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2024.04.03

01 「前衛は娯楽なり」マンガのゴダール、駕籠真太郎【前篇①】
スカトロジーの密かな愉しみ

後藤 護

裏まんが道へ

ゴシック漫画の次はマニエリスム漫画を領略する。一般道徳・一般通念に中指を勃起させる「綺想」と「エロス」に宰領されたこのマニエリスム漫画の世界は、ゴシック漫画の「醜」と「美」のアナーキーな糾合、すなわち日野日出志と楠本まきが隣り合う(!)『悪魔のいる漫画史』の楕円宇宙さえ安定構造でしかなかったことを暴露する。読者は人跡未踏の「裏まんが道」を血みどろで歩むことになるやもしれず、手塚治虫は神の座から転落する。ゴッド手塚の聖なる像を打ちこぼつ異教徒たちが洞窟の中で跳ね回り、松明に照らされたグロテスクな偶像を崇め奉まつる異教徒の踊りに読者は驚愕、ショック、不安、痛みを隠せないであろう。しかし私の嫌いな思想家スラヴォイ・ジジェクが唯一正しいことを言ってるように、「真実は痛い。そして事故のかたちでしか訪れない」。辺境最深部の「フリンジ・カルチャー」(宇田川岳夫)がセンターに躍り出る転倒・倒錯によって生じる、読者への崇高な鞭打ちの刑にも似た「黒い快楽」(スタロバンスキー)を味わえぬ者は早々に立ち去るがよい。入門する前に破門されよ。モラルがイロニーに敗北し、エトスがエロスに拝跪する反世界の強度に耐えられぬ弱き者よ。

この連載は1968年の狂熱が産み落としたつげ義春『ねじ式』と宮谷一彦『性紀末伏魔考』を暗黒の母胎として、時系列順に進めていくことで、マンガ表現における綺想(工匠神ダイダロス)とエロス(淫欲神ディオニュソス)が交錯した瞬間にたち現れるマニエリスム漫画の歴史をみていくことになる。「古典主義は真理の探究であるが、マニエリスムは熱狂の追求である」とジョルジュ・バタイユが『エロスの涙』で洞察したごとく、マニエラは狂熱に灼かれる「黒の過程」を経てはじめてマニアとなり、色めき、謎めき、輝きだすであろう。

……と何だかテンション上がってロジック的に怪しい「異-修辞学」(G・R・ホッケ)でアジってしまったが、記念すべき連載初回は縁あって「曼荼羅律動|MANDALISM」展(ギャラリーPOST-FAKE)でトークする機会を得た奇想マンガ家・駕籠真太郎を取り上げる。「奇想とエロスの漫画史」を謳う本連載にとってこれ以上スタートアップに相応しい相手もいない。駕籠真太郎といえば「エログロ」「ウンコ」というキョーレツに臭い言葉が紹介のさいに付きまとう。そうした阿佐ヶ谷ロフト系の評価もサブカルチャーの世界では重要な価値をもつので疎かにするつもりはないが、もうすこし大きな文脈に位置付けられてもよいのではないかと思う。つまり自ら「奇想マンガ家」を名乗っているようにその作風はアヴァン・ポップであり、その実験精神・マンガ文法の破壊ぶりは前代未聞。赤塚不二夫、吾妻ひでおといった偉大な先達たちさえ顔色なからしめるラディカルぶりであり、「マンガ界のゴダール」として駕籠のエクストリームな実験作品を捉えてみたいと思うのだ。

薔薇がなくても生きていけるが、ウンコがなくちゃ生きていけない

政治色の強いマンガ情報誌『COMIC BOX』の原発特集号(1988年8月号、特集『まんが・危険な話』)に、「宇宙大戦争」を掲載したことでプロ漫画家としての駕籠のキャリアが始まった【図1】。

図1 真籠義信(まごめ・よしのぶ)名義のデビュー作「宇宙大戦争」(『COMIC BOX』特集「まんが・危険な話」1988年8月号掲載)

核戦争後と思われるデイアフターの世界で、放射能に汚染された地球人を宇宙人たちが新種生物のように観察するブラックユーモアで、デビュー時点で作家性が濃厚に出ている。ところで1988年デビューというのがおもしろい。その前年の1987年に『血と薔薇』編集長を務めた澁澤龍彥が死去しているからだ。「グロテスクな流血酸鼻だけではだめだ、美しい薔薇もなければ」という澁澤親王の心意気は、ムーンライダーズが名曲「Kのトランク」(『MANIA MANIERA』1982年収録)で「薔薇がなくちゃ生きていけない」と歌うことで80年代まで引き継がれた印象だが、いよいよ高貴な薔薇は蹂躙され辱められるときがきた。薔薇がなくても生きていける、なんならウンコがなくちゃ生きていけない90年代悪趣味ジャンク、バッドテイストの時代が台頭してくるのだ。澁澤龍彥に対するイロニーとしての種村季弘のポジション、すなわち「カッコつける」V系バンドに対するイロニーとして「カッコつけない」筋肉少女帯のメジャーデビューも1988年だ。友松直之監督のスプラッター×ピンク映画の怪作『コギャル喰い 大阪テレクラ編』(1997年)のDVDジャケットを描いたのが駕籠真太郎であり、コメントを寄せたのが大槻ケンヂであるから、ともに1988年デビューの二人でバッドテイストが寿がれたことになる【図2】。

図2 駕籠真太郎が描いた『コギャル喰い 大阪テレクラ編』(1997年)DVDパッケージ。

ところでジョン・ウォーターズを換骨奪胎したDOMMUNE宇川直宏が、1995年を分水嶺として「良い悪趣味」と「悪い悪趣味」を弁別したことがあるが、88年デビューの駕籠を敢えて振り分けるならば「良い悪趣味」に属する。宇川によれば「良い悪趣味」とは秋田昌美『スカム・カルチャー』(水声社、1994年)に代表される批評性とアート性が担保された知的遊戯としてのバッドテイスト(たとえば秋田昌美によるウィーン・アクション派への悪趣味文脈での言及や、宇田川岳夫『フリンジ・カルチャー』〔1998年〕におけるマニエリスムへの言及など)であり、1995年の青山正明『危ない一号』以降の、素人がゴミ漁りなどバカのようにエクストリームを競い合うだけの(迷惑系ユーチューバーの先駆けともいえる)批評性の欠落した悪趣味文化こそが令和に入って袋叩きにされた90年代悪趣味の正体であるという。その意味で、私が注目したいのも駕籠マンガの様々な無修正〇ンコの奥に隠された批評性の高さなのである。吉田豪による駕籠インタビュー(『実話BUNKAタブー』2023年10月号)で「悪趣味文化の中心にはいなかった」ことが語られているが、これもおそらく駕籠マンガの高度なインターテクスチュアリティや実験性が安易な「悪趣味」へのカテゴライズを拒んだのではないかと勝手に推測する。

何はともあれ薔薇よりウンコを好むのが駕籠真太郎であり、『駕籠真太郎のスカトロジー大全』(久保書店)なるアンソロジーを自選するほどにこのテーマに執心している【図3】。

図3 『駕籠真太郎のスカトロジー大全』(久保書店、2023年)

この本に収録の「逆転奇談」では産道からウンコが飛び出て、肛門から胎児が飛び出るため、ウンコが赤ん坊のように可愛がられ、新生児は一方ウンコのように……という「逆転」した村の様子がブラックユーモアたっぷりに描かれる。ミダス・デッケルス(実出す・出っけるす、というウンコするために生まれてきたような名前!)による香り高い名著『うんこの博物学』(作品社)の「最も厳格な禁欲主義者でも、肛門の快感を味わっている」(25ページ)という至言を身ぶりするのが「A感覚の帰還」(『スカトロジー大全』所収)である【図4】。

図4 「A感覚の帰還」、『スカトロジー大全』195ページ。

タイトルから稲垣足穂の儚くデリケートな美学を期待してはならない。肛門にそなわった排泄物転送システムによって排便の責務を免除された人類が、テレポート装置を外して人類普遍の排便の快楽(A感覚)に回帰していくオゲレツ奇想SFである【図5】。

図5 「A感覚の帰還」、『スカトロジー大全』196ページ。

A感覚をより味わうために人工便も発明されるのだが、明らかに澁澤・タルホ系列の鉱物美学をパロディーした石のように硬そうなウンコの形状や、永久機関のパロディーさえ見られる【図6】。

図6 「A感覚の帰還」、『スカトロジー大全』209ページ。

『スカトロジー大全』巻末の描き下ろしでは、頭と肛門が逆さまになった人間たちの奇態な日常が描かれるが、ここにきて駕籠作品における肛門上位世界のもつ意味が「さかさまの世界」のトポスであったことが見えてくる。ルイス・ブニュエル『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(1974年)で、テーブルを囲んで皆が大便器にまたがりウンコをし、「お腹すいたー」と言う子供に「お下品なことを言うんじゃありません!」と叱責する倒錯的シーンがあったが【図7】、まさに駕籠真太郎はブニュエルの精神的兄弟であることの証拠である。

図7 ルイス・ブニュエル『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(1972年)

プチブル的マナーを虚仮にすることが駕籠にとっての黒い快楽であり、それゆえヨダレや鼻水とちがって全世界共通で唯一美しいとされる体液「涙」が駕籠作品にはほとんど出てこない。糞は転倒の装置だが、涙は共感の装置なのである。また「悪趣味の魅力は不愉快なものを面白がる貴族趣味に通じる」(ボードレール)のだとしたら、駕籠真太郎も(スカト)ローカルチャーを扱っているが決してローコンテクストではないと言える(夥しいパロディーを見れば一目瞭然、頭の悪い人間にパロディーはできない)。

ウンコと肛門が上位になる駕籠ワールドでは「逆さま」「逆転」のテーマが当然ながら頻出する。「手首」(『都市とインフラストラクチャー』所収)では掴む手と掴まれるモノの関係が逆転した世界が描かれ【図8】、「反転世界」(『登校途中の出会い頭の偶然キスはありうるか?実験』所収)ではフキダシの中身がすべて反転したオルタナティヴ・ストーリーが同時展開される、といった具合。

図8 「手首」、『都市とインフラストラクチャー』(青林工藝舎、2021年)117ページ。

世界を逆さまにしてしまうのは「道化」の基本特徴であり、それゆえ『アナモルフォシスの冥獣』のようにパースペクティヴの歪みによって「もう一つの世界」を実現する光学的道化術まで駕籠は駆使して、凝り固まった世界をズラして嗤うのだ(本連載でひさうちみちお『パースペクティブキッド』を取り扱う際にアナモルフォーズ理論は詳述する)。道化の問題に関しては後で深掘りする。

ブラックユーモアの反生命倫理

ヴィジュアル面でいえば士郎正宗や大友克洋のようなポストモダン作品、アイディアでいえばモンティ・パイソン、藤子不二雄「異色短編集」、筒井康隆のようなブラックユーモアの系列からの影響を駕籠はたびたび公言している。とりわけ内臓・スプラッター趣味においても筒井康隆からの影響は濃厚に思える。対談のさいに本人に確認した所やはりというか、「問題外科」(『宇宙衛生博覽會』所収)がドンピシャだったという。あらすじとしては、早く仕事を終えて女遊びをしたくてたまらない外科医二人が、患者を手術室にさっさと運んでオペを始めるも、セックスした疲れで眠りこけていた病院内のナースを誤って運び込んで体を切り刻んでしまったと判明、そこにもう一人頭のイカれた医者が加わり、ナースを口封じに殺した上に性的に弄んでいろいろと「悪戯」するというはなし。生命倫理こそが問われるシリアスな医療現場でこそブラックユーモアは炸裂する。駕籠作品でいえば「医療系都市伝説を実践せよ」(『登校途中の出会い頭の偶然キスはありうるか?実験』所収)が直系だといえる。金持ちのボンボンのみが通う英徳医科大学の四人のイケメン医大生は、ナースを入れ食い状態で女に不自由せず、たまさかのスリルを求めて老人を車で跳ね飛ばすも金持ちの親が示談金で解決してしまう。そこで「骨折バイト」と偽って金属バットで集まった貧乏人の骨をへし折ったり、「切断バイト」と偽ってやってきた美女を四肢切断するなど、悪趣味な私でも書いていてどうなのかと思うブラックさである。

ようするにブラックユーモアは、本性的に生命倫理やヒューマニズムを嗤う。嗤わずにはいられない。アンドレ・ブルトン『黒いユーモア選集』のアルフレッド・ジャリのエピソードの暗黒ぶりにそれは顕著である。

またあるとき、とある庭で彼は射撃でシャンパンを抜いて楽しんでいた。弾がいくつか塀を越えて飛び出し、そこで隣の庭で遊んでいた子供たちの母親であるご婦人が怒鳴りこんでくるということになった。「あの子たちに当ったとしたら!考えてもみて下さい!」ジャリいわく「いやいや、そのことでしたら心配召さるな、奥方よ。余がそちに別のをばこしらえて進ぜましょうぞ。(アンドレ・ブルトン、宮川明子訳「アルフレッド・ジャリ」、『黒いユーモア選集』国文社、1988年4版、54-55ページ)

もはや駕籠作品そのものではないか? 先述した「逆転奇談」では、ウンコと役割の交換された赤ん坊が、便所に当たり前のように捨てられるという話があり、そのほか育児放棄ネタ、妊娠中絶ネタなど、決してネタにはならないところをネタにするのが駕籠ブラックユーモアの真諦なのである。「あつめもの4」(『奇人画報』所収)ではゲロ蒐集家の女の横で、テレビのニュース番組が難民キャンプの食糧不足を報じている。その女がボランティア志願して、貧しい国の貧しい子供達に栄養満点のゲロを振る舞うに至っては読者も嘔吐必至である。さきほど「悪趣味は貴族趣味に属する」というボードレールの知見を引用したが、これなどモノや食料が溢れかえる先進国による発展途上国へのまなざしを可視化した意味でブラックである(とはいえ諷刺として機能させようという意志がない点にも留意)。

思えばデビュー作「宇宙大戦争」から駕籠は真っ黒であった。核戦争や放射能といった決してネタにしてはいけないテーマをネタにすることでブラックはよりブラックになる。このデビュー作が掲載された『COMIC BOX』誌では、手塚治虫が「原発反対!」を訴えているではないか【図9】。「綺想とエロスの漫画史」はどうも白手塚と折り合いが悪く、黒手塚のほうをむしろ召喚することになりそうだ。

図9 手塚治虫の原発反対記事。同誌面で駕籠真太郎の原発ブラックユーモアが対置される(『COMIC BOX』特集「まんが・危険な話」1988年8月号掲載)。

後藤 護

暗黒綺想家。blueprintより新刊『悪魔のいる漫画史』が刊行(表紙画:丸尾末広)。『黒人音楽史 奇想の宇宙』(中央公論新社、2022年)で第一回音楽本大賞「個人賞」を受賞。その他の著書に『ゴシック・カルチャー入門』(Pヴァイン、2019年)。未来の著書に『博覧狂気の怪物誌』(晶文社、2025年予定)、『日本戦後黒眼鏡サブカルチャー史』がある。

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