パリの抽象写真家、クライン
前回も触れたように、画像のボケやブレ、アレを写真の表現として意図的に取り込むことは当時まだほとんど前例のないことで、ゆえに議論の的となった。ファッション写真の世界では、それは第二次世界大戦後すぐの1940年代後半から『ハーパーズ・バザー』を中心に誌上にあらわれはじめ、リチャード・アヴェドンやリリアン・バスマンがこうした表現で知られるようになっていく。他方、『ハーパーズ・バザー』のもっとも有力なライバル誌である『ヴォーグ』がこの注目すべき表現の方向性を見逃すはずがなかった。同誌において最初期にその可能性を託されたのは、ウィリアム・クラインだった。
クラインは1926年にニューヨークのユダヤ人家庭で生まれた。ここまで見てきた多くのユダヤ系アメリカ人二世の写真家がニューヨークでファッション写真家として活躍するチャンスを掴んできたのに対し、クラインはヨーロッパに渡り、フランスを拠点にする。幼いころから勉学の才を見せていたクラインは14歳でニューヨーク市立大学に入学して社会学を専攻する。第二次大戦中はアメリカ陸軍に入隊してフランスやドイツに駐在し、戦後はそのままフランスにとどまった。クラインにはその兵役中にポーカーで勝ってはじめてカメラを手に入れたという逸話があるが、写真自体に興味をもったのはもう少し後のことだったようだ。
1948年にパリ大学に入学し、翌年には短期間、画家のフェルナン・レジェに師事する。レジェはかつてキュビスムの画家として活躍したが、1940年から45年にかけて戦火を逃れてアメリカで活動しているうちにポップアートの影響を受け、戦後は壁画や舞台装置も手がける幅広い美術家として知られていた。その影響を受けてか、クラインも抽象画や彫刻に興味をもつ。
画家としてアーティストのキャリアをスタートさせたクラインは、1952年にミラノで抽象壁画の個展を開催した際、イタリアの前衛建築家のアンジェロ・マンジャロッティに依頼されて回転式の可動壁に絵を描く仕事を得た。できあがったその作品を撮影する際、結果的に写真家へと転向する創造的なひらめきがクラインに降りてくる。
絵画を撮影している間、誰かに作品を回転してもらいました。光量が少なかったので長時間露光をしていたところ、わたしが描いた幾何学的抽象形態がぼやけ始めたのです。この硬質な幾何学形態がブレによって変化したり、興味深いものになることに気づいたのです。これは写真ならではの利点であり、わたしが写真に興味をもつきっかけとなりました。写真が幾何学的抽象形態の活用方法に変化をもたらす手段であることを目の当たりにしたのです。その後、抽象的な形態を描いたパネルは不要だと気づきました。暗室で実現できると悟り、実際にそうしました。当時、写真は先進的だと感じていました。グラフィックな形態の活用法を変化させ、比較的長い露光時間で撮影対象の形態に変化を与えることで、ブレはわたしのグラフィック技法の武器のひとつとなったのです。1
そして、クラインは短期間でその手法を確立し、すぐにイタリアの建築家のジオ・ポンティに注目され、彼が主宰する建築雑誌『ドムス』の表紙を担当するようになる。この抽象的写真表現は、数年後にクラインが出版する最初の写真集にそのままつながっていく(図1)。

翌1953年、クラインはパリで〈サロン・デ・リアリテ・ヌーヴェル〉展に、一連の抽象写真を出品する。たまたまこの展覧会を訪れたのが、ニューヨークから出張でパリに来ていた『ヴォーグ』のアートディレクター、アレクサンダー・リーバーマンだった。クラインはこの時のことを次ように回想している。
わたしはパリで開催された〈サロン・デ・レアリテ・ヌーヴェル〉という展覧会(1953年)に参加していたのですが、当時『ヴォーグ』誌のアートディレクターで、のちにコンデナスト社のアートディレクターとなったアレクサンダー・リーバーマン氏から、会いに来てほしいというメモが残されていました。そこで会いに行ったところ、彼は「『ヴォーグ』で働いてみないか?」と提案してくれたのです。「何をするのですか?」とたずねると、彼は「まあ、様子を見てみよう。アシスタント・アートディレクターか何かになるだろう」と言いました。結局、わたしは写真撮影を担当することになりましたが、『ヴォーグ』のためにどんな写真を撮ればいいのか、まったく見当もつきませんでした。ファッション誌を見て、ファッション写真家たちがやっているようなことは自分には絶対にできないと確信しました。彼らの技術はわたしの手の届かないところにあると思ったのです。けれどもよく観察してみると、それほど素晴らしいとは思えなくなり、わたしに感銘を与えたのはペンとアヴェドンのみでした。ほかの写真家たちは単なるシステムの一部であり、彼らの写真を眺めれば眺めるほど、その背後には本当に興味深いアイデアが存在しないと感じるようになったのです。2
こうした経緯があり、クラインはファッション・ジャーナリズムとかかわるきっかけを得て、ニューヨークへと帰ることとなった。初期には、ポートレートに抽象写真の手法からの影響を感じさせる光跡を融合させた、ファッション写真(のち2000年代に『ブラック・アンド・ライト』としてまとめられる)や、画家のピート・モンドリアンが第一世界大戦中に疎開していたベルギーとオランダの国境付近の農村を取材した写真などを『ヴォーグ』に発表する(図2)。

スラム街育ちのニューヨーカーのまなざし
クラインは当時、写真界において市場価値があって出版可能なジャンルはファッションだけであり、自身の作品としての写真にはだれも興味をもたず、ファッション写真を撮っていたのは生計を立てる手段に過ぎなかったと断言している3。だが、ファッション写真がクラインにとって本当に撮りたいものでないことは周知の事実だったようだ。ある日、リーバーマンはクラインに本当にやりたいことは何なのかとたずね、彼はまったく新しい方法、つまり写真日記のようなかたちでニューヨークを撮影したいと答える。
常に新しい才能と表現を探すことがファッション誌のアートディレクターに課されたひとつの任務だった以上、リーバーマンはこの答えに乗らないわけにはいかなかった。彼はクラインに『ヴォーグ』の特集記事としてそのプロジェクトを掲載することを前提に、制作資金とフィルムや暗室用品をクラインに提供した。さらにクラインは『ヴォーグ』編集部にあった当時としてはまだめずらしいコピー機を使って、レイアウトの実験を繰り返し、ダミーブックを制作した。
ところが、クラインが数か月にわたって撮影したニューヨークの写真群は、あまりに野心的だった。手ブレや粒状性が極端に目立ち、内容としても暗く、アメリカの不穏な側面が大半を占めている。結局、このシリーズは『ヴォーグ』に掲載されることもアメリカで写真集として出版されることもなかった。クラインはダミーブックを手にパリに戻り、1956年にスイユ出版から『ニューヨーク』と通称される『Life is Good & Good for You in New York Trance Witness Revels』を出版した。表紙は、先に触れたように抽象写真の手法を用いたものだった(図3)。

ちなみに、このような抽象的表現は、のちに本格的に映画制作に転向するクライン発作品となる短編フィルム『ブロードウェイ・バイ・ライト』にもそのまま反映されている。
翌57年、クラインは同書でフランス写真界最高の栄誉といわれるナダール賞を受賞したものの、アメリカでの評価は冷ややかなものだった。『ヴォーグ』に掲載できなかったのはファッション誌という美の殿堂の建前があったにしろ、ブレ、アレ、ボケのオンパレードともいえる『ニューヨーク』は、ファインプリントと称される豊かなトーンや写真の機械的再現性を生かした高解像度の画面を重んじる伝統的なアメリカの写真界では受け入れられなかった。アメリカ写真界の重鎮で批評家でもあったマイナー・ホワイトは『イメージ・マガジン』誌に寄せた『ニューヨーク』評を「騒々しいということばがぴったり」という一文から始め、「下品で派手で安っぽい」「人生を豊かにする要素は一切ない」など、一貫して厳しいことばを並べ立てた4。内容としても写されているものはアメリカの影の側面ばかりで、栄華を誇った戦後のアメリカの姿とはおおよそ正反対の姿を、受け入れられなかったのだろう。
ファッション帝国の不吉な予兆
『ニューヨーク』の最後は、「原子爆弾の空」と題されたニューヨークの全景の写真で終わる(図4)。

(https://www.polkagalerie.com/oeuvres.php?id=113&l=2&o=1927&a=52)
いうまでもなく、わずか10年前にアメリカが広島と長崎に投下した原子爆弾の爆発を想起させる。「戦争を終わらせるために仕方なく投下した」というアメリカ国内で支配的だった意見に対し、この写真はニューヨークでも同じことが起こり得ると語りかけているかのようである。同時にそれは、アメリカの栄光と繁栄に裏付けられたファッション・ジャーナリズムの翳りを予見しているようでもあった。
しかし、そのハリボテのアメリカを見透かしていたのはもちろんクラインだけではなかった。この写真を見ると、かつてスコット・フィッツジェラルドが「マイ・ロスト・シティ」でエンパイア・ステート・ビルからニューヨークの全景を見たさいの感想を綴った一文を思い出さずにはいられない。
ニューヨークは何処までも果てしなく続くビルの谷間ではなかったのだ。そこには限りがあった。その最も高いビルディングの頂上で人がはじめて見出すのは、四方の先端を大地の中にすっぽりと吸い込まれた限りのある都市の姿である。果てることなくどこまでも続いているのは街ではなく、青や緑の大地なのだ。ニューヨークは結局のところただの街でしかなかった、宇宙なんかじゃないんだ、そんな思いが人を愕然とさせる。彼が想像の世界に営々と築き上げてきた光輝く宮殿は、もろくも地上に崩れ落ちる。5
フィッツジェラルドやクラインが見たアメリカの限界は、やがてファッション・ジャーナリズムの世界にも忍び寄ってくる。「黄金の1960年代」を迎えた反面、ファッション誌は50年代のように莫大に予算を使って至高の雑誌を作ることは次第に難しくなっていく。一時代を築いたカーメル・スノウやアレクセイ・ブロドヴィッチといった優れた編集者やアートディレクターが1958年に同時に引退したのは、その不穏の予兆といえるのかもしれない。
一方で、クラインがファッション写真界にのこした爪痕はさまざまなかたちで新しい世代に引き継がれていく。アヴェドンやクラインのようなブレ・ボケ・アレを駆使したファッション写真はクリフォード・コッフィンやゴードン・パークスらによって60年代にはひとつの様式として定着していく。一方、アメリカの影を写し取る写真も、60年代には公民権運動やブラック・パワーに代表される政治的関心の高い時代となり、ファッション写真の虚飾の栄華に抵抗するようなかたちであらわれてくることとなるのである。
- “William Klein: Interview by Aaron Schuman,” Aperture, no.220, 2015, p. 25. ↩︎
- Ibid., p. 27. ↩︎
- Ibid. , p. 28. ↩︎
- Minor White, “Review of William Klein’s New York,” Image Magazine, September 1957.(以下に再録 https://americansuburbx.com/2011/01/william-klein-minor-white-review-of.html) ↩︎
- F. Scott Fitzgerald, “My Lost City,” 1932(村上春樹訳『マイ・ロスト・シティー』中公新書、2006年、p. 256). ↩︎









