綺想とエロスの漫画史

12 上村一夫論【中篇】 猟奇とフェティシズムの百科全書——『悪の華』の反自然的衒奇趣味

後藤 護

時代が退廃、酩酊の美学を過剰に抑圧し、経済性の法則を無軌道に主張する時、遊びの領域は静かに、その魔術的な光輝を強靭なものとする。

平井倫行「刺青の栞」第28回

江戸川乱歩を経由した「きれいな猟奇」の世界

「きれいな猟奇」——これは、デイヴィッド・リンチをはじめとする90年代ダーク映画群を、(東京藝術大学の卒論テーマに瀧口修造を選んだ)映画批評家の滝本誠が「オブジェ」と「フェティシズム」を切り口に論じた本のタイトルなのであるが、この言葉ほど、上村一夫劇画・岡崎英生原作の『悪の華』の美意識を説明する言葉も他にない。黒髪流華道の家元・花矢木蘭之助が、自らの異常な欲望を満たさんがために繰り広げる「美女狩り」。そして、そこで毒花を咲かせた変態性欲の数々を描く本作をして、「きれいな猟奇」以外の適切な形容が思い浮かばない【図1】。

図1 「そもそも華道などというものは存在しない!……花を活けるに《道》などありはしない」と豪語する花矢木蘭之助が、鋭いトゲのついた薔薇を女陰に活ける「薔薇刑」。エビ反りになる女、優雅に両手をクロスさせる蘭之助の織りなす奇抜な構図は「きれいな猟奇」そのもの(上村一夫絵、岡崎英生作『悪の華』まんだらけ出版部、2012年、62-63ページ)。

前回扱った『怨獄紅』でおどろおどろしい情念的世界を見せつけた上村は、江戸川乱歩の妖美を表現するのに適任と編集部から考えられたのだろう、『漫画ベストセラー』(ワニマガジン)の1973年7月6日号から同年8月17日号まで、4回にわたって乱歩原作「パノラマ島奇談」を連載することになる。そういえば、かつて『WAVE 12号』の「廃墟庭園」特集で、今野裕一が「竹中英太郎の挿絵にこよなくひかれてイラストレーターになろうとした上村一夫」(「水の墓標」)と書いていて、そういった直接の影響関係は聞いたことがなかったので驚いたのだが、事実か否かはさておき、乱歩の挿絵で名高い英太郎と上村を紐づけて考えたのは、この「パノラマ島奇談」連載が今野の念頭にあったからかもしれない。夢二や雪岱の継承者として上村を見る正統な見立てではなく、あえて竹中英太郎の継承者と「誤読」することで、猟奇とデカダンスという、上村のじつは得意としたオルタナティヴな面が浮かび上がってくるかもしれない。

さて、上村描く「パノラマ島奇談」であるが、「花弁の湯」と名づけられた巨大な人工花弁の中心から、夜空に毒々しい花火が打ちあがる様を眺めるラスト近くのシーンは、『怨獄紅』で鍛えられた猟奇に、さらにスペクタキュラーで崇高な風景が加わった「きれいな猟奇」が発明された瞬間だった【図2】。

図2 広介の生首が、夜空に浮かび上がる蜘蛛や百足のグロテスクな花火を見上げる。上村のピクチャレスク美学はここに極まった(『江戸川乱歩妖美劇画館 vol.Ⅰ パノラマ島奇談/地獄風景』少年画報社、2015年、106-107ページ)。

『悪の華』はいわば、『怨獄紅』で達成したおどろおどろしい情念的世界に、乱歩を通過することで凝りに凝った人工的猟奇の美まで加わった、上村の新境地と解釈できるであろう。

その『漫画ベストセラー』の休刊後、同誌がエロスを特化して新装刊したのが『漫画エロトピア』(ベストセラーKK)だ。70年代末のいわゆる「三流エロ劇画」ブームの起爆剤となった同誌に、上村一夫は1974年に前哨戦として「淫婦変幻」「煉獄の少女」「陰獣の湖」の三本の短編(前2作は岡崎英生・原作)を掲載。それに続く、満を持しての長編連載作品が『悪の華』だった。当初つけられたキャッチコピーは「猟奇犯罪地獄絵詞」。

悪名高い『女犯坊』と二枚看板として人気を競い合った作品なのだが、東映の「異常性愛路線」を地でいく(?)ふくしま政美&滝沢解コンビのアナーキーな男汁垂れ流し系エロ劇画になかった要素が、先述した「きれいな」という形容句なのである。「きれいな猟奇」とは、ある意味で矛盾形容なのであるが、僕の文脈で言うならば、両者を兼ね備えてこそマニエリスム・アートなのであり、上村・岡崎のゴールデン・コンビはその域にまで達していた。

『血と薔薇』という名のコドモノクニ——澁澤龍彥文化圏

黒髪流華道は日本の津々浦々に支部をもつ、美女誘拐と違法薬物製造のための悪の一大組織(シンジケート)になっていて、物語は冒頭、家元・花矢木蘭之助が834人の美女を「淫楽殺人」したかどで、裁判の被告席に立たされるところから幕を開ける。法廷を挑発する蘭之助のふるまいといい、この時点で、「サド裁判」で一躍時の人になった澁澤龍彥(わざと遅刻して法廷を挑発)の姿を限りなく連想させるのであるが、たしかにこの劇画作品を埋め尽くす「きれいな猟奇」の数々は、「エロティシズムと残酷の綜合研究誌」を謳った澁澤責任編集の雑誌『血と薔薇』に現れた毒々しい(しかし「きれいな」!)ヴィジュアル群と重なるところが多い。澁澤文化圏と上村作品を結び付けたいがため、早口になりそうなのを必死に抑え、まずは第2話「淫花帝国」の、黒髪流華道の起源を語った以下のテクストをお読みいただきたい。

室町時代も終末に近い頃 将軍・足利義政は 京都東山に山荘を開き これを銀閣と命名した・・・・・・・・時すでに足利幕府は衰退期をむかえ もはや諸将を制し得ず 各地に頻発する土一揆を抑圧する力もなかった しかし義政は乱世をよそに この山荘においてぜいたくと風流とに明け暮れた もはや世の中を統治する力を失った将軍は ただ単に孤独な「美」の主宰者としてのみ君臨したのである かくしてこの東山の地を中心に花開いた著しく現実逃避的・退嬰的な文化を「東山文化」と称する 「能」「茶道」「連歌」「庭園」など 日本の伝統芸術の多くはこの東山文化の遺産である

(岡崎英生作、上村一夫絵『悪の華』まんだらけ出版部、2012年、36-37ページ)

まさに、東山文化の現実逃避のデカダンスにこそ、黒髪流華道(というか『悪の華』という作品)の起源があることが明示される。とはいえ、こういった政治嫌悪・現実逃避の退廃は、なにも東山文化に限られたことではなく、近現代にとこしえに流れる裏精神史なのである。宗教戦争はなはだしきころのヨーロッパ、政治そっちのけで錬金術の怪しげな研究に明け暮れ、アルチンボルドのようなマニエリスム綺想画家を宮廷に抱え込み、国家を完全に傾かせた神聖ローマ皇帝・ルドルフ二世(※荒俣宏が一国の王になったと考えて差し支えない!)であるとか、戦争の惨禍を一度も目撃することなく趣味人活動に没頭した我楽他宗の三田平凡寺であるとか、パンクロックのマッチョでアクチュアルでポリティカルな面に辟易した若者が、18世紀ゴシック・ロマンスの貴族的な暗黒耽美を新たな意匠で蘇らせたゴスロックであるとか、政治に対する遊び・趣味・デカダンの優位を説いた「美のアジール」は歴史上、数限りなく存在する。「歓楽の前には国家なし」や「国が滅びても支那料理は滅びない」などの名言を残した後藤朝太郎『歓楽の支那』(1925年)と同じデカダン・マインドをもった男こそが、花矢木蘭之助なのである。

長い前置きになったが、この風狂のダンディズムの系譜に『血と薔薇』も属する。1968年という「政治の季節」に刊行がはじまったとは思えない、(澁澤や手塚治虫が幼少期に読んだという)戦前雑誌『コドモノクニ』にも通じる幼児退行的スタンスに関して、寄稿者の一人であった種村季弘が鋭く指摘している。

あんな全共闘世代の(その裏の経済界の)成長幻想の跋扈するなかで、成長を拒否して、子供部屋の玩具オブジェに熱中してたようなものなんですから

(種村解説「コドモノクニあるいは「血と薔薇」の頃」、『血と薔薇 コレクション1』河出文庫、2005年、433ページ)。

『血と薔薇』を中心に「もうひとつの1968年」が見えてこないだろうか? 思えば石井輝男の「異常性愛路線」が『徳川女刑図』によって幕を開けたのも1968年だったのであり、「政治の季節」のパトスの裏側にはつねにスプラッターとデカダンスが——洗っても洗っても落ちないマクベス夫人の手についた血のように——こびりついていたことを、不都合な真実として抹消してはならない。70年代に入るとシラケの時代に入り、68年の裏側だったものが勝利し、表だってくる。端的にいえば、澁澤龍彥文化圏がマンガの世界に入ってくるのだ。

有名なサバトシーンは澁澤『黒魔術の手帖』が元ネタとも噂される永井豪『デビルマン』であるとか、「渋川竜彦」なる人物を登場させた諸星大二郎「夢みる機械」であるとか、ハンス・ベルメールの球体関節人形やエリファス・レヴィのバフォメット像を登場させた古賀新一『エコエコアザラク』であるとか、70年代少年マンガは強烈に冷血様式としての澁澤美学を意識していたことがうかがえる。ましてや青年向けのエロ劇画誌たるやということで、『悪の華』にも明らかに澁澤訳マルキ・ド・サドを読んで咀嚼した痕跡が見られる。思えば、上村&岡崎コンビは、すでに『夢師アリス』で、ボルヘスの「アレフ」を引用し、マニエリスム芸術の紋章たる迷宮図を出現させていたほどであり、澁澤的な幻想文学趣味はすでに濃厚であった【図3】。

図3 キューブリック『シャイニング』に先駆ける「迷宮としての世界」の出現。第四章「アリス町アリス小路13番地——或るいは「養殖アリスの作り方」——」はもっとも澁澤龍彥的な趣味がにじみ出ているカルトな逸品(上村一夫/画、岡崎英生/原作『夢師アリス(上)』愛育社、2004年、146-147ページ)

さて、ここからは、進歩も発展もない、ただひたすらに人を驚かせ、陶酔させることを目指した「きれいな猟奇」のコレクションとして、『悪の華』を「遊ビノ相ノモトニ」(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』)眺望してみよう。

猟奇とフェティシズムの百科全書

まずもって目を奪われるのは、地下の拷問部屋で、吊るし上げた女から滴り落ちた血をためた真っ赤な風呂につかる、蘭之助のあでやかな姿であろう。上村構図と言っていいほどに頻出する俯瞰ショットが効果的に用いられているのに加え、モチーフ的には「血の伯爵夫人」エリザベート・バートリを換骨奪胎したものになっている【図4】。

図4 日本の耽美系ブラックメタルInferior Wretch がエリザベート・バートリに捧げたアルバム『Dedicated to the Blood Countess』を聴きながら読むことを推奨するシーン(前掲『悪の華』、42-43ページ)

こうした拷問趣味は、第19話「血の十字架」でよりエスカレートする。乳房をハサミで切り取られた「聖女アガタの殉教図」を美術館で見て、蘭之助夫人の小百合は股間をびしょびしょに濡らし、トイレに駆け込みオナニーに耽り、エクスタシーを迎え、さらには生理の血を流す【図5】。

図5 『血と薔薇』創刊号に澁澤が寄稿した名エッセー「拷問について」の言葉を借りるならば、「苦痛と快楽の相似」が上村によって見事にヴィジュアライズされている(同前、562-563ぺージ)

帰宅した小百合に対して、蘭之助は「あれは女の乳房を切り取るためにだけ発明された鋏なのだ」と煽り、キリスト教絵画の機械仕掛けのエロスの側面——すなわち澁澤龍彥が有名にした「独身者機械」(ミッシェル・カルージュ)の倒錯——を教え込む。

そして同じく19話では、拷問図に興奮した小百合への懲罰(ご褒美?)のような形で、蘭之助は夕飯のおかずやらスープやら、テーブルの上にある食物をすべて、彼女の裸体にぶちまけ、額に経血で十字架を描く【図6】。

図6 アーメン・ラーメン・ザーメンがごったまぜ(メッシー)になったような悪の三位一体(同前、586-587ページ)

これは菊地成孔がデビュー作『スペインの宇宙食』で有名にした、性的フェティシズムの一つ「メッシー」であろう。菊地いわく、

MESSYとは名詞のMESSから来てますが、メスは元々、乱雑。ぐちゃぐちゃであること。という意味が、会食、という風に転じて、さらに転じて一皿の犬の餌(ここが「一言の伝言」という風に延びたのが「メッセージ」です)とか不味い流動食。という意味がありますが、メッシー系の人々の中ではマッド派(泥。など、非食物で汚す)とフーズ系(食べ物で汚す)に大別され、宗教的倫理観から食べ物を粗末に出来ないマッド派(フェチに宗教倫理も何もないじゃないか。などとヤボなことはおっしゃるなかれ)の人々がボディ・ペインティングやプリミティヴ・ボディ・アート(民族的な身体装飾)に近接するような芸術的な暗さと芳香を持つのに比べて、語源に忠実で開放的なフード派の人々は明るく野放図で、クリーム、パイ、シチュー、チリコンカン、ゼリー、等など、あらゆるドロッとした食べ物を頭からぶっかけて(しかも何種類も次々と)ゲラゲラ笑いながらセックスやオナニーをするのです。

(菊地成孔『スペインの宇宙食』小学館、2006年5刷、72ページ)。

蘭之助は食べ物を粗末にする反SDGsの「フーズ派」メッシーということになるだろう。言ってしまえばバタイユの「蕩尽」の思想がここには実現されているのであり、ニック・ランドの言葉を借りれば、蘭之助の哲学は以下のようになる。

過剰性や剰余性はつねに、生産や仕事や真面目さや交換や欠乏に先行する。必要性とはけっして所与のものではなく、奢侈性の側から構築されていかなくてはならないものなのだ。生の根源的な任務は、生産や生存にあるのではなく、そのなかに注がれていながら堰きとめられている富の——つまりエネルギーの——洪水を使い尽くすことにある。

(ニック・ランド『絶滅への渇望 ジョルジュ・バタイユと伝染性ニヒリズム』五井健太郎訳、河出書房新社、2022年、84ページ)

834人の美女殺しから世間の目を逸らすため、総理大臣に何でもいいから戦争をおっぱじめろと唆し、「滅びゆく世界をこの手で抱きしめてやるぞ!!」と豪語する蘭之助は、いまふうにいえばニック・ランドふう加速主義者なのである(『幽☆遊☆白書』における左京)。

性的倒錯コレクションはなおも続く。蘭之助が蒐集した美女どもは、少量ずつヒ素を飲む訓練をさせられている。もちろん猛毒であるが、少量からはじめて少しずつ量を増やしていくと、致死量以上を飲むことができるようになる。これによって女たちの体には致死量以上の毒を含むことが可能になり、交接した相手を死に至らしめることができるのだ。かなり突飛な綺想にも思えるが、神山重彦『物語要素事典』(国書刊行会)の「毒」の項目を引くと先例が存在すると分かる。中世ヨーロッパに広く流布した『ゲスタ・ロマノルム』のなかに、「毒で育てられた美女」の逸話が出てくるのだ。

「北国の女王が、姫を、生まれた時から毒で育てた。姫はたいへんな美女となり、女王は姫をアレキサンダー大王のもとへ送る。アレキサンダーは美しい姫を見て、「一緒に寝たい」と思う。アリストテレスがそれを止め、死刑囚を呼んで姫に接吻させる。死刑囚は即座に倒れて死んだので、アレキサンダーは姫を北国へ送り返した」。さて、この毒入り娘によって野党の政治家を暗殺するのだが、そのときのキャプションがふるっている。「革命思想家といえども女には弱い ちゃんとクンニリングスなどもやってしまう どうしてかと言うと こういう事はイデオロギーとは関係ないのだ」。中核派に対する陰核派の優位!

第17話「女陰物理学」では、秘薬で小百合を眠らせた蘭之助は、彼女の女陰をひたすらカメラマンに撮影させる。そしてその晩、その写真に分度器やコンパスをあて、彼は小百合の女陰の正確なサイズを測定するというダイダロス的変態行為を成し遂げる【図7】。

図7 工匠ダイダロスによる「女陰物理学」のエロス!(同前、506-507ページ)

これは、実は山下洋輔&筒井康隆によって創設された「全日本冷やし中華愛好会」のメンバーだった岡崎英生が、『空飛ぶ冷し中華』(住宅新報社)に寄稿したニセ方程式だらけのエセ論文「初等「冷し中華物理学」」と同じ手法で書いた、科学的方法の厳密さを嗤う悪趣味なパロディーである。とはいえ、パロディーであるにせよ、大阪大学大学院理学研究科物理学専攻の博士前期課程の入試説明会ポスターの惹句「物理とわたし どっちが大事なの!?」という切実な問いに対する、完全なる答案用紙こそが女陰物理学であることに変わりはない【図8】。

図8 「物理とわたし(女)」は相反するものではないことを女陰物理学が証明する。

さておき、その写真の膣口に拡大レンズをあて、目を凝らしているうちに、「夢の国が見える!……お母さま!」と言って、蘭之助が母胎回帰を果たす幻想的なシークエンスが肝要なのだ【図9】。

図9 母胎回帰する蘭之助(同前、508-509ページ)

2001年ヴァギナの旅(?)を通じて、蘭之助は幼少期の記憶へと遡行する。彼の母は、幼いころから、自らのヴァギナを子どもに観察させる英才「狂」育を施していた。嫌がる蘭之助の襟首を父親がつまみ上げ、「わしなぞは三歳頃から母上の花をおもちゃにして遊んだものだぞ」と言って、また母のヴァギナの前に差し出す。そして、象徴的なシーンが現れる。母親のヴァギナをいやいや覗き込んだ彼は、その奥に荒れ狂う海を幻視するのだ!【図10】 

図10 精神分析医サンドール・フィレンツィの言う「タラッサ的退行」(同前、514-515ページ)

三好達治が歌ったように、漢字の「海」には「母」という字がふくまれており、フランス語のmère(母)にはmer(海)がふくまれているのだった。

もっとも猟奇を感じさせるフェティシズム、すなわち人間の皮膚でできたランプシェードという死物(オブジェ)も見逃せない。この背徳の帝国で、蘭之助に弄ばれて命を落とした美女たちは、その皮膚を廃品利用される形で、死後も弄ばれるのだ【図11】。

図11 人間のなめし皮でつくられたメメント・モリなランプシェード(同前、424-425ページ)

作中ではユダヤ人捕虜収容所長夫人のイルゼ・コッホの所業を真似たものと説明されるが、殺した人間の皮膚でインテリアを飾っていた変態殺人鬼エド・ゲインを連想する向きもあるだろう。

そして、とうとう変態性欲の金字塔(?)とでもいおうか、本作でもっとも衝撃的といってよいヴァギナ・コレクション(女陰収集)が登場する。蘭之助は、これまで誘拐した美女たちを、犯し、弄び、殺し、最終的にヴァギナを切除し、瓶詰めにして保存していた【図12】。

図12 色も艶も一つ一つ異なるヴァギナの驚異博物館。『淫花伝2 高橋お伝』で、上村一夫はふたたびホルマリン漬けのヴァギナを描くことになる(出典:『悪の華』、328-329ページ)

アレハンドロ・ホドロフスキー監督『ホーリー・マウンテン』(1973年)に出てくる英雄アクソンが、1000個にも及ぶ睾丸コレクションを保持していたことに匹敵する「奇想の陳列部屋」(パトリック・モリエス)であろう。

「これだけあってひとつとして同じ形のものはないのだからね まったく造花の妙[原文ママ]というものだよ!」とは蘭之助の言だが、この発言にはマニエリスム的コレクターのいびつな精神が要約されている。リベラリズムは「みんな違って、みんな良い」の精神で多様性に寛容なのであるが、マニエリスムは「みんな違って、みんな変」(みうらじゅん)の精神で多様性それ自体に熱狂するのである。良き社会を目指そうとか大それたことを言うのではなく、歯止めなき好奇心がただひたすら逸脱を繰り返すのがマニエリストであり、社会がどうなろうと知ったことか、それよりもヴァギナの百態こそ肝要なのだ!という「堂々たる無責任」(オスカー・ワイルド)にこそ特性があるのだ。まさに、ここまで『悪の華』に現れる猟奇とフェティシズムを、次から次へと飽きもせず紹介してきた僕の手つき自体がマニエリスティックな好奇心のなせる(悪)業だとも言え、種村季弘の言葉を借りればこうなろうか。

マニエリストのフェティシズムは百科全書的である。珍奇なもの、極端なもの、例外的なものを好み、月並みなものや自然らしさを嫌うマニエリストは、フェティシズムの領域でも、驚異をもとめてつぎつぎにコレクションの数を殖やしていく。

(種村季弘「マニエリスムの倒錯」、『血と薔薇3 特集:愛の思想』天声出版、1969年、ページノンブルなし)

岡崎&上村コンビによるフェティシズムの百科全書的コレクションは、『悪の華』以降も留まることを知らず、『淫花伝2 高橋お伝』では、身体中に蚕の幼虫を這わせ、血を啜らせることで恍惚の表情を浮かべる、お伝のエクストリームな性癖が描かれるに至る【図13】。

図13 蚕に血を啜られて恍惚に至る、世にも稀な性的倒錯(上村一夫/画、戸川昌子/原作、岡崎英生/脚色『淫花伝2 高橋お伝』K&Bパブリッシャーズ、2005年、92-93ページ)

最後に、「きれいな猟奇」という冒頭のフレーズに回帰しよう。それは蘭之助の叔父である花矢木大雪の家にある、謎めいた女体串刺しオブジェにもっとも感じ取れる【図14】。

図14 江戸川乱歩にも通じる猟奇的なオブジェ(前掲『悪の華』、484-485ページ)

とりわけ左側の、切断された女体のパーツが、殺風景な木に「活ける」ように配置されたオブジェは、ゴヤの版画集『戦争の惨禍』のなかの一枚「立派なお手柄! 死人を相手に!(Grande hazaña! Con muertos!)」の悪辣なパロディーにも見えるし、チャップマン兄弟のゴヤ3Dリメイク《Great deeds – Against the dead!》(1994年)にも通じるグロテスクさをもっているようにも見える【図15・16】。

図15 ゴヤの版画集『戦争の惨禍』のなかの一枚「立派なお手柄! 死人を相手に!(Grande hazaña! Con muertos!)」
図16 チャップマン兄弟《Great deeds – Against the dead!》(1994年)

「性的欲望は、相手の身体から、その衣服とともにその運動をも取り去って、この身体を単なる肉体として存在させようとするひとつの試みである」と言ったのはサルトルであるが、その路線を誇張気味に押し進め、マニエリスム・アートは女体を極端に客体化し、凝固させ、美しい死物(オブジェ)に変容させてしまう魔力をもつ。花矢木大雪の女体串刺しオブジェに、僕はまったく肉欲を刺激されることはない。しかし、きれいとは感じる。ここで成立しているのは、「女の肉体と、性的欲望にとっては無意味にひとしい任意の物体とが等価になるようなあるパースペクティヴの発見を通じて、性的欲望そのものの消滅をはかろうとする企て」(種村季弘「マニエリスムの倒錯」)なのである。『黒髪流華道奥義』が説く、「花と女は相似たるものにて候 花は虐待すべし!」の教えとはまさにそういうことだったのだ【図17】。

図17 「花と女は相似たるものにて候 花は虐待すべし!」とは、種村季弘「マニエリスムの倒錯」の論理では以下のように説明される。「女と物体の同一視は、その性的アナルシーの只中で、外見上の恐怖の相にもかかわらず、あらゆる物体が女のようにエロティックであるという、驚くべく多様で豊富な生命体験を生み出すであろう。かくしてたとえば、「宝石は女体のようにエロティックである」は、「女体は宝石のようにエロティックである」の、パラドキシカルな同義語反復となるのである。マニエリスムのエロティシズムが、フェティシズムや、スコプトフィリアや、サディズムや、ネクロフィリアや——要するに性的対象をもっぱらひとつの物体(死物)へと還元しようとする性的偏奇性に貫かれているのも、右の理由からにほかならない」(前掲『悪の華』、98-99ページ)。

やはり上村が一度、乱歩文学に足を踏み込んだことが、『悪の華』にとって大きかっただろう。「有毒な脳髄作用の介入によって人工的、反自然的衒奇趣味の悪しき色彩にいろどられたマニエリスムの官能性は、かくて倒錯美の冷たい肉を鎧うにいたるのである」(種村、同前)という言葉こそ、『悪の華』の「きれいな猟奇」の正体なのである。

後藤 護

後藤 護

暗黒綺想家。blueprintより新刊『悪魔のいる漫画史』が刊行(表紙画:丸尾末広)。『黒人音楽史 奇想の宇宙』(中央公論新社、2022年)で第一回音楽本大賞「個人賞」を受賞。その他の著書に『ゴシック・カルチャー入門』(Pヴァイン、2019年)。未来の著書に『博覧狂気の怪物誌』(晶文社、2025年予定)、『日本戦後黒眼鏡サブカルチャー史』がある。著者近影は駕籠真太郎による。