まずは謝罪から。

すっかりご無沙汰してしまって申し訳ございません。気づけば前回から1年以上も更新を止めてしまっておりました。昨年度から少し環境が変わったことで、腰を据えて往復書簡の原稿を書くことがままならなくなってしまいました。否、厳密にいえば、環境が変わったことでラブドールについて考える時間と質は以前よりも格段に増えました。ではなぜ更新に至らなかったのか、その理由も含めて少しだけ近況報告(言い訳?)をさせてください。

2025年の4月から、もともと所属していた大学院に再入学というかたちで戻る選択をしました。目的は博士論文を提出することです。一度就職のために単位取得退学をし、任期を終えてからも(実花さんもご存じのように)のらりくらりとしてしまっていたのですが、一念発起して戻ることにしました。ただ、制度的に私に残された時間は短く、2025年度中に本提出までに必要なプロセスを一気に済ませなければならず、こちらを優先させてもらっていたという次第です(おかげさまで無事にそれを達成し、現在は本提出に向けてがむしゃらに執筆しているところです)。

大学院に戻る際、博士論文のテーマを何にしようか悩んだ時期がありました。気づけば10年近く対象としてきたラブドールではありますが、常に不安が頭をもたげていました。この不安というのは、折につけ実花さんとも話していたことでもありますし、この往復書簡の出発点でもありますが、「どうしたら好奇のまなざしを回避しながらラブドールについて論じることができるか」というものです。最終的にはラブドールで取り組むことにしましたが、やはりこの往復書簡で実花さんと一緒に考え続けてきたことが1番の決め手だったと感じます。

有難いことに、更新が止まっている間に出会った人たちから、この往復書簡についての感想を頂く機会が増えました。実花さんと一緒にやっているのだから当然面白いことを書いているという自負はあったのですが、少し変わったテーマではあることは否めません。なので、割と読者層は限られているだろうなと思っていたのですが、蓋を開けてみたらそんなことはなく、想定していたよりも幅広い層にリーチしていたことがわかりました。そして、我々の関心をそれぞれの関心に引き寄せながら(応用しながら)考えてくださっているという方もおり、これは書き手冥利に尽きるなと思いました。

そんなこともあって、「ここまできたら腹を括ってやってやるぞ」という自分への「約束」をしたわけです。しかし、腹を括りすぎた結果として、ラブドールについてざっくばらんに書くことが難しくなってしまいました。「何か意味/価値のあることを書かねば」と、気負う必要はないのに気負ってしまう私の悪い性分が出てしまったのです。そんなこともあって、書きたいことはあるのになかなか筆が進まないという状態を繰り返していたら、こんなに間があいてしまったというわけです。本当にごめんなさい。

ただ、こうやってまた再開させることができたということは、上記の状態をひとまず脱したことを意味します。いくつかきっかけはあったのですが、一つは哲学者の宮野真生子さんと人類学者の磯野真穂さんの往復書簡『急に具合が悪くなる』(晶文社、2019年)を再読したことが挙げられます。濱口竜介監督が本書を原作に映画化したものが6月に公開されるにあたって読み直そう、と思ったのが最初の動機だったのですが、意外な形で私に影響を与えてきました。

濱口竜介監督『急に具合が悪くなる』【本予告】(YouTube)

少し話が脱線しますが、私と実花さんが初めて仕事をご一緒したのが、2018年12月に鹿児島大学で開催された文芸共和国の会主催のシンポジウム「生が、性が、モノモノしい」でしたね。在野研究者の逆卷しとねさんがファシリテーターを務めてくださったこのシンポジウムは、個人的にとても有意義なものだったと記憶しています。シンポジウムには宮野さんも参加されていて、ラブドールに関心を持ってくださったことをふと思い出しました。

さて、『急に具合が悪くなる』はがんを患った宮野さんとその伴走者として「巻き込まれ」た磯野さんの10通にわたるやりとりがまとめられたものです。往復書簡をしている間に本当に「急に具合が悪くな」っていく様子と、それでもお互いが立脚する立場からの問いかけに対して思案し、言葉を紡ぐことを諦めない二人の筆致に読むたび落涙します。内容が素晴らしいことは言うまでもないのですが、今回の再読で再発見・再認識したことが「往復書簡の醍醐味」でした。もともとこの連載は私一人で行う予定のものでしたが、一人よりも実花さんと一緒に考えていったほうが刺激的で面白いに違いないという「直感」で往復書簡という形式を採用しました(もしかしたら、無意識的に『急に具合が悪くなる』を念頭においていたのかもしれません)。

一人では思いつかなかったような視点や議論、そして発見があるに違いないという「直感」は、これまで14回にわたるやりとりのなかで実現、証明しています。それに加えて、ラブドールの議論を通して自分たち自身の理解度もあがっているように感じる機会が度々ありました。お二人の言葉を借りれば、「巻き込み、巻き込まれる」ことで予想だにしないところへ向かっていくようなやりとりこそが往復書簡の醍醐味なのに、環境の変化によってその醍醐味をすっかり忘れてしまっていたようでした。お恥ずかしい……。それを思い出させてくれるきっかけとして、『急に具合が悪くなる』の再読体験は非常に意味のあるものでした。一人で気負うのは勝手だけれど、それによって紡がれるはずだった豊かな議論が残らないほうがよっぽどだ、とようやく吹っ切れたわけです。もっと早く読み直していればと思いつつも、これもまた「タイミング」──「それは生まれてくる時間、時間の発生機への微細な感覚」(233)であり、「時間が生まれてくるのを感じとって、私たちが引っ張り出してきたもの」(233)──だと思うことにしました。

前置きが長くなってしまいました。本題に移りましょう。

臍の言及は非常に興味深く拝読しました。特に臍の緒についての実花さんと小野俊太郎さんのやりとりのなかで、小野さんが「臍は機能的には、生まれた後は必要がないものです。でも我々は、あの小さなへこみがあるかないかで、母的なものとのつながり、哺乳類であるかどうかを、瞬時に判断しているんじゃないか。」と言及されていたことが印象的でした。

ちょうど先日(2026年4月後半)、中国ブランド製ラブドールの正規代理店KumaDollさんにご招待いただき、渋谷で開催された『あなたの知らないリアルドールの世界』展のプレスプレビューに伺いました。中国製のラブドールを実際に拝見することは今回が初めてだったのですが、個人的には肌のキメやシワの表現が相当にリアルになっていたことに衝撃を受けました(ほぼ全て立ちの状態で展示されていたのも驚きましたが)。そこでも何体かの臍を見させてもらったのですが、こちらもまたリアルに表現されていました。

(筆者撮影)

7メーカーのラブドールを拝見してわかったことは、なかには2.5次元ヘッドを得意とするメーカーもありましたが、基本的には(肌の表現も含め)造形面で人間に近づけるリアル志向に力を入れていることでした。今回の展覧会はあくまで中国製ラブドールそのものを披露すること、とりわけ造形的な美しさを披露することが主眼としてあり、セクシュアルな表現はかなり抑えられていた印象を受けました(日本でも珍しい男性型のラブドールもあったのですが、こちらは上半身のみ裸でした)。

(筆者撮影)

ただ、皮肉なことに、人体が持つ機能によってもたらされる痕跡――臍はもちろんシワや血管など──をリアルにしようとすればするほど、その痕跡がどこか空虚なものに感じられてしまう。不気味の谷とは少し異なる感覚だと思いますが、個人的にはやはりラブドールはラブドールであって、人間とは異なる存在であり、ラブドールらしさをあえて残す──痕跡を表現しすぎない──ことこそが魅力なのではないかという考えに至りました。

余談ですが、今回のプレスプレビューは初めてラブドールを生で見るという人(男性)とともに伺いました。彼がラブドールに触れる際に「人間の恋人でも、ゼロ距離で顔や身体を見たり触れたりすることはためらわれるのですが……」と恐々としていたのが印象に残りました。もちろん、彼がこれまで形成してきた倫理観も影響しているとは思いますが、人間と近似しているものを見慣れない人がそういった対象と対峙した時の情動を観測できたのは興味深かったです。冷静に考えると、それが人間であれモノであれ他なる他者/他物に触れようとするときにはある一定の思慮深さが発生します。

ただ、これは常々いっていることですが、ラブドールの場合、その思慮深さが発生しない=乱暴に扱ってもいいというようなイメージが先行していることにやはり違和感を覚えるのです。とくにラブドールをよく知らない、実際に見たことがない人ほどそういうイメージを抱きがちですが、よく知らないことに対する忌避感(=認知バイアス)がそうさせているのだと思います。KumaDollさんも今回の展覧会を実施するにあたって苦慮されたことをお話してくださいましたが、こうした認知バイアスによるものが多かったようです。

さて、前回の最後に実花さんから「人形が性器を持つことについてどう考えるか」という問いかけをいただきました。これについて、ちょうど1年前に執筆していた論文(「伴侶性と呪術性を有したダッチワイフの表象──木下順一「人形」を例に」『人文科学論集』 (34、 2025年、193-226頁)で扱ったいくつかの文献から検討してみたいと思います。

その論文では、木下順一という小説家が1988年10月の『海燕』に発表した「人形」という短編小説を対象として分析を行いました。北海道・函館市を舞台に、脳に障害を持って生まれた息子のために精巧な等身大の人形(ヒトガタ)を「伴侶」として迎える一家の話です。主人公である井村康平(以下、井村と表記)を語り手とし、ヒトガタと障害をめぐる夫婦間のすれ違いが主軸となっています。20歳になる息子の樹が、とある日を境に妻の貴子に対して暴力を振るう──のちに暴力の原因は性衝動にあることが判明──ようになり、その解決策としてヒトガタの制作を依頼することになります。

作中ではヒトガタと記されているのですが、井村と人形師がヒトガタについて語るときに登場するエピソードや、ヒトガタの詳細として「身長157センチ。体重7キロ。殆ど樹脂で、セックスは収縮率の高い特殊加工のゴムが使用されていた」(木下 1992: 40)と記述されていることから、ヒトガタ=ラブドール(当時の表現でいえばダッチワイフ)であると考えられます。

なぜ木下の短編小説を扱おうかと思ったかというと、ちょうど木下が本作を構想・執筆していたと想定できる時期に、ダッチワイフと障害者の性の問題に言及する言説が登場したことを思い出したからです。それは、1977年に創業した特殊ボディメーカーの老舗「オリエント工業」の当時の関係者であったS氏が、1984年5月号『写真時代』内の記事「人形の嫁入り」で応じたインタビュー記事なのですが、もともとこの記事は同年3月増刊号で紹介された記事内容が事実と反するとして、その記事の内容を訂正するためにインタビューに応じたものでした。そこでは、障害を持つ子どもがいる親、とくに母親が抱える困難と悲劇──言葉を選んで表現すると、自分の身体を差し出すことの葛藤──に言及し、そうした悲劇を繰り返さないために「伴侶」──人間の代わりではなく、本当の「伴侶」──としてダッチワイフを作り始めたと語っています。

もう一つ、今回の実花さんの問いかけを検討するにあたって重要な文献があります。それは、詩人・小説家の富岡多恵子のエッセイです。1984年9月号の『群像』で始まった連載「表現の風景」の初回「呪術と複製」において、前述したS氏のインタビュー記事に触れながら人形の呪術性を綴っています。富岡はダッチワイフの呪術性を、劇作家で民俗芸能研究者である永田衡吉の『日本の人形芝居』の序章「人形の出生」を引用して分析しているのですが、これが実に興味深いのです。以下は実際に論文でまとめたものをかいつまんでご紹介します。

富岡多惠子『表現の風景』(講談社文芸文庫、1989)

永田はヒトガタを「人の霊魂を誘いこむ模擬人間」(永田 1969: 20)であるとし、術具であるヒトガタは厳格な儀軌に則って作られるものであって、ヒトガタの形態が最も重要だというのです(永田 1969: 21)。

ヒトガタに要求されるのは人体の正しいかたちであった。でなければ、呪術の機能が完きを得なかったのである。では正しい形とは何か。それは、頭、胴、四肢の三部分が左右均斉・正面直立の姿態である。坐ったり、手足が折り曲ったり、顔が横を向いているものはヒトガタの正しい形ではなかった(永田 1969: 21)。

さらに永田は、ヒトガタは「人体の正しいかたち」が肝要であるため、本格的なヒトガタは等身大で、着衣をしていない裸形であるべきだともいっています(永田 1969: 21-23)。勘の良い方は「これはまさにラブドール(ダッチワイフ)のことでは?」とひらめいたことでしょう。富岡も同じでした。富岡は、永田が挙げているヒトガタの条件とS氏が作るダッチワイフがぴたりと当てはまることに言及し、それが「ひとの霊魂を誘いこむように、科学の力をかりてできる限り人間に模してつくられて」(富岡 1984: 170)おり、「霊魂の容器」であるがゆえに、単なる人形ではなく「伴侶」といわしめたのだろうと指摘しています。

富岡の鋭い分析はさらに続きます。S氏が作るダッチワイフが性的な「実用」を最大の目的としていること、すなわち見た目だけが精巧な人形ではなく、女性器(に類似したパーツ)を有した状態で〈もの〉としてそこにあることで初めて呪術性が立ち上がるというのです。どういうことでしょうか。S氏が見てきた母親の悲劇は、「母親が息子の性的「実用」品となりきることができないから」(富岡 1984: 171)起こるのであって、精神的な身代わりでは意味がないからです。その意味でいえば、S氏の作るダッチワイフは母親の身代わりという側面も浮かび上がってきます。そして、「吉日を選んで嫁がせる」という人間の習慣になぞらえてS氏の「娘」であるダッチワイフを送り出すことは、S氏と母親双方による呪術の最終形態──富岡の言葉を借りれば「契約のセレモニー」(富岡 1984: 171)──となるというのです。

今現在、ラブドールをお迎えする人々やラブドールに対してこういった呪術性を見出すことはやや無理筋な側面があることは否めません。ラブドールを迎える人たちの動機が実に多様になってきたことで、必ずしも性器を持っていること──機能として「人体の正しいかたち」であること──が必要条件ではなくなってきているからです。しかし、その一方で、人間の代わりとしてではなくラブドールそのものを恋愛・性愛の対象、親密な関係性を築くパートナーにしている人たちからすると、(もちろん、それぞれのセクシュアリティによりますが)まだ有効な側面はあるかもしれません。

というのも、本来、親密性は性愛を含む関係性に限定されるものではありませんが、多くの場合、性的関係を示すとされています。家族社会学を専門とする社会学者の大森美佐は、「日本の若年独身者における親密性──性行動内容に注目して」(『人間文化創成科学論叢』〔19〕、135-143頁、2017年)という論文において、「セックスという事象がカップル関係においては重要なファクターとして捉えられており、カップルとセックスに関する研究は家族研究においても重要な位置を占めている」(大森 2017: 136)と言及しています。すなわち、実際に性行為を行うかはさておき、両者が性行為可能である状態を有しているかは親密性の議論において重視されてきたことから、擬似的であっても「女性器(に類似したパーツ)を有した状態で〈もの〉としてそこにあること」はやはり重要なポイントであるといえるでしょう。

ここまでのやりとりが臍(の緒)→性器の話と続いたので、少し変化球かもしれませんが胎児・赤ん坊について考えてみたいと思います。というのも先日、実花さんも出展されていた〈The LUCKY choices:作ると生きるの分岐点〉展で、久しぶりにリボーンドールの映像作品《Sleeping Baby》を拝見し、直感的に結びつきそうだなと思ったからです。

リボーンドールとは、本物の新生児のようなリアルな赤ちゃんの人形のことです。お迎えする理由はさまざまですが、例えば子どもを失った悲しみを埋めるためであったり、個人的な事情で子どもを迎えられない人が我が子として迎えるといったことが挙げられます。その意味では、少しラブドールと近い役割──この往復書簡を継続して読まれてきた読者の方は、ラブドールと生活する人たちが単純に性欲処理を目的としてお迎えしているだけではなく、精神的な安らぎを求めてお迎えしている場合もあることはすでにご承知かと思います──があるように感じられます。

実花さんの作品のシリーズとして、《Do Lovedolls Dream of Babies?》シリーズのあとに《The Ghost in the Doll》シリーズが作られたと記憶しています。そのため、臍を持つ妊娠するラブドールとの関連性、すなわちあの作品で妊娠していたラブドールの胎児・赤ん坊はどうなったのか、ということをどこか思い浮かべながら《The Ghost in the Doll》シリーズを観た方もいたのではないでしょうか。

おそらく、これまで《The Ghost in the Doll》シリーズについては触れてこなかったと思うので、それも兼ねて本シリーズの意図や実際のところ上記のような関連性を想定しなが制作されていたのかなどについてお聞きしたいです。

関根麻里恵⇔菅実花

関根麻里恵⇔菅実花

関根麻里恵|Marie SEKINE
1989年埼玉県生まれ。学習院大学、早稲田大学ほか非常勤講師。専門は表象文化論、ジェンダー・セクシュアリティ、文化社会学。ファッション批評誌『vanitas』(アダチプレス、2013年)のほか、『ユリイカ』『現代思想』などに寄稿。共著に『ポスト情報メディア論』(ナカニシヤ出版、2018年)、『「百合映画」完全ガイド』(星海社、2020年)、『ゆるレポ――卒論・レポートに役立つ「現代社会」と「メディア・コンテンツ」に関する40の研究』(人文書院、2021年)、『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ――私と社会と衣服の関係』(フィルムアート社、2022年)、『ポストヒューマン・スタディーズへの招待――身体とフェミニズムをめぐる11の視点』(堀之内出版、2022年)、『ゆさぶるカルチュラル・スタディーズ』(北樹出版、2023)、共訳に『ファッションと哲学』(フィルムアート社、2018年)がある。

菅実花|Mika KAN
1988年神奈川県生まれ。2021年東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻博士後期課程修了。2016年にラブドールを妊婦の姿に加工しマタニティフォトを模して撮影した写真作品《The Future Mother》を修了制作展で発表し注目を集める。主に19世紀の文化をリファレンスに、人形・写真・光学装置を用いて「人間と非人間の境界」を問う。主な個展に2019年「The Ghost in the Doll」原爆の図丸木美術館(埼玉)。2021年「仮想の嘘か|かそうのうそか」資生堂ギャラリー(東京)。2022年「OPEN SITE 7|菅実花『鏡の国』」トーキョーアーツアンドスペース本郷(東京)。出版に2018年共著『〈妊婦〉アート論』(青弓社)。2021年より『週刊読書人』で写真とエッセイを連載中。VOCA展2020奨励賞受賞。