虚構の煌めき~ファッション・ヴィジュアルの250年~

22 アートシーンを変えたユダヤ人写真家たち

打林 俊

写真芸術の変容

1960年代後半、アメリカで写真芸術の変容を示す重要な3つの展覧会が相次いで開催された。1966年にジョージ・イーストマン・ハウス国際写真博物館で開催された「現代写真家たち:社会的風景に向かって」と1967年にブランダイス大学ローズ美術館で開催された「12人の写真家たちの社会的風景」展、そして69年にニューヨーク近代美術館で開催された「ニュー・ドキュメンツ」展である。

「社会的風景に向かって」展ではブルース・デヴィッドソン、リー・フリードランダー、ギャリー・ウィノグランド、ダニー・ライアン、デュアン・マイケルズの5人が取り上げられ、ウィノグランド以外の4人は「12人の写真家たちの社会的風景」展にも名を連ねている。前者ではスナップショットという表現手法にスポットライトが当てられ、後者は「あるがままのものごとの検証」といった切り口で出品写真家たちの傾向を括ろうとしているが、これらの展覧会で取り上げられた新しい世代の写真家たちを包摂するキーワードは、なんといってもタイトルに共通する「社会的風景」という概念だろう。

このふたつの展覧会で紹介された写真家たちに少なからず共通するのは、スナップショットという手法を用いて、必ずしも決定的瞬間(それはアンリ・カルティエ=ブレッソンによって打ち立てられた戦後の写真の神話でもある)ではない、日常的にさえ見える風景・光景を捉えているということである。写真史家の日高優はアメリカ写真史における「風景」が指し示す役割に触れつつ、「社会的風景に向かって」展のキュレーターだったネイサン・ライアンズが「「社会」という言葉で人間を喚起させ、それを「風景」に冠することで、もっぱらそれ以前は自然風景に限定されてきた風景が、一九六〇年代半ばすぎには人々にとってより広範な領域にまで拡張していることを示した」と指摘している。その上で、5人の写真家たちの作品について、「共通性、同質性は、特定の被写体やそれに付随する意味にあるのではなく、それぞれの写真家がそれぞれの風景を掴まえにいくその仕方にある」のだという理解を示す1

では、ふたつの「社会的風景」展に出品していないアーバスはどうだろうか。「ニュー・ドキュメンツ」展は、これらの展覧会に出品しているフリードランダーと「社会的風景に向かって」展に出品していたウィノグランドに、アーバスをくわえた3人展だった。おおよそ「社会的風景」と「新たなドキュメント」というのが重なり合うものであることは、その顔ぶれからも想像がつく。「ニュー・ドキュメンツ」展を担当したニューヨーク近代美術館写真部門のチーフ・キュレーターだったジョン・シャーカフスキーは同展のウォール・テキストで次のように述べている。

過去10年間で、新たな世代の写真家たちがドキュメンタリーのアプローチをよりパーソナルな目的へと向かわせた。彼らの目的は生活を改革することではなく、それを知ることにある。彼らの作品には、社会の欠陥や脆弱性に対する共感──ほとんど愛情ともいえる感情がにじみ出ている。彼らは、その恐怖にもかかわらず、現実世界をあらゆる驚嘆と魅力と価値の源泉として好んでいる。非合理であるからこそ、その価値は決して損なわれないのだ。2

ここでシャーカフスキーが提示したのは、ドキュメンタリー写真のアプローチの変化という視点だったというわけである。つまり、新しいドキュメンタリー=個人的な視座という構図であるが、まずはアメリカ写真史における伝統的ドキュメンタリー写真を簡単に振り返ってみよう。

古くは、ジェイコブ・リースが1888年から撮影し、1890年に『ほかのもう半分はどう生きているか』としてまとめられたニューヨークのスラム街の記録が挙げられる。その約20年後には、国家児童労働委員会の契約写真家として、当時アメリカの社会問題とされていた児童労働の実態にカメラを向けたルイス・ハインが挙げられるだろう。その延長線上には、ニューディール政策の一環として1930年代半ばから40年代初頭のアメリカ南部における農業実態を記録した農地保障局(FSA)の記録という、アメリカドキュメンタリー写真の金字塔が存在する。こうしたドキュメンタリー写真は、社会の実態を人々に知らしめ、世界を良くしようという目的や大義があった。

シャーカフスキーはこうしたアプローチを生活を改革する目的のドキュメンタリー写真と呼んでいるわけだが、それに対して、新たな世代の写真家たちのドキュメンタリー写真に対するアプローチが、60年代に至ってパーソナルなものになったと指摘している。それは、日高がいう「社会的風景」を追う写真家たちに対してそれぞれの写真家がそれぞれの風景を掴まえるやり方にこそ同質性があるという理解とぴったりと重なる。彼ら/彼女らのようなパーソナルな視点に立った新たなアプローチのドキュメンタリーは、世界を席巻していた週刊のグラフ雑誌で『ライフ』のような大義あるジャーナリズムでは掬い取られず、むしろアート界が注目したのである。

「優れた写真家はユダヤ人でなければならない」

ところで、アーバスはここまで触れてきた3つの展覧会のうち、「ニュー・ドキュメンツ」展でしか取り上げられていない。だが、シャーカフスキーはアーバスが単独で活動を始めた当初から注目してきたことは間違いない。

アーバスは1963年に優れた芸術活動を支援するグッゲンハイム奨学金を受けている。採択されたテーマは「アメリカの儀式、礼儀作法、習慣」というもので、その申請書には家族の行事、スポーツ、ゲーム、学校行事、ドッグショーのパレードなどが具体的に想定されるモチーフとして挙げられていた3。この頃にはアーバスの視点はほとんど確立されていたと見ていい。たとえば、62年に撮影された「ディズニーランドの城」に写されているのは驚くべき寂寥感である(図1)。

図1 ダイアン・アーバス「ディズニーランドの城」1962年

城はまるでハリボテのように見え、アーバスの眼はアメリカのエンターテインメント産業の代名詞ともいえるディズニーランドは薄っぺらいこけおどしだと、告発している。ケネディ大統領暗殺にはじまる、黄金の60年代のアメリカの陰の側面を予見しているかのようにさえ感じられる。こうした暗さや冷たさは、アーバスのポートレート写真にも通底したものだ。クラインからフランクを通って、アーバスがこうしたある種のパーソナルな視点でのドキュメンタリータッチの主題に向かい、評価されたのは決して偶然ではない。さらにいえば、クライン、フランク、アーバスは、それぞれの事情は違えどみなユダヤ系だったし、奇しくも「ニュー・ドキュメンツ」展で取り上げられた3人の写真家もまた、ユダヤ系アメリカ人だった。

ユダヤ系移民2世がファッション写真やデザイン、アートの分野で評価された背景は、彼ら/彼女らの親世代、すなわち移民1世がアメリカの知識人階級として迎えられたり、人脈のつながりでチャンスや成功を掴んだのとは事情が違う。とりわけ2世の写真家たちが評価された背景もさまざまだが、ここでは1960年代のアートシーン、とりわけ写真の分野で重要な役割を担ったニューヨーク近代美術館写真部門の歴史からその背景を紐解いてみたい。

ニューヨーク近代美術館の写真部門が正式に開設したのは1940年。初代のチーフ・キュレーターは同館のライブラリアンだったボーモント・ニューホールである。ハーバード大学卒の生粋のエリートWASPである。ニューホールのもっとも大きな仕事はなんだったのかというと、はじめて写真史を体系化したことである。1937年に「写真:1839-1937」展を開催し、それをもとに1949年に『写真の歴史-1839年からこんにちまで』を上梓する。それまでも書物や学問分野として写真史というものがなかったわけではないが、だいたいは写真技術の変遷と技術解説が合体した歴史+ハウツーというのが19世紀以来のお決まりだった。いわば、これをひとつの表現史として体系化したのがニューホールにほかならない。彼がそこで示した展望は、アメリカ中心主義ではない、国境や民族性を横断したグローバルでモダニスティックなものである。

アメリカが戦中から白系ロシア人、ユダヤ人をはじめとする多くの移民を受け入れてきたのはすでに見てきた通りだが、戦後になると、特にユダヤ人の排斥はホロコーストの記憶と重なり、西側世界では公的に強く否定される価値観が形成されていく。さらにいえば、米ソ冷戦のなかにあって、アメリカはソヴィエトに対して自由な国、個人表現を重視する国であることを高らかに示す必要があった。

そうした背景で出版された『写真の歴史』は、かなり多くのユダヤ系写真家を積極的にフォローしている。一例を挙げればバウハウスの教員だったラースロー・モホイ=ナジやマン・レイ、ハンガリーからの移民アンドレ・ケルテスやロバート・キャパといったところだが、なによりニューホールにとって重要だったのは、彼が近代写真の父と位置付けたアルフレッド・スティーグリッツだった。『写真の歴史』の初版の扉には「スティーグリッツへ」と献辞が明記されているし、ニューホールの妻・ナンシーはその後、スティーグリッツを評価したイギリス人写真家ピーター・ヘンリー・エマーソンの研究に生涯を捧げるのだから、いかにニューホール夫妻にとってスティーグリッツが近代写真の中心人物だったのかが浮かび上がってくる。ユダヤ系芸術家の積極的な評価は当時の芸術批評に携わった知識人たちの特徴ともいえるだろう。

ニューホールの退任後、第2代チーフ・キュレーターに就いたのはかつてファッション写真界で華々しい成功をおさめた、あのエドワード・スタイケンである。スタイケンは戦後のヒューマニズムを取り戻すべく、1955年に「ザ・ファミリー・オブ・マン」という展覧会を企画する。この展覧会は民族や人種、宗教を超えて、人間の生から死にいたる運命はみなに平等だということを示した展覧会だった。まさに、戦争の大義をヒューマニズムという普遍的テーマで乗り越えようという、写真の記録性を存分に生かした展覧会となった。日本では「人間みな家族展」などと訳され、いまにして思えば陳腐な翻訳にも思えるが、この展覧会の本質を捉えた訳であることには違いない。こうして、ニューヨーク近代美術館は戦後の人権意識を展覧会にも反映させていったのである。

そんな大仕事を成し遂げた前ふたりの後任として、1962年に3代目のチーフ・キュレーターになったのが、シャーカフスキーだった。彼にとって、ニューホールとスタイケンの仕事は乗り越えるべき壁とも、写真の歴史に新たな1ページを書きくわえる聖典ともなった。歴史の中で「ザ・ファミリー・オブ・マン」と「ニュー・ドキュメンツ」展は幾度となく比較されてきたが、シャーカフスキーにとって、世界戦争の大義の対極にあるヒューマニズムに根ざしたドキュメントを乗り越えたいという意識があったのは、あの展覧会が「新たなドキュメント」と名付けられたことからも明らかだろう。

かくして「ニュー・ドキュメンツ」で取り上げられたフリードランダー、ウィノグランド、アーバスが3人ともユダヤ系アメリカ人だったという事実は必ずしも意図したわけではないだろうが、アメリカによる戦前からのユダヤ系移民の受け入れ、戦後アメリカにおけるユダヤ系芸術家の積極的な評価が実ったひとつの必然的な結果だったということはできるだろう。いわば、シャーカフスキーは、ニューホールの『写真の歴史』という聖典があったからこそ、パーソナルな視点をもった(しかもユダヤ系アメリカ人による)ドキュメンタリー写真を、個人の趣味と捉えられることなく評価することができたのである。

ときに、フリードランダーのことを調べていくと、彼が「すぐれた写真家はユダヤ人でなければならない」と言ったという逸話にしばしば出合う。もちろん、これには半ば冗談めかしてという譲歩がつくが、まさしくウィノグランドのジョークは戦後アメリカのユダヤ系芸術家が正当に評価されたことを象徴しているだろう。

優れたファッション写真家はフィクションメーカーでなければならない

だが、ファッション・ジャーナリズム界でもアート界でもそれぞれにユダヤ系の写真家を評価する土壌が育まれていったものの、両者が積極的に交わるということはなかった。その意味でも、双方から評価されたアーバスは貴重な存在といえる。

もちろん、『ハーパーズ・バザー』や『エスクァイア』など彼女の作品を何度も掲載した雑誌が、いつも彼女のフリークスの写真を載せていたわけではない。むしろ、『ハーパーズ・バザー』にかぎっていえば、好奇の目とソフィスティケートされた読者の受けをぎりぎりのところで狙ったと思えるような写真が多い。だが、独自に撮影していた写真であれ、雑誌側に依頼されて撮影した写真であれ、1960年代のアーバスのポートレートには目立った特徴がある。それは、モデルの表情である。彼女に写された人物は、その多くがこちらを無表情に見つめている。しかしそれは、彼女に好意も敵意も見せておらず、いわんやファッション写真にありがちな蠱惑的な視線でもない(図2)。

図2 『ハーパーズ・バザー』1962年9月号(ダイアン・アーバス撮影)

このモデルたちの視線は、のちに「ニュー・ドキュメンツ」展の展覧会評においても、アーバスが好奇の対象としてフリークスたちを見ているのではないと評価される大きな材料になっていく。たとえば、マリオン・マギッドは『アーツ・マガジン』誌のレビューに次のように書いている。

 この展示は、隠されたものや風変わりなものに重点を置いているため、第一に、犯罪的とはいえ、見世物の永遠の魅力を帯びている。人はまず、生涯「見ないで」と教えられてきた禁断のものを「見たい」という渇望から始まる。異性装者のコーヒーテーブルに置かれた雑誌のタイトルを罪悪感に苛まれながら覗き見し、ヌーディストのテレビの上に置かれた家族写真(これもまた裸であることが判明する)を必死に読み取ろうとする。

 やがて逆転が起こる。誰もが一度は見たことがあるだろう、身近な人の眠る顔を見つめ、その異様さに気づいたときの感覚のように、無罪で眺められるものではない。一度見てしまい、目を背けなかった時点で、我々は共犯者となる。小人症の人や異性装者の視線と出会ったとき、写真と鑑賞者の間で取引が成立する。一種の癒しの過程において、我々はあえて見たという行為によって、その犯罪的な衝動から解放されるのだ。写真が我々の視線を許すのだ。結局のところ、ダイアン・アーバスの芸術の偉大な人間性は、一見侵害したように見える私的領域を聖域化することにある。4

いわば、『ハーパーズ・バザー』は「ニュー・ドキュメンツ」展よりも前にアーバスの才能に着目していたということになるが、一方ではそのヴィジュアル・スキャンダリズム的な要素をファッション誌という大義で薄めて彼女の写真を掲載していたということになろう。実際、ファッション誌-ライフスタイル誌-一般誌と、ファッションから遠ざかるほどに、アーバスの写真は見物的要素が強くなっていく傾向が認められる。ファッション誌では掲載を見送られた写真があることもわかっており、そうしたファッション誌側の対応はウィリアム・クラインやロバート・フランクも辿った道である。ではなぜ、彼ら/彼女ら以外にファッション写真と「社会的風景」の写真家たちの間に接点が生まれなかったのだろうか。それは、アートとしての写真のあり方が変わっていっても、ひとえにそれがドキュメンタリーだったことにあるだろう。いいかえれば、虚構であればあるほど輝くファッション写真と、真実性を立脚点にしたドキュメンタリーは本質的に相性が悪い。それ以前にジャーナリズムやドキュメンタリー写真の分野からファッション写真界と関係を結んだ写真家を振り返ってみても、ファッション写真に動きをもたらしたマーティン・ムンカッチや、口当たりのいい絵画的な構図を得意とするアンリ・カルティエ=ブレッソン程度だった。

つまるところ、ファッション・ジャーナリズム界は写真家たちに新たな才能や表現を求めながらも、「エデンの東」で起こっていたこととはかけ離れた世界を突き進んでいく運命を辿らざるを得ない状況だったといえるだろう。ファッション写真の世界で優れた写真家の資質とはなにか。それは、すぐれたフィクション・メーカーであることにほかならない。

「ニュー・ドキュメンツ」展から約10年の歳月を経て、シャーカフスキーは1978年に企画した「鏡と窓-1960年以降のアメリカ写真」展を企画する。彼はそのカタログに寄せた文章を、「アメリカ写真の全体的な動向は公的な関心からプライベートな関心へと移った」と述べることからはじめ、「半世紀前の最高の写真はスティーグリッツ」であるだろうとして私的なドキュメンタリー写真を相対化することになるだろう。これは、アメリカにおける近代写真と現代写真の分水嶺をはっきりと示し、いうなればニューホールの歴史観を乗り越えてみせたというシャーカフスキーの宣言にほかならない。

だが、そうした1960年代以降の写真の傾向をファッション写真の側から考えてみたとき、私的なドキュメンタリーとしてのファッション写真など成立するのであろうか。むしろ、ファッション写真と写真芸術の境界は、より広がっていくことにはならないのか。おりしも1970年代に入ってファッションが自己表現、あるいはゲームの様相を呈していくと、ファッション写真家たちの虚構性虚構の表現もまた、多様なものになっていくのである。


  1. 日高優『現代アメリカ写真を読む デモクラシーの眺望』青弓社、2009年、pp. 127-128。 ↩︎
  2. Sarah Hermanson Meister ed., Arbus Friedlander Winogrand: New Documents, 1967, The Museum of Modern Art, New York, 2017, p. 1. ↩︎
  3. Max Kozoloff, “New Documents Revisited,” Arbus Friedlander Winogrand: New Documents, 1967, p. 22. ↩︎
  4. Marion Magid, “Diane Arbus in New Documents,” Arts Magazine, April 1967, p. 54. ↩︎
打林 俊

打林 俊

写真史家、写真評論家。
1984年東京生まれ。2010-2011年パリ第1大学招待研究生、2014年日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。博士(芸術学)。2016〜2018年度日本学術振興会特別研究員(PD)。主な著書に『絵画に焦がれた写真-日本写真史におけるピクトリアリズムの成立』(森話社、2015)、『写真の物語-イメージ・メイキングの400年史』(森話社、2019)、共著に“A Forgotten Phenomenon: Paul Wolff and the Formation of Modernist Photography in Japan”(Dr. Paul Wolff & Tritschler: Light and Shadow-Photographs 1920-1950, Kehrer, 2019)、「アンリ・マティスの写実絵画不要論における写真をめぐって」(『イメージ制作の場と環境-西洋近世・近代における図像学と美術理論』、中央公論美術出版、2018)など。
2015年、花王芸術・科学財団 美術に関する研究奨励賞受賞。