私の事情でこちらからの返信が遅くなり本当にすみません。

少し時間が空いてしまったこともあり、最初にオリエント工業の事業継続について触れておきたいと思います。

8月に創業者で先代社長の土屋氏の引退に伴って、事業終了が発表されました。それを受けて、この往復書簡でも第11回で麻里恵さんがオリエント工業の功績について書いてくださいましたね。

その後11月には新社長に岡本氏が就任し、事業継続が決定しました。記事によると、先代からは条件として、社員の雇用と開発したシリコンによる造形を継続してほしいと言われたそうです。

https://news.yahoo.co.jp/articles/95563a3b6c2a6e4379eb83a9fc19d09ccb35767d?page=2

素晴らしい造形師さんたちが会社に残られることになって本当によかったです。

ドールを手放すときにメーカーで引き取って人形供養に出してくれる「里帰り制度」は、価格を下げた上で継続されています。

ショールームも再開し、すでに「やすらぎ」ボディの新しい骨格「モーションフレーム」もお披露目されています。この新骨格は肩と肘の可動域が改良されており、手で顔に触れるポーズをすることができます。私はまだこの新しい骨格の実物を見ることができていないのですが、ドールを被写体に写真撮影をされる方にとっては大幅に表現の幅が広がるものだと思います。

実はこれまでもオリエント工業は、新商品としての発表ではなく、骨格やシリコンなどの内部をバージョンアップしていることが多く、耐久性や可動域が日々改良されています。同じ造形の人形でも、販売時期によって微妙に硬さ、重さ、可動域が異なるのはこのためです。今後もさらにクオリティの高いドールが作られていくことが期待されますね。

では、ここから通常の返信をしていきたいと思います。

『フランケンシュタイン』は私が作品を制作する中で、よく参照している作品なので、映画『メアリーの総て』(2018)はとても興味深く鑑賞しました。

メアリー・シェリーの実際の肖像画や晩年の写真のイメージはもっとヴィクトリアンなので、映画における人物のスタイリングはやや現代寄りの印象です。しかし内容は、メアリー・シェリーの半生として伝えられていることに小説読解からの解釈を加えて手堅くまとめられていると思いました。

少し本筋と離れた話題になりますが、個人的に『フランケンシュタイン』については、作品である小説自体を作者と切り離して独立したものとして評価するべきだという思いと、作者の経験があってこそこの作品が書かれたのだという視点から評価するべきだという思いの両方があり、いつもどのように考えるべきか悩みます。私自身は21歳頃に全く事前情報なしで小説を読み、繊細な心情表現に非常に感動したうえに、後から作者が女性で20歳前後に執筆したことを知って二重に驚きました。当時大学の学部生だった私にとっては、200年前の同世代の女性がこれを書いたんだということが励みにもなり、自分も200年残る作品を作れるようになりたいと思った覚えがあります。

つまり、作品そのものを評価するべきという視点と、作家のバックグラウンドを含めて評価するべきという視点の両方の評価軸でみて、それぞれに良いと思っている訳です。もちろん見方はこの二つだけでもないですし、どのような視点を採用するにしても偏りがあり唯一絶対の価値観があるわけではないことをいつも考えます。

前回、麻里恵さんが取り上げてくださった映画『ラースと、その彼女』(2007)はまさしく、「最初のうちはフィクションだとわかって演じているつもりだったけれど、いつの間にか自分で信じ込んでいる状態」が描かれていると思います。ライアン・ゴズリングが演じる主人公ラースは、ウェブサイトでリアルドールを注文しますが、実際に商品が到着した後は人形であるビアンカのことを自分の彼女だと言って兄夫婦や仕事仲間に紹介します。この映画は人形役を人形が演じます。なので、ビアンカは全く動かないシリコン製の人形です。私の解釈では、購入するときは人形であることを承知しているように見えるのですが、ビアンカと暮らすようになってからはいわゆる「ままごと」をし続けている状態だと捉えています。

確かに、ラースが本当にビアンカに一目惚れをしていたのか、絶対に妊娠しない相手として人形を選んだのかは、映画の中だけではわからないですね。私はこの点については考えたことがなかったので、面白い観点でした。

この「ラースと、その彼女」と比較すると面白そうなものに、マリア・シュラーダー監督の『アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド(Ich bin dein Mensch)』(2021)があります。人間とアンドロイドの恋愛ものは、人間の男性と女性型アンドロイドという組み合わせが定番ですが、この映画は人間の女性と男性型アンドロイドの物語です。

主人公のアルマ(マレン・エッゲルト)はベルリンの博物館で楔形文字を研究する研究者であり、研究資金獲得のために「アンドロイドとの恋愛」の実証実験に協力します。ハンサムなアンドロイド・サム(ダン・スティーヴンス)は、完璧な理想の男性としてアルマに接しますが、アルマは彼に恋愛感情を全く見出せません。例えば、サムはお風呂にバラの花弁を撒いたりしてロマンチックな演出をサプライズで披露するのですが、アルマの態度は変わらず「恋愛には興味がない」と答えます。型にはまった恋愛のステレオタイプではうまくいかないのです。やがてサムは、アルマに対して一人の人間としてのメンタル・ヘルスに向き合うようになり、アルマの気持ちは揺らいでいきます。

『アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド』予告編(YouTube)

『ラースと、その彼女』は主人公が人間の男性で、相手が非人間の女性です。それに対して『アイム・ユア・マン』は人間の女性と、非人間の男性の組み合わせです。「ラース〜」は、男性が一方的に女性型人形を愛しますが、「アイム〜」は恋愛をプログラムされた男性型アンドロイドが女性をもてなします。役割が逆転しているわけではないのです。

また、「ラース〜」のビアンカは完全に人形なので、自ら動いたり意志を持ったりはしないのですが、「アイム〜」のトムはアンドロイドなので、プログラムに従って行動します。恋人を幸せにするのが目的だとインプットされているので、行動の結果、良い反応が得られない場合は違う行動をとって、アルマとのコミュニケーションの最適解を探ります。しかしアルマはトムがアンドロイドであることを忘れないので、途中で心が動いた時でも「フィクションだとわかって演じているつもり」であり、「自分で信じ込」みません。ただし最終的な結末は少し開かれた表現なので、解釈は分かれるかもしれません。

ちなみに、監督のマリア・シュラーダーはNetflixのドラマ『アンオーソドックス』(2020)、『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』(2022)も手がけています。どちらも社会構造的に抑圧された女性の物語です。『アイム〜』はSFロマンスやコメディに分類される映画ですが、認知症の父親を介護しながら研究者として働く女性のメンタルヘルスの問題として捉えることも可能だと思います。

では、ここからは本題の方に入ります。

骨格比較の写真を提示していただき、ありがとうございます。とてもわかりやすいです。私も溶接をやったことがありますが、接続部は一度溶かした金属を固めているので弱いんですね。溶接で接着する面積はかなり小さいので、どうしても負荷がかかると折れやすくなります。ですので耐久性を重視するとシンプルな構造になっていくと思います。関節の数も同じで、ポージングの度に接合部のボルトがどんどん緩んでいってしまう問題があり、なるべく関節の数を少なくして、破損や劣化を防ぐ意図があると予想できます。

ラブドールの体型には細身のものからふくよかなものまでありますが、お尻に重量がある場合には、座っている姿勢の時に安定するというメリットがあると思います。ヒトガタの造形はどうしても頭が重くなるので、座面近くに重心がないと、少し押しただけで倒れてしまいます。そうなると、転倒に気をつけなければいけない分、取り回しが悪くなりますね。

私は一体、球体関節人形も所有しています。この人形は私が所有しているラブドールと同じ150cmの身長ですが、重量は半分以下の10kg程度です。見た目は華奢で球体関節の造形が美しいですが、ポージングは不安定で、座りポーズでも軽く触れただけでぐらっと倒れてしまいます。ラブドールはお尻が重いので、抱きついても頑丈で動きません。重量があると、必要以上に気を使わなくていい安心感がありますね。

臍は、自分の作品では、モノクロのシリーズ《The Silent Women》でいくつか写しています。型取りで作られた「やすらぎ」であっても、実はそれほどリアルではなく、窪んでいるだけですね。妊婦の造形に加工するときは、脇腹を切開して、空気を抜いたボールをシリコン皮膚とボディの中材の間にセットして、空気を入れます。そうして、お腹の皮膚を内側から膨らませると、お臍は窪みが広げられて、実際の人間の妊婦のお臍とは異なった見え方をします。

菅実花《The Silent Women 37》(2017)

実は、雑誌『週刊読書人』の2017年7月14日号で、文芸評論家の小野俊太郎さんと私の対談「ラブドール考 道具が道具でなくなるとき」(1・2面)で、臍について話したことがあります。

小野さんの発言を以下に引用します。

十九世紀、アダムには臍があるのか、という大論争がありました。アダムは神に作られた最初の人間ですから、子宮から生まれたわけではない。理屈の上では臍がないはずだと。臍とは、子宮とつながっていた痕跡ですよね。それが唯一ない人間がいるとすれば、アダムだろうと。

そこで気になったのは、菅さんはラブドールを妊娠させる、というアプローチをしたわけですが、そのおなかの中はどうなっているのか。そこから生まれるものは、臍の緒で母体と繋がり、いずれ臍ができるのか。それともアダム以来の、臍なきものが生まれてくるのか。そこをどう考えるのか、興味があるところなんです。

私は、当時もあまり臍については意識していなくて、成り行きでたいらに伸ばされた臍をそのまま撮っていると回答しました。それに対しての小野さんの返答は以下の内容です。

臍は機能的には、生まれた後は必要がないものです。でも我々は、あの小さなへこみがあるかないかで、母的なものとのつながり、哺乳類であるかどうかを、瞬時に判断しているんじゃないか。そうなってくると、ターミネーターには臍があるのか。アンドロイドやロボットといった、未来の人類に変わる何かを作り出すときに、臍をつけるのか。つまり、臍というものに残された、子宮と繋がっていた証、それが人間にとってどんな意味があるのかを、問い直す必要があるのかもしれないと。

それに対する私の回答は、「近い未来、子宮から生まれた人間なのか、バイオテクノロジーで生まれた人間なのか、臍で判別するというような世界が訪れるかもしれませんよね」でした。

実際に研究されている人工子宮では、臍の緒そのものは作り出すことができないため、臍の緒の形成後の胎児を子宮外で育てるものになっています。なので、現在の状況から人工子宮が完成した未来を考えると、バイオテクノロジーで生まれた人間にも臍はあるのだろうと予測できます。ただし、アンドロイドやロボットといった機械の場合は、臍の必然性はないので、人間とほとんど見分けがつかない外見や振る舞いだけれど、臍がないという見分けになる可能性はあるのかもしれませんね。

そう考えると、私の作品におけるアンドロイドの妊婦は、人工子宮で臍の緒のある胎児を育てていることになりそうです。

さて、元のラブドールを見てみると、もちろん臓器はありません。腹部を切開すると厚さ3cmくらいの表面のシリコン層の内側にウレタン層があって、その内部に金属の骨格が通っています。唯一、臓器を模したパーツがあるとしたら、女性器です。元々ラブドールの足の間には大きな空洞があって、その中に膣を模したホールパーツを装着します。ラブドールはパーツを3つに分割して交換できるようになっているのですが、そのわかれ方は、頭部、首から足先までの体、ホールの3つです。パーツを取り外して洗浄できるので、衛生面からのメリットがある訳ですが、性愛の対象としてのラブドールを象徴してもいると思います。

これを映画の中の演出として組み込んでいるのが『空気人形』(2009)です。印象的だったシーンに、命がやどったラブドールの「のぞみ」がバイト先の店長に脅されて性暴力を受けた後、自分の女性器であるホールを外して水道で洗っている場面があります。現実での人間の女性の振る舞いではあり得ないにもかかわらず、すごくリアリティが感じられました。映画を観たのはずっと以前のことですが、きっと心が冷たくなって自分自身の体から女性器を分離して洗うという比喩なのだと理解したことを覚えています。

麻里恵さんは人形が性器を持つことについて、どのように考えますか?

関根麻里恵⇔菅実花

関根麻里恵⇔菅実花

関根麻里恵|Marie SEKINE
1989年埼玉県生まれ。学習院大学、早稲田大学ほか非常勤講師。専門は表象文化論、ジェンダー・セクシュアリティ、文化社会学。ファッション批評誌『vanitas』(アダチプレス、2013年)のほか、『ユリイカ』『現代思想』などに寄稿。共著に『ポスト情報メディア論』(ナカニシヤ出版、2018年)、『「百合映画」完全ガイド』(星海社、2020年)、『ゆるレポ――卒論・レポートに役立つ「現代社会」と「メディア・コンテンツ」に関する40の研究』(人文書院、2021年)、『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ――私と社会と衣服の関係』(フィルムアート社、2022年)、『ポストヒューマン・スタディーズへの招待――身体とフェミニズムをめぐる11の視点』(堀之内出版、2022年)、『ゆさぶるカルチュラル・スタディーズ』(北樹出版、2023)、共訳に『ファッションと哲学』(フィルムアート社、2018年)がある。

菅実花|Mika KAN
1988年神奈川県生まれ。2021年東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻博士後期課程修了。2016年にラブドールを妊婦の姿に加工しマタニティフォトを模して撮影した写真作品《The Future Mother》を修了制作展で発表し注目を集める。主に19世紀の文化をリファレンスに、人形・写真・光学装置を用いて「人間と非人間の境界」を問う。主な個展に2019年「The Ghost in the Doll」原爆の図丸木美術館(埼玉)。2021年「仮想の嘘か|かそうのうそか」資生堂ギャラリー(東京)。2022年「OPEN SITE 7|菅実花『鏡の国』」トーキョーアーツアンドスペース本郷(東京)。出版に2018年共著『〈妊婦〉アート論』(青弓社)。2021年より『週刊読書人』で写真とエッセイを連載中。VOCA展2020奨励賞受賞。