綺想とエロスの漫画史

06 バタイユを生きた激飢餓家——宮谷一彦『性蝕記』と裏切者のイデオロギー【中篇】

後藤 護

性をモチーフにしたマンガを語らないマンガの歴史は偽物なのである。

米澤嘉博

サトゥルヌスの徴候——「性葬者」

フランスのマンガ出版社Lézard Noirから刊行された宮谷一彦の作品集『Sexapocalypse Anthologie』は、単行本『性紀末伏魔考』(青林堂、1973年)が丸々一冊収録されているのに加えて、単行本『性蝕記』(虫プロ、1971年)から「霧中飛行者の嘆息」「性蝕記」「性葬者」「日食」「輪舞」の5作品が収録されている。これらにこそ宮谷デカダンスのエッセンスが凝縮されていることは紛れもなく、中篇・後篇はこの2冊をベースに議論していく。

政治運動の退潮とシンクロするように、1970年以降の宮谷作品には性的デカダンスの色が濃厚になっていく。その端緒となったのが「性葬者」(初出『ヤングコミック』1970/3/24)であろう。タイトルページに「’70 milestone     」(1970年の道標)と記された本作は、宮谷が新たなフェーズに突入したことを端的に物語っている。主人公の不良高校生がセックスをしている場面から物語ははじまる。お相手は担任の女教師。一部始終を覗き見ていた義母に対して、コンドームをつけた剝き出しの下半身をあらわにしながら彼女を誘惑し、そのまま性交に至る。誰かを殺すためにマシンガンを手に入れようと米兵に体を売りさえする無軌道な人生。おまけに自らの精液をコンドームから絞り出し、それをメスシリンダーに保存するという腐乱したナルシシズムも垣間見える【図1】。


図1 豊穣と肥沃のシンボルであるはずの精液は有機的大地から切り離され、メスシリンダーのなかで冷然と管理される単性生殖願望へと退行している。錬金術師のホムンクルス製造願望まであと一歩 (宮谷一彦「性葬者」、『性蝕記』虫プロ、1971年、163ページ)。

『ライク ア ローリング ストーン』にあった政治的パトスはここでは見る影もない。『ヤングコミック』担当編集だった岡崎英生によれば、

「性葬者」では「太陽への狙撃者」にあったような革命への夢や憧れはもはや語られない。宮谷のこの劇画にあるのは、社会を変えたい、変えられるかもしれないという夢を喪失した後の虚無感と脱力感であり、それゆえに少年は無軌道な生活に走っている。担任の女教師とも義理の母親とも、高校のクラスメートの女生徒とも、さらには男である米兵とも寝てしまう。連帯とか団結とかいったものが信じられなくなった後では、対人間の関係はこのように組織から個人へと移り、しかもその関係のありようも最も原始的で根源的な性というレベルに降りていくしかないのだ

岡崎英生『劇画狂時代 「ヤングコミック」の神話』飛鳥新社、2002年、127ページ

主人公の部屋には、死んだ蝶の剥製、瓶詰めされた死んだ魚、時間の止まったアンティーク時計が山積している【図2】。

図2 セックスは部屋の天井から俯瞰されるよそよそしい描き方であり、女性教師は蝶の標本や壊れたアンティーク時計の蒐集品に囲まれ、死んだオブジェたちと等価に見える(宮谷一彦「性葬者」、『性蝕記』150-151ページ)。

宮谷の青春劇画を貫いていた瑞々しい感性はここでは死滅し、死体性愛的なオブジェの世界に退行していることがわかる。クラスメイトとの野外セックス後、女子学生は振って泡立てたコカ・コーラを子宮に突っ込んで避妊するのだが、そこでは壊れた時計と瓶詰めされた魚のイメージがグロテスクに重ね合わされ、愛の豊穣さは冒涜されている【図3】。

図3 「カチャカチャ」というマシナリーなオノマトペによってピストン運動があらわされ、射精は船の吹き上げる蒸気によって隠喩される。壊れた時計、瓶詰めのグロテスクな魚、子宮に差し込まれるコーラ瓶など、「独身者機械」(ミッシェル・カルージュ)の呪われたエロスが全コマに充填されて死臭を放っている(宮谷一彦「性葬者」、『性蝕記』158ページ)。

銃を渡すという約束を反故にした米兵を殺すつもりで振りかざしたナイフを、主人公は最終的に自らの腹に突き立てる。『家畜人ヤプー』を読みながら授業中にオナニーする「三島」というクラスメイトの存在から分かるように、この切腹行為は三島由紀夫のアンダーグラウンド映画『憂国』(1966年)を戯画化したものと思われる(この作品は三島事件の前に描かれている)。しかし『憂国』の苛烈な死に際とは程遠く、彼は死ぬことなく、腹にためらい傷のような情けない手術痕を残したまま、変わらず米兵とのアナルセックスに汗を流す。その目は死んでいる。「出口なし、出口なし」というサルトルの言葉を反響させた主人公の叫びは悲痛だ【図4】。

図4 宮谷一彦「性葬者」、『性蝕記』164ページ。

「行動のない時、不安がそこにある」というジョルジュ・バタイユ『有罪者』の箴言がこの作品を貫いている。しかし行動からの撤退が、宮谷をマニエリスムに接近させたのは事実であろう。G・R・ホッケいわく、

最後の世界公式をもとめるあくなき努力に対応するものはたえざる挫折という仮借ない帰結である。そこからすぐれて(パール・エクセランス)サトゥルヌス的な欠陥である憂鬱と懐疑が生じてくる。懐疑! 懐疑は生き生きとした象徴の発生をそれが生れ出る寸前に阻止するのだ。ひとは生成を知性の集光レンズに捕え、かくすることによって、魔術的真理を燃え上がらせようとする。だが生成はダイダロスの機巧-芸術を拒む。ディオニュソスはダイダロスの機械-芸術の輪郭づけようとする攻撃をたえずすりぬけ、かくて救済的世界-形式と開放をもたらす世界-公式を希求するダイダロスにとって世界はくり返し迷宮としてあらわれることになる。

グスタフ・ルネ・ホッケ、種村季弘訳『文学におけるマニエリスム 言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術』平凡社、2012年、391ページ

「憂鬱と懐疑」——生成するエロスの伸びやかな力が、工学神ダイダロスのからくりに捕捉されて阻害されるとき、宮谷のエロスは奇妙なねじれと冷たい退廃を帯びていくことになるのである。集団的「政治」運動から個人的「性事」の深淵への下降。アッキーレ・ボニート・オリーヴァがマニエリスムを指して言った「裏切者のイデオロギー」に宮谷は蝕まれていく。

[マニエリスム]芸術の追求した戦略は裏切者のイデオロギーというものにその礎を置いている。“裏切者のイデオロギー”とは“裏切られたイデオロギー”であり、すなわちそれは、破壊的な目論見の純然たる力を獲得すべく、集団の関心を表しているかのように装ったあらゆる理論の上部構造的記号が失われたイデオロギーである。[中略]裏切りとはバルテスによると集団(つまりは社会)から隔絶し、孤独の中に身を置いてその集団を外側から見つめることである。ゆえに現実を正すべく緊迫しており、しかもそれなのにその目的を成し遂げられないのだ。まさに世界から孤立しながらも世界にとって必要であり、実践に目を向けているものの、言語によるゆるぎない仲介がなければそれに身を投じるだけの能力を持ちえない。

アッキーレ・ボニート・オリーヴァ、平井敏晴訳「裏切者のイデオロギー」、後藤護+高山えい子編『機関精神史5号』2023年、142-143ページ

1968年に起爆した学生運動の熱狂、それがやがて沈静化してシラケのムードが蔓延していくなかで、時代の鋭敏なアンテナであった宮谷一彦はその影響を如実に受けてしまう。集団的政治運動から個人的なヴヰタ・セクスアリスへ。行動者から傍観者へ。成長幻想から退行願望へ——これは1968年の裏側でひっそりと進行していた、澁澤龍彥編集『血と薔薇』や石井輝男の異常性愛路線へと宮谷を接近させることになる。思えばテロリズムを描いた「太陽への狙撃者」の第二章タイトルは「血と薔薇」であった。

土星とメランコリー 「性蝕記」のマニア・マニエラ

岡崎英生が「単に“青春漫画”のすぐれた書き手と考えられてきた宮谷は、ここでひとつ、大きく、しかも激越にねじれたのである」(『性蝕記』単行本解説)と述べたように、この「ねじれ」こそが宮谷の作家性を特徴づけるものであり、それが代表作「性蝕記」(初出『ヤングコミック』1970/4/28)であった。

主人公の松崎は過激派学生のなれの果てである。好きでもない女とのセックスで気を紛らわせるも、彼女が妊娠3か月であると信じ切っており、有刺鉄線を巻き付けられたグロテスクな赤子の妄想に苛まれ、押し寄せる社会的責任に恐怖を覚えている【図5】。

図5 宮谷一彦「性蝕記」、『性蝕記』174ページ。

妊娠の件を相談するため、部屋で爆弾づくりに励む学生運動時代の旧友の家を訪ねる。旧友は「10・21のときの頭の傷はどうした。入院してたんだろ」と松崎に尋ねる。この日付は1969年10月21日の新宿駅擾乱事件を指しており、松崎がかつて過激な学生運動に身を投じていたことが明らかとなる。その家を出たとたん、巨大な爆発音が聞こえる。友人宅の爆弾が誤爆したのだ。そこで松崎はまたも妄想にとらわれる。全裸で鎖に繋がれたまま彼は尋問されており、「爆弾なんて知らない! 本当です、知りません! 僕はまじめに働いているのです。運動はやめたんです。関係ありません!」と、失禁しながら情けなく愁訴している。にっちもさっちも行かなくなった状況で、「チチシススグ カエレ」の電報を彼は受け取る。

「何はともあれ出口は出口だ」と安堵した彼は、地元の漁師町へと四年半ぶりに帰郷する。しかし、浜にできた化学工場から垂れ流された毒液が魚にしみこんで、魚を食べた妹のさちは発狂していた。それをいいことに村の若い衆たちに嬲りものにされ、ニンフォマニアと化したさちは父親との近親相姦にまで手を出していた。松崎は後ろ手にナイフを隠し持ち、さちを殺そうとするが、意志を貫徹できずに妹との近親相姦に及んでしまう【図6】。

図6 妹さちの脚が三本生えていることに気づいた詩人・川崎彰彦は卓見である。多くは語るまい(宮谷一彦「性蝕記」、『性蝕記』192-193ページ)。

腐乱した父親の死体を埋めながら、自分も魚を食って発狂してしまおう、と意志するところで物語は終わる。

岡崎英生が指摘するように、20代半ばであった宮谷が公害問題に目を向けたことは彼のアンテナの良さを示しているだろう。さらに高度経済成長下の東京と、そこから取り残され、有害物質のみを引き受けさせられる地方の対比が描かれている点でも宮谷の新境地を示すものだ(この路線は原発問題にかたちを変えて『人魚伝説』で繰り返される)。とはいえ、(廃液をあびた魚を食べて発狂してニンフォマニアとなる妹など)公害問題の描き方は現在の視点からすると度を越えたものであり、実際に後遺症で苦しんでいる人々への配慮はかけらもない。ここで強調されているのは社会問題である以上に、宮谷のオブセッションになりつつあった近親相姦や妊娠恐怖のグロテスクなイメジャリーである。ここには西山直江との同棲生活という個人史も影を落としている。三島由紀夫が『ダフニスとクロエ』を重ねながら漁夫と海女の恋愛を瑞々しく描いた『潮騒』に似た舞台をセッティングしながらも、「性蝕記」では廃液と近親相姦にまみれたおぞましいカリカチュアに変貌している。

明らかにこの時期の宮谷には、マルシリオ・フィチーノがサトゥルヌス的憂鬱症者の特徴としてあげ、マニエリスム末期には創造的個性の要因とさえ見なされた「神的狂気(Theia Mania)」の刻印がある。

「手法(マニエラ)」はしだいに「偏執(マニア)」と化してゆくが、それだけではない。芸術家は偏執的(マニッシュ)にならないかぎり真に生産的とされないのだ。芸術家の作品は、それが「精神錯乱的」になるときはじめて、芸術的に純正である。錯乱はしたがって、マニエリスム的なものの矯激な表現と化する。

G・R・ホッケ、種村季弘/矢川澄子訳『迷宮としての世界 マニエリスム芸術』岩波文庫、2011年、107-108ページ

誰もまねできない写真トレースの超絶技巧を誇っていた宮谷の手法(マニエラ)は、政治運動の退潮という時代のデカダンスを浴びて狂気(マニア)にねじれたのだ。この「精神錯乱」が言語レベルにまで及んでいたことを見ていこう。

「魔訶曼陀羅華曼珠沙華」——暴露症と秘文字法

現代劇でありながら物語がすべて擬古文調で語られる「魔訶曼陀羅華曼珠沙華」(初出『ヤングコミック』1970/11/11)において、宮谷の言語的アヴァンギャルドが百花繚乱となる。1970年を境に、「性蝕記」「穴好人(※アナーキスト)」「性紀末」「知内床旅情」「黄金死篇」「人力死行機」「とうきょう屠民」といった奇形的造語に顕著なように、ホッケがマニエリスム言語の主特性とした「造語主義(ネオロギズム)」が宮谷作品に増えていく(ライバルだった真崎・守の『死春期』など同音異義語を「死」に置き換えていたことも考慮すべし)。絵やテーマとともに、明らかに言葉も病気になっていく。タイトルがストレートにならずツイストしてしまう。三島由紀夫や初期の平野啓一郎をマニエリスムと呼ぶ意味で、パロディーとしての生硬な擬古文調になっている。

物語は女性器を隠喩した毒々しい花のクロースアップではじまる【図7】。

図7 宮谷一彦「魔訶曼陀羅華曼珠沙華」、『性蝕記』128-129ページ。

主人公なをひこは裸の叔母に誘惑されるのだが、成人女性の黒々と茂った陰毛に対して、「つどひし陰毛のあはや男根を絡めとらむその有様いとど心すごくなをひこ色を失ひけり」、「黒虫の巣かともおもわれけむ あな恐ろし」などと嫌悪感が語られる。着物姿の母親にさえ黒々とした陰毛を幻視してしまうなをひこであったが、そこに中学三年の親戚の美沙が訪問する。風呂場を覗き込んだ彼は、美沙の無毛の性器を見て心奪われる【図8】。

図8 宮谷一彦「魔訶曼陀羅華曼珠沙華」、『性蝕記』132-133ページ。

なをひこの肉欲の高まりを象徴するように、シャワーを浴びる美沙の裸体の横で花の蕾がむくむくと隆起していき、最終的に淫乱に花開くメタファーが重ね合わされる【図9・10】。

図9・10 宮谷一彦「魔訶曼陀羅華曼珠沙華」、『性蝕記』135-136ページ。

高校受験を控えた彼女の家庭教師を買って出たなおひこは、自らの美貌を利用して肉体関係を結ぶ。しかし高校入学が決まったころ、美沙に黒々とした陰毛が生え始める。「心萎へるばかりになりてなすこと能はざればいかで致すべけんや」と逡巡した末、なをひこは美沙を殺してしまう。そしてなをひこはまた家庭教師の看板を出し、新たな「無毛」の女子高生をターゲットにしたことが暗示され物語は終わる。

なをひこのモデルは、おそらく幼な妻エフィー・グレイとの初夜を迎えるも、その恥部に古代彫刻の大理石の滑らかさとは異質な黒々とした陰毛が生えていたことで意気阻喪し、離婚に至った処女崇拝者ジョン・ラスキンと思われる(ゴシック・リヴァイヴァルを唱道したこの人物はミソジニストであるのに加えて黄色人種にも猛烈な差別意識をもっていたが、日本のゴス界隈はそうした性・人種政治学をほぼ問題視せずにゴシック美学を享受している)。ところで美沙に陰毛が生えたときに「かのまんだらげの咲く季節」と比喩していることからも、タイトルの「曼陀羅華」「曼珠沙華」といった花々の名前は、「マンコ」「マン毛(げ)」を韜晦した呪文であったことが判明する。これはある意味で、野坂昭如が『エロトピア』で語った猥語の破壊力をそぎ落とすものだ。

悪童たちが、ことさら露骨にその名を口にしてひやかし、そのつど身も世もあらぬ気持ちとなり、しかも、意識は常にそこを向いている、その存在を罪深く感じたり、また、いとしんでみたり、その混乱した気持が、「於芽孤」や「於真牟戸」などに封じこめられている。故に、今や罪やへったくれもなくなっていっても、呪文の如く、この名称をきくと、以前と同じ感情がひき出されて、あわてふためく。デリケートな感情だけに、キイワードは正確でなければならず、一字ちがっても、混乱は起きない。意味ではなく、語感に衝撃を受けるのだから。

野坂昭如『野坂昭如リターンズ2 エロトピア』国書刊行会、2002年、64ページ

とはいえこの直接性からの退行、鬱屈した言語歪曲こそがマニエリスムなのである。本作には宮谷一彦の「暴露症と秘文字法」(G・R・ホッケ)が遺憾なく発揮されている。エロティシズムの暗号。ディオニュソスのダイレクトなエロス生成の力は、ダイダロスの機械言語(擬古文)および夥しいメタファー(女性の花への見立て)によって奇形化される。

とにかく単行本『性蝕記』でもって、宮谷のナルシシズムとデカダンスは決定的なものとなる。「マニエリスムとともに芸術家は世界に対して正面から“向き合う”のをやめ、“偏りのある”毒々しい立ち位置を取るようになって自身が避けている現実を観察し、現実ではありえないまでにうねうね曲がりくねった捉えどころのないやり方を採用するのだ」(オリーヴァ「裏切者のイデオロギー」143ページ)。この偏向がさらに加速された結果、『性紀末伏魔考』という宮谷一彦の最大の問題作が生まれることになる。後篇へ続く。

後藤 護

後藤 護

暗黒綺想家。blueprintより新刊『悪魔のいる漫画史』が刊行(表紙画:丸尾末広)。『黒人音楽史 奇想の宇宙』(中央公論新社、2022年)で第一回音楽本大賞「個人賞」を受賞。その他の著書に『ゴシック・カルチャー入門』(Pヴァイン、2019年)。未来の著書に『博覧狂気の怪物誌』(晶文社、2025年予定)、『日本戦後黒眼鏡サブカルチャー史』がある。