ファッション誌におけるアートディレクターの確立
1930年前後になってファッション誌に起こった変化は、写真にかんしてだけではなかった。誌面全体のデザインもまた、大きく変化していくことになったのである。雑誌は一冊の中でさまざまなトピックを扱い、その記事ごとに担当の編集者がいて、取材に基づいて記事を執筆したり写真家をアサインして撮影をおこなう。その記事全体に目配りをするのが編集長をはじめとする上級スタッフだが、エディトリアル・デザインまでには必ずしも管理が行き届いていない場合がある。それを一元的に統括するのが、この時期に新しく台頭してきたアートディレクターという役職だった。
アートディレクションは雑誌編集や広告などの制作において、複数の職域にまたがる人々がひとつのものを作り上げる際に必要とされる仕事で、ファッション・ジャーナリズムの本場ニューヨークでは、1920年代にニューヨーク・アート・ディレクターズ・クラブが創設されている。ただ、当初は広告業を意識した色合いが強かったようで、すぐに大手のファッション誌にもアートディレクションの重要性が波及することはなかった。
たとえば、コンデナスト社では1920年代、アートディレクターに相当する職はアートエディターと呼ばれていた。『ヴォーグ』をはじめとする同社の雑誌が文字の書体や写真のレイアウト、文字組みなどを総合的に判断するようになったのは、1928年に「ドクター・アガ」ことメヘメド・フェミー・アガを採用したのがきっかけだった。それまでアートエディターを務めていたヘイワース・キャンベルが退職したことで、社主のコンデ・ナストはその代役を探す旅に出る。パリ、ロンドンを経てヨーロッパにおける『ヴォーグ』のもうひとつの拠点となっていたベルリンで、ナストはドイツ版『ヴォーグ』のスタッフだったアガに出会う。
1896年にトルコ人の両親のもとでロシアに生まれ、ピョートル大帝工科大学やキエフの美術アカデミーで学んだあとにパリで言語学の学位も取得したアガは、経済学と美術を修めたうえにマルチリンガルという多才な人物だった。ナストはすぐにニューヨークの本社にアガを配属すると、まもなく「ドクター・アガ」の愛称で呼ばれるようになる。彼が『ヴォーグ』にもたらした革新は、まだアメリカでは馴染みのなかったサンセリフ体、すなわちヒゲのない書体の導入や、ゆったりと余白を取った文字組だった。誌面がイラストよりも写真優位になった1920年代末から30年代にかけて、アガは写真を大胆にトリミングし、誌面デザインを事後的におこなうのではなく編集過程に組み込むことで、アートディレクターの役割を確立していく。
一方の『ハーパーズ・バザー』でも、1934年にのちに伝説として語り継がれることになるグラフィックデザイナーをアートディレクターとして招いた。その人物こそ、アレクセイ・ブロドヴィッチである。
アガより2歳年下のブドロヴィッチは1989年にロシアのオゴリチ(現・ベラルーシ領)で生まれる。父親は医者で、先代から相続したホテルや高級レストランを所有するような裕福な家系だったが、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、愛国心に燃えていたブロドヴィッチは軍に入隊し、前線へ赴いた。これが彼の運命を大きく変えることとなる。ごく単純化すれば、彼は白系ロシアの側に立つことになり、ロシア革命で新たに台頭してきた共産主義勢力であるボリシェヴィキと対峙することになったのだ。白系ロシア人たちの行く末は推して知るべしだが、ブロドヴィッチもまた、1920年にコンスタンチノープル経由でパリへ亡命することとなった。
それまで貴族同様の身だったものの、財産はすべて没収され、無一文のペンキ塗り職人となった。とはいえ、自宅は多くの芸術家が暮らしていたモンパルナス地区で、その地の利で前衛芸術家や、同じようにロシアから亡命してきた芸術家たちとすぐに親しくなる。そうした縁で得たセルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスの背景画家の仕事は、短期間だったものの、彼のグラフィックの才能を開花させるには十分な機会だったようだ。
1924年3月、ロシア芸術家連合はパリにいるロシア人芸術家たちを支援するための大々的なパーティーの開催にあたって、ポスターのコンペを開催した。ブロドヴィッチはそこで2位になったピカソを差し置いて堂々の1位となり、以降、グラフィックデザイナーとしての快進撃が始まる。翌年にはあのアール・デコ博覧会で金賞を含むいくつかの賞に輝き、その直後には高級デパートのボンマルシェやプランタンなど、名だたるクライアントからカタログ制作など大型の依頼を受けている。
とまれ、グラフィックデザイナーというのは現代でも得てしてそうなのだが、最終的にそのデザインがどのように使われるのかを明確に知らされないことがある。どうやらブロドヴィッチも例外ではなかったようで、ブロドヴィッチの評伝の作者ケリー・ウィリアム・パーセルは興味深い考察をしている。
ブロドヴィッチは、1920年代初期の構成主義グラフィックのシンプルな幾何学的形態が自分の作品に与えた影響を強調し、エル・リシツキーの構成主義作品に似たスタイルのマルティーニのポスターを1926年に制作した。〔……〕しかし、ブロドヴィッチの他の作品のほとんどがそうであるように、これらの個々の作品は、最終的な用途やディスプレイについて、彼はほとんどコントロールすることができなかった。その5年前、ディアギレフがバレエ・リュスをオーケストレーションしていたのを目の当たりにしたブロドヴィッチは、創造的なプロダクションのあらゆる側面を指揮できることの利点をはっきりと認識していたはずだ。1
芸術監督という立場が確立していたバレエ業界に短期間でも身を置いていたブロドヴィッチが、グラフィックデザイナーに留まることなくひとつのプロジェクトと総合的に取り仕切るアートディレクターという方向性を見出すきっかけをディアギレフに見たというのは、大いにあり得ることだろう。もう少し、この件を深追いしてみる価値はありそうだ。
ブロドヴィッチは、1945年に、ニューヨークで公演したバレエ・リュスの写真を撮り、写真集『バレエ』をJ・J・オーガスティンから出版している(図1)。

それらの写真は小型カメラで撮影され、作品はどれも高感度フィルムで撮影した粒子の粗さや、ブレが目立つ。それは公演記録というものとは大きくかけ離れていて、1960年代にこうした粗れ・ブレの効果を取りいれたウィリアム・クラインの『ニューヨーク』の表現を先取りしているとさえみることができるだろう。しかし、ここで考えてみたいのはブロドヴィッチがどう表現したかではなく、何を見ていたかである。
『バレエ』に収められた104点の写真を見てみると、その多くは舞台袖から見たバレエや裏方を撮った写真である。舞台を正面から撮ったものもあるが、これらはリハーサル時に撮られたものだろう。パーセルはこの写真集について「多くの点で、『バレエ』は、ディアギレフのプロダクションであった音楽、ダンス、舞台装置の総合的でドラマティックな効果という総合美術を凝縮している。ブロドヴィッチにとって、写真プロセスが提供するグラフィック装置は、パフォーマンスの音楽、照明、動きと視覚的に等価な役割を果たすことができたのである」と考察している2。つまり、この写真集は、ブロドヴィッチが昔日のバレエ・リュスに思いを馳せたというだけではなく、かつて彼がアートディレクターという仕事の原型を見出した亡きディアギレフの芸術監督としての視点になり変わってものを見ているのではないだろうか。そう考えるならば、ディアギレフとブロドヴィッチの視点はみごとに重なってくる。
話題を元に戻そう。パーセルは、ブロドヴィッチがアートディレクションを実現した最初の機会が、同年に引き受けたキャビアの老舗店プルニエからの依頼だったと推察する。ブロドヴィッチはメニューやロゴ、レストランの内装までトータルに任され、プルニエを清新でモダンなブランドへと蘇らせたことにより、アートディレクターとしての地位を確固たるものとしたのである。
1927年にはパリのデパート、オー・トロワ・カルティエのデザイン部門であるアテリアのアートディレクターに迎えられ、カタログや広告、店舗のファサードデザインを手掛けながら、個人でも多くの広告や装丁の仕事を請け負った。
以来、ブロドヴィッチはパリで押しも押されもせぬグラフィックデザイナー/アートディレクターとして知られるようになっただけでなく、ほとんどアーティストとして認識されるようになっていく。詩人・小説家で美術評論家としても知られるフィリップ・スポーは、1930年7月に『アルテ・エ・メティエ・グラフィーク』誌にじつに情熱的なブドロヴィッチ評を寄せている。スポーはそこで、インスピレーションや空想で満足するような人にはグラフィックデザインはうまくいかないもので、ブロドヴィッチはそれを見抜いてタイポグラフィの研究を論理的におこなった人物だと評価する。そして、その記事を次のように結ぶ。
彼が情熱と注意を払って学んだグラフィックデザインは、他の造形芸術から独立しているわけではない。わたしが言いたいのは、グラフィックデザインは他の造形芸術に大きな影響を及ぼしうるし、及ぼさなければならないし、すでに及ぼしているということである。そしてこの影響力は、それが芸術の分野だけでなく、人生そのものに作用するという事実のためにいっそう強いものとなる。多くの人は、その手法が広告にしか通用しないと考えたくなるだろう。しかし、それは結果を表面的にしか見ていない。ブロドヴィッチが考えるグラフィックデザインは、さらに深く踏み込んだものである。グラフィックデザインは、わたしたちの注意をある一点に集中させ、ある方向に向けることができるのだから。ひとりのアーティストに捧げられたこの記事で、新しいビジョンの結末を述べることはできない。これらの考察は、このアーティストの役割を明確にするためにのみ、ここに含まれている。メタモルフォーゼは常に豊かな結末をもたらすものであり、われわれのような曖昧な時代を扱っている場合、この種の現象に注視しなければならない。
わたしは、ブロドヴィチが今後も影響力を発揮し続けることを確信している。彼は誤解されることも、軽蔑されることさえも恐れない。彼の大胆さは静寂と形容するに値する。なぜなら、これから彼が手がけることはすべて、テクニックが支え、内包する方法と決断に従って行われるからだ。3
パリでグラフィックデザイナーとしての将来を嘱望されたブロドヴィッチだったが、この記事が出た時、彼はアメリカへ渡ろうとしていた。ペンシルベニア美術館副館長のジョン・ストーリー・ジェンクスの誘いで、ペンシルベニア美術館工芸学校に新設される広告クラスの担当教員になったのである。
『ハーパーズ・バザー』の伝説の始まり
9月にペンシルベニア美術館工芸学校に着任したブロドヴィッチは、すぐにあることに気が付く。アメリカの商業界ではヨーロッパに比べてデザインが保守的で、彼がパリで親しんできたタイポグラフィやグラフィック・デザインはまだアメリカの応用美術教育には波及していなかったということである。ブロドヴィッチが数年後に関わることになるファッション誌にしても、アガによって『ヴォーグ』の誌面デザイン改革がほんの2、3年前に始まったという状況だったことを思い出してみたい。
とはいえ、ブロドヴィッチの教育はまったく理論的なものではなかったようだ。雑誌や広告の切り抜きをコレクションしていた彼は、それらを学生に見せて「もっといい線はないのか?」と問うたり、自分が請け負った仕事を手伝わせたりするといったやり方で学生を育成していった。ここでもブロドヴィッチは、デザイナーが単なるレイアウト職人にならず、イニシアチブを握るアートディレクターの重要性を説いていく。なかば徒弟制度的な方法論ではあるが、彼のクラスからは多くのデザイナーや写真家が世に出ていくこととなる。
だが、教師業とともに多くのデザインの仕事を請け負っていたブロドヴィッチにとって、やはり本業はアートディレクターであった。1934年、ニューヨークで開催される第13回アートディレクターズ展のデザインを請け負ったブロドヴィッチは、そこに訪れた写真家のラルフ・シュタイナーを通じて、『ハーパーズ・バザー』の編集長、カーメル・スノウに紹介される。ブロドヴィッチのポートフォリオを見たスノウは、深い衝撃を受けたことを回顧している。
わたしは、新鮮で新しい発想のレイアウトテクニックを目の当たりにし、まるで啓示を受けたような衝撃を受けた。 美しく滲むページ、切り取られた写真、大胆で目を引くタイポグラフィとデザイン。10分も経たないうちに、わたしはカクテルを一緒に飲もうとブロドヴィッチを誘い、その晩、アートディレクターとしての仮契約を交わした。4
こののち、ブロドヴィッチのダミー雑誌とスノウの強力な説得によってオーナーのウィリアム・ランドルフ・ハーストの承認を得て、彼は同年中に『ハーパーズ・バザー』のアートディレクターに迎えられた。
『ハーパーズ・バザー』でのブロドヴィッチの仕事は、写真のトリミングやレイアウトとタイポグラフィによって、誌面デザインを大胆に改革することだった。特に、見開きのページの関係性を重視し、片側のページに掲載された写真と、反対側のページの文字組が形態的にリンクするデザインを得意とした。ブロドヴィッチによって、写真だけでなく、文字も「動き」を得たのである(図2)。

また、時には誌面の天地に縛られることなく自由にレイアウトされたページは、ムンカッチのような躍動感のある写真を、より一層引き立たせることとなった(図3)。

ロシア構成主義的表現に立脚し、機械や速度を好んでいたブロドヴィッチは、まさにモダニズムの申し子だったといっていい。ペンシルベニア美術館工芸学校時代も、学生にはさかんに新しい技術や手法を使うことを推奨していたという。
そのブロドヴィッチが『ハーパーズ・バザー』に入ってまもなく採用したのが、無線を用いた伝送写真だった。1934年9月号から「無線によるファッション」と題したコーナーを開始し、その初回にはマン・レイの伝送写真が使われている(図4)。

伝送写真は現在のファクシミリにあたるものだが、1920年代に急速に実用化のための研究が進んだ。しかし、その画質は写真をファックスで送った程度の、階調がなく質の悪いものだった。とはいえ、2年後の1936年のベルリンオリンピックでは世界中の速報合戦にこの技術が用いられることとなる、可能性を秘めた技術だった。ブロドヴィッチがこの技術を採用したのは、機械化や自動車の普及によって速度に彩られた世界を、ムンカッチのような写真とは別の方法でファッション・ジャーナリズムに取り込もうとしたからではないだろうか。
他方、ブロドヴィッチに課せられたもうひとつの重要なタスクが、人材の発掘だった。彼は足繁くフランスへ通い、ジャン・コクトー、レオノール・フィニ、マルク・シャガール、リゼット・モデルといった芸術家、写真家のアサインに成功した。ブロドヴィッチの『ハーパーズ・バザー』におけるアートディレクションは1958年まで24年にもおよぶが、常に野心的な表現と人材の獲得に目を光らせ、アメリカに渡ってきたロバート・フランクのような写真家の発掘にまで行き着く。一方でその裏では、優れたライバルたちをも生み出すことになるのである。
- Kerry William Purcell, Alexey Brodovitch, Phaidon, 2002, p. 22. ↩︎
- Kerry William Purcell, “Ballet,” Ballet: 104 Photographs by Alexey Brodovitch, Errata Editions, 2016, Unpagenated. ↩︎
- Philippe SOUPAULT, “Alexey Brodovitch,” Arts et métiers graphiques, no.18, 1930, pp. 1016-1017. ↩︎
- Carmel Snow, The World of Carmel Snow, McGraw-Hill Book Company, 1962, p. 90. ↩︎