嘔吐! 発狂! 蛆虫!——『同棲時代』に秘められたグロテスク
竹久夢二のようにスタイリッシュな美人画、小村雪岱のようなモダンなデザイン感覚、昭和の歌謡曲で歌われるような女の涙……45歳の若さで身罷った上村一夫のロマン派劇画を形容するとき、概ね以上のような言葉がすっと浮かんでくる。平成生まれの若者でも、昭和レトロにある程度通じている人なら、弥生美術館その他の回顧展などで上村の名前には遅かれ早かれ触れているはずだから、彼の名前と絵のスタイルは、それなりに知っている人が多い気がする【図1】。

とはいえ、代表作『同棲時代』(漫画アクション、1972-1973連載)を読んだ人は、若い世代では実は少ないのではないか。『リリシズム 上村一夫の世界』(まんだらけ、2011年)の内容紹介には、「広告会社に勤めるOLの今日子とイラストレーターの卵である次郎が一つ屋根の下で、「同棲」という甘く美しく、不確かで不安定な生活を始めるラブストーリー」とある。筋という筋もなく、互いに衝突しながらも愛を育む二人の男女のスライス・オブ・ライフ(日常の一瞬)が巧みに描かれるわけだが、この作品について語られるとき、どうも情緒的で湿っぽく、かぐや姫「神田川」(1973)のような四畳半フォークの同時代作品で、貧しくも清らかな70年代、というイメージが漠然と付与されがちに思う。それはそれで間違いではない。
ただ、そうした予断を排して向き合ってみると、沢田研二と梶芽衣子主演でドラマになり、映画にもなり、著者を長者番付の上位に送り込むほどの大ヒット作となった『同棲時代』が、思いのほかインモラルなエロスとグロテスクなイメージに支配されていることが判明する。
満員電車で痴漢にあった今日子のまわりを粘液を残しながら這いずるカタツムリ【図2】、

微笑を浮かべるモナ・リザの絵画に射精する神父、今日子の生理中の血まみれヴァギナを指で弄んだのち鼻にもっていき「ぼくたちの未来の匂いだ」と言う次郎、夏の到来に誘われて大木の下で首つり自殺する老人、陰部が無毛の幼女の人形「緑」を大切にするロリコン詩人、妊娠が判明したのち群集に腹を踏みつけられ胎児が死ぬ悪夢に襲われる今日子【図3】、

次郎に抱きしめられた今日子が夜空をバックに吐くゲロ(ザ・スターリンの「吐き気がするほどロマンチックだぜ!」というボードレールふう腐れ美学の早すぎた実践)【図4】、

異様に克明にコマ割りされた冷たく無機質な中絶シーン、今日子のリストカットおよび発狂、そして腐ってウジの湧いた犬の死骸……さながらグロテスク表現の百科全書の趣ではないか!
ようするに上村一夫に世間一般の抱くイメージの裏側には、それらを蝕むおぞましいダークサイドが隠しこまれている気配なのだ。ヒューマニズムと戦後民主主義と進歩の夢を謳い上げた手塚治虫に、近親相姦もの『奇子』といった通称「黒手塚」のラインが存在するように、「黒上村」という系列もまた存在する。その初期の代表作『怨獄紅』をまずは見ていこう。
毒婦! 妖婦! 悪女!——「黒い」上村劇画『怨獄紅』
『怨獄紅』に至るまでの、上村一夫の初期キャリアをここで簡単に振り返っておく。上村は武蔵野美術大学出身のイラストレーターで、劇画界には1968年、広告代理店で同僚だったことのある阿久悠を原作者とする作品で登場した。『ヤングコミック』誌に最初はイラストレーターとして起用され、やがて『大江戸浮世絵異聞アモン』という時代劇画の連載を任される(代表作『狂人関係』のベースとなった作品ともいえる)。同誌ではその後、女忍者物の「くの一異聞」や短期間の連載などがあって、70年秋からいよいよ『怨獄紅』を描き始める。
掲載先の『ヤングコミック』は当時としては先鋭的な誌面作りで知られ、この連載でもすでに取り上げた「性蝕記」の宮谷一彦、「はみ出し野郎の子守唄」の真崎・守、そして上村一夫を擁して「ヤンコミ三羽烏」とも呼ばれた。連作短編『怨獄紅』のなかには明らかに宮谷作品を意識して描かれたと思しきものも見られ、公言はしていないものの、宮谷をライバル視していた可能性がある。というのも、公害問題を取り上げた第14話「故郷は緑なりき」(ヤングコミック、1971/6/23)は、明らかに同一テーマを扱った宮谷一彦「性蝕記」(ヤングコミック、1970/4/28)の向こうを張ったものだからだ。逆に、背中にコブのある兄と美男の弟の歪んだ兄弟関係を描いた第16話「畸祭」は、背中にコブのある従者とその主人の美男子の主従関係を描いた宮谷の「緑色なる花弁」(タッチ、1971/9)に影響を与えたと思しい。宮谷と上村の相互影響に関しては研究が俟たれる。
閑話休題。第一話「お綱の門」のページを開くと、まっさきに見開き2色刷りのタイトルページに目を奪われる。上半分を埋め尽くす真っ赤な漢字の羅列、下部には白い雪の降るなかを薙刀をもって駆ける真っ赤に塗られた醜女【図5】。

ページをめくると、醜女は「浅野」という表札のついた門をくぐり抜け、「おのれ姦婦!」と寝ていた女の首を刎ね飛ばす【図6】。

ようするに自分を裏切って浮気をしている夫とその愛人に復讐を果たす武家の妻の物語なわけであるが、それは読み進めてようやく分かることであって、冒頭、読者はいきなり何の説明もなく殺人シーンに巻き込まれ、強烈な流血酸鼻を極めるヴィジュアル・ショックを浴びることになる。
この手法に関しては、『ヤングコミック』元編集者にして、上村劇画の原作を数多く手がけた岡崎英生が解説を加えている。いわく、「劇画は読者には、何よりもまず絵として、何でもない日常に瞬時に進入してくる視覚上の驚異として受容される」(岡崎英生「解説」、上村一夫『怨獄紅 上』東京漫画社、2006年、巻末)。『怨獄紅』とは絵のレベルで強烈なショック・驚異・反感を読者に与えることが眼目にあるのであり、くれぐれもSNSのように微弱な共感を誘う、ぬるい表現にコミットしていない。
「お綱の門」が高らかに宣言しているように、基本的に『怨獄紅』は女性を主人公に据え、その怨念や狂気、倒錯したエロティシズムを過剰なまでに生々しく描いていく。担当編集者の鈴木茂によれば、「いわゆる毒婦・妖婦・悪女などを主人公にして、女というものの底知れなさを描いていこう」という打ち合わせのもとに始められた作品だと言う。
女の底知れなさという意味では、第5話「おんな腹」にとどめを刺す。垣根の向こうに見た武士の同性愛心中に股間を濡らすほど興奮し、自ら切腹する女版三島由紀夫のような存在が出てくるのだから。しかし第7話「乱華抄」の女子高生も負けていない。教師、伯父、幼馴染みと肉体関係をもつ妊娠した女子高生が主人公で、木の枝に縄で括りつけられた巨大な岩を、知的障害をもった幼馴染みが彼女めがけて放り投げ、孕み腹を強烈に打ち据え、原始的な中絶を行うラストシーンには誰しも吐き気をもよおす【図7】(江戸時代にイリーガルな妊娠中絶を生業とする女を描いた第6話「子堕ろしお香」を筆頭に、グロテスクな堕胎のイメージは黒上村作品に頻出するモチーフであるため、『惡の華』を論じる際に詳しく検討する)。

担当編集・鈴木茂いわく、「手塚治虫流のヒューマニズムや、平均的な丸っこい絵柄では表現しきれない世界が無限にあると考えていましたので、怨獄紅のときは、それこそ手塚先生には逆立ちしても描けないものを、と思ったわけです」(『リリシズム』、76ページ)。このアンチ手塚・アンチヒューマニズムの姿勢は明らかに、ヤンコミ三羽烏の宮谷一彦「霧中飛行者の嘆息」の以下の言葉と響き合うものだ。
狂気と錯乱は鉄腕アトムを飼ったブタに対する凶器となり得るか 真実を語る狂人の群れのみが奴等を恐怖足らしめ得るのではないか。
たとえば第11話「青春日記」では、ある令嬢がたまたま乗りこんだ電車でストーカーに遭い、その男に歪んだ恋心を抱くのであるが、その顛末を日記でつづった見開きページのジャンク味あふれる荒々しい貸本劇画タッチ、そして精液と生卵のどろどろをアナロジーする猥雑さは、まさに手塚の決して生み出し得ない画狂若人卍の所業に見える【図8】。

さて、ルネサンスのフマニスム(人間中心主義)では立ち行かなくなったとき、狂気と憂鬱に蝕まれた人間ぎらい(ミザントロープ)どもによって創始されたのがマニエリスム芸術であったように、手塚治虫のヒューマニズム幻想に陰りが見え始めた1970年前後のタイミングでマニエリスム漫画史は胎動したのだ。その意味で黒上村とは、端的に上村一夫のマニエリスム的表現系列と言い得る。
『怨獄紅』第13話「隠恋慕」冒頭、真っ赤でぼやけたツツジが下半分を覆い、薄墨で描かれた雨が降りしきる構図の見開き2色刷りに、「躑躅(つつじ)が群れて哭いている/聞こえるかい?」という文が添えられ、さらにページをめくると、真っ赤なツツジの花が陰部を覆った裸体の女(ツツジの化身?)が出現し、「聞こえませぬ 聞こえませぬ」と言う謎めいた一枚絵【図9】は、

女の両手のうねりくねり、右手の指先の今にも自らの乳首をつまみそうな「優美と秘密」(G・R・ホッケ)のしぐさをもってフォンテーヌブロー派画家の描いた『ガブリエル・デストレとその妹』(1549年頃)のプレシオジテ(気取り)を連想させる、と高邁に言うこともできよう【図10】。

しかしそれ以上に、花と女陰を露骨にアナロジーする猥雑な想像力がここにきて前面に押し出されてきたことが重要なのであり、「自然を意識の毒で穢し、人工の悪意で凌辱する漬聖行為」(種村季弘)というマニエリスムの原‐身ぶり(ウル・ゲベルデ)が毒花を咲かした表現と言い得よう。そして、この淫花のモチーフを極めた連作「花言葉」が続いていく。
『花言葉』——花弁を剥ぎ取れ、不潔な根を見よ!
1971年9月、労働組合問題の混乱により少年画報社を退社した『ヤングコミック』編集部の岡崎英生らが、新たにコミック誌『月刊タッチ』(タッチ社・三崎書房)を創刊した。真崎・守、宮谷一彦、そして上村の「ヤンコミ三羽鳥」をメインにすえ、上村は表紙絵を担当するとともに、連作「花言葉」シリーズを連載。原作は岡崎英生によるものだ。なお、『月刊タッチ』は4号で休刊してしまったため、「花言葉」シリーズは翌年『女性自身』に引き継がれて掲載されている。そしてマンガ編集者・李紅芬(リー・ホンファン)氏の尽力によって、2003年に愛育社から単行本として上梓されている【図11】。

内容としては、向日葵、コスモス、鳳仙花、薊、彼岸花、虞美人草、蘭といった花とその花言葉になぞらえて、女たちの性愛を描いた連作である。たとえばチューリップなら「博愛」「思いやり」「美しい瞳」、マーガレットなら「真実の愛」「恋占い」「信頼」とか色々あるわけであるが、本連作では「近親相姦」を意味する鳳仙花、「罰」を意味する薊など、ダークで救いようのない花言葉をもつ惡の花々が意図的に選ばれている。原作者の岡崎英生が「花言葉 その四 薊」のラストにつけた花言葉の解説は以下のようになっている。
薊(あざみ)
美しかるべき花の一種でありながらいかなる前世の罪を背負ってか
哀しいことに薊は花のなかの醜女である
凍った血の如き色合い——
加えておびただしい鋭いとげ——
人の肉を裂き真紅の血を見ることのみが
おそらく
この狐独な女のただひとつの
暗い快楽(よろこび)なのである…
花言葉——罰
こういった気どった言い回しには、澁澤龍彥責任編集『血と薔薇』にも通じる高踏派デカダンの影響を嗅ぎ取ることができるだろう。早稲田大学の仏文科を出ていた岡崎であるから、澁澤訳のバタイユやサドにも親しんでいたであろうことは明らかで、次回論じる『惡の華』はまさにその精華と言える。さておき、「哀しいことに薊は花のなかの醜女である」というアンチ・ポリコレな一文は見逃せない。美しくあるべき花から、あえて醜さを抉り出していく瀆聖がまず行われる。
さらには、第3回のラストで鳳仙花の花言葉が「近親相姦」であることを説明するさい、「花のその花芯のあたりでは/骨肉相食むあらゆる異端の性が/繰り広げられているのであるが/それゆえにこそ花は咲き また/花の実の秘密もそこにある」と岡崎が書いているのも重要だ。おしべとめしべを人間の夫婦に擬人化し、花びらを「婚礼の床」と呼び、受精を「結婚」と呼んで植物にセクシュアリティを与えたのは博物学者リンネであったが、ここでの岡崎の記述は、リンネのプロテスタント的な「神聖な結婚」というよりむしろ、おしべとめしべの「骨肉相食むあらゆる異端の性」を描いたエラズマス・ダーウィン(進化論のチャールズ・ダーウィンの祖父)の科学詩『植物の愛』(1789年)を思わせる。
上村&岡崎コンビの『花言葉』連作は、外側をつつみこむ花弁を剥ぎ取るとあらわになる、おしべ(男)とめしべ(女)の呪われた不義密通や近親相姦——リンネが植物の雌雄に見た幸せな夫婦像の対極としての——を敢えて暴露していく「フローラルな悪意」(高山宏)なのである。これは花の外面的な美しさを冒瀆し、むしろ中に隠された醜悪なエロスを直視せよと扇動したジョルジュ・バタイユの名エッセー「花言葉」の以下の罰当たりな言葉と絶妙に響き合ってはいないか。
最も美しい花でさえ、生殖器官の軟毛で覆われた斑点のため、中心部が台無しになっている。そういうわけで、薔薇の花の内側は外側の美しさと少しも見合うものではなく、花冠の花弁を最後までむしってゆくと、下品な様子をした子房が一つ残るだけである。
(ジョルジュ・バタイユ、片山正樹訳「花言葉」、『ドキュマン』二見書房、2002年8版、41ページ)
この文章に合わせて、花冠を剥ぎ取った釣鐘草のグロテスクな写真をバタイユは添えているが、どこか劣情を掻き立てる【図12】。

岡崎の花への冒瀆はさらに畸形的に加速していく。極めつけは「花言葉 その5 彼岸花〈後篇〉」に見られる、彼岸花の紅色の秘密を語った以下のテクストだ。
血をもってしても
模倣することのできない
その紅の秘密は
おそらく強い毒をもつ
その球根にあるのであろう
薊の花の醜さを言いつのり、花びらに隠されたおしべ・めしべのグロテスクな性の饗宴を暴露した岡崎は、ここでいよいよ地上から地下へと潜行し、「球根」という地中深くの「毒」に目を向ける。これこそがバタイユ「花言葉」のいう「不潔でねばつく根」への気づきである。
実際、根は植物の眼に見える部分の完全な対蹠物となっている。眼に見える部分が崇高に聳えているのに対して、不潔でねばつく根は、ちょうど葉が光に恋するように腐敗に恋い焦がれ、土の中を輾転反側しているのである。ところで、低いという語の持つ異論の余地のない倫理的価値が、根の意味するところのあの型通りの解釈と切り離せない関係にあることに注目せねばならない。つまり動きという分野では、悪いことは必然的に上から下への動きによって表わされるのである。
(前掲「花言葉」、43-44ページ)
花言葉がもつ予定調和じみた記号的性格を蹂躙するような、「地面の下で蠢いている、蛆虫のように胸くその悪い、丸裸の根の、異形で、お話にならぬ様子」(バタイユ)を、彼岸花の毒を秘めた球根は暗示していたのだ。光をもとめて大地から空へと伸びていく趨日性(ヘリオトロピズム)の分かりやすい運動は、上村&岡崎コンビの描く地獄の花=悪女たちには見られない。むしろ、女の狂気、情念、嫉妬、肉欲といったアンコントローラブルで説明不可能な下層原理を養分として生長し、精神の地下迷宮を徐々に腐敗させていく毒々しい〈悪〉の根の、常に闇をもとめて移動する走暗性(スコトタキシス)こそ、岡崎が「球根」の一語に込めたものであろう。次回は『怨獄紅』、「花言葉」をさらにラディカルに黒く染めたような、上村&岡崎ゴールデンコンビによる最大の猟奇エロス系マンガ『惡の華』を論じる。







