返信ありがとうございます。

「「男性のみによる(制御可能な)生命の創造物語」という指摘から、私は真っ先に「独身者機械」を連想し」たということですが、まさに私が想定していたのが「独身者機械」でしたし、「「独身者機械のその先に進もう!」と思い、制作に踏み切った」というお話も、私としては非常に合点がいきました。

アンドロイドについてのご説明、ありがとうございます。ゴーレム、アンドロイドと話題が続いたら、やはりロボットにも言及しなければですね。ロボットはゴーレムとアンドロイドを架橋する存在でもあるので、少し詳しく書かせてください。

ロボットは、チェコの作家であるカレル・チャペックが1920年に著した戯曲『R.U.R.(Rossum’s Universal Robots)』において初めて登場した用語です。チェコ語の「robota」(強制労働)とスロバキア語「robotonik」(労働者)からなる造語で、人間の代わりに労働を行う代替物という役割を持っていました。ギリシャ神話の自動人形の怪物・タロースやユダヤ教経典『タルムード(Talmud)』に登場する土くれのゴーレムといった、ロボット同様人間の代わりに労働や使役をする動く人型はそれ以前にもありましたが、この作品をきっかけに機械人間や狭義の意味での人造人間のことをロボットと呼ぶようになります。

では、『R.U.R.』以前に登場した動く人型はどうだったでしょうか。たとえば、ギリシャ神話や『変身物語』に登場する彫刻のガラテアやアヒム・フォン・アルニムの『エジプトのイザベラ(Isabella von Ägypten. Kaiser Karl des Fünften erste Jugendliebe)』(1812)に登場する女ゴーレム、E・T・A・ホフマンの『砂男(Der Sandmann)』(1817)に登場する自動人形のオランピアや、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス(Frankenstein: or The Modern Prometheus)』(1818)(以下『フランケンシュタイン』)に登場するフランケンシュタインの怪物、そしてヴィリエ・ド・リラダンの『未來のイヴ(L’Ève future)』(1886)に登場するアンドロイドのハダリーなどが挙げられます。

上記の物語は、人間と人型との一対一の関係性(しばしば恋愛関係)を描いたもので、人型は複製不可能な「オリジナル」のみです(『エジプトのイザベラ』に登場する女ゴーレムと『未來のイヴ』に登場するハダリーは、すでに彼女たちの「オリジナル」にあたる人間の女性がいるが、ここでは人型自体が複製されることがないという意味で複製不可能な「オリジナル」と表現しています)。そして、これらに登場する主人公は往々にして中産階級以上の男性であり、フランケンシュタインの怪物に関しては例外であるものの、人型は女性型ないしは女性的な立ち位置を担わされた人型で、男性の理想を投影したヴィーナスとして愛情を注がれます。しかし、彼女らもまた、何かしらの欠損を持ち、人間よりも劣った存在として描かれているのが特徴的です。

文学研究者の山田夏樹は『ロボットと〈日本〉――近現代文学、戦後マンガにおける人工的身体の表象分析』(2013)のなかで、『フランケンシュタイン』に登場する怪物が、概念上の最初のロボットだと指摘しています(山田 2013: 34-35)。SF小説の原点とみなされる本作品は、科学者のヴィクター・フランケンシュタインが自らの創造物である怪物を創り出し、あまりの醜さに名前もつけずに放棄した怪物の執念によって復讐されるまでを描いていますが、人間が創り出した被造物が暴走し、人類を脅かすというモチーフは、この作品以降SFにおいて常套手段となっていきます。

山田夏樹『ロボットと〈日本〉――近現代文学、戦後マンガにおける人工的身体の表象分析』(2013)

アメリカの作家であり生化学者のアイザック・アシモフは、このモチーフを「人間」の科学に対する不安や恐怖、強迫観念だと理解し、「フランケンシュタイン・コンプレックス」と呼びました。そして、「フランケンシュタイン・コンプレックス」を打破するものとして、『われはロボット(I, Robot)』(1950)に有名な「ロボット三原則」を生み出したことは有名な話ですね。

怪物は、ヴィクターという男性が科学という道具を用いて産まれた子だといえるでしょう。近代科学が発達し、自然が科学の解明の対象となった時代では、自然は女性に見立てられ、そして支配されていきました。その意味で父権主義的特性を有する科学は、女性の身体の生殖能力をも管理するようになっていきます。

ヴィクターが試みた女性の介在なしで人類を創造するという行為は、『フランケンシュタイン』から始まったわけではなく、旧約聖書の『創世記』やギリシャ神話にすでに存在していましたし、『フランケンシュタイン』がこれらをもとに描いていることは、怪物が知識を得ていく過程でジョン・ミルトンの叙事詩『失楽園(Paradise Lost)』(1667)を参照していたことからも明らかです。そこで女性は罪深い身体として語られており、怪物の存在もイブに重ね合わされて劣った存在として描写されています。このように、女性の身体は神話から近代科学に至るまで父権的言説のなかに囲いこまれ、劣った存在、不完全な存在として描写されてきたことがうかがえます。

しかし、実花さんがご紹介してくださったように、さまざまな女性作家によって女性による単為生殖のユートピアの物語が描かれるようになったことで、父権的言説の外へ飛び出そうとする物語に触れられるようになりました。その延長線上に実花さんの作品が発表されたことは、個人的にエンパワメントされる出来事でした。

さて、実花さんの仮説として「現代はあらゆるものを擬人化している」というのがありました。そのなかで石には魂がないという金森のエピソードを紹介されていましたが、ふと『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(Everything Everywhere All at Once)』(2022)のとあるシーンを思い出しました。アメリカでコインランドリーを経営している中国系移民の主人公が、ひょんなことからマルチバース(並行世界)を行き来するようになる話ですが、そのマルチバースのひとつに主人公が石として登場するシーンがあります。その石にはシールの目玉が付いており、発話はしないものの字幕で会話が行われています。最初は石の後ろ姿(?)で会話が繰り広げられるので不思議な感覚に陥るのですが、シールの目玉を確認するやいなや「意思があるもの」として認識できたという記憶があります。

映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』本予告(YouTube)

このように、物であっても人間に共通するような「しるし」のようなものを見出すことによって、我々は理解可能なもの、意思疎通が可能なものとして認識してしまうのかもしれません。もっと厳密に言えば、理解可能なもの、意思疎通が可能なものとして認識しなければ脅威のある存在として排除してしまおうと思うのかもしれません。

それではようやく本題に入ります。

撮影時や通常時の髪型の違いについてご紹介いただきありがとうございます。首の接続部が見えず、長さ的にも管理しやすいボブが人気な理由がとてもよくわかりました。私も昔はずっとロングヘアだったので、髪の手入れが大変だったことを思い出しました。また、人間ラブドール製造所でロングのウィッグを被った際、地毛よりも櫛や指が通りにくくて整えるのに苦労したことをよく覚えています。

人間もそうですが、やはり髪型によって印象が変わりますし、ラブドールに関しては表情を変えることができないため、髪型が表情の代わりになっている節はあるかと思います。このあたりの話はぜひドーラーさんにもうかがってみたいところですね。

また、胸についても興味深いエピソードをありがとうございます。「人間の身体は可塑性がありますが、人形は最初から完成形」だというのも、実際にラブドールを見てみないとわからない部分かもしれませんね。また、なぜ「アンジェ」が華奢に見えるのかも合点がいきました。

実花さんの作品は「胸は、見せる、もしくは目立たせないのどちらか」だというのも、過去の作品を見返してもなるほど確かにそうであると気づきました。商品カタログやドーラーさんの写真などを見ていると、胸や谷間を強調させるような衣装や透けている素材の衣装やランジェリーのみを着せていたり、ポージングも「チラリズム」的な要素が多いような印象を受けます。それに対する良し悪しをここで言及するつもりはありませんが、実花さんの作品はそういった要素がまったくないです。過剰にエロティックなものとしてラブドールの身体を表現しないというところに、実花さんのこだわりを感じています。

最後に背中についてですが、確かにあまり考えたことがなかったかもしれません。手持ちの写真集や各メーカーのホームページ、カタログなどを見ても、ふり返っているような後ろ姿はあっても、背中だけが写し出されているものはほとんど確認できませんでした。

《The Silent Women》も、一番最初に展示で拝見したときは「これが背中だ」と理解するのに少し時間がかかりました。しかし、ひとたびそれが背中だとわかると、なんだか自分の背中に触れたくなった記憶があります。自分の背中に手を這わせてみた時、いかに自分が背中というものに無頓着で無防備なのかを考えさせられました。

少し話は脱線しますが、私は結構な猫背で意識しないとすぐに背中が丸まり、反り腰気味で、肩も巻き肩になってしまいます。横から見るとかなりの前傾姿勢であることがわかり、ハッとして正そうという努力はしていますが、なかなかすぐには治らないものです。ふと、学部生の頃、学園祭でファッションショーに出演するためにウォーキングの練習をしたことを思い出しました。壁に背中を真っ直ぐくっつけるところから始めるのですが、やってみるとこれが意外と難しいのです。私の場合、とくに腰の部分が反ってしまってお腹に力を入れないと真っ直ぐな姿勢になりません。背中が真っ直ぐな状態がキープできるようになってようやく歩くことができるのですが、この段階でかなり時間を費やしました。

そんなことを踏まえて改めて写真集やカタログなどを見てみると、当然のことながら猫背のラブドールはいない一方、横から見たときに反り腰気味なラブドールは結構いることがわかりました。そういうラブドールは決まって胸とおしりを強調するようなポージングをしています。

2017年に開催されたオリエント工業40周年記念展〈今と昔の愛人形〉にて(筆者撮影)

その意味で、背中は背中単体では語れず、表面である胸と下にあるおしりと連動したものとして考える必要があるのかと思いました。

そこで、実花さんにはラブドールのおしりについてどのように思われているのか、もしくは作品のなかでどのように表現されているのかについてうかがいたいです。

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最後に、少し比喩的に「背中」について触れたいと思います。

2024年8月21日、ラブドールメーカーの老舗であるオリエント工業の代表である土屋日出夫氏の引退と、事業終了の知らせが発表されました。あまりの突然の発表にSNS上では衝撃が走りました。

オリエント工業ホームページスクリーンショット

実花さんは直接的に、私は間接的にではありますが、大変お世話になったメーカーでもあります。

1977年に創業、2017年の5月から6月に渋谷のアツコバルーで開催されたオリエント工業創業40周年記念「今と昔の愛人形」展は大きな話題となりました。オリエント工業は、肉体的な面での充実感だけでなく精神的な面もサポートすることを製造目的に掲げ、等身大の女性型人形を作り始めました。もともと家庭や身体に問題を抱えた男性に向けて作り始めたという経緯もあるため、単純に性欲を満たすためだけの道具ではいけないという問題意識がありました。開発から事業に携わってた元医師は、当時は「相談室」と呼ばれていたショールームで購入検討者から相談を受けるなど、真摯に性の問題と向き合っていたそうです(これについては『夜想31号 マヌカン』〔ペヨトル工房、1993年、188-209頁〕に詳細に記載されています)。

『夜想31号 マヌカン』(ペヨトル工房、1993年)

ユーザーさんの意見なども積極的に取り入れ、ビニール製の空気式から、ラテックス製、ソフトビニール製、シリコン製へとより人間の皮膚に近い素材が使用されるようになり、見た目も非常に精巧になっていきました。

1980年代後半から2000年代にかけて、オリエント工業以外にも等身大の女性型人形を製造するメーカーが登場し始めます。例えば、1986年創業の「ハルミデザインズ」、2002年創業の「LEVEL-D」、2004年創業の「4woods」、2007年創業の「アルテトキオ」などが挙げられるでしょう。各メーカーが思い描く「リアル」な質感・造形が実現可能になるにしたがって、一方でダッチワイフ=風船人形、性処理用の道具というイメージを払拭しようと、そのまた一方で1980年代半ばから特定の国名を性産業で用いるべきではないという動きがあったため、新たなネーミングを模索し始め、2000年代なかばに総称として「ラブドール」が定着し、現在に至ります。

オリエント工業はメディアへの積極的な発信とアーカイブ化(書籍の刊行やイベントでの資料の配布)、他ジャンルとのコラボレーションを率先しておこなっていたのも印象的です。2007年からは東京銀座・ヴァニラ画廊での「人造乙女博覧会」の開催(その後不定期開催)、2011年には昭和大学歯学部とロボットメーカーの(株)テムザックが共同開発した臨床実習用患者ロボット「昭和花子2」の製作協力、昨年2023年は松濤美術館での「私たちは何者?ボーダレス・ドールズ」展での展示、つい最近では画家・女優として活躍されている若菜みささんの作品および展覧会ともコラボレーションされていました。

2024年8月7日〜19日まで西武渋谷で開催されていた「若菜みさ展」の展示スペースの様子(筆者撮影)

こうしてラブドール産業を牽引し続け、盛り上げていった――背中を追われるような――存在であったオリエント工業の閉業は、一つの歴史が幕を閉じることを意味しているといえるでしょう。

もしかしたら、皆さんのなかにも女性の身体を模したラブドールという存在自体に嫌悪感を抱く人もいるかもしれません。それは、女性の性的身体や性的機能が人格と切り離されて、道具(=モノ)として扱われてしまう「性的モノ化」の問題とも関わりがあるからだと思います。しかし、にもかかわらず、ラブドールという存在に興味や関心、もしくは憧れを抱く女性がいることもまた確かです。そういった「にもかかわらず」という感情に、私は非常に興味があります。

2017年に開催されたオリエント工業40周年記念展〈今と昔の愛人形〉にて(筆者撮影)

オリエント工業が閉業することによって、この興味がなくなることはありません。しかし、そのきっかけを与えてくれたメーカーがなくなってしまうなんてことは想像もしていませんでしたし、今でも心の動揺は収まっていないのが正直なところです。きっと同じような方はたくさんいらっしゃると思います。

私ができることは「きちんと記録として残すこと」であり、まさにこの「ラブドールソウゾウロン」はその機能を果たすものだと考えています。今回で11回を迎えましたが、もう少しこの往復書簡にお付き合いいただければ幸いです。

オリエント工業関係者のみなさま、47年間、本当にお疲れさまでした。

そして、さまざまな愛のかたちを提供する人形を作り続けてくださり、本当にありがとうございました。

関根麻里恵⇔菅実花

関根麻里恵⇔菅実花

関根麻里恵|Marie SEKINE
1989年埼玉県生まれ。学習院大学、早稲田大学ほか非常勤講師。専門は表象文化論、ジェンダー・セクシュアリティ、文化社会学。ファッション批評誌『vanitas』(アダチプレス、2013年)のほか、『ユリイカ』『現代思想』などに寄稿。共著に『ポスト情報メディア論』(ナカニシヤ出版、2018年)、『「百合映画」完全ガイド』(星海社、2020年)、『ゆるレポ――卒論・レポートに役立つ「現代社会」と「メディア・コンテンツ」に関する40の研究』(人文書院、2021年)、『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ――私と社会と衣服の関係』(フィルムアート社、2022年)、『ポストヒューマン・スタディーズへの招待――身体とフェミニズムをめぐる11の視点』(堀之内出版、2022年)、『ゆさぶるカルチュラル・スタディーズ』(北樹出版、2023)、共訳に『ファッションと哲学』(フィルムアート社、2018年)がある。

菅実花|Mika KAN
1988年神奈川県生まれ。2021年東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻博士後期課程修了。2016年にラブドールを妊婦の姿に加工しマタニティフォトを模して撮影した写真作品《The Future Mother》を修了制作展で発表し注目を集める。主に19世紀の文化をリファレンスに、人形・写真・光学装置を用いて「人間と非人間の境界」を問う。主な個展に2019年「The Ghost in the Doll」原爆の図丸木美術館(埼玉)。2021年「仮想の嘘か|かそうのうそか」資生堂ギャラリー(東京)。2022年「OPEN SITE 7|菅実花『鏡の国』」トーキョーアーツアンドスペース本郷(東京)。出版に2018年共著『〈妊婦〉アート論』(青弓社)。2021年より『週刊読書人』で写真とエッセイを連載中。VOCA展2020奨励賞受賞。