にパリで開いた個展の展覧会評が『ニューヨーカー』誌に掲載されたことで一躍有名になり、30年代半ばにホイニンゲン=ヒューンと入れ替わるようにファッションページに登場すると、シュルレアリスムを大胆に取り込んだ退廃的な作風で異彩を放っていくようになる(図6)。

1937年にはホイニンゲン=ヒューンを追うようにアメリカに渡り(といってもかつて恋仲だった彼とはすでに破局していたが)、1941年にアメリカの市民権を取得する。ホルストはユダヤ系ではなかったが、彼のような写真家がアメリカに渡ることによって、アメリカのファッション写真界でも盛んにシュルレアリスムが取り入れられていくようになったのは、注目すべき人材の移動といえるだろう。『ハーパーズ・バザー』もマン・レイを起用し、30年代後半には、アメリカのファッション誌でもシュルレアリスムが盛んに展開されていった。
一方のデュルストは、1930年代の半ばから戦前までの短い期間フランスで活動し続けた。1907年にマルセイユに生まれ、1930年前後にパリに出て間もなくジャン・コクトーや、ベベの愛称で知られる衣装デザイナーで舞台装飾家のクリスチャン・ベラール、ダダ、シュルレアリスム運動で重要な役割を担った詩人のルネ・クルヴェルらと出会う。彼らとの親交を通じてシュルレアリスムに傾倒したデュルストはまもなくコンデナストの目にとまることとなり、34年に『ヴォーグ』と契約を結んだ。現在ではほとんど名前の知られることのなくなってしまった写真家だが、『ヴァニティ・フェア』の編集長でもあったフランク・クラウニンシールドは、1941年6月15日号の『ヴォーグ』で、デュルストを近代ファッション写真のパイオニアの一人と位置付けている。フランス版『ヴォーグ』でシュルレアリスムの表現が色濃くなって以降は、シュルレアリスム的表現と幻想性が同居するファッション写真を約10年にわたって発表していった(図7)。

この時期の彼らのファッション写真で興味深いのは、スタジオで撮影されたことがあえてわかるような表現を多用していることである。メイヤーからスタイケンの時代にいたるまで、ファッション写真は画面の中で完結した世界を作り上げることが基本だった。しかし彼らはその完全無欠の世界観を否定するように、あえて画角を拡張していった。こうした表現をもっとも大胆なかたちで展開していったのは、イギリスの写真家セシル・ビートンだった。
1904年、すなわち短くも華やかなエドワード朝のイギリス・ロンドンに生まれたビートンは、幼い頃から多彩な芸術的才能に恵まれた人物だった。1929年にコンデナストと契約すると、たちまちファッション写真界の寵児になったといっても過言ではない。彼は終生エドワード朝の残影を追い求めていたが、その雰囲気を体現した写真家が、ほかならぬアドルフ・ド・メイヤーだった。メイヤーの写真はロココ風とも評されるが、ビートンもまた彼の影響を強く受けた写真家の一人だった。そのビートンが1930年代の自分の表現について、次のようなことばを残している。
私は当時〔1930年代〕広く行われていた得手勝手な様式に耽溺したことを白状しなければならない。私の写真はますますロココ風に、またシュールレアリスム風になっていった。〔……〕
上流階級のご婦人方は、オランダの画家ヒエロニムス・ボッシュの地獄絵に描かれた責め苦に遭う魂さながら、あたかも悪夢から飛び出してくるかのように、帽子箱から懸命に抜け出そうとしていたり、大きな白い紙や破れたスクリーンを突き破って出てくる姿で写真に残されることになった。2
ファッション写真がしばしば取るに足らないと言われるのは、同時代の美術の動向を反映しながらも、それをまさに得手勝手に取り込んでいくところにあるのかもしれない。実際、シュルレアリスムにしても、その雰囲気を取り込みつつもそこに退廃性や幻想性を加味していくのはファッション写真なりの都合であるし、それはビートンに限らず、ホイニンゲン=ヒューンやホルストにもいえることである。このビートンの回想に対応していると思われる一枚を見てみると、それはもはや何風なのかという判断に困る(図8)。

しかしながら、この当意即妙のアイデアで同時代の美術をはじめとする表現を自由に取り込んでいくところに、ファッション写真の真髄があるのではないだろうか。
この時期のビートンの表現はシュルレアリスム、ロココ、あるいは退廃的な雰囲気などさまざまなものを取り込んでいき、それは驚くほどシンプルな画面構成に行き着くこともあった(図9)。こうした表現はビートンらより下の世代のファッション写真家たちにも影響を与えていくこととなるのである。
