返信ありがとうございます。往復書簡の醍醐味は、一人では思ってもみなかったところに思考が飛躍して、新しいアイデアが浮かぶことですね。毎回のやりとりで脱線したり、深く潜ったりと、とても面白いです。
ゴーレム、アンドロイド、ロボットときて、私たちの往復書簡の第一回目にも登場した『フランケンシュタイン』に戻ってきたのが嬉しいですね。
麻里恵さんが(フランケンシュタインの)「怪物の存在もイブに重ね合わされて劣った存在として描写されています。このように、女性の身体は神話から近代科学に至るまで父権的言説のなかに囲いこまれ、劣った存在、不完全な存在として描写されてきたことがうかがえます。」とお書きになった通り、『フランケンシュタイン』に対するフェミニズム批評では、怪物を「ミルトンの神話に描かれたイヴの姿」と重ね合わせて解釈されます。
この批評を紹介している廣野由美子の『批評理論入門』(2005)では他にも、「子供を産むことに対する母親の不安を描いた『出産神話』であるという」エレン・モアズの批評を取り上げています。作者のメアリー・シェリーが、自身の妊娠を含めた身近な人物の生と死を多く経験し、「出産と死が入り混じる不安と恐怖の中で書かれた作品」であるという解釈です。
私はこの部分を読んで、(アーティストによくある積極的な誤読とも言えますが)必然性があり、後から第三者が読解できる構造ならば、モチーフは必ずしも直接的にそのものである必要はなく、別の何かに置き換えることが可能なのではないかと思ったのです。
一番強い衝撃を与えるために何ができるかを作家として考える……そうすると、男性たちの物語に出産の恐怖を潜り込ませる戦略をとれる……自分が25才の頃、「ラブドールは胎児の夢を見るか?」の企画書を書きながらそう考えたことを思い出しました。
動物機械論における「石には魂がない」というトピックで、麻里恵さんに『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(Everything Everywhere All at Once)』(2022)のワンシーンを上げていただいたので、「目玉シール」を中心に、物に生命を感じさせる表現について読み解いてみたいと思います。
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(以下エブエブ)では、石のシーンが登場するのは映画の中盤です。part 2に切り替わり、さまざまな並行宇宙で事態が悪化します。主人公のエヴリンは絶望状態に陥ってコインランドリーの窓をバットで破壊し、さらに多くの宇宙と一気に重なった直後、石のシーンが始まります。
荒野の崖の上に大きめの石が二つ見え、すぐに画面中央からやや上に字幕が表示されます。二つ目の字幕で「ジョイ? ここはどこ?」と出るので、この時点でこの二つの石がエヴリンと娘のジョイであることがすぐにわかります。そして状況説明となるジョイの字幕「生物発生の条件が揃わなかった宇宙の一つ」と続くので、数秒でこの石が別の宇宙のエヴリンとジョイであることがはっきりと示されます。
この段階では、アニメーションのような動きによる演出はなく、画角と字幕、特に言語的な説明で鑑賞者にストーリーを理解させています。たしかにこのシーンだけ演出のルールがガラッと変わっているので、戸惑う作りではあると思います。
石のシーンでは二人が宇宙や世界について達観した視野で語り合います。そして絶望の象徴であるベーグルの前で会話するジョイとエヴリンのシーン、コインランドリーのシーンに切り替わり、夫のウェイモンドの優しさによって事態が好転します。別の宇宙でもウェイモンドが「優しくなって」と呼びかけることで解決していきます。
エヴリンは希望を感じ、絶望状態のジョイを救う決心をします。この心境の変化はストーリーの転換点です。エヴリンは打ち込まれた銃弾を目玉シールに変化させ、暴力ではなくユーモアと愛で敵に反撃をします。
石(エヴリン)が振り返ると目玉シールがついていたことがわかり、ジリジリと動き出すシーンはここにあります。世界を達観して眺める石の世界で、エヴリンは能動的に動き出しました。逃げる石(ジョイ)には目玉がついていません。この時、元の戦闘の世界のエヴリンは額の真ん中に目玉シールをつけています。
そして、この目玉シールはいつからこの映画に登場していたのかを振り返ってみると、一番最初のシーンである家のリビングで、棚の上の洗濯袋に付いているものが初出です。しばらくするとウェイモンドが日常的に洗濯袋や故障中の洗濯機などに貼り付けていたことがわかります。仕事や家族の問題に追われるエヴリンのそばで、彼は身近な物に目玉シールを貼ることで物を擬人化して、彼女に気を楽にしてほしかったのです(これをエヴリンは鬱陶しいと思って否定していました)。
つまり、この映画において、目玉シールがついているから生命があるという表現にはなっておらず、目玉シールはむしろ、優しさ、ユーモア、愛を行動原理として生きることの象徴として機能しているのではないかと思うのです。
しかし、たしかに「目玉」というのは物に意志を感じさせる記号として非常に強いことは明らかです。この作用があるからこそ、ウェイモンドは目玉シールを貼り付けていたわけです。
ウェイモンドは目玉をつけた洗濯袋を移動させた理由を「その方が喜ぶと思って」と言っています。これは「あまりにも洗濯袋が積み上がりすぎていたから一つどかした」をユーモアをもって言い換えた言葉です。彼は本当に洗濯袋に魂があって、ぎゅうぎゅうに押し潰されて痛いのだと信じていたわけではありません。
ただし、崖から転がり落ちる石(ジョイ)を見つめる目玉シールのついた石(エヴリン)のシーンでは、風で舞った砂が目玉シールの前で輝いているように見えます。まるで転落する娘を母が涙目で見つめているように見えるという演出になっているのです。
この映画は、目玉という記号によってものに生命らしさを感じさせるが、本当はそうではないという「人形遊び」のユーモアと、優しさや愛の象徴としての目玉シールを高度に併用しているのだといえます。
物には生命がありません。ただし、演出や記号によって人間は錯覚します。生命のない物であるとわかりながら、何か生命らしきものを感じるという状態を楽しむことができるわけです。
この構造は基本的に、ロジェ・カイヨワが『遊びと人間』で提示した遊びの分類のうち、演劇、人形遊びに該当し、模擬(ミミクリ)に分類されます。ミミクリを「海賊ごっこをして遊ぶ」ことなど、「少なくとも、一つの閉ざされた、約束により定められた、いくつかの点で虚構の世界を、一時的に受け入れることを前提としている」とカイヨワは定義しています。ミミクリは本当に信じる、あるいは信じさせることを目的とはしていません。
私はこの先の、本当に魂があると信じ込んでいる領域では、人形遊びを逸脱していると思うのです。
私のいう「擬人化しすぎている」は、演劇を演劇だと理解できずに、真実だと信じ込んでしまっている状態を指しています。最初のうちはフィクションだとわかって演じているつもりだったけれど、いつの間にか自分で信じ込んでいる状態とでも言いましょうか。
さて、長くなりましたが、本題に入りましょう。
自分の背中の大部分は自分自身の肉眼で見ることができないので、あまり意識されないですよね。
私も最近整体で、反り腰と巻き肩を指摘されました。どうしてもデスクワークが中心になるとこうなりがちだそうです。
人間の背骨の骨は横から見るとS字カーブの形をしていて、猫背や反り腰はこのS字の角度が急になってしまっている状態ですね。背骨の骨は、首から順に頸椎7個、胸椎12個、腰椎5個、仙骨、尾骨と繋がっています。
ラブドールの背骨はどうなっているかというと、S字ではなく真っ直ぐです。基本的に首にポールが一本、鎖骨付近の内部にジョイントが一個あって、そこから胸の下あたりまでの長さでポール一本、ジョイントがあって、その下はポール一本ですが腰の辺りでU字の二股に分かれる構造になっています。
つまり、背中の中にあるのは3本のポールと二つのジョイントだけなのです。しかも背中の形に関わる関節は胸の下あたりの一つだけです(メーカーや種類によっては胸付近の関節がないタイプもあります)。
ラブドールはポージングにかなり制約があるのですが、その理由の一つはこの背中の可動域の狭さにあると思います。ほとんど最初に作られた角度から動かすことができないですし、極端に背中を丸めることも胸を張ることも難しいです(私がプロレス技をかけるようにポージングをしていたのは、なんとかこの関節を動かしたかったからです)。
ただし、背骨が動かないおかげで丈夫ですし、持ち上げることができます。もし人間のような構造だったら、普通に座らせておくことすら難しいでしょう。
そして、ラブドールが直立や膝立ちの姿勢の時に反り腰気味に見えるのは、背中以外の要素も大きいのではないかと思います。
一つは肩です。ラブドールは腕は稼働しますが、多くの場合、肩そのものは稼働しません。肩を窄めるとか、開くとか、上下させていかり肩やなで肩に見せるとか、肩甲骨を動かすとかはできません。メーカーやタイプによっては肩が稼働するものもありますが、おそらく壊れやすいため、動かないものの方が多いです。
では、どういった形で作られているかというと、肩からデコルテまでがほとんど平らになるくらいかなり開いた形で作られています。
これはラブドールと一緒にセルフポートレートを撮る時にかなり意識した部分ですが、私はこの型の形を保つためにはかなり力を入れて外に肩を開いてキープする必要がありました。
この肩の形だと、背骨にあたる胸付近の関節を内側に曲げても、猫背の印象にはならず、上半身は胸を張っているように見えます。よって、どちらかというと上体を反っているように見えます。
もう一つはお尻で、これはシリコンで造形する時の型の影響だと思います。
ラブドールは造形する時に、直立姿勢ではなく、やや中腰で脚を肩幅くらいに広げたポーズで作られます。
これは、座りと直立の中間、脚を閉じると開くの中間で作っておくことで、広い角度でシリコンの曲げ伸ばしに耐えるようにするためです。
完成したラブドールは、垂直に脚を伸ばすためには、腰を反らせる必要があります。人間は立ったままお腹に力を入れて腰を丸めることができますが、ラブドールは股関節の可動域が狭いため、腰ごと伸ばす必要があります。それによって必然的に反り腰になります。
この肩と腰の形が反り腰に見せているといえるでしょう。
ここからはご質問にお応えしていきます。
私が持っている「やすらぎ」ボディはお尻がかなり大きい印象で、しかも硬いです。そのため、私の服を共有する中で、細身のボトムスはお尻を通過できずに諦めることがあります。人間だと、体勢を変えれば着れるものでも、人形だと難しいです。がんばって生地を伸ばして着せようとしているのですが、ちょっと悲しいですね。
作品の中でのお尻の扱いは胸と似ていて、ヌードの場合ははっきりと形を見せますが、日常的なシチュエーションの時は目立たせないようにしています。これもやっぱり、性的なアイコン化されやすいパーツであっても、人体の一部分でしかないので、性的なことを問題にする作品以外では強調する必要がない、という考えですね。
とはいえ、私の作品の中だと、お尻に目がいくようなものはこの辺りでしょうか。
今回話題に出てきた中では、個人的に「肩と脇」はラブドールを見る上でとても注意する部分です。
ラブドールは脇が裂けやすいので「着替えさせるために両腕を上げてばんざいをしたら買った初日に破損した」というのはよくある話です。
TPE製のラブドールで、腕を垂直に上げているものを見ると、それだけでこれは一体どうなっているのだと興味を惹かれます。
なぜなら、脇は人体の中で一番皮膚が伸びる部位だからです。シリコンはこの伸縮に耐えられないので、シリコン製のラブドールは脇が裂けやすく、腕を上げることができないのです。
なので、腕を垂直に上げているラブドールを見ると、TPEの伸縮が最も気になります。
これは一時的に大丈夫なだけで頻繁に動かしたら裂けるのかどうか、耐久性が知りたいですね。
また、肩の上下はできないが腕を上げられるタイプのボディに関しては、実際の人間とは違う腕の上がり方なので、違和感があります。写真の撮り方でうまくカバーしているものもあるので、そういった製品写真を見かけるとじっくり見てしまいます。
麻里恵さんは肩あるいは脇、もしくはその両方に関して、何か注目するべきポイントなどはありますか?
最後に、オリエント工の休業について、私も一言だけ書かせていただきます。
前回の記事で麻里恵さんが紹介してくださいましたが、私の思いはXで投稿した通りですので、この場ではその内容は繰り返しません。
工場に行くのも大好きでしたし、ショールームではポッドキャストの収録にもご協力していただきました。 オリエント工業がなければ今の私はありません。本当に大変お世話になりました。