野外ロケ撮影の新たな展開
フランスのファッション写真がシュルレアリスムに沸いていた1930年代後半、ひとりの写真家がやはり吸い寄せられるようにパリにやってきた。ドイツ出身のアーウィン・ブルーメンフェルドである。ベルリンの裕福なユダヤ人家庭に生まれたブルーメンフェルドは恵まれた環境で幼少期を過ごし、中高一貫校時代には、のちにバウハウスを代表する写真家のひとりとして知られるようになるパウル・シトロエンや、ベルリン・ダダの中心人物となるヴァルター・メーリングらと知り合い、固い友情で結ばれた。高校を卒業した1913年に父が亡くなったことで生活が苦しくなるも、芸術で身を立てることを望んでいたという。
彼もまたドイツから亡命し、のちにフランス、アメリカへと渡ることとなるが、ワイマールの残光を握りしめてのことではなかった。第一次大戦で徴兵され、そこからシトロエンの妹レナと結婚するために軍を脱走し、オランダへ亡命をはかったのだ。だたし、この時の亡命はレナとの婚約を快く思っていなかった母の密告によって失敗に終わる。ところが終戦後の1918年、いったんはベルリンに戻るものの間もなくオランダへの亡命を果たし、レナと結ばれることとなった。
オランダではメーリングとともにダダイズム運動を展開し、1935年にポートレートスタジオを開き、翌年にはパリに移る。すぐにロダンらの芸術家と親しくするが、38年に転機が訪れる。以前からブルーメンフェルドの写真を評価していたセシル・ビートンから面会を求められ、彼の口添えで勢い『ヴォーグ』と契約することになったのだ。
ブルーメンフェルドのファッション写真は、圧巻の一言に尽きるといっていい。ビートンやホルスト、デュルストといった面々が誌上で競演するような時期にあっても、彼の写真はことさら目を惹くのである。『ヴォーグ』でのデビューはフランス版の1938年10月号。そこから頻繁に登場するようになるが、早くからダダに親しんできただけあって、やはりシュルレアリスム的な表現の写真が多い。それはそれで魅力的なのだが、ブルーメンフェルドを一躍有名にしたのが、39年5月号の「ル・ポートフォリオ・ド・ヴォーグ」である。これはフランス版『ヴォーグ』がこの時期に定期的におこなっていた企画で、ブルーメンフェルドはエッフェル塔竣工50周年の記念と絡めた企画としてアサインされた。『ヴォーグ』と契約してわずか半年後のことである。大々的に18ページが取られた誌上写真集とでもいうべき作品では、この時代のあまたの写真家を魅了し、のちにアーヴィング・ペンの妻となるモデルのリサ・フォンサグリーヴスを起用し、彼女をエッフェル塔の鉄骨に登らせるなど、野心的な表現が展開された(図1)。

眼下に広がる街並みと鉄骨を背景にしたポートレートは、アメリカの写真家ルイス・ハインが1932年に発表した『働く男たち』に掲載された、ニューヨークの摩天楼の建設現場を写した写真を思わせる(図2)。

ハインはソーシャル・ドキュメンタリーと呼ばれる、社会問題を写真で伝えるジャンルの確立者で、それらの写真はそれまで彼が向き合ってきた労働のネガティブな側面だけでなく、ポジティブな側面を捉えた作品である。いってみれば『働く男たち』は正統派ドキュメンタリー写真として撮られたものだが、このふたつの作品の造形的な関係性、同時代性は見逃せない。
というのも、機械や都市への賛美はモダニズムの重要なテーマだったし、俯瞰や鳥瞰といったダイナミックなカメラアングルも、小型カメラが普及した1920年代以降に成立したモダニズム写真を特徴づけるものだからだ。つまり、モダニズムという視覚のパラダイムが写真芸術、ジャーナリスティックなテーマ、ファッション写真といった多様な分野で共有されていたということである。
このような“視覚の解放”とでもいうべき新しいヴィジョンは、1925年にバウハウスの教員でもあった写真家のラースロー・モホイ=ナジらによって提唱・理論家され、ドイツから世界に広まっていったものだった。さらにいえば、そのバウハウスで学んだ親友で義兄のシトロエンの代表作《メトロポリス》とも一定の共通性を見出すことができる(図3)。

初期のブルーメンフェルドといえばシュルレアリスティックな作風という印象が先立ちがちだが、こうした先鋭的なドイツモダニズム写真の表現もインスピレーション源として彼の中に胚胎していたのだろう。
しかしながら、パリにいてもなおナチスの表現規制の影響はそれなりにあったようだ。ブルーメンフェルドは1939年の夏頃からアメリカ移住を模索し、第二次大戦の影響ですぐには叶わなかったものの、抑留などを経験しながら41年に命からがらニューヨークへと渡った。戦後はアメリカに帰化して、カラー写真による斬新な作品を発表していく。
ファッション写真と「動き」のエンゲージ
キュレーターのラファエル・ストパンは、ファッション写真の歴史におけるブルーメンフェルドの革新性を、つぎのように評している。
やはりヨーロッパから逃れてきたマーティン・ムンカッチと共に、アーウィン・ブルーメンフェルドは、当時は緞帳のかび臭さとポプリを思い起こさせたサロン的雰囲気からこのメディア〔ファッション写真〕を解放することになる。前者はモデルたちに海辺を飛び回らせることで、後者はすべての装飾と背景幕を排したスタジオで、女性に超クローズアップで迫って撮影することで、それを成し遂げていく。1
カビ臭い緞帳にポプリ。これはアドルフ・ド・メイヤーの写真に多用された重々しいビロードのカーテンや花を思わせ、すなわち前時代的になった因習的なファッション写真にほかならない。それをモダンな表現に革新したのがムンカッチとブルーメンフェルドだとストパンは述べているのだが、興味深いのは彼が指摘するところの「解放」が同じ場所から生まれたということである。
実は、ブルーメンフェルドとムンカッチは、1941年から2年あまりニューヨークでスタジオをシェアしていたのである。前衛的な芸術から写真に関わり始めたブルーメンフェルドと報道写真を専門としたムンカッチ。出自も写真との関わり方も異なっているが、それがファッション写真という地平で新たな表現として融合していくところにこの時代の新しさ、面白さがある。では、そのムンカッチがファッションにもたらしたものとはなんだったのかというと、それは「動き」である。
ただ、それをファッションに持ち込んだのが誰かという問題は、どうやら『ヴォーグ』と『ハーパーズ・バザー』でやや考えが違うようだ。コンデナスト社から出版されていた『ヴォーグ』と並ぶ主力誌『ヴァニティ・フェア』で創刊以来20年あまり編集長をつとめ、引退後は美術評論家として活動していたフランク・クラウニンシールドは1941年の『ヴォーグ』カメラ特集号で次のように述べている。
『ヴォーグ』誌のもうひとつの実験はかなり遅れて始まったが、若い女性を屋外で撮影する技術に関するものだった。10年ほど前、このような写真に対する世間の関心が高まった。『ヴォーグ』がこうした写真を使い始めたのは、スタイケンが撮ったあるスナップ写真からだが、その後、とりわけトニ・フリッセルの美しく異化された写真からである。実は、フリッセルは『ヴォーグ』の編集部でアシスタントとして働き始めた。彼女の写真に対する興味は非常に大きく、撮影してみることを勧められた。数か月後、彼女の写真は『ヴォーグ』に掲載されるようになった。競馬場、カントリー・クラブ、スイミング・プール、ホース・ショー、ゴルフ・リンク、テニス・コートなどで、定期的に、そして頻繁に『ヴォーグ』のために若い女性たちを撮影するようになったのは10年前のことだった。レース場、カントリー・クラブ、スイミング・プール、ホース・ショー、ゴルフ・リンク、テニス・コートで、そのような少女たちが最もスマートで、そのような場に最もふさわしい服を着ている姿を、『ヴォーグ』の読者は必ず目にするのである。2
キャプションのライターとして『ヴォーグ』にかかわり始めたフリッセルだったが、どうやら兄が映画監督だったことなどもあり、カメラの操作にかんする素養があったようだ。
初めてフリッセルの写真が雑誌に掲載されたのは1931年のことで、『タウン・アンド・カントリー』誌だった。その後まもなく『ヴォーグ』と契約することになり、スポーツとファッションを融合した写真を発表していく。本人曰く、屋外での撮影は単にスタジオ撮影の技術がなかったからだという。クラウニンシールドのいう「美しく異化された写真」ということばから思い起こされるのは、フリッセルが39年に『ヴォーグ』のために撮り下ろした「ドルフィン・タンク」と題された写真である(図4)。

水中でモデルを撮影するという斬新なアイデアは、スポーツ写真とファッション写真を融合した彼女の作品のなかでもとりわけ有名なものとなっていった。
ちなみにこの時期アメリカでは、1935年からニューディール政策の一環でつくられた農地保障局(FSA)の記録写真の撮影に従事していたドロシア・ラングや、1936年に『ライフ』の創刊号の表紙のために竣工したてのフォートペックダム(こちらもニューディール政策関連だが)の写真を撮影したマーガレット・バーク=ホワイト、1936年に『ハーパーズ・バザー』と契約したルイーズ・ダール=ウォルフのように、女性の商業写真家が一斉に登場してきていた。アメリカでは他の国々に先駆けて商業写真家が女性にも開かれた職業になりつつあったということだろうが、男性写真家がほとんどだったファッション誌にも、ようやく女性写真家が登場してきたのである。
他方、『ハーパーズ・バザー』に「動き」をもたらしたのはマーティン・ムンカッチだった。1896年にハンガリーのユダヤ人家庭に生まれたムンカッチは、ブタペストで写真館の経営などを経て1928年にベルリンに移住し、報道カメラマンとしてウルシュタイン社と3年の契約を結ぶ。ウルシュタインは『ベルリナー・イラストリールテ・ツァイトゥング』のような、写真を中心に編集されたいわゆるグラフ雑誌などを発行する大手の出版社で、その名はすぐにウルシュタイン社のカメラマン三羽烏として、アルフレッド・アイゼンシュタット、エーリッヒ・ザロモンとともにヨーロッパ中に轟くようになった。
ところが、ナチスの介入によってウルシュタイン社がアーリア人経営者の手に渡ると、彼らがドイツ国内で仕事をするのが難しくなる。ムンカッチは、ひと足先にアメリカに亡命していたウルシュタイン社の元中央写真局長クルト・シャフランスキーや『ベルリナー・イラストリールテ・ツァイトゥング』元編集長のクルト・コルフの後を追うようにして、1934年5月にアメリカへと渡った。
シャフランスキーはブラックスター通信社の責任者に迎えられ、コルフはアメリカの大手出版社タイム社の社長ヘンリー・ルースの要請で新しいグラフ雑誌の立ち上げを任されることになる。それが、かの有名なグラフ雑誌『ライフ』である。「『ライフ』はヘンリー・ルースが作ったのではない、ヒトラーが作ったのだ」というブラックジョークがあるという3。これを品性に欠けた戯言として退けるのは容易なことだ。しかし先に触れたように、優れた才覚をもった編集者や写真家、デザイナーたちがドイツを追われてアメリカにやってきたからこそ、この地で雑誌ジャーナリズムが大きく花開いたことは事実であるし、それは『ライフ』にかぎらずファッション誌にとっても同様だった。
亡命に先立つこと数か月前の1933年11月、ムンカッチは一度アメリカを訪れている。この時の渡米の目的がなんだったのかははっきりわからないが、手にしたものは確実だった。それは、『ハーパーズ・バザー』12月号に写真が掲載されたことである(図5)。

パイピング・ロックの浜辺でモデルを撮影したものだが、編集長のカーメル・スノウは、撮影当日は寒くて不快な日だったうえ、片言の英語しか話せないムンカッチが自分たちになにをさせたいのかがわからなかったと回想している4。ムンカッチがモデルに求めたのは、自分に向かって走らせることだった。スノウがこれを即座に理解できなかったのはムンカッチの英語力のためではなく、モデルを走らせる、すなわち「動き」という語法がそれまでのファッション誌になかったためである。
1920年代中頃から実用化され、ジャーナリズムの世界では一般的になっていたライカに代表される小型カメラを彼はこの時当然のように使ったが、依然としてスタジオでの大型カメラによる撮影が一般的だったファッション・ジャーナリズム界にとっては革命的なできごとだった。
美術史家のクラウス・ホネフはこのことについて、ムンカッチがファッションとルポルタージュのハイブリッドというジャンルをほとんど付随的に発明したと、的確なことばで言い表している5。実際、スタイケンがコンデナストのチーフ写真家になって以降、野外のシチュエーションのロケ撮影は増加していき、一般化していくことでその描写もだんだんと自然なものになっていったが、それらも三脚を用いた大型カメラで撮影されることが一般的だった(図6)。

先に述べたように、ムンカッチはベルリン時代からウルシュタイン社が発行する『ベルリナー・イラストリールテ・ツァイトゥング』や『ディー・ダーメ』などの雑誌に動きを伴った写真を発表している(図7)。

こうした表現がファッションと結びつくことによって、ファッション写真はルポルタージュやスポーツの要素も取り込むようになっていく。これは単に動きや小型カメラの使用ということにとどまらず、1950年代以降になると、アンリ・カルティエ=ブレッソンやダイアン・アーバスといった、ドキュメンタリーとアートのあわいで活動する写真家たちがファッション誌でとりあげられるようになっていくきっかけともみなせるだろう。
ここまで数回にわたって見てきたように、ファッション写真は同時代の芸術動向、スポーツ写真や報道写真など、モダニズムの中で新たに登場してきた分野やその表現動向と結びついていくことで広がりを見せていった。さらにもう一つ見逃すことができないのは、1930年代から、誌面全体のレイアウトやデザインの方向性を決定し、統括していくアートディレクターの役割が大きくなっていったことである。
ここにもまた、当時の世界情勢を背景にアメリカへ渡ってきた亡命者たちが、重要な役割を果たすこととなる。
- ラファエル・ストパン「アーウィン・ブルーメンフェルド-現代的な美」『「アーウィン・ブルーメンフェルド 美の秘密」展図録』、東京都写真美術館、2013年、p. 10。 ↩︎
- Frank Crowninshield, “Vogue…Pioneer in Modern Photography,” Vogue, June 15, 1941, p. 28. ↩︎
- 三神真彦『わがままいっぱい名取洋之助』ちくま文庫、1992年、p. 129。 ↩︎
- Carmel Snow, The World of Carmel Snow, McGraw-Hill Book Company, 1962, p. 88. ↩︎
- Klauss Honnef, “Rise and Fall: The American Years 1934-1963,” Martin Munkasci, Steidl, 2017,p. 311. ↩︎