返信ありがとうございます。

元はと言えば、我々が夜な夜な語り合っていた雑談(という名のブレインストーミング)を活字化したいというのがこの往復書簡の始まりでもあるので、目論見通りで嬉しい限りです。研究者とアーティスト、一見するとあまり重なり合いがないように見えるけれども、根底にある問題関心が近いところにあることでいろんなアイディアを共有することができて毎回とても楽しいです。

確かに、第一回に『フランケンシュタイン』について軽く触れましたが、ここにきてしっかりと記述することができてよかったです。2018年に公開された『メアリーの総て』でメアリー・シェリーの人生について、概ね事実に沿って描かれています。

『メアリーの総て』予告編(YouTube)

メアリーは政治学者のウィリアム・ゴドウィン、女権拡張論者のメアリ・ウルストンクラフトの間に生まれた子どもで、両親ともに思想家でもあり活動家でもありました。メアリーを産んだ数日後に母親は産褥熱で亡くなっており、メアリー自身も一人目の子どもを産んで数日で亡くしています。その後も何度か妊娠・出産を繰り返していますが、最終的に大人になるまで育ったのはたった一人だけだったといいます。

「子供を産むことに対する母親の不安を描いた『出産神話』であるという」という点は、こうした自分の経験に基づくものだと思いますが、『メアリーの総て』でも子どもを失うことの絶望はかなり強調されて描かれていました。

そして、この出来事が大きな原動力となって『フランケンシュタイン』が執筆されることになるわけですが、実花さんが「必然性があり、後から第三者が読解できる構造ならば、モチーフは必ずしも直接的にそのものである必要はなく、別の何かに置き換えることが可能なのではないか」と書いてくださった部分を読んで、メアリーが『フランケンシュタイン』の序文に書いた文章を思い出しました。

創作とは無からではなく混沌からの創造であることを、謙虚に認めなくてはならない。まず第一に題材があたえられることが必要である。題材はあいまいでかたちのない素材に形態をあたえることができるけれども、素材そのものを生みだすことはできない。

メアリー・シェリー 『フランケンシュタイン』森下弓子訳、創元推理文庫、1984年

我々はお互い「ラブドール」という素材を使いながら、それぞれが扱いたいテーマについて表現したり記述しているわけですが、まさにそのことを表している文章だなと改めて実感しました。

さて、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(Everything Everywhere All at Once)』(2022)の目玉シールを中心とした実花さんの読解ですが、大変興味深く拝読しました。「「人形遊び」のユーモアと、優しさや愛の象徴としての目玉シールを高度に併用している」というのはそのとおりで、目玉シールが持つ役割は一義的なもの(生命を感じさせる効果を持つもの)ではなく、その都度役割が変化しているものとしてとらえるほうがより自然なように感じました。

「擬人化しすぎている」ことについて、「最初のうちはフィクションだとわかって演じているつもりだったけれど、いつの間にか自分で信じ込んでいる状態」と書かれていましたが、ふと2007年公開のクレイグ・ガレスピー監督作品『ラースと、その彼女(Lars and the Real Girl)』を思い出しました。

『ラースと、その彼女』予告編(YouTube)

本作のあらすじとしては、心優しくも孤独な青年・ラース(ライアン・ゴズリング)が等身大のリアルドール・ビアンカを自分の彼女に選んだことから始まる、ちょっと変わったラブストーリーということができるでしょうか。とある日、ラースが兄のガス(ポール・シュナイダー)とガスの妻のカリン(エミリー・モーティマー)に「紹介したい人がいる」と言って連れてきたのがビアンカで、元宣教師でブラジルとデンマークのハーフだと紹介します。ガスとカリンはその様子を見て混乱するのですが、ラースの住む街の住人たちも含め、ビアンカが「生きている」ように振る舞い、やがてビアンカを媒介にして各々が成長していく様子が描かれています。

詳しくは「ラブドールはガラテアの夢を見るか:メディアとしての、メディアのなかのラブドール」(岡本健、松井広志編『ポスト情報メディア論』ナカニシヤ出版、2018年)で分析をしていますが、ここでも実は「妊娠・出産」というモチーフが登場します。ラースは自分のことを気にかけてくれるカリンのお腹が大きくなるにつれて苛ついた様子をみせ、ダグマー医師(パトリシア・クラークソン)がカリンの様子を聞いたさいに「お産は危険だ」と繰り返し、パニックを起こしてしまいます――これは、ラースの母親が自分を出産する際に死亡したことに起因していると考えられます。

岡本健・松井広志編『ポスト情報メディア論』(2018)

ラースがビアンカを迎えたきっかけの一つとして、カリンが妊娠していることが挙げられますが、それに加えて常に周囲から心配され続けている状態からの脱却(=大人になること)も挙げられます。特定のコミュニティのなかで、ある一定の年齢に達した時に「普通」だと思われるためには、どうやら対になる相手が必要であると考えたラースですが、前述した母親の死によって女性に対する苦手意識がありました。そこで思いついたのがラブドールだったわけです。

とはいえ、ラースのセクシュアリティについては言及されていないため、本当にビアンカに一目惚れをして迎えた可能性も当然あります。そのため、ラースにとってはそもそもカイヨワのいうところの「模擬(ミミクリ)」的なものではなかったかもしれませんが、ビアンカと周囲の関係は「模擬(ミミクリ)」的なものから次第に逸脱していく様子が描かれていたように感じました。

本題に移りましょう。

背中について、ちょうど閉業前に訪れたオリエント工業のギャラリー&ショールームに行った際に骨格(フレーム)を撮影してきました。オリエント工業製の骨格と海外製の骨格の比較ができるように展示されていましたが、一番の違いとして外国製のほうが溶接箇所が多いということがわかりました。一見するとそのほうがしっかりしているように思えますが、溶接箇所が多いとかえって耐久性が弱くなるそうですね。

オリエント工業のギャラリー&ショールームにて筆者撮影(2024年9月13日)

また、腕はオリエント工業製は外国製より細め、手指はオリエント工業製は手のひら部分だけフレーム+樹脂で、指の部分は針金になっているのに対し、外国製は掌に薄いフレームと細い棒に関節までついてるため、無理に力を加えると折れやすそうでした。また、関節も外国製は単純な構造の組み合わせである一方、オリエント工業製の股関節はU字型パイプで腰をしっかりと支えている印象を受けました。

とはいえ、オリエント工業製でも海外製でも、背骨に該当する部分はやはり可動域が狭いことは明白でした。肩と腰の形が反り腰のように見える理由についても、とても納得がいきました。細かな部分を丁寧に見ていくと、骨格部分に関してはかなり省略されていたり、耐久性に特化した構造になっていることがわかりますね。

私から「お尻」に関する質問を投げかけましたが、お尻もまた自分ではなかなか見れない部位の一つであるがゆえにデフォルメしやすいパーツなのかなと思いました。確かにギャラリー&ショールームに展示されていたラブドールやポストカード、製品写真などでパンツスタイルはほとんど見かけることがありませんでした。基本的には下着姿のドールが多かったですが、スカートやワンピース、または浴衣や着物といったお尻を締め付けないタイプの服装が一般的なようですね。

オリエント工業のギャラリー&ショールームにて筆者撮影(2024年9月13日)
同上

一方で、お尻が大きくある程度硬いというのは、実は「実践」の際には結構重要なのではないかと思いました。というのも、とあるラブドールに関するトークイベントで「実践」の際の音――腰を打ち付けたりお尻を叩いたりするときの音――への言及がありました。視覚的にばかりラブドールをとらえていると見落としがちな触覚的・聴覚的な悦楽を端的に表しており、その発言を聞いたときは目からウロコだったのを覚えています。ラブドールが物理的に存在することの意味として、やはり触れられることは非常に大きい要素なのだと改めて感じました。

さて、ご質問いただいた「肩と脇」についてですが、やはり可動域に関心がいきますが、少し違った側面から言及してみたいと思います。

少し話が脱線しますが、9月にオペラシティアートギャラリーで開催されていた『髙田賢三 夢をかける』展に行ってきました。こうしたファッション関係の展覧会では、どうしても使用されているマネキンに注目してしまうのですが、この展覧会では1946年に京都で創業した七彩がマネキンの提供をしていました。

そのなかで個人的に興味をそそられたのが、四谷シモンが手掛けた球体関節マネキンです。この球体関節マネキンは、1989年9月1日(金)から12日(火)まで有楽町アート・フォーラムで開催された「高田賢三展」用に制作されたもので、当時はさまざまなシチュエーションに合わせてポージングをしたマネキンが展示されていました。残された資料をみると、本当にさまざまなポージングをしたマネキンに溢れており、マネキンだけれども生き生きとして見えるのが印象的でした(以下のリンクから閲覧できます。「マネキンの全て」)。

オペラシティアートギャラリー『髙田賢三 夢をかける』展にて筆者撮影(2024年9月16日)
同上

約35年前のものがこうやって保管され、展示されたことにまず感動したのですが、写真を見てわかるように、今回の展示ではほぼポージングのない状態で展示されていました。経年劣化による破損リスクがあるため仕方がないことはわかりつつも、球体関節であることの醍醐味が失われてしまっているように見えてしまい、少し残念に思ったのが正直なところです。

話を戻すと、肩〜脇の可動域は、顔以外のパーツで最も表情が出やすいパーツなのではないかと思います。言い換えれば「なにか意思を持った動きには肩を上げる動作が必然的に伴う」とでも言いましょうか。そのため、人間らしく見せるには、この可動域をどれだけ広げることができるかにかかっているとも言えそうです。ただ、ラブドールを人間らしく見せることが第一義ではないと思うので、可動域の課題をどれだけ真剣に考えるかは各メーカーにもよるかと思います。ただ、やはり最近の傾向として写真撮影をするユーザーが増えてきているため、そうした需要は高まっていることは事実としてありそうです。

オリエント工業のギャラリー&ショールームに行った際、個人的に気になったのが「臍」です。

オリエント工業のギャラリー&ショールームにて筆者撮影(2024年9月13日)
同上

臍がしっかりとしているのはモデルさんから型取りしたものだったかと思いますが、臍の緒というものが不要なラブドールにも臍を再現するというのはやはり興味深く感じます。造形的な部分もそうですが、実花さんなりにラブドールの臍についてお考えがあればうかがってみたいです。

関根麻里恵⇔菅実花

関根麻里恵⇔菅実花

関根麻里恵|Marie SEKINE
1989年埼玉県生まれ。学習院大学、早稲田大学ほか非常勤講師。専門は表象文化論、ジェンダー・セクシュアリティ、文化社会学。ファッション批評誌『vanitas』(アダチプレス、2013年)のほか、『ユリイカ』『現代思想』などに寄稿。共著に『ポスト情報メディア論』(ナカニシヤ出版、2018年)、『「百合映画」完全ガイド』(星海社、2020年)、『ゆるレポ――卒論・レポートに役立つ「現代社会」と「メディア・コンテンツ」に関する40の研究』(人文書院、2021年)、『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ――私と社会と衣服の関係』(フィルムアート社、2022年)、『ポストヒューマン・スタディーズへの招待――身体とフェミニズムをめぐる11の視点』(堀之内出版、2022年)、『ゆさぶるカルチュラル・スタディーズ』(北樹出版、2023)、共訳に『ファッションと哲学』(フィルムアート社、2018年)がある。

菅実花|Mika KAN
1988年神奈川県生まれ。2021年東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻博士後期課程修了。2016年にラブドールを妊婦の姿に加工しマタニティフォトを模して撮影した写真作品《The Future Mother》を修了制作展で発表し注目を集める。主に19世紀の文化をリファレンスに、人形・写真・光学装置を用いて「人間と非人間の境界」を問う。主な個展に2019年「The Ghost in the Doll」原爆の図丸木美術館(埼玉)。2021年「仮想の嘘か|かそうのうそか」資生堂ギャラリー(東京)。2022年「OPEN SITE 7|菅実花『鏡の国』」トーキョーアーツアンドスペース本郷(東京)。出版に2018年共著『〈妊婦〉アート論』(青弓社)。2021年より『週刊読書人』で写真とエッセイを連載中。VOCA展2020奨励賞受賞。