見えるか⁉ 貴様の火遊びとは一味違う魔を秘めた本当の炎術が…
飛影
美はイデアにおける内的動揺を通じて、狂気(furore)を通じて、
生み出される。焔がその直喩となる。
G・R・ホッケ『迷宮としての世界』
邪王炎殺黒龍波の博物誌
いよいよ前篇・中篇・後篇通じての本題(?)である邪王炎殺黒龍波を論じよう。邪眼の力を駆使して、魔界に棲まう黒龍を右腕から解き放つこの日本マンガ史上最凶の必殺技【図1】に関して、博物誌的に龍をリサーチすることで、神話伝承・デザイン史的な起源を浮かび上がらせたい。『幽☆遊☆白書』のなかに含まれる「遊(play)」の精神で、古今東西の図版から黒龍波に「似ているもの」を小学2年生のように蒐めたので、絵を眺めていくだけでも把握可能なバロック的設計、「ヴィジュアル・アナロジー」(バーバラ・スタフォード)の魔宴になっている。筆者の「一ミリだって成長しないぞ」(丸尾末広)のアティテュードに貫かれた幼児退行宇宙の黒い波動を感じ取ってもらいたい。
荒俣宏『世界大博物図鑑3 両生・爬虫類』によれば、「ドラゴンは、ヘビを意味するギリシア語Drakōnに由来。ヘビの凝視行動と関連するといわれる」というから、三白眼で目つきの凶悪な飛影にこそドラゴン(龍)はふさわしいと語源学的にもわかる。ヘビはまばたきをしないのだ。下半身が蛇の怪物として、ギリシア神話にはエキドナとテュポーンなどがいるが、前者は「煌めく眼」をもち、後者は「眉の下で火を閃かせた」と形容された。「画竜点睛」という言葉からも分かるように龍(蛇)は目が命なのである。飛影も然り。
荒川紘『龍の起源』を読んで驚くことは、基本的に洋の東西をこえて龍/ドラゴンは水神であったということが丸々一冊書かれていることで、この本では龍と火の結びつきに関しては根拠薄弱なものとしてすべて排除されている。だが慈悲ぶかい水神と崇められた龍に対して、旱魃の原因として忌み嫌われた蛇、という対比があったこともまた『龍の起源』は教えてくれる。するとすべてを焼き尽くす邪王炎殺黒龍波とはむしろ「蛇」の属性に近いものを持っているのかもしれず、「邪王」という響きには「蛇王」が隠されていたことが疑われる。よくよく考えればRPGゲームやファンタジー小説が当たり前の世代からすれば、むしろ火龍(火を吐いたり、火の中に生きている龍)はクリシェといってよいイメージであり、火と龍(蛇)を結びつける図太い伝承はオルタナティヴに存在するのではないか。
例えばボルヘス『幻獣辞典』で触れられている伝説の火トカゲ「サラマンダー」などまさにその代表だろう【図2】。
カスパー・ヘンダーソン『ほとんど想像すらされない奇妙な生き物たちの記録』によれば、サラマンダーと火を結びつける言説はユダヤ教以前から見られるもので、最古の一神教ゾロアスター教では火は聖なる象徴とされ、ペルシア語で「Sam andaran(サマンドラン)」は「火・内側」を意味したという。S字曲線にのたうち回る存在として龍=蛇をアナロジーする作法からいえば、ロシアの民間伝承における火の蛇(オーグニェニー・ズメイ)という、飛ぶときに火を放ち、燃える柱のような形態をとる幻獣も存在する【図3】。
暗黒武術会において是流(ゼル)、武威(ぶい)戦で繰り出される邪王炎殺黒龍波のデザイン上の特徴は、〈蛇の力〉とされる超生命エネルギー〈クンダリーニ〉を思わせるとぐろ巻く螺旋形である【図4】。
先述したように「邪王」のなかに「蛇王」の響きが隠されているのは示唆的で、蛇=龍のアナロジーを用いることで壮大な蛇状曲線(フィグーラ・セルペンティナータ)デザイン史のなかに飛影の必殺技を位置づけることができそうだ。代表的なところではウィリアム・ブレイクであろう。「蛇に誘惑されたイヴ」(1799-1800年)という絵画では螺旋をなした蛇(ほとんど龍に見える!)がイヴに知恵の実を与えるグノーシス主義・拝蛇教的な場面が描かれるが、女は蛇に唆されるというより、むしろ蛇を呼び寄せ調教する魔性を秘めた存在のようで、邪王炎殺黒龍波のデザイン感覚の祖先と呼んでいい【図5】。
ブレイクのS字曲線、それをさらに加速させた渦巻き狂いは有名で、他にも前期小預言書と呼ばれる『ヨーロッパ』(1794年)に渦巻く蛇が見られるほか、『アメリカ』(1791-95年)に至っては子供たちがまたがる黒い蛇の存在が確認され、邪王炎殺黒龍波の「黒さ」にまで接近している【図6・7】。
火山と地獄から湧き立つ黒い龍のバロキズム
黒い蛇で思い出されたのがポンペイの壁画である。噴火するヴェスヴィオ火山の前景に黒い蛇がのたうっているのだ【図8】。
蛇=龍は火山と関係をもつのだろうか。1798年に描かれた作者不明のヴェスヴィオ火山の噴火図では、大地を流れる黒い溶岩流はさながら邪王炎殺黒龍波である【図9】。
この絵画が描かれたころはゴシック・リヴァイヴァルが起こったあとで、ゴシック美学綱領とも言えるエドマンド・バークの「崇高美(ザ・サブライム)」という新たな美学が誕生していた。いわばわれわれを畏怖させる、巨大で、途方もない、黒々とした人跡未踏のピクチャレスクな自然などを倒錯的に美しいと感じる感性で、邪王炎殺黒龍波を「美しい」と思うあなたは18世紀以降の感覚を生きているということになる(先述したブレイクの絵画もどれも「崇高」と評される)。
ところで龍=蛇と火山を結びつける想像力は日本でも少数ながら見られ、物理学者の寺田寅彦などがスサノオに退治されたヤマタノオロチを火山のメタファーとする説を提唱している。まず『新編日本古典文学全集 古事記』の現代語訳のオロチの外形的記述をおさらいしておこう。
その眼は赤かがちのようで、一つの身体に八つの頭と八つの尾があります。また、その身体には日陰蔓と檜・杉が生え、その長さは谷八つ、山八つにわたっていて、その腹を見ると、どこもみないつも血が流れ、ただれています(中略)[ここで赤かがちというのは、今にいうホオズキのことである]。
寺田寅彦は「神話と地球物理学」で、オロチのこの描写を「火山からふき出す溶岩流の光景を連想させる」とアナロジーしている。さらに頭と尾が八つある姿に関しては「溶岩流が山の谷や沢を求めて合流あるいは分流するさまを暗示する」とし、ホオズキのように赤く輝く目に関しては「溶岩流の末端の裂罅(れっか)から内部の灼熱部が隠見する状況の記述にふさわしい」と述べていて大層刺激的な議論だ。
日本の「火山列島の思想」(益田勝実)にこそ龍/蛇と火を結びつける想像力の源があるのかもしれない。邪王炎殺黒龍波は魔界という地下世界から呼び寄せられた怪物であることは先述した。すると詩人・金子光晴の「地獄の思想と日本人」(『伝統と現代 特集:地獄』所収)の以下の言葉は示唆に富む。「地下にある地獄は、火山の多い日本では、象徴ではなく現実に溶岩の噴出や、温泉場の地獄と名づける熱湯の湧返っている岩場を見て、それと結びつけることは自然である」。
火山と地獄をアナロジーする金子の指摘から、邪王炎殺黒龍波の想像力の祖先は地獄絵のなかに多くあると気づかされる。よくよく見れば地獄の獄卒然とした飛影の扉絵も存在するし、コエンマが説明する地獄の階層システムも地獄そのものではないか【図10】。
「北野天神縁起」の無間地獄を描いた、火の中の獄卒を見るがよい。この作品を絶賛した澁澤龍彥はこう評している。「どの場面にも見られるアラベスクのような赤い焔の美しさに、『地獄草紙』の因襲的な、衰弱したような火焔とは全く性質を異にした、力強い、近代的なデザイン感覚さえ感じると言ったら言いすぎであろうか」(澁澤龍彥「地獄絵と地獄観念」、『図説 地獄絵を読む』所収)。まさにこのアラベスクな火焔の行き着く果てに黒龍波のデザイン感覚を見てもよいだろう【図11】。
同じ「北野天神縁起」の大叫喚地獄には、業火のなかでとぐろ巻く蛇に締め上げられ貪り食われる罪人が描かれ【図12】、「六道絵」の阿鼻地獄を描いたものには、業火のなかで毒を吐く大蛇が出てくるが、その造形はほとんど龍である【図13】。
地獄の業火のなかでのたうつ蛇/龍とは、邪王炎殺黒龍波のヴィジョンそのものではないか! 冨樫義博が邪王炎殺黒龍波の想像力の源泉として、地獄絵を意識した可能性さえちらつく。
地獄、火山のみならず仏教芸術との類似も飛影のヴィジュアルには確認される。武威戦で黒龍波を飲み込んで黒いオーラをまとった飛影の姿【図14】に関しては、不動明王の火焔光背を思わせるところがある【図15】。
黒桃太郎戦で初披露された「邪王炎殺剣」【図16】に関しては、その不動明王が右手にもつ「倶利伽羅龍剣」との類似を指摘しておこう【図17】。
半跏思惟像をピーコックチェアに座るエマニエル夫人とアナロジーしたみうらじゅんのひそみに倣えば、焔のようにパンクに逆立った飛影のヘアスタイルは、伐折羅(バサラ)や愛染明王の怒りのヘアスタイルだといえるだろうか【図18】。
黒いモラルへの凝結――黒い龍の「異常‐静力学」
火山=地獄=魔界の龍(蛇)をアナロジーすることで、邪王炎殺黒龍波のバロックにのたうちまわる力動感の秘密をヴィジュアル方面から説明できたと思う。では、なぜ龍は「黒い」のか。雲龍図でいえば、海北友松の渦巻く「黒い龍」など黒龍波的ヴィジョンの先蹤だとも言えよう【図19】。
しかし「黒さ」ならばそれ以上に、イエズス会のバロック的才人アタナシウス・キルヒャー師の『地下世界』挿絵をご覧いただけば話が早い。ロザリンド・ウィリアムズ『地下世界』の「崇高さと魔術という用語は、地下世界に超有機的価値がひそむことを明らかにした」という鋭い洞察を思い出させる、このバロック的躍動感・生命観に満ちた図版にはドギモをぬかれる【図20】。
地球内部の火山ネットワークを描いたこの絵を見るにつけ、邪王炎殺黒龍波とは地下世界(火山、地獄)から噴出してきた〈魔〉の力そのものであろうと思わされる。『幽☆遊☆白書』の魔界篇にもキルヒャー挿図を髣髴とさせる稲妻のバロックデザインが見られ、東アジアにおける雷と龍/蛇の形態的アナロジーの伝統に鑑みても、こういった異形な空間から黒龍は呼び寄せられるのだと知れる【図21】。
地下世界——それはルネサンス時代には「グロテスク」と呼ばれる反美学を生み出したグロッタ(洞窟)と同義であろう。古典古代リヴァイヴァルで幾何学的調和やシンメトリーが言祝がれたルネサンスの夜の側として、カピトリーノのネロの黄金宮は「発掘」された(まさにそれは地中にあったのだ)。その壁に描かれたぐるぐるの唐草模様は「グロテスク」と名づけられて一大流行をけみした。ルネ・ユイグは名著『かたちと力』でその衝撃を以下のように綴っている。
彼らにはそれは地中にのみこまれた、明るさのない夜の世界と結ばれているように見え、この起源そのものから、曖昧でまた十分明らかにされていないもの、すなわち後になってはじめて無意識と呼ばれることになるものと結びついた部分を持っているように思われた。それで、ピエトロ・ルッツィ・デ・フェルトレという第一発見者の一人は、奇異な、動揺の激しい、「黒胆汁質の男(メランコリック)」として評判になり、彼のことを死神と呼ぶのが習慣になったのだろう。
すなわち邪王炎殺黒龍波とは「夜の世界」「曖昧」「無意識」に結びつけられたグロテスク模様であり、それを呼び寄せる飛影は「死神」であった【図22】。
澁澤龍彥は北野天神縁起絵巻のうずまく火焔をモダンなデザイン感覚の「アラベスク」と評したが、正確を期すならば黒龍波は「アラベスク」と「グロテスク」の境界領域にあるように思える。G・R・ホッケは『迷宮としての世界』で以下のように書いているからだ。「グロテスク模様は今日の超現実主義へ逢着し、アラベスク模様は現代の抽象芸術へ、より正確には「具体絵画(パンチュール・コンクレート)」へと逢着することになる」。つまり、アラベスクの幾何学的な抽象化作用(バレエの片脚を斜め上にピーンと伸ばすポーズ「アラベスク」に象徴される)とは異なり、グロテスクにはS字曲線のバロック的力動性がわなないているのだ【図23】。
それゆえテュルボ(渦巻き)の力動感・眩暈をもたらす感覚を本性とするバロック=グロテスクに邪王炎殺黒龍波の美学を求めることは、半分正解、半分誤りである。アラベスクのもつ幾何学的なデザイン感覚(静止した感覚)が黒龍波には残っていることを忘れてはならない。螺旋をなした黒龍波のスタティックな様態は、アンドレ・ブルトン『狂気の愛』の言葉でいう「爆発的に凝固した」パラドックス感に満ちている。キルヒャー『フィジオロギア』(1624年)の造語を借りれば「異常‐静力学(パラ・スタティック)」に支配されており、これはマニエリスムの特性である。G・R・ホッケはマニエリスム美学書『迷宮としての世界』の「蛇状曲線‐痙攣的」の章で、「美はイデアにおける内的動揺を通じて、狂気(furore)を通じて、生み出される。焔がその直喩となる」と書いた。ここで焔と蛇は同義語である。
とはいえこの狂気の焔は「凍った焔」なのである。ここで思い出したいのは、S字に邪悪にのたうつ邪王炎殺黒龍波の拡散性に対しての、飛影の首に下げた氷泪石という凝縮のモチーフである。蛇は奔放に動き回りたぶらかす存在であり、ロシアの民間伝承では寝室に忍び込むエロティックな「火の蛇」と人間を見分ける方法は、前者が「無脊椎」であることを確かめることだった。いわば脊椎のようにまっすぐな「硬さ」と「モラル」がないものが蛇/龍であり渦巻くバロックなのである。その蛇の動きにスタティックな感覚を与えたものこそが、飛影の冷たさであり、憎しみを吸い取る氷泪石の硬質な結晶美学ではなかったか。
S字曲線を称揚したウィリアム・ホガースの『美の分析』の冒頭に配された名高い「ヴァラエティ」の一枚では、蛇のかたちは「アルベルティのピラミッド」に囲繞されている【図24】。
これをブレイクの奔放な渦巻きに届かない、ホガースの旧套モラルと断じることは容易い。しかしこのバランス感覚こそが飛影の魅力であり、邪王炎殺黒龍波の極大にまで高められた暴力性は、氷泪石の極小にまで固められたモラルと共振することによって「異常‐静力学」のマニエリスムに達し、飛影というキャラクターを日本マンガ史上もっとも「痙攣的」(アンドレ・ブルトン)な「黒いモラル」にまで押し上げた。こうも言えようか。武威戦で黒龍波に喰われたのではなく自ら「喰った」ことで、飛影は龍を完全にコントロールし「冷たい焔」(シェイクスピア)になったのだと【図25】。