綺想とエロスの漫画史

10 『幽☆遊☆白書』論【後篇】——邪王炎殺黒龍波の「異常‐静力学」

後藤 護

見えるか⁉ 貴様の火遊びとは一味違う魔を秘めた本当の炎術が…
飛影

美はイデアにおける内的動揺を通じて、狂気(furore)を通じて、
生み出される。焔がその直喩となる。
G・R・ホッケ『迷宮としての世界』

邪王炎殺黒龍波の博物誌

いよいよ前篇・中篇・後篇通じての本題(?)である邪王炎殺黒龍波を論じよう。邪眼の力を駆使して、魔界に棲まう黒龍を右腕から解き放つこの日本マンガ史上最凶の必殺技【図1】に関して、博物誌的に龍をリサーチすることで、神話伝承・デザイン史的な起源を浮かび上がらせたい。『幽☆遊☆白書』のなかに含まれる「遊(play)」の精神で、古今東西の図版から黒龍波に「似ているもの」を小学2年生のように蒐めたので、絵を眺めていくだけでも把握可能なバロック的設計、「ヴィジュアル・アナロジー」(バーバラ・スタフォード)の魔宴になっている。筆者の「一ミリだって成長しないぞ」(丸尾末広)のアティテュードに貫かれた幼児退行宇宙の黒い波動を感じ取ってもらいたい。

図1 「暗黒がすなわちわれわれのパースペクティヴなのだ」(澁澤龍彥『サド復活』)。邪王炎殺黒龍波を「厨二病」と呼ぶZ級読者は「魔を秘めた本当の炎術」(飛影)によって灰燼に帰すがよい。「魔がないとダメじゃないの?」と言ったのは松岡正剛だった。「魔の眼に魅されて」(M・タタール)しまえ、邪眼の力をなめるなよ(冨樫義博『幽☆遊☆白書 7巻』集英社、1992年4刷、36-37ページ)。

荒俣宏『世界大博物図鑑3 両生・爬虫類』によれば、「ドラゴンは、ヘビを意味するギリシア語Drakōnに由来。ヘビの凝視行動と関連するといわれる」というから、三白眼で目つきの凶悪な飛影にこそドラゴン(龍)はふさわしいと語源学的にもわかる。ヘビはまばたきをしないのだ。下半身が蛇の怪物として、ギリシア神話にはエキドナとテュポーンなどがいるが、前者は「煌めく眼」をもち、後者は「眉の下で火を閃かせた」と形容された。「画竜点睛」という言葉からも分かるように龍(蛇)は目が命なのである。飛影も然り。

荒川紘『龍の起源』を読んで驚くことは、基本的に洋の東西をこえて龍/ドラゴンは水神であったということが丸々一冊書かれていることで、この本では龍と火の結びつきに関しては根拠薄弱なものとしてすべて排除されている。だが慈悲ぶかい水神と崇められた龍に対して、旱魃の原因として忌み嫌われた蛇、という対比があったこともまた『龍の起源』は教えてくれる。するとすべてを焼き尽くす邪王炎殺黒龍波とはむしろ「蛇」の属性に近いものを持っているのかもしれず、「邪王」という響きには「蛇王」が隠されていたことが疑われる。よくよく考えればRPGゲームやファンタジー小説が当たり前の世代からすれば、むしろ火龍(火を吐いたり、火の中に生きている龍)はクリシェといってよいイメージであり、火と龍(蛇)を結びつける図太い伝承はオルタナティヴに存在するのではないか。

例えばボルヘス『幻獣辞典』で触れられている伝説の火トカゲ「サラマンダー」などまさにその代表だろう【図2】。

図2 ミヒャエル・マイヤーの錬金術書『逃げるアタランタ』(1618年)に見られる火の龍サラマンダー。

カスパー・ヘンダーソン『ほとんど想像すらされない奇妙な生き物たちの記録』によれば、サラマンダーと火を結びつける言説はユダヤ教以前から見られるもので、最古の一神教ゾロアスター教では火は聖なる象徴とされ、ペルシア語で「Sam andaran(サマンドラン)」は「火・内側」を意味したという。S字曲線にのたうち回る存在として龍=蛇をアナロジーする作法からいえば、ロシアの民間伝承における火の蛇(オーグニェニー・ズメイ)という、飛ぶときに火を放ち、燃える柱のような形態をとる幻獣も存在する【図3】。

図3 『ラジヴィウ年代記』に見られる1091年に空から降ってきた火の蛇(オーグニェニー・ズメイ)。蛇の体内を流れる黒いS字曲線に邪王炎殺黒龍波を見る。

暗黒武術会において是流(ゼル)、武威(ぶい)戦で繰り出される邪王炎殺黒龍波のデザイン上の特徴は、〈蛇の力〉とされる超生命エネルギー〈クンダリーニ〉を思わせるとぐろ巻く螺旋形である【図4】。

図4 くねれ! セルペンティナート! 〈蛇の力〉とされる超生命エネルギー〈クンダリーニ〉を思わせる螺旋フォルムの邪王炎殺黒龍波(『幽☆遊☆白書 11巻』集英社、1993年、151ページ)。

先述したように「邪王」のなかに「蛇王」の響きが隠されているのは示唆的で、蛇=龍のアナロジーを用いることで壮大な蛇状曲線(フィグーラ・セルペンティナータ)デザイン史のなかに飛影の必殺技を位置づけることができそうだ。代表的なところではウィリアム・ブレイクであろう。「蛇に誘惑されたイヴ」(1799-1800年)という絵画では螺旋をなした蛇(ほとんど龍に見える!)がイヴに知恵の実を与えるグノーシス主義・拝蛇教的な場面が描かれるが、女は蛇に唆されるというより、むしろ蛇を呼び寄せ調教する魔性を秘めた存在のようで、邪王炎殺黒龍波のデザイン感覚の祖先と呼んでいい【図5】。

図5 ウィリアム・ブレイク「蛇に誘惑されたイヴ」(1799-1800年)の螺旋形の蛇。「蛇状曲線のチャンピョンたるブレイクを介して、S字曲線はさらに〈加速〉されて、渦巻きという格別に〈近代〉的な形象へと発展していった。ターナーやマーチン、フランシス・ダンピーらの渦巻く四大のイコノロジー、コールリッジ、ポー、メルヴィル、ヴェルヌと続く渦巻き文学、更にその先にゴッホの渦巻く画面、イェイツとジョイスの螺旋、パウンドやウィンダム・ルイスの「渦巻主義」が遠望される」(高山宏「くねれ、セルペンティナート」、『ふたつの世紀末』所収)。この壮大な「渦巻主義」の末裔に邪王炎殺黒龍波もいる。

ブレイクのS字曲線、それをさらに加速させた渦巻き狂いは有名で、他にも前期小預言書と呼ばれる『ヨーロッパ』(1794年)に渦巻く蛇が見られるほか、『アメリカ』(1791-95年)に至っては子供たちがまたがる黒い蛇の存在が確認され、邪王炎殺黒龍波の「黒さ」にまで接近している【図6・7】。

図6 ウィリアム・ブレイク『ヨーロッパ』より。
図7 ウィリアム・ブレイク『アメリカ』より。ブルースの名曲「Black Snake Moan」を聴きたくなる蛇の黒さ。

火山と地獄から湧き立つ黒い龍のバロキズム

黒い蛇で思い出されたのがポンペイの壁画である。噴火するヴェスヴィオ火山の前景に黒い蛇がのたうっているのだ【図8】。

図8 79年以前のポンペイのフレスコ画。噴火するヴェスヴィオ火山の前にバッカス、そして黒蛇がのたうっている(ジェイムズ・ハミルトン『図説 火山と人間の歴史』鎌田浩毅監修、月谷真紀訳、原書房、2013年、50ページ)。

蛇=龍は火山と関係をもつのだろうか。1798年に描かれた作者不明のヴェスヴィオ火山の噴火図では、大地を流れる黒い溶岩流はさながら邪王炎殺黒龍波である【図9】。

図9 作者不明「ヴェスヴィオ山の噴火によって荒廃したトッレ・デル・グレーコ」(1798年、同前、63ページ)。

この絵画が描かれたころはゴシック・リヴァイヴァルが起こったあとで、ゴシック美学綱領とも言えるエドマンド・バークの「崇高美(ザ・サブライム)」という新たな美学が誕生していた。いわばわれわれを畏怖させる、巨大で、途方もない、黒々とした人跡未踏のピクチャレスクな自然などを倒錯的に美しいと感じる感性で、邪王炎殺黒龍波を「美しい」と思うあなたは18世紀以降の感覚を生きているということになる(先述したブレイクの絵画もどれも「崇高」と評される)。

ところで龍=蛇と火山を結びつける想像力は日本でも少数ながら見られ、物理学者の寺田寅彦などがスサノオに退治されたヤマタノオロチを火山のメタファーとする説を提唱している。まず『新編日本古典文学全集 古事記』の現代語訳のオロチの外形的記述をおさらいしておこう。

その眼は赤かがちのようで、一つの身体に八つの頭と八つの尾があります。また、その身体には日陰蔓と檜・杉が生え、その長さは谷八つ、山八つにわたっていて、その腹を見ると、どこもみないつも血が流れ、ただれています(中略)[ここで赤かがちというのは、今にいうホオズキのことである]。

寺田寅彦は「神話と地球物理学」で、オロチのこの描写を「火山からふき出す溶岩流の光景を連想させる」とアナロジーしている。さらに頭と尾が八つある姿に関しては「溶岩流が山の谷や沢を求めて合流あるいは分流するさまを暗示する」とし、ホオズキのように赤く輝く目に関しては「溶岩流の末端の裂罅(れっか)から内部の灼熱部が隠見する状況の記述にふさわしい」と述べていて大層刺激的な議論だ。

日本の「火山列島の思想」(益田勝実)にこそ龍/蛇と火を結びつける想像力の源があるのかもしれない。邪王炎殺黒龍波は魔界という地下世界から呼び寄せられた怪物であることは先述した。すると詩人・金子光晴の「地獄の思想と日本人」(『伝統と現代 特集:地獄』所収)の以下の言葉は示唆に富む。「地下にある地獄は、火山の多い日本では、象徴ではなく現実に溶岩の噴出や、温泉場の地獄と名づける熱湯の湧返っている岩場を見て、それと結びつけることは自然である」。

火山と地獄をアナロジーする金子の指摘から、邪王炎殺黒龍波の想像力の祖先は地獄絵のなかに多くあると気づかされる。よくよく見れば地獄の獄卒然とした飛影の扉絵も存在するし、コエンマが説明する地獄の階層システムも地獄そのものではないか【図10】。

図10 地獄の業火のなかに佇む獄卒然とした「地獄的存在」(高橋睦郎)飛影(『幽☆遊☆白書 9巻』集英社、1993年2刷、153ページ)。

「北野天神縁起」の無間地獄を描いた、火の中の獄卒を見るがよい。この作品を絶賛した澁澤龍彥はこう評している。「どの場面にも見られるアラベスクのような赤い焔の美しさに、『地獄草紙』の因襲的な、衰弱したような火焔とは全く性質を異にした、力強い、近代的なデザイン感覚さえ感じると言ったら言いすぎであろうか」(澁澤龍彥「地獄絵と地獄観念」、『図説 地獄絵を読む』所収)。まさにこのアラベスクな火焔の行き着く果てに黒龍波のデザイン感覚を見てもよいだろう【図11】。

図11 「地獄のいずこも渦また渦である」(ダンテ)という言葉を身ぶりする無間地獄(『北野天神縁起』北野天満宮)。アラベスクな火焔のなかに獄卒、そしてそのS字曲線をなぞるように蛇がグロテスクにうねっている(澁澤龍彥・宮次男『図説 地獄絵をよむ』河出書房出版新社、2008年3刷、28-29ページ)。

同じ「北野天神縁起」の大叫喚地獄には、業火のなかでとぐろ巻く蛇に締め上げられ貪り食われる罪人が描かれ【図12】、「六道絵」の阿鼻地獄を描いたものには、業火のなかで毒を吐く大蛇が出てくるが、その造形はほとんど龍である【図13】。

図12 大叫喚地獄(『北野天神縁起』北野天満宮)。業火の中、とぐろを巻いた毒蛇に貪り食われる罪人(同前、59ページ)。
図13 阿鼻地獄幅(「六道絵」聖衆来迎寺所蔵)。阿鼻地獄の業火から誰も逃れることはできない。鉄の城壁は七重にはりめぐらされ、毒蛇(ほとんど龍!)に責め苛まれる。魔界の黒龍が立ち上がってくるのはこういった地獄的イマジネーションからである(『ビジュアル選書 地獄絵』新人物往来社、2011年、58-59ページ)。

地獄の業火のなかでのたうつ蛇/龍とは、邪王炎殺黒龍波のヴィジョンそのものではないか! 冨樫義博が邪王炎殺黒龍波の想像力の源泉として、地獄絵を意識した可能性さえちらつく。

地獄、火山のみならず仏教芸術との類似も飛影のヴィジュアルには確認される。武威戦で黒龍波を飲み込んで黒いオーラをまとった飛影の姿【図14】に関しては、不動明王の火焔光背を思わせるところがある【図15】。

図14 「ほかの色たちに向かって「否(ノン)」と言いつつひとり炸裂する《反逆》の黒」(ソニア・リキエル)。邪王炎殺黒龍波を「喰った」飛影の背中に浮かび上がる黒いアウラ(『幽☆遊☆白書 11巻』集英社、1993年、160ページ)。
図15 瀧谷不動明王寺にある日本三不動の一つ「瀧谷不動尊」。背中にまとった火焔光背、右手にもった利剣はさながら飛影のヴィジュアル的祖先(瀧谷不動尊公式HP https://takidanifudouson.or.jp/about/fudou/)。

黒桃太郎戦で初披露された「邪王炎殺剣」【図16】に関しては、その不動明王が右手にもつ「倶利伽羅龍剣」との類似を指摘しておこう【図17】。

図16 邪王炎殺剣。不動明王の倶利伽羅龍剣を彷彿とさせる(『幽☆遊☆白書 9巻』集英社、1993年2刷、168ページ)。
図17 倶利伽羅龍剣二童子像(奈良国立博物館蔵 重要文化財)。不動明王の右手にもつ剣に炎となった倶利伽羅龍が絡みついた元祖・邪王炎殺剣。

半跏思惟像をピーコックチェアに座るエマニエル夫人とアナロジーしたみうらじゅんのひそみに倣えば、焔のようにパンクに逆立った飛影のヘアスタイルは、伐折羅(バサラ)や愛染明王の怒りのヘアスタイルだといえるだろうか【図18】。

図18 新薬師寺 十二神将立像 伐折羅大将。幽助の母に「逆毛少年」と呼ばれた飛影の黒い火焔のような髪型の祖先といえるパンクに逆立った怒髪(どはつ)天(「新薬師寺 十二神将立像 伐折羅大将:六田知弘の古仏巡礼」2024年8月16日公開、 https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b10915/)。

黒いモラルへの凝結――黒い龍の「異常‐静力学」

火山=地獄=魔界の龍(蛇)をアナロジーすることで、邪王炎殺黒龍波のバロックにのたうちまわる力動感の秘密をヴィジュアル方面から説明できたと思う。では、なぜ龍は「黒い」のか。雲龍図でいえば、海北友松の渦巻く「黒い龍」など黒龍波的ヴィジョンの先蹤だとも言えよう【図19】。

図19 海北友松筆『雲龍図』(1599年・建仁寺所蔵)。黒い龍と螺旋のコンビネーションに邪王炎殺黒龍波を見る。

しかし「黒さ」ならばそれ以上に、イエズス会のバロック的才人アタナシウス・キルヒャー師の『地下世界』挿絵をご覧いただけば話が早い。ロザリンド・ウィリアムズ『地下世界』の「崇高さと魔術という用語は、地下世界に超有機的価値がひそむことを明らかにした」という鋭い洞察を思い出させる、このバロック的躍動感・生命観に満ちた図版にはドギモをぬかれる【図20】。

図20 アタナシウス・キルヒャー『地下世界』(1655年)の地球内部の火山ネットワークを描いた挿図。邪王炎殺黒龍波の生まれ故郷なのか?(ユルギス・バルトルシャイティス『バルトルシャイティス著作集1 アベラシオン:形態の伝説をめぐる四つのエッセー』種村季弘・巖谷國士訳、国書刊行会、1991年、106ページ)。

地球内部の火山ネットワークを描いたこの絵を見るにつけ、邪王炎殺黒龍波とは地下世界(火山、地獄)から噴出してきた〈魔〉の力そのものであろうと思わされる。『幽☆遊☆白書』の魔界篇にもキルヒャー挿図を髣髴とさせる稲妻のバロックデザインが見られ、東アジアにおける雷と龍/蛇の形態的アナロジーの伝統に鑑みても、こういった異形な空間から黒龍は呼び寄せられるのだと知れる【図21】。

図21 魔界バロック。東アジアでは躍動するS字曲線として稲妻は龍とアナロジーされた。そもそも「龍」という漢字のつくりは「躍動飛行するさま」を示すという(『幽☆遊☆白書 18巻』集英社、2001年3刷、128-129ページ)。

地下世界——それはルネサンス時代には「グロテスク」と呼ばれる反美学を生み出したグロッタ(洞窟)と同義であろう。古典古代リヴァイヴァルで幾何学的調和やシンメトリーが言祝がれたルネサンスの夜の側として、カピトリーノのネロの黄金宮は「発掘」された(まさにそれは地中にあったのだ)。その壁に描かれたぐるぐるの唐草模様は「グロテスク」と名づけられて一大流行をけみした。ルネ・ユイグは名著『かたちと力』でその衝撃を以下のように綴っている。

彼らにはそれは地中にのみこまれた、明るさのない夜の世界と結ばれているように見え、この起源そのものから、曖昧でまた十分明らかにされていないもの、すなわち後になってはじめて無意識と呼ばれることになるものと結びついた部分を持っているように思われた。それで、ピエトロ・ルッツィ・デ・フェルトレという第一発見者の一人は、奇異な、動揺の激しい、「黒胆汁質の男(メランコリック)」として評判になり、彼のことを死神と呼ぶのが習慣になったのだろう。

すなわち邪王炎殺黒龍波とは「夜の世界」「曖昧」「無意識」に結びつけられたグロテスク模様であり、それを呼び寄せる飛影は「死神」であった【図22】。

図22 ルーカス・ファン・レイデン「グロテスク」(1528年)。

澁澤龍彥は北野天神縁起絵巻のうずまく火焔をモダンなデザイン感覚の「アラベスク」と評したが、正確を期すならば黒龍波は「アラベスク」と「グロテスク」の境界領域にあるように思える。G・R・ホッケは『迷宮としての世界』で以下のように書いているからだ。「グロテスク模様は今日の超現実主義へ逢着し、アラベスク模様は現代の抽象芸術へ、より正確には「具体絵画(パンチュール・コンクレート)」へと逢着することになる」。つまり、アラベスクの幾何学的な抽象化作用(バレエの片脚を斜め上にピーンと伸ばすポーズ「アラベスク」に象徴される)とは異なり、グロテスクにはS字曲線のバロック的力動性がわなないているのだ【図23】。

図23 イタリアの画家フィリオッリの「花」。アラベスク(抽象感)とグロテスク(力動感)の狭間をいくこのS字曲線は、もっとも邪王炎殺黒龍波に近いデザイン感覚かもしれない。「邪王炎殺黒龍波ものまねグランプリ」が催されたら優勝候補(ルネ・ユイグ『かたちと力——原子からレンブラントへ』西野嘉章・寺田光徳訳、潮出版社、1988年、372ページ)。

それゆえテュルボ(渦巻き)の力動感・眩暈をもたらす感覚を本性とするバロック=グロテスクに邪王炎殺黒龍波の美学を求めることは、半分正解、半分誤りである。アラベスクのもつ幾何学的なデザイン感覚(静止した感覚)が黒龍波には残っていることを忘れてはならない。螺旋をなした黒龍波のスタティックな様態は、アンドレ・ブルトン『狂気の愛』の言葉でいう「爆発的に凝固した」パラドックス感に満ちている。キルヒャー『フィジオロギア』(1624年)の造語を借りれば「異常‐静力学(パラ・スタティック)」に支配されており、これはマニエリスムの特性である。G・R・ホッケはマニエリスム美学書『迷宮としての世界』の「蛇状曲線‐痙攣的」の章で、「美はイデアにおける内的動揺を通じて、狂気(furore)を通じて、生み出される。焔がその直喩となる」と書いた。ここで焔と蛇は同義語である。

とはいえこの狂気の焔は「凍った焔」なのである。ここで思い出したいのは、S字に邪悪にのたうつ邪王炎殺黒龍波の拡散性に対しての、飛影の首に下げた氷泪石という凝縮のモチーフである。蛇は奔放に動き回りたぶらかす存在であり、ロシアの民間伝承では寝室に忍び込むエロティックな「火の蛇」と人間を見分ける方法は、前者が「無脊椎」であることを確かめることだった。いわば脊椎のようにまっすぐな「硬さ」と「モラル」がないものが蛇/龍であり渦巻くバロックなのである。その蛇の動きにスタティックな感覚を与えたものこそが、飛影の冷たさであり、憎しみを吸い取る氷泪石の硬質な結晶美学ではなかったか。

S字曲線を称揚したウィリアム・ホガースの『美の分析』の冒頭に配された名高い「ヴァラエティ」の一枚では、蛇のかたちは「アルベルティのピラミッド」に囲繞されている【図24】。

図24 S字曲線を称揚するウィリアム・ホガース『美の分析』劈頭を飾る名高い「ヴァラエティ」の図。蛇のしどけないインモラルは、ピラミッドの硬質なモラルによって支配されている。この様態をして「異常‐静力学」(A・キルヒャー)と呼ぶ。

これをブレイクの奔放な渦巻きに届かない、ホガースの旧套モラルと断じることは容易い。しかしこのバランス感覚こそが飛影の魅力であり、邪王炎殺黒龍波の極大にまで高められた暴力性は、氷泪石の極小にまで固められたモラルと共振することによって「異常‐静力学」のマニエリスムに達し、飛影というキャラクターを日本マンガ史上もっとも「痙攣的」(アンドレ・ブルトン)な「黒いモラル」にまで押し上げた。こうも言えようか。武威戦で黒龍波に喰われたのではなく自ら「喰った」ことで、飛影は龍を完全にコントロールし「冷たい焔」(シェイクスピア)になったのだと【図25】。

図25 黒龍波に喰われた……と思いきやじつは「喰った」飛影。蛇を閉じ込めたホガースのピラミッドのように、飛影は「黒いモラル」として魔界の黒龍を封じ込め、飼いならす。これによって飛影は「冷たい焔」(シェイクスピア)になる。このことは小学2年生にしか分からない。冨樫義博が最も愛するマンガ『漂流教室』の著者・楳図かずおの精神に倣い、Don’t Trust over 14.(14歳以上は信じるな)と申し添えておこう。14歳の厨二病に黒龍波は手に負えるものではない(『幽☆遊☆白書 11巻』集英社、1993年、156ページ)。
後藤 護

後藤 護

暗黒綺想家。blueprintより新刊『悪魔のいる漫画史』が刊行(表紙画:丸尾末広)。『黒人音楽史 奇想の宇宙』(中央公論新社、2022年)で第一回音楽本大賞「個人賞」を受賞。その他の著書に『ゴシック・カルチャー入門』(Pヴァイン、2019年)。未来の著書に『博覧狂気の怪物誌』(晶文社、2025年予定)、『日本戦後黒眼鏡サブカルチャー史』がある。著者近影は駕籠真太郎による。