返信ありがとうございます。
お書きになっていただいた通り、「フィクションが作られる時代や文化にどのような価値観や構造が潜んでいるか、そして表現者はそれらを内面化もしくは抵抗するような表現をおこなっているのかを考え」ること、それによって「その作品の価値を捉え返すこと」はまさしく批評の意義ですよね。
「昔は好きだった作品」を今見返すと、自分の価値観が変わったのか、当時は気づかなかったのか、あるいはその時は言語化できなかっただけで最初から違和感があったのか、といった自分のことも見えてくるのが面白いと思います。
ゴーレムについてご説明していただきありがとうございます。ヘブライ語で「未婚の女性を不完全な存在(=亜人)とみなして「ゴーレム」と形容する場合があ」る、という部分が衝撃的でした。
そこで思い出すのが「アンドロイド(android)」という言葉です。ギリシア語の「andro(人、男性)」と接尾語「oid(のようなもの)」を組み合わせた「ひともどき」を表す言葉です。初出は1728年イギリスの『サイクロペディア、または諸芸緒学の百科事典』で、ほぼ錬金術のホムンクルスのような人造人間についての記述となっています。また、フランスの『百科全書』(1772)では「アンドロイド(androïde)」は自動人形と人造人間の両方にまたがる意味が記載されています。
創作物の中で最初に「アンドロイド」の語を使用したのはヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』(1886)と言われています。いくつか翻訳が出ていますが、齋藤磯雄の日本語訳では「人造人間」の語に「アンドレイード」というルビが振られています。

「人間=男性」+「もどき」を亜人とみなすという視点は、ゴーレムとアンドロイドの両者ともに根底に流れている思想のように思います。時代背景として、その社会を構成するマジョリティの健康な成人男性が「人間」であると考えられていたことに起因するのでしょう。1980年代以降には女性型のアンドロイドを男性型と区別して「ガイノイド」と呼ぶ作品もあります。作品によってオリジナルの名称がつけられることもあるので、人造人間の呼称はバリエーションがありますね。
麻里恵さんに「実花さんのマタニティフォトの作品を知ったときは「男性のみによる(制御可能な)生命の創造物語」の逆転だ!と興奮したことを覚えています。」と書いていただけて、本当に嬉しいです。
忘れもしないですが、留学中だった2015年に、日本からドイツに来る友人に『独身者機械』を持ってきてもらいました。作品構想中にこの本を読んで、「独身者機械のその先に進もう!」と思い、制作に踏み切ったのです。

「独身者機械」は、フランスのシュルレアリストで批評家のミシェル・カルージュが1954年に出版した本です。カルージュは、デュシャンの《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称《大ガラス》)と、カフカの『流刑地にて』の二作品に登場する機械の共通項に「独身者性」を見出し、他の文学・芸術作品にも共通する特徴として論じていきます(『未来のイヴ』もとりあげています)。
2014年日本語訳版の訳者である新島進は、「ヴェルヌとルーセル、その人造美女たち」『人造美女は可能か?』(2006)で、「独身者機械」について、「多様な要素を含み、ややあいまいな点も多い」と断りを入れつつ、以下のようにまとめています。
その本質を簡潔にまとめるならば「愛と生殖の拒否(ただし相手を求めてはいる)」、「機械的工程としてのエロティシズム」、「女性との関与や交換の不可能性を模している機械」といったことになろう。
(p.38)

麻里恵さんが前回あげてくださった「男性のみによる(制御可能な)生命の創造物語」という指摘から、私は真っ先に「独身者機械」を連想しました。正確にいうと、「独身者機械」の系譜は「男性のみによる(制御可能な)生命の創造に失敗する物語」とした方が良いかもしれません。
人形やアンドロイドではなく、バイオテクノロジーの分野でも、同様の思想が見受けられると思います。
評論家、科学史・技術文化史研究家の永瀬唯は『欲望の未来 機械仕掛けの夢の文化誌』(1999)で、世界初の体細胞クローンの成功例である羊のドリーに先立ち、1970年代の体細胞クローン技術に関するニュースをはじめとして、「単為生殖のユートピア」の夢が文化史の中で度々登場していることを指摘しています。
たとえば、1970年代には両生類の体細胞クローン実験が成功していたので、その影響を受けたフェイクニュースや未来予測の記事が次々と世に出ていました。そこで繰り返されたのは、ヒトラーやアインシュタイン、モーツァルトのクローンを例に出したものであったり、大富豪の男性が科学者を雇って自らのクローンを作り出しているというデマでした。もっと遡れば、『百科全書』の著者であるディドロの『ダランベールの夢』(1769)で描かれた人工子宮による生殖もその範疇に入ってくるでしょう。
しかし永瀬は、「男抜きでの生殖」、つまり女性だけの単為生殖についても言及しています。そもそも自然界には魚など、未授精の卵子から成体を生み出すことのできる生物が存在しています。そして20世紀初頭には、テクノロジーによって単為生殖が可能になるという想像が女性の書き手から発表されています。フェミニストのシャーロット・パーキンス・ギルマンの『フェミニジア』(原題『ハーランド』)(1915)には、母から娘にすべての遺伝情報が継承されるユートピアが描かれています。社会主義的ユートピアを描いたフェミニズム文学の古典ですが、こんにちでは作者・小説ともに思想的な問題も多いとされています。以降、さまざまな女性作家によって、女性による単為生殖のユートピアの物語が描かれました。

私が《The Future Mother》で表現した「妊娠するアンドロイド」は、代理母としての用途があるだろう、という想定をしていました。現在でも人間の女性が代理母として依頼主の受精卵を子宮で育てることがありますが、その役割に代わる機械として作り出されるという発想はあり得ると思ったからです。
さらにいうと、たとえば2012年に発表されたiPS細胞の実験では、生殖細胞以外の細胞から卵子や精子を作り出すことが可能になるというものでした。そうすると、受精卵は必ずしも異性間の子供ではないということになります。
テクノロジーの進歩によって新しい選択肢が提示される時、人間の欲望が可視化されます。
実際に過去にあった精子バンクの事例を紹介します。1980年にアメリカで設立された精子バンク「レポジトリー・フォー・ジャーミナル・チョイス」には、ノーベル賞受賞者や、オリンピック金メダリストなど、社会的に優秀とされる人物の精子が集められました。1999年に閉鎖されるまでの間に、少なくとも230人以上の子供たちがこの機関を利用して生まれました。
一般的に精子バンクでは、精子提供者であるドナーの情報は人種、容姿、身長、目の色、医療情報、血液型、趣味、人柄などが記載されています。本来、これは不妊の夫婦ができるだけ夫に似た特徴を選ぶために開示されていたものでした。
ところが、夫婦や独身女性のなかには、より優秀な遺伝子を求める層が出てきたのです。この精子バンクは優生思想を持つ男性が設立し、これを利用した女性たちは高学歴で経済的にも自立した人々(医師、教師、学者など)でした。
この例から考えると、妊娠・出産の外部化ができるようになったら、それを使用したいと望むのは誰でしょうか。そうなった時、生殖を担うことになった女性型のアンドロイドの尊厳はどうなるのでしょうか。「ラブドールは胎児の夢を見るか?」はそんなことを考えて取り組んでいたシリーズです。
せっかくなので、金森修の著作から、もう少し枠を広げてみたいと思います。金森は『ゴーレムの生命論』(2010)の後に『動物に魂はあるのか?』(2012)を出版しています。

序章で金森は、以下のように書いています。
そこでユダヤ教の伝説的泥人形、ゴーレムを考察するに当たり、ゴーレムという「人間未満の人間」のことを考えるというのは、結局人間そのものを考えることに繋がるという意味の文章を書いた。ゴーレムは伝説的存在なので、普通の意味での実在性はないので「人間未満の人間」とはいっても想像的位相に位置するものにすぎない。他方で「人間未満の生物」(動物のこと)なら、われわれの周りに山ほど存在している。だから、私の頭の中では『ゴーレムの生命論』と本書は問題系の構想においてほぼリンクしている。
非人間について考える時、いったん動物に目を向けると、人形だけを見ても見えなかった人形についての視野が広がります。
金森はここで哲学者たちが動物をどう捉えるか、〈動物霊魂(論)〉と〈動物機械(論)〉という言葉を使って説明しています。詳しい説明は省きますが、石などの物・植物・微生物・虫・両生類・鳥・哺乳類・人間などを対象に、霊魂があると言えるのか、それとも機械と同じなのかを、多くの哲学者たちが考えてきた歴史がありました。
争点になっているのは「霊魂」があるかどうかです。動物は反応するが、そこに感情があるかどうか、思考をするかどうか、その行動が本質的には歯車と同じと言えるのかどうか……。
時代によって明らかになっていない科学的事実があるので、さまざまに推察されているのですが、面白いのは誰も石に魂を認めていないことでした。感覚しない、意思がない、思考しない、反応しないからです。哺乳類には魂があると言えるのではないか、という論争は非常にたくさんあるのに、誰も石という無機物に魂があるとみなさないのです。石は比較対象として、魂のない物として登場します。
この本の主題ではないので、本文中には書かれていないのですが、人形は物なのです。人形論は、人形はものであるにもかかわらず、それでも、あたかも魂があるかのように感じられる場合がある、ということが面白いわけです。人形を考える時、人型のイメージに囚われ、擬人化して思考してしまう人は多いでしょう。
しかし人形は物質としては明確に物であり、動物ではないので、純粋に人間の思考についてを取り出して考えることができます。
例えばロボットに人権を認めるかという議論があります。近年では、サウジアラビアで女性型のロボット「ソフィア」に市民権を与えるというニュースがありました。
しかし、歴史的にはむしろ自動人形は「どれほど精巧で人間に近い見た目をしていても人間ではない」という言説ばかりです。過去には優れた自動人形が作られようと、人間として認められることはなかったのです。
これは一つの仮説ですが、現代はあらゆるものを擬人化しているのではないでしょうか?
犬や猿に服を着せるのも同根の思想のように思えてきます。動物にとってのメリットを考えて選択しているのであれば違いますが、人間の目から見ておしゃれだから、かわいいから、という理由だけであれば、人間のファッション観を当てはめているだけなのではないでしょうか。
あるいはルンバに代表される掃除ロボットが「頑張っている」とか、「力尽きて倒れている」と表現される時も同様です。実際にはプログラムに従って動いている機械であるにもかかわらず、何か意思を持って一生懸命に働いてくれているという擬人化が行われていると言えます。
『動物に魂はあるか?』に話を戻すと、金森は第六章で、現代についても考察しています。その中でカズオイシグロの『わたしを離さないで』(2005)を取り上げています。この小説では、クローン人間が亜人として人間に使用される世界が描かれています。
しかし動物に目を向けると、実際の家畜が産業の中で機械のように扱われている例などはたくさんあるわけです。それこそクローン羊のドリーは、製薬会社で開発されたものでした。同じ遺伝子の羊やウサギの血液や乳から、効率よく成分を採取する目的のための技術開発だったのです。そして今や、クローン生物は普通に存在していて、私たちはそれを気にも止めていない……。
つまり、人間の主観による極端な擬人化(対象に魂を感じる)と機械化(対象に魂を感じない)が二極化しているのが現代なのではないかと思います。
私は自分の作品制作の中で「人間と非人間の境界」を探ることをテーマに掲げてきました。私は金森氏と似たルートで(やや逆流しつつ)人形論から動物論にたどり着きました。そして、同じように人間・機械・動物を含めてマルチスピーシーズの観点からポストヒューマンを考える思考自体はそれほど突飛なものではありません。自分の中でやや行き詰まりのあった人形論ですが、改めて別の観点から向き合うことができそうです。
さて、ここからはラブドールの話題の返信に戻ります。
髪型に関してのリサーチ、ありがとうございます。販売されているものはボブが多く、ロングが少ないという結果に驚きました。私はカタログを見ることの方が多かったので、どちらかというとヘアアレンジがされている印象もありました。
確かに、実際に自分の人形はどうかと振り返ってみると、普段はショートのウィッグを被せていることが多いです。しかし、ショートは首の接続部の境界が見えてしまうので、撮影時にはあまり使用しません。
撮影時にはロングのウィッグもよく使うのですが、それはコンセプトや表現的に必要な場合(境界線をわからなくする、構図上で縦の動線をつけるなど)か、ヘアアレンジをしたい時が多いです。

ですが、基本的にウィッグは生え際が不自然で、ネットの端が見えてしまうことが多いです。なので、写真写りから逆算して自然に見えるようにヘアアレンジを作らなくてはいけません。全ての角度に対応できるわけではないので、肉眼で見るには不向きです。
また、絡まりやすいので手入れも大変です。昔、私自身もロングヘアだったことがありますが、ウィッグと比較すると、自毛の方がまだ手入れが簡単でした。それくらい、ロングのウィッグは扱うのに気を使います。
撮影でも日常でも手軽なのはボブでした。なので、やはり実際にお迎えする時にはボブヘアが最適解なのかもしれません。
ところが、見た目にこだわらなければ、最も色移りの心配がないのは、何も被せない状態なのです。つまり、スキンヘッド状態での保管が理想的だと言えます。でも、私も何らかのウィッグを被せて保管しているので、知らず知らずのうちに顔のイメージに合ったウィッグを選びたいと考えているのだと思います。
最後に、ご質問の胸について答えます。
《Happy Dinner Party》の撮影の際に、「アンジェ」のバスト小と「やすらぎ」を並べていました。そもそも「アンジェ」は造形師さんがゼロから作った形で、「やすらぎ」はモデルの型取りをもとに仕上げられた形という違いがあります。
「アンジェ」にはさらにバスト大と小の2種類がありますが、胸のサイズだけが違って、他のプロポーションは全て同じサイズです。この人形は身長が157cm、ウエストが55cmで、全体的に痩せている印象を与えます。二つの体型の差を人間に当てはめて考えると、バスト大のプロポーションになるにはかなり細身の人が美容整形でシリコン豊胸をするくらいしか手段が思いつかないです。ですが、あくまでも人形なので、リアルな人間に似ている必要もないと思います。
「やすらぎ」は身長147cm、ウエストが64cmで、おそらくBMI22くらいの現実的な体型です。全体的に量感があり、手首や足首の先などの末端だけ細く小さくなっています。
「アンジェ」のバスト小と「やすらぎ」を比較した印象としては、やはり「アンジェ」が華奢で縦に長く見え、「やすらぎ」はボリューム感があるという違いがあります。
胸が大きいと前後に厚みが出るので、縦長の印象にはなりにくい感じがしました。また、胸の影や服の皺で横線に分断されるので、図形的に見ても横に広がって見えやすいです。
私の作品の中では胸は、見せる、もしくは目立たせないのどちらかになっています。
《The Future Mother》では、隠す必要がないものとして、身体そのものの話をするために見せています。「胸を隠す文化」という要素が邪魔だと思ったからです。

《Stay Paradise》や《Happy Dinner Party》などの日常風景の場面をシミュレートしている作品では、胸はあまり目立たないようにしています。とはいえ元々の胸の形をなぜ見せてはいけないのか?という疑問もありますし、なるべく自然にしています。
そもそもラブドールの胸は無理やり小さく潰すことができません。素材が硬いので人間用の「小さく見せるブラ」が使えないのです。人間の身体は重力で形が変わるので、直立と寝そべりでは胸の形は全く違いますし、下着の形によって体型が補正されるのですが、ラブドールはどんな姿勢でも胸は同じ形のままです。人間の身体は可塑性がありますが、人形は最初から完成形なのです。
しかしコンセプト上、不必要に目がいくとノイズになるので、服の皺が形を拾いすぎていないか気をつけました。
そういえば、まだ背中について話していないですね。
私のモノクロ作品《The Silent Women》では、いくつか背中を撮ったものがあります。ラブドールは動きが硬いので、あまり動勢で画面を構成することができません。背中もかなり真っ直ぐな印象です。
背中はあまり見えない部位であり、寝そべった体勢での保管のためか、造形はかなり簡略化された印象です。でも、そこに製造過程で出る空気の抜け穴を埋めた丸い跡があって、埃の付着もわかりやすいので、それが面白くて撮影をしていました。

この観点は、かなり特殊な気がしています。ラブドールを撮影している人たちはアマチュアもプロフェッショナルもあわせてばそれほど少なくない人数だと思いますが、私はこれまでこの観点で撮られたラブドールの背中を見たことがありません。
麻里恵さんは、ラブドールの背中についてはどう思いますか?