綺想とエロスの漫画史

09 『幽☆遊☆白書』論【中篇】——飛影と軀、夜の果てへの旅

後藤 護

懐かしい風だぜ 心地よくて落ち着く 腐った血と肉が混じりあった魔界の風だ
飛影

今日から本当の人生のはじまり 肥溜の中で産声をあげた

すべてを黒く塗り潰さねばならぬ

フェルディナン・セリーヌのM・ヒンダス宛書簡

小ささは強さ――逆立ちしたガルガンチュア

「先天性犯罪者説」を唱えたロンブローゾが(今では完全に否定されているが)犯罪者の特徴だとした三白眼、第三の目である邪眼、全身を覆う黒服、黒い炎のように逆立った髪の毛……数ある飛影の特徴のなかでもとりわけ目を引くのは、その極端なまでの小ささである【図1】。幽助、桑原、蔵馬といった主要メンバーたちと並んでもその小ささは際立っており、幻海師範を除くどの女性キャラよりも小さい。

図1 崇高な山のように聳え立つ戸愚呂弟の「大きさ」と、飛影の「小ささ」のコントラスト。少年が同一化するのは後者であろう(冨樫義博『幽☆遊☆白書 9巻』集英社、1993年2刷、90-91ページ)。

小さいが強い。そして誰よりも速い。あまりにも有名な「残像だ」の決めゼリフで黒桃太郎を瞬殺し、四聖獣・青龍を一瞬でたたっ斬るスピードスターぶりに少年はみな憧れた【図2】。

図2 四聖獣・青龍を瞬殺する飛影。キルアの心臓えぐりにせよ、冨樫義博は「瞬殺」のイメージを偏愛している(『幽☆遊☆白書 5巻』集英社、1992年、82ページ)。

「今日はでかい奴の厄日だね」という戸愚呂弟のセリフは飛影にこそふさわしく、「おまえら背の高い順にブッ飛ばしてやる!」という菊地成孔の粋な夜電波の名文句を字義どおり実践するのが飛影なのである。異端の江戸文学者・松田修が「ちいさい畸形の叛乱 小人のイマージュ」(『異形者の力』所収)で鋭く指摘しているように、「日本列島とは(琉球弧を含めて)小を小なるがゆえに偏愛する不思議な空間であった」、「それ[小ささ]は平均値や中庸の発想と、鋭く対立するものであった」。たしかに飛影の極端な小ささには「平均値」という統計学を食い破る異形性がある。

飛影の小ささには、一寸法師やスクナヒコナに代表される日本独特の「小さ子」崇拝の残像があるように思う。イ・オリョンの『「縮み志向」の日本人』によれば、韓国には小人や子供が自分より大きな鬼や巨人を打ち倒す昔話はほとんど見られず、韓国に登場するヒーローは脇の下にウロコの生えたチャンスゥ(巨人)であったという。それゆえ日本文化を底流する小さいものをめでる「一寸法師の影」が不思議でならなかったと。

西洋でも韓国とはなしは同じで、ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』のような巨人崇拝が基本である。神より人間を称揚するユマニズムの登場によって「巨人になりたいというルネッサンス以来の西欧人の夢」(イ・オリョン)が目論まれ、ラブレーの大ぼらによって文学史的に実現された(オシッコで火事をチン火する巨人!)。

巨人ガルガンチュアに対して、日本には江島屋其磧(えじまやきせき)が浮世草紙で描いた大豆右衛門がいたことをイ・オリョンは指摘する。秘薬によって芥子粒ほどのサイズに身を縮めて、どんな男の懐に潜りこんでも魂を入れ替えることができ、様々な色遊びに興じて「いてこます」のだった。大きくなるのではなく小さくなるのである。「大豆右衛門」が流行語になって「豆男」として辞書にも載ったというから、「小ささこそが強さ」というミニチュア主義は日本ではやはり強い。イ・オリョンはこの豆男を「日本の逆立ちしたガルガンチュア」とうまいこと評したが、飛影も正にそれである。「小さい巨人」というパラドックスは、飛影から『進撃の巨人』のリヴァイまで綿々と受け継がれる日本的常数であった。飛影の小ささは、90年代に夢中になったポケモンの記憶とも筆者の中でどこかリンクしている。そして連載中二回にわたる人気投票で連続一位を記録したその異常な愛され方は、飛影の小ささに求められるのではないだろうか。レスリー・フィードラーが『フリークス』で「ジャックと豆の木」の巨人(オーガ)と少年ジャックに触れながら以下のように書いている。

われわれは一瞬たりともこの過剰な成長をとげた仇敵の立場に身を置こうとは考えない。われわれは意識の深奥では永遠に子供のジャックなのだ。また、時折、お伽噺の中に出てくる善良な巨人の場合でさえ、彼と同一化するのは難しい。小人の場合なら、一番邪悪な小人とさえ、われわれは同一化しがちであるのに。これはかなり自然なことではあるだろう。というのは、われわれは誰しも、身長2フィート[約61センチ]以下だった時代があるわけだし、長生きをすれば、再び背が縮む時がくるのだから。けれども、身の丈10フィートになった自分を想像するのは、ドラッグによる狂いに狂った陶酔の中でだけなのである。

飛影は「永遠の少年」の象徴であった。「一番邪悪な小人」であったかもしれないが、それでもなおスピードと跳躍力に恵まれ、邪王炎殺黒龍波という「魔法」が使える飛影は、融通無碍なイマジネーションに恵まれた少年にとって感染・模倣(ミメーシス)の対象であった。彼は僕たちと同じように小さいではないか。小学生当時、飛影および自分の「小ささ」を強く意識していたわけではないが、フィードラーの言葉どおり意識の深奥で「同一化」していたことは間違いない。

「冷たい焔」という孤児感覚を生きる

「小さいけど強い」という日本的パラドックスのみならず、飛影というキャラクターの陰翳をさらに濃くしているのがその呪われた出自であろう。「それぞれの一年 飛影 前篇・後篇」(『幽☆遊☆白書18巻』所収)は、飛影が魔界の三大勢力の一人・軀(むくろ)の直属戦士となるべく修行する期間を描いているのだが、ここで謎に包まれていた彼の出自にまつわる回想が入ることで、ダークヒーローとしての飛影像をほぼ完璧なものに高めたといってよい。物語後半屈指の名作である。

空中を漂う氷河の国【図3】に暮らす氷女(こおりめ)たちは、百年ごとの分裂期に誰の力も借りずに一人の子供を産む。

図3 空を漂う氷河の国。父も知れず母もなき根無し草(デラシネ)である飛影の寄る辺なき実存をそのまま映し出す孤絶した寒村。「呪われた東北」という寺山修司的イメージが氷河の国には適用されている印象で、冨樫義博が雪深い山形県の出であることを思い出させる(『幽☆遊☆白書 18巻』集英社、2001年33刷、9ページ)。

それゆえ子供は分身であり、生まれるのはすべて女子だった。しかし、男と交わったときだけ、雄性側の性質のみを受け継ぐ残忍で凶悪な男子が生まれる。生んだ直後に母は確実に死ぬ。そうして誕生したのが飛影だった。呪符で抑え込まなければならないほどの炎の妖気に包まれた飛影は、氷河の国では当然忌み子であった【図4】。

図4 氷河の国で生まれた炎術師・飛影は「冷たい焔」(シェイクスピア)としての実存を余儀なくされ、忌み子として唾棄される。「心まで凍てつかせてなければ長らえない国なら いっそ 滅んでしまえばいい」という雪菜の言葉には、双子の兄・飛影の冷酷なニヒリズムが残響している(『幽☆遊☆白書 18巻』集英社、2001年33刷、18ページ)。

母の氷菜(ひな)は死に、その友人・泪(るい)が代わりに飛影を氷河の国から捨てたのだった【図5】。

図5 氷河の国から捨てられた瞬間の飛影。ハーフトーンをほとんど用いず白と黒のスタイリッシュな明暗対比を駆使する富樫スタイルが、ここでは冷酷な効果をあげている。捨てられる瞬間の空白、そして夢から目覚めた瞬間の飛影をとりまく漆黒。描きこまれるべき空白(タブラ・ラサ)は、氷河の国の女たちを皆殺しにするという憎しみの黒に染め上げられる(『幽☆遊☆白書 18巻』集英社、2001年33刷、10ページ)。

「冷たい焔」(シェイクスピア)という孤児感覚を彼は生きることを余儀なくされた。名付け親は盗賊であったが、その彼らでさえ飛影を見捨てた。流浪がはじまる。「旅のさなかにあっては、人は誰しもが独身者としての実存を生きるのではないだろうか」と書いたのは四方田犬彦であったが、孤児であり流浪者という二重の業苦を背負って彼は生きていく。マニエリスム美学者の種村季弘が上田秋成の出生を評した以下の言葉は、奇妙なほどに飛影の実存と重なる。

父はなく、母はほとんど面影を記憶にとどめるまもなく他界している。戸籍の出生欄はほとんど空白にひとしい。彼は生れながらにして天涯寄辺ない私生児である。(中略)生れ落ちた瞬間から、彼は自分を人生の過客と意識している。(中略)存在の根拠とすべき足掛りが何ひとつない。彼は無根拠を根拠として存在しなくてはならないだろう。
種村季弘「孤児のロゴス」(『壺中天奇聞』所収)

「それぞれの一年 飛影」に見られるニヒリズムの正体は「人生の過客」「無根拠」ゆえの孤児感覚であった。母はなく、生き別れた双子の妹・雪菜の存在だけが懸念だった。双子の兄妹は、母のこぼした二粒の涙が結晶化した氷泪石(ひるいせき)を後生大事に持っている。これが母の形見、そして母を忍ばせる面影なのである。母屋(おもや)などという言葉からもわかるように、「おもかげ」という言葉には母の残響があるとされている。美しい石を通じて生き別れた雪菜を想い、おそらく石のなかに死んだ母親の「おもかげ(母影)」を飛影は見ている。氷泪石が悲しみや憎しみを吸い取るという設定は、つまりこの石は母性の象徴、ミクロコスモスに閉じ込められた母の幻影なのであろう【図6】。

図6 憎しみを吸い取る氷泪石に魅せられる飛影。おもかげ(母影)が凝縮されたミクロコスモスが、寄る辺なく流浪する飛影に立脚点を与える(『幽☆遊☆白書 18巻』集英社、2001年33刷、41ページ)。

飛影と軀——フラジャイルな楕円の肖像

さて飛影は次から次へと襲ってくるA級妖怪(B級妖怪の戸愚呂弟より強い!?)を皆殺しにし、とうとう邪眼の手術を飛影に施した時雨(しぐれ)との一騎打ちが展開される。この戦闘シーンは『幽☆遊☆白書』でもっともスタイリッシュなものといって過言でない。僅か10ページほどに過ぎないが、「対峙はほんの一瞬だった そして勝負も」というナレーションとともに開始される剣戟は、ほんの一瞬がさらに微分化され、異様に時間が引き延ばされている(『HUNTER×HUNTER』のキメラアント篇に先駆ける手法)。暗黒武術会篇などで見られた必殺技を披露しあう「おさなごころ」をくすぐるバトルとは打って変わり、セリフのほとんどない剣のみの対話というストイックな闘いが演じられる。燐火円轢刀という輪っか状のトリッキーな武器を駆使する時雨とのバトルは両者ともに片手を失う血みどろのもので、白土三平の劇画ないし『バガボンド』のような凄絶さと緊張感に達している【図7】。

図7 飛影と時雨の剣戟シーン。セリフはほとんどなく、純粋な刀による「対話」がストイックなまでに行われる。少年マンガの明朗快活な必殺技のお披露目会とは対極に位置する劇画的な緊張感に戦慄する(『幽☆遊☆白書 18巻』集英社、2001年33刷、34ページ)。

その空間に注目してみたい。入口は女性器状の裂け目であり、空間内部には血管や神経組織を思わせる管や襞が所せましと埋め尽くしている。ここに妖怪たちの血まみれの死体がごろごろと転がっている。暗く、血にあふれた、べとべとした、女性器状の裂け目からしか入れないこのH・R・ギーガー的造形空間は確実に子宮のメタファーであり、飛影は暗黒の胎内めぐりを行っていることになる【図8】。

図8 H・R・ギーガーふうの子宮的空間。ここで飛影は暗黒の胎内めぐりを行い「生まれ変わる」。呪符と包帯でぐるぐる巻きの軀は、炎の妖気を抑え込むために呪符でくるまれていた忌み子飛影との視覚的共鳴が認められ、両者が負性を帯びたフラジャイル(幽けき)一族であることをモノ語る(『幽☆遊☆白書 18巻』集英社、2001年33刷、20-21ページ)。

いわば過去の自分と対決し(邪眼の手術を施し、剣術指南までした父親的存在の時雨との対決は象徴的)、軀の直属戦士として「生まれ変わる」ためのイニシエーション(通過儀礼)、というよりインキュベーション(孵化)の場なのである。こういった子宮的な場だからこそ、自らの出自の回想も入るわけである。

「それぞれの一年 飛影 後篇」では、培養液の中に入って肉体を修復中の飛影(これも「生まれ変わり」のメタファー)の意識に軀が触れることで、飛影のさらなる過去が明らかになる。「お前の意識は今までオレが触れたものの中で一番心地いい」と言って、軀もまた性奴隷とされた過去を打ち明け、七歳の誕生日に硫酸をかぶって爛れて失われた半身を飛影のまえにさらしだすのだ【図9】。

図9 軀の失われた右半身は、性奴隷として虐待された幼少期の心理的欠損感覚のメタファーでもある。飛影という闇の「片割れ」によって埋められるべき喪失(『幽☆遊☆白書 18巻』集英社、2001年33刷、44-45ページ)。

この失われた半身は、彼女が肉体のみならず精神的にも円満具足ではなく「片割れ」が必要であることのメタファーにもなっている。あえてこの言い方をするが飛影と軀は「片輪」である。その欠けた者たちが補填し合い、傷を修復し、一つの「輪」になるのである。しかしそれは古典的な調和の「円」ではなく、マニエリスムやバロックの紋章である不安定に歪んだ「楕円」としてなのであった。飛影と軀のふたりの間の、楕円の二焦点のような緊張関係は、性奴隷やら人身売買やらも絡んで、少年誌で書き継ぐことが困難なほどダークで歪(いびつ)である。とはいえ戸愚呂弟と左京の関係にも似た、ダークな業を背負った人間特有の結束には心を奪われる。「フラジャイル(こわれもの・儚さ)」の美学が、飛影と軀の二人を過激につなぐのだ。松岡正剛は名著『フラジャイル』のなかで以下のように述べている。

それ[フラジャイル]は、些細でこわれやすく、はかなくて脆弱で、あとずさりするような異質を秘め、大半の論理から逸脱するような未知の振動体でしかないようなのに、ときに深すぎるほど大胆で、とびきり過激な超越をあらわすものなのだ。部分でしかなく、引きちぎられた断片でしかないようなのに、ときに全体をおびやかし、総体に抵抗する透明な微細力をもっているのである。

「引きちぎられた断片」とは孤児であった飛影、性奴隷であった軀の存在意識そのものである。彼らは安全で幸福に満ちた、ヴァルター・ベンヤミンがベルリン時代を回想したような幼年期のまどろむような記憶はみじんもない。タブラ・ラサ(白紙)の可能性を最初から黒く塗りつぶされて始まったような、生きるに値するのかも分からない暗黒の生。しかしそんな彼らだからこそ「あとずさりするような異質を秘め、大半の論理から逸脱するような未知の振動体」になりうるのであり、飛影と躯はフラジャイルに共振しえた。

ところで英語の「フラグメント」も「フラジリティ」も、ドイツ語の「フラギール」もフランス語の「フラジール」も、その根っこはラテン語の「フランゴ」(frango)を語源とした言葉が基点になっている。「弱さ」と「断片」は語源をともにしている。エルンスト・ローベルト・クルツィウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』によれば、ラテン時代の初期の「フランゴ」という言葉は、「破砕する」とか「誓いを破る」とか「弱める」とかいった意味をもっていた。この「フランゴ」を背景の中心にして、弱々しさを意味する「フラクタス」(fractus)や「フラギリタス」(fragilitas)という言葉、あるいは断片性や廃墟性を意味する「フラーグメントム」(fragmentum)が派生した。いずれも同じ語源をもつファミリーで、英語の「フラクション」(分数)や「フラクチュア」(骨折)も同じ親をもつ。こうした語源考を示したのち、松岡は以下のようにまとめている。

そこには壊れゆくものにたいする消息の、哀感とも共感ともつかぬ奇妙な同調がある。フラジャイル一族は胸高鳴る一族なのである。しかし、それだけでもない。もっと無償のものを求める感覚もある。モノの問題を自分の感覚のほうに返しているところがあり、ある事態の隙間からなにか輝きをもったような貴重なものが飛び散っているような、そんなところがあるのだ。

壊れゆくものへの「哀感とも共感ともつかぬ奇妙な同調」とは、軀が飛影に寄せた意識の摺り寄せに近い。SNS社会が半ば強制する「共感」地獄(むろん叫喚地獄のパロディー)のガサツさにはない、幽(かそ)けき美々しいフラジャイル一族として二人は結ばれる。そして「モノの問題を自分の感覚のほうに返しているところがあり、ある事態の隙間からなにか輝きをもったような貴重なものが飛び散っている」という松岡の記述に対応するのが、飛影と氷泪石の関係ではないか。母の涙が結晶化した美しいモノのなかに、失われた幸福な幼年期、ありえたかもしれない母親の愛情、生き別れた妹への想いなど、飛影のなかで渦巻いている感情が、すべて投影されているのだ。誰よりもクールで小さな飛影。しかし彼よりもさらにクールで小さな氷泪石のなかに凝縮された「おもかげ」にこそフラジャイルの消息がある。そして小ささ、すなわち「弱さ」はラディカル・ウィルに非論理的に跳躍し、飛影の「強さ」に転じる。

軀という「おぞましいもの」

軀の醜悪きわまる嘔吐的実存はコミックス最終巻所収の「Special Day」で明らかとなる。内容は前篇で示した通りで、奴隷商人・痴皇によって性奴隷として奉仕させられていた恐るべき過去が飛影によって掘り返される。0歳で腹を改造され「玩具」にされ、「頭を切り落として首から突っ込んでやろうか?」とサディスティックに問われ、ニヒリスティックに「どうぞ」と答えて痴皇を喜ばせるほどに軀の人生は最初から自嘲と哄笑に包まれ終わっていた【図10】。

図10 「人間は、結局、腐りかけの代物(de la pourriture suspens)に過ぎないんだ」というセリーヌ『夜の果てへの旅』の呪詛と諦念にも似た認識が軀の人生のはじまりだった(『幽☆遊☆白書 19巻』集英社、1994年、97ページ)。

とりわけ軀の以下のセリフには少年誌の枠を食い破る「おぞましいもの(アブジェクシオン)」がある。「七歳の誕生日 自ら酸をかぶった あいつの興味を殺(そ)ぐために あいつは あっさり オレを捨てた 今日から本当の人生のはじまり 肥溜の中で産声をあげた」。自らの一部でありつつ、分離し、棄却したいおぞましいもの、しかし同時に惹きつけられ、欲望せざるをえない両義性をジュリア・クリステヴァは『恐怖の権力』で「おぞましいもの(アブジェクシオン)」と呼んだ。軀にとって分離したい、しかし分離しえない過去のおぞましさ。

「肥溜の中で産声をあげた」というグロテスクなイメージに残響しているのは、『夜の果てへの旅』で知られるフランスの呪われた作家フェルディナン・セリーヌである。作家の諏訪哲史が『偏愛蔵書室』のなかでセリーヌの世界観を一言で言い当てている。「糞ったれの世界。糞ったれの自分。僕らは黒い夜の底で醜い害虫のように生きている。それを直視できぬ奴らはあらゆる害虫の中で最も醜い」。自らの人生のはじまりを「肥溜」と軀は呼んだが、『虫けらどもをひねりつぶせ』のなかで世界そのものを「本物の便所」と呪ったのがセリーヌであり、そのセリーヌの糞尿まみれの呪詛に「剥き出しにされ、打ち捨てられたもの。根深い嫌悪、不快、堕落、傷口」を読み取って「おぞましいもの(アブジェクシオン)」文学の代表格としたのがクリステヴァであった。セリーヌ的なしくずしの人生を歩むアウトサイダー軀が「心地いい」と感じるのは、腐った血と肉が混じりあった魔界の風に心地よさを感じる飛影の孤児感覚しかありえない【図11】。

図11 痴皇にブレインウォッシュされた結果、殺意を抱くたびに愛情を注がれた疑似記憶が発動するようになった軀。少年・飛影は失われた母の姿を追い求め、少女・軀は失われ父の姿を追い求める。二人に決定的に欠落していたものは幸福な幼年期であったからこそ、「弱い」出自であったからこそ、誰よりも「強い」絆で二人はいびつに結ばれる(『幽☆遊☆白書 19巻』集英社、1994年、98ページ)。

セリーヌの翻訳者・生田耕作はこう述べている。「彼に言わせれば、どちらの方向へ向かおうが、世界はいまより良くも悪くもなり得ない。それはつねに醜く、つねに生きるに値しない。(中略)しかし人間の汚さについて全真実が語られたとき、われわれはいまより幾分か自由になれるだろう」。国民的人気マンガ『幽☆遊☆白書』の糞のように醜い部分をすべて引き受け、糞と憎悪の中で自由を謳歌するように、軀と飛影の二人は呪われた最小単位の秘密結社になる。「Special Day」は物語全体から見れば断片(フラグメント)に過ぎない。しかしそれは全体を脅かす、エッジの鋭い魔を秘めた部分である。冨樫義博の短編作家としてのダークな天才を示すものでもあり、フラジャイルとは常に全体システムに対する異質性・異形性であることを、この圧倒的な完成度の「黒い」短編は物語る。

最後に飛影と幽助の関係を見てみよう。幽助の屈託のなさが、少しずつ邪悪な飛影をかわいげあるツンデレ男に変えていったのは確かである。ではなぜ、そのような友人を得てすら、飛影は生きる目的を失ってしまい、時雨との闘いでは死ぬことすら覚悟したのか。なぜ軀と飛影の関係が新たに作り出される必要があったのか。思うに幽助には「欠けた者」のフラジャイル(弱さ)の感覚がなかったからではないか。雷禅という魔界の三大勢力の魔族の血を引く彼は、結局のところ『週刊少年ジャンプ』でたびたび問題にされる血統の良い男であった(名ハンターのジン・フリークスの血を引くゴン・フリークス然り)。飛影にはそのような血筋の良さはなく、実は高貴なお生まれでしたなどというおめでたい貴種流離譚はない。

変えることができない呪われた出自、呪われた流浪にふさわしいのは、呪われた仲間である。飛影の「冷たい焔」としての実存の奥の院に触れることができるのは、太陽ではなく月、幽助ではなく軀の細い月をなぞる指である。付け加えるならば、飛影と『HUNTER×HUNTER』のキルアの類似性はたびたび指摘される。しかし、暗殺一家の「名門」ゾルディック家に生まれた闇系おぼっちゃんのキルアでは、母もなく父の名も知れぬ飛影の孤児感覚・デラシネ感覚の〈魔〉の深淵には届かないような気がする。本当の「弱さ」を抱え込んでこそ「強さ」ではないのか? 筆者の目には、キルアもリヴァイも、ダークヒーローとしての飛影の「深み」に達していない、表層的な人物に映ると書いたら顰蹙を買うだろうか【図12】。「弱さはつねに過激である」(松岡正剛)、それゆえに飛影と軀の異質さは、いまのコンプライアンスの均質化・無害化作用に烈しく対立する、しかしそれこそが粋なのだ、と最後に申し添えておこう。13,000字におよぶ長い前置き(!)になったが、後篇でいよいよ邪王炎殺黒龍波を論じよう。

図12 「すべてを黒く塗り潰さねばならぬ」(フェルディナン・セリーヌ)という言葉を体現する闇の住人・飛影。「夜の加速度に背中押されて」(高橋ひろ「アンバランスなKISSをして」)飛影は夜の果てへの旅を続けるであろう。出口なし(『幽☆遊☆白書 7巻』(集英社、1992年4刷、29ページ)。
後藤 護

後藤 護

暗黒綺想家。blueprintより新刊『悪魔のいる漫画史』が刊行(表紙画:丸尾末広)。『黒人音楽史 奇想の宇宙』(中央公論新社、2022年)で第一回音楽本大賞「個人賞」を受賞。その他の著書に『ゴシック・カルチャー入門』(Pヴァイン、2019年)。未来の著書に『博覧狂気の怪物誌』(晶文社、2025年予定)、『日本戦後黒眼鏡サブカルチャー史』がある。著者近影は駕籠真太郎による。